第91話:これで終わり
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静かになったグラウンドを荒川恵里菜はじっと眺めていた。熱気と興奮に溢れた試合が終わり、選手も観客も引き上げたのに未だ動けずにいた。
試合は2 対 6で明秀高校の勝利に終わった。彼女の今の彼氏でありエースで4番の国吉悟史が最後に2点本塁打を打ったが、常華明城打線は晴斗の前にランナーを一人も出すことができずに完璧に抑えられた。
「やっぱり……晴斗はすごかったんだね……」
恵里菜が野球に興味を持ったのは国吉と付き合い始めてから。晴斗と交際していた時はただなんとなく彼の試合を観に行っていた。むしろ行かない時の方が多かった。だが国吉と付き合うようになってからは違った。ちゃんと応援に行って精一杯の声援を送るようになった。
晴斗のことは恵里菜の両親―――特に父―――も手放しに誉めていた。すごい才能がある、甲子園で活躍する、いやプロ野球選手になる、と晴斗の試合があった日の夜はお酒を飲みながらいつも言っていた。
だけど恵里菜にはその『凄さ』がいまいちわからなかった。いや、正しくは凄すぎて応援する気にもなれなかったというべきか。対戦相手はほとんど晴斗の球を打つことが出来ずに三振と凡打の連続。妹の奈緒美はアウト一つとるたびにはしゃいでいたが、恵里菜としては観ていて緊迫感がなくて応援のしがいがなかった。
だから恵里菜は晴斗の試合の応援に行くのを止めた。彼が将来の夢を楽しそうに語るのを心ここにあらずで聞いていた。
高校生になり。晴斗とは遠距離になったことで疎遠になり。そんな中で校内でも評判の国吉から声をかけられた。野球をやっているその一生懸命な姿に惹かれた。晴斗が必死じゃなかったとは思わない。天才のやっていることは所詮凡人であり素人の恵里菜には理解できなかった。それだけのことだ。
別れを告げて連絡拒否にしたのも住む世界が違うと思ったから。その数週間後に彼が地方予選で活躍したことを知ってお祝いのメッセージを送ったが無視された。今になって考えれば自分勝手なことだと思うがそれでも一言伝えたかった。
そして夏の甲子園に晴斗が出てきて、ノーヒットノーランを達成したが怪我をしたと聞いてお見舞いに行ったが恵里菜の知っている優しかった晴斗はおらず、そばに知らない女と、彼が初めてみせた嘆きともとれる怒りの激情をぶつけられた。
自分の身勝手な理由で晴斗を突き放して、もう一度取り戻そうとしたのが間違いだった。この試合を観てつくづくわかった。荒川恵里菜ではいずれ世界で活躍するであろう今宮晴斗という男を支えることはできない。何もかもが違いすぎる。晴斗を支えることが出来るのは彼と同じくらい大きな夢を持ち、それに情熱を注いでいる、彼と同じ目線に立てる人だけ。恵里菜にはそれがなく、あの時晴斗の隣に寄り添っていた飯島早紀にはそれがあるのだろう。
「最初から……私が晴斗のそばにいること自体間違いだったんだ。悟史さんとも何か話していたみたいだし……嫌われたかもなぁ」
でも全部自分が招いたことだと恵里菜は心の中で自嘲する。あの夏の夜。あることないこと感情に任せて恋人の国吉に話して慰めてもらった。辛かったなと言って優しく頭を撫でてくれた。
けれど試合を通して、国吉と晴斗はどこか分かり合っているように恵里菜には見えて、試合後は一緒にキャッチボールをして楽しそうに会話さえしていた。きっと自分がいかにひどい女であるかを晴斗は国吉に話したことだろう。
これで国吉との関係も終わり。晴斗と飯島早紀を引き離して悲しませようとか色々考えて、晴斗の両親を巻き込んでこの試合を仕組んだけれど結局恵里菜の一人負け。涙は愚かため息すら出て来ない、清々しいほどの一人負け。
だが落ち込んで。いつまでもここにいるわけにはいかない。足は鉛のように重いけれど心に鞭を打って歩き出そうとしたその時。
「一生会いたく無いって言ったのに学校に乗り込んでくるか、普通?」
声を掛けられた。どこか呆れたようなため息混じりのその声の主はつい先ほどまでグラウンドの頂で圧巻の投球を披露した幼馴染。
「はる……と?」
「二ヵ月ぶりか? まぁ……なんだ。久しぶりだな。恵里菜」
もう決して、手の届かないところに立っている男。今宮晴斗がそこにいた。
*****
国吉さんと色々話したあと。俺はあの女―――恵里菜に伝えなければいけないことがあったので探していたのだが、あいつは試合が終わったというのに移動することなくグラウンドを眺めていた。
俺は躊躇いながら声をかけた。恵里菜は振り向くと少し驚いたような顔で俺の名前を呟いた。自分から敵の本拠地に乗り込んで来て、元彼氏には一切かけたことのない声援を目の前で今の彼氏にするという行動をしておきながら。どうしてそんな悲しい顔をしているのか。
「あの日言った通り。お前とは出来ることなら二度と会いたくはなかったし、話しもしたくなかった」
恵里菜は唇を噛み締めながら黙って聴いている。俯かずに俺の目をじっと見ている。だから俺も目をそらさず恵里菜を見て、あの日言えなかった言葉を紡いでいく。
「恵里菜……俺のことは忘れて、お前が一緒にいて楽しいと思う人と過ごす時間を大切にしろ。俺はそうする。今の俺にとってお前に割く時間は無駄以外のなにものでもないからな」
「…………」
「今だからわかるよ。お前と一緒にいたのは……きっと恋とか好きとかじゃなくて、ただそれが当たり前だったから。俺が本当にお前のことが好きだったら、きっとこんな風な話はしていないはずだから」
「好きでもないのに一緒にいるのが当たり前ってだけで付き合い始めた。それがそもそも間違いだった。俺達は初めからすれ違っていたんだ」
早紀さんと付き合うようになって、初めて俺は人を好きになるというのがどんな気持ちか気が付いた。
それは決して一方的で押し付ける感情ではなくて。互いに思い愛い、支え愛い、二人で同じ道を歩んでいきたいと思うこと。ありのままの自分でいられる心の安息地であり、俺もその人にとってそういう存在でありたいと願うこと。
この人と一緒にいると心が温かくなって幸せだと思える。長い人生を一緒に生きていきたいと思う、そんな気持ち。これが恵里菜にはなく、早紀さんに抱いた気持ちだ。
「だからお前とは一緒にはいられない。それを悲しいとももう思っていない。それに……お前はもう俺に替わる人を見つけているんだろう?」
恵里菜は黙ったまま。唇を依然としてきつく噛み締めて、握った拳も震えている。だが彼女は何も言葉を発さない。ただ俺の言葉に耐えている。
「国吉さん、いい人だな。少し話しただけでも、お前のことを大切にしようとしているのがわかったよ。まぁそれにしてもあることないこと話してくれたようで……」
クールダウンの後、少し話をしたがそこで国吉さんが恵里菜から聞いた俺がいかにひどい人間であるかという話。国吉さんは苦笑いしながら教えてくれたが、よくもまぁここまで悪く言えるものだと感心したくらいだ。
「そ、それは…………!」
「いい。聞きたくないから何も言うな。本気でお前のことが好きじゃなかったって気付いた以上、浮気だなんて言うつもりもないしその資格もない。お前が本気で好きだと思える人が国吉さんだっただけの話だからな」
恵里菜も同じ。俺のことを本気で好きではなくて、ただ小さい時からずっと一緒に居たからそれが当たり前になっていた。だから恋人のような関係になった。そこに好きという感情はあったかもしれないが希薄だった。そして出会ったのだ。一緒にいて幸せだと思うえる人に。
「国吉さんは俺に、このまま終わりにするなって言ったんだ。初対面なのにお節介だと思わないか? でもそれが出来る人なんだよ、あの人は。俺が今こうしてお前と話そうと思ったのはそれがあったからでもある」
「そんな……悟史さんが……」
「だからお前も。好きでもない奴に時間を割かずに……国吉さんとの時間を大切にするんだな。あんないい人、早々見つからないぞ?」
「そんな……! 晴斗……私は……!」
思わず叫ぶが、その後が続かない。必死に言葉を探そうとしているのがわかるが、その時間を与えるつもりはない。
「ばいばい、恵里菜。お前なんか大嫌いだ。さっさと家に帰れ。そして二度と俺の前に顔を見せるな」
言い残して俺は踵を返して歩き出す。後ろですすり泣く音が聞こえたが、聞こえないふりをした。
これが俺と恵里菜の選んだ道。もう二度と交わることはない人生の分岐点。あいつが国吉さんを選んだように。俺は早紀さんを選んだ。
気が付くと、俺は校舎まで来ていた。しかもここは文化祭の時に早紀さんとナオちゃんと三人で話した人気のない場所だ。俺は壁にもたれかかり、大きく息をつく。一試合を一人で投げ切るより精神的に疲れた。
「早紀さんに早く会いたいな……」
好きな人に会いたい。無意識に口から言葉出た。
「私のこと……呼んだ?」
首をゆっくりと動かす。そこには一番会いたい人が立っていた。
「晴斗があの子と話しているのが見えたからね。慌てて追いかけてきたの」
そう言えば早紀さんは清澄先輩と一緒に生徒会室から声援を飛ばしてくれていた。てっきりもう帰ったかと思ったが、どうやらそんなことはなかったようだ。でもだからと言って、このタイミングで来るのは反則だ。
「よく頑張ったね。偉いよ、晴斗」
早紀さんに頭を包み込まれた。彼女の背中に腕を回して抱きしめる。まるで子供が親に甘えるように。
「安心して、晴斗。私もどこにもいかないから。ずっと……あなたのそばにいるからね」
髪を撫でられながら優しくかけられる言葉はどこまで温かくて。この幸せがずっと続くことを切に願った。
季節はもう秋だけど。ようやく長い俺の夏が終わった気がした。