第82話:親友の怒り。
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僕―――坂本悠岐―――は元々あの女、荒川恵里菜が嫌いだった。晴斗にべったり付き纏いながら、しかし晴斗の夢への理解や応援はしていないことはその態度でわかっていたからだ。
幼馴染で誰よりも晴斗を近くで見てきて、彼女というならどうして晴斗のことをちゃんと応援してやらないのか、僕はそれが気に食わなかった。
中学生の頃。一度だけ晴斗に何故あいつと付き合っているのか聞いたことがあった。
お前のことを幼馴染で顔のいい彼氏って自慢したいだけだろう、野球の応援にも来ないし、来てもスマホいじっているだけだし。そんな女のどこがいいんだと尋ねた。
「そうだな……恵里菜とは小さい頃からずっと一緒だったから、むしろ一緒にいないことの方が想像できなんだよな。好きとか、そういうのを越えていて……俺の中ではもう家族同然なんだよ」
おかしいだろう、と晴斗は笑っていた。その声からあの女への晴斗なりの愛情を感じることができたから、僕はそれきりあいつとの関係に口を出すことはなかった。
だがそれが間違いだった。東京の明秀高校に一緒に進学して野球漬けの毎日。慣れない環境と練習の量も質も比べ物にならないくらい上がった高校野球についていくのが精一杯で、僕も晴斗も毎日疲れていた。
そんな日々の中、事件は起きた。
当時を振り返って、晴斗は日々のことで手一杯で連絡を怠っていたから仕方ないと自嘲していたが、あの女から連絡がほとんど来なくなり、不安になっていた。そんな中試合に出て、彼らしからぬ投球で失点を重ねていた。
そして、彼はあの女に捨てられた。他に好きな人が出来たからと一方的に告げられて。だがそれを僕に教えてくれた時の晴斗の顔はどこか吹っ切れた様子だった。もっと落ち込むものかと思っていたのである意味安心はしたが、その理由を知ったのはもう少し後になってから。
そして今日。フェンスの向こうには元凶と、僕の目の前には晴斗を傷つけて続けてきた女の彼氏がいる。
「ワンアウト! 頑張って、悟史さん!」
耳に障る舌足らずの声援は平穏を保とうとする僕の心に波紋を広げる。落ち着くために打席に入る前、僕は大きく深呼吸する。
「―――スゥ―――ハァ―――」
ゆっくりと戦場に立つ。
1回裏。1アウト、ランナー二塁。先制のチャンス。この状況で求められるのは確実にランナーである日下部さんをホームまで返すこと。
本塁打を狙う場面ではない。だが僕は敢えてそれを狙う。しかもそれをあえて相手に宣告する。得物の切っ先をエースに突きつける。
「ふざけやがって……」
マスク越しにキャッチャーが怒りの呟きを放つが関係ない。そもそも僕はこの試合そのものに怒りを覚えているのだ。
相手エースがセットポジションから、ランナーが二塁にいるが盗塁をさほど警戒せず、大きく足を上げて投球に移る。
初球はストレート。左バッターの僕の身体に向かってくるような軌道でインコース、しかも顔面付近に投げ込んできた。僕はわずかに身体を反らしてそれを交わす。
「ボ―――ル!」
審判のコールと同時に明秀高校ベンチが少しざわつく。晴斗はエースを一睨みしてから僕に目をやる。大丈夫、安心しろ。そうメッセージを込めて軽く手を挙げた。
―――上等だ。場外まで飛ばしてやる。
二球目。今度もストレート。高さは甘いが外角ギリギリに決まる。僕はボールだと思って見逃したが判定はストライク。これは仕方がないと諦めて切り替える。狙い球は決めている。あいつが一番自信のある球種だ。僕は静かにそれが来るのを待つ。
三球目。真ん中に来たボールは沈みながら外に逃げていく。僕は思い切り足を内に踏み込んでフルスイングするがバットに掠ることはなく空振り。球種はシンカーか。悪くないボールだ。
これで追い込まれた。だけどここまでは想定通り。あの男の持つ球種は残り一つだ。
四球目はもう一度外角、今度は明らかなボールになるストレート。これで平行カウントの2ボール2ストライク。きっと晴斗なら四球目でスプリットを選択して仕留めに来たはず。この配球が意図することは―――少し考えれば答えは出る。
五球目。確実に決めに来る球。コースは外側。ストレートに見えるが僕の目がとらえるボールの回転軸は横。アウトコースから曲がりながら落ちるスライダー。速度も軌道もストレートと差がないため空振りをとれる決め球だ。
―――それを、待っていた。
僕はそのボールの曲がり終わり。真ん中低めに滑ってきたところを強引に豪快に掬い上げる。打球は見るまでもない。僕は振り切ったバットをその場に置いて悠然と歩きだす。
真芯で捉えた打球は高々と舞い上がり、外野に張られたフェンスの向こう側へと消えていった。
ゆっくりとダイヤモンドを一周する。ちらりと覗き見たエースの男の顔は呆然としていた。よほど自信があったのだろう。確かに決め球とするにはスピードも変化も悪くなかった。だけど、僕には通用しなかった。ただそれだけのこと。
「僕からスライダーで三振を取りたかったら、藤浪さん並みのボールを持ってこい」
ベンチで手荒い祝福を受けながら、僕はマウンドを睨みながら呟く。そこで気がついた。エースの彼女をしている晴斗の幼馴染が鬼の形相で僕を睨んでいることに。
お前が選んだ男より晴斗の方がよっぽどいい男だ。だけどもう彼の心はお前に向いていない。その意味を込めて、僕はあの女に向けて舌を出してあっかんべーをした。
声にならない声があの女から聞こえた気がした。
僕の気分は少し晴れた。最低でもあと三回。全て場外に放り込めばもっとスカッとするだろう。
次は何を狙おうかな。