バレンタイン特別回:飯島早紀編(Before) ※本編とは関係ありません。広い心でお楽しみください。
ご興味を持っていただきありがとうございます。
こちらはバレンタイン特別企画のBeforeです。
本編とは関係ありませんので、どうか寛大な心でお楽しみください。
そのチョコレートの味は甘いのか、それとも……
「ねぇ……晴斗君。私のこと……食べてほしいな」
2月14日。時刻は午後8時を半分過ぎた頃。
この日、俺―――今宮晴斗―――は隣の部屋に住んでいる飯島早紀さんにお招きを受けて夕飯をご馳走になり、その美味な手料理の余韻に浸りながらソファでくつろいでいた。
いつ買ったのか。初めて来たときにはなかったリビングに置かれた二人掛けのソファは自然に、しかしどこまで深く沈みこんで身体を優しく包み込むような上品な高級品だ。
そこに座ってテレビでも見ていてと俺に言うと、早紀さんはてきぱきと洗い物を始めた。手伝うと申告しても丁重に断られたので大人しくソファに座ったのだがあまりの快適さに眠たくなってきた。
「フフッ。今日も練習お疲れさま。もうすぐ春の甲子園だから大変だね。背番号1を託されたエース君は?」
瞼が落ちかけたタイミングで洗い物を終えた早紀さんが隣にやってきた。俺はだれた身体を起こして背中を伸ばして眠気を飛ばす。
「……そうですね。松葉先輩からは引き継いだエースナンバーはまだまだ重いですよ」
「フフッ。春も期待しているよ? また応援に行くからね。カッコいいところたくさん写真撮らないと」
「早紀さん……俺の写真なんて撮っても売れないですよ?」
「もう! わかってないなぁ、晴斗君は。売るとかそういう話じゃないの。これは、私が楽しむために撮るの。いずれ額縁でも買って飾ろうかな……」
「……早紀さん、それだけはやめて下さい。恥ずかしくてもうこの部屋にお邪魔できません」
なんでよぉ―と抗議の声を上げながらポンポンと俺の左肩を可愛く叩く早紀さんの姿にこの人は本当に年上なのかと疑いたくなる。
「そんなことより。突然お邪魔してすいませんでした。しかもあんな手料理まで用意してくれて……」
そもそも俺が早紀さんの家でご飯を食べることになったかと言えば話は昨日まで遡る。
俺が東京の高校に通うにあたって住まわせてもらっている家主であり叔母―――今宮里美―――が昨日の夕飯時に突然このような話をしたからだ。
「晴斗、ごめん! 明日なんだけどどうしても抜けられない仕事があるから帰りは遅くなりそうなの。だからご飯は隣の早紀ちゃんのところに行って食べてね?」
ちょっと待て。なんでそういう話になる。そもそも、わざわざ早紀さんのところに食べに行く必要はないはずだ。
一人でカップ麺を食べるなり、悠岐を誘って飯を食べに行くなりと手段はいくらでもある。その中で何故早紀さんの部屋で食べることが決定なのか。そもそも早紀さんは了承しているのだろうか。
「あぁ、早紀ちゃんには話しは通してあるから安心して。お願いしたら快く引き受けてくれたから。どうせカップ麺とかジャンクフードで済まそうとしたでしょ? もうすぐセンバツなんだから不摂生したらダメだからね!」
「いや……一日くらいは別になんてことはないと思いますが……」
「ダメ! 一日の遅れを取り戻すのに三日かかるって言うでしょう!? 大会も近い、チームの命運を託されたエースがそんなことじゃダメ! 早紀ちゃんの好意に甘えておきなさい! いいわね?」
「わ、わかりました……」
このようなやりとりがあった。里美叔母さんからこの話を聞いてすぐに早紀さんに連絡を入れ、改めて本人から了承とむしろ来てほしいと強く、それはもう逃がさないとばかりの勢いで言われたので、俺はこうしてここにいる。
「気にしないで。里美さんからは何かあれば晴斗君の面倒見てほしいってお願いされているから。それに……美咲ちゃんへの牽制になるしね」
「……え? 最後何か言いました? 聞こえなかったんですが?」
「なんでもないよ。それよも晴斗君。今日が何の日か、知らないわけじゃないよね?」
早紀さんの目つきが変わった。今までは優しいお姉さん然としていたのから一転、獲物を視界に捉えた肉食獣のような、年上の女性だけに赦された妖艶な気配と瞳。ペロリと舌で唇と潤す仕草さえも刺激的で、俺は思わずごくりとつばを飲み込んだ。
「晴斗君のことだから、たくさん貰ったんじゃない? 校内だけじゃなくて他校の女子からも……」
今日は男なら誰しもが期待する日。そして女子は己の手で手間暇かけて作ったもの、有名パティシエがつくったもの、しかしそこに込められる気持ちに変わりはなく、ただただ相手に思いが伝わりますようにと決死の覚悟でチョコレートを渡す日。
そう、バレンタインディだ。
我が明秀高校野球部も朝練の時からみなそわそわとしていて気持ちが入っていなかった。日下部先輩に聞いたらこれは去年と全く同じ現象のようで、その理由は二大美女の一人、『太陽』ことマネージャーの相馬美咲さんの存在のせいだ。
なんでも、彼女は去年野球部員全員に手作りチョコを渡したのだという。当然それが義理だと明々白々の事実でも、学内人気を二分する相馬先輩の手作りチョコとなればテンションがあがらないはずがない。今年もそれにみな期待していたのだ。
しかし、日下部先輩の表情は違って余裕そのもの。朝練終わりになぜかと尋ねたら。
「俺か? 俺は別に相馬から貰えなくてもいいからな。なんて言っても、約束された本命チョコがあるからな」
勝者の余裕とはこのことか。
「それで。お前はどうなんだよ、晴斗。お隣の女子大生さんからは貰えそうなのか?」
「さ、さぁ……どうなんですか?」
必死にごまかしたのは内緒だ。なにせこの時点ですでに早紀さんの家で手料理をふるまってもらうことが決まっていたのだ。あれ、もしかしてチョコレート貰うよりすごくないか、これ。
「まぁなんだ。夏から大分時間は経ったとはいえお前は十分すぎるほど有名になったんだ。松葉先輩の時もそうだったが、他校からもたくさん渡しに来るだろうな。帰るときに職員室に寄っていくのを忘れるなよ。そこで全部管理しているからな」
野球部に限った話ではないのだが、他校の生徒からの贈り物に関しては全て警備員が預かる決まりになっている。その際にどこの誰から、誰宛てなのかを記帳させて管理、当日中に当人に渡す決まりになっている。
このシステムを作るきっかけとなったのが、今年のドラフト会議で見事福岡常勝軍団から第1位で指名を受けた松葉翔太先輩だ。
「最悪、持って帰るのが大変だったら郵送しろよ? 松葉さんはそうしていたからな……まぁその辺はお前に任せるよ。頑張れよ、モテ男」
そういって日下部先輩は着替えるために部室に入った。
「なぁ……晴斗。今日の放課後空いているか?」
声をかけられて振り向くと、そこには悠岐がいた。
「あぁ。悠岐か。悪い、放課後はちょっと予定があるだけど……何かあるのか?」
「あっ、いや……その。晴斗がよければなんだけど……練習終わりに駅前の喫茶店に少し寄らないか? ほ、ほら! 期間限定のチョコレートパンケーキが出てるだろう!? お前と一緒に食べに行きたいなぁ……なんて思ったりしたんだけど……忙しいか?」
「お前はそういう甘いものに目がないもんな。いいよ、付き合うよ。俺はコーヒー飲むくらいだけど、それでもいいか?」
「―――! あぁ、もちろんだとも! さすが僕の晴斗だ! なら終わったら一緒に行こうな!」
瞳にキラキラと輝く星を浮かべながら、悠岐はスキップしながら部室に入った。あいつのテンションの昂ぶり様に俺は若干呆れながらもあとに続こうとしたら、不意にユニフォームを誰かに引っ張られた。
「あのぉ……はる君。ちょっと、いいかな?」
今度は美咲さんだった。俯き加減だからはっきりと見えないが、少しその頬が赤く染まっていた。
スーハー、スーハー、と何度か深呼吸をしてから、美咲さんは意を決して俺の胸にトンと可愛く包装された小さな箱を押し当てた。
「きょ、今日はバレンタインだから……は、はる君のために一生懸命作ったの。だから……受け取ってほしいな」
最後の方はか細い声だったが、しっかりと聴きとることが出来た。心なしか美咲さんの手は震えていた。これは冬の寒さだけが原因ではないだろう。俺は彼女の小さな手を包みながら、その箱を受け取る。
「ありがとうございます、美咲さん。すごく、嬉しいです」
「エ、エヘヘ……は、恥ずかしいよ、はる君。みんなに見られたらどうするの? わ、私は別にかまわないんだけど……」
「ご、ごめんなさい! すいませんでした。そ、そろそろ着替えないとまずいんで行きますね? これは帽子の中に隠してみんなに気付かれないようにしますね」
慌てて彼女から手を離す。美咲さんはあぁと悲しげな声を出して、首をブンブンと左右に振ってから、
「そ、そうだね。気付かれた大変だもんね! 私も着替えといけないから行くね! じゃぁまたあとでね!」
颯爽と女子マネージャー用の更衣室に走っていった。その背中はどこか満足そうで、やり切った感で溢れていた。
「あぁ―――さてはその顔! 色んな子からチョコレートをもらった顔だな? 誰に貰ったのかお姉さんに白状しなさい! この色男め!」
うりうりと言いながら早紀さんは俺と密着と言っていいほどに距離を詰めてきて、わき腹辺りをツンツンと突いてくる。そのこそばゆさに身体をねじりながら逃れるために後退していくが悲しいかな、このソファの上では逃げ場はない。
「フフッ。ねぇ、晴斗君……どうして逃げるのかな?」
そしてまた彼女の表情は反転する。可愛さと妖艶さ。子供のような無邪気な顔と、大人の色香を映す顔。この二つの緩急の使い分けが早紀さんの魅力をさらに引き上げる。
「だ、だって……早紀さんがくすぐってくるからでしょ」
「もしかして晴斗君はわき腹が弱いのかな? フフッ、それにしても『だって』なんて可愛い言葉遣うんだね」
「―――ッン! 早紀さん、からかわないでくださいよ。それに。どうして急にこんなことをするんですか? 意地悪が過ぎませんか?」
「どうしてって……晴斗君が悪いんだよ? 今、私と二人きりでいるのに他の子ことを考えて……」
そう言いながら早紀さんの表情は憂いに変化し、俺の身体に甘えるようにしだれかかってきた。彼女の頭がちょうど俺の心臓の位置に乗った。
「フフッ。晴斗君の心臓の音がよく聞こえるよ。ドキドキ……してくれてるんだ?」
「あ、当たり前です! この状況で緊張しな奴がいたら、そいつは機械人形か何かですよ! 人間じゃない……」
彼女のサラサラとした髪から漂うのは爽やかな柑橘の香り。気分を落ち着かせる効果のある香りのはずなのに、この状況では逆効果。むしろその髪に指を通して梳きたくなる。その衝動に必死に抗うが、早紀さんがまるで期待するかのように上目出遣いで見つめてきた。
「晴斗君の……好きにして……いいんだよ?」
「―――!? さ、早紀さん!? 何を言っているんですか!?」
「ねぇ……晴斗君。私のこと……食べてほしいな」
そして時は動き出す。
なんて心の中で軽口を叩いているが、その実俺の頭の中は混乱のあまりショート寸前だ。今すぐ抱きしめたい。優しく抱きしめて、唇を奪ってしまえ。そう悪魔が耳元で囁いてくる。
「私、晴斗君のために頑張ったんだよ? 美味しいって言ってもらえるように一生懸命作ったの。だから……私にご褒美を頂戴?」
甘く、蕩けるような声が俺の脳を侵食していく。
初めてここで早紀さんの手料理を食べた祝勝会の時は断った。だが、あの時から時間が大分経った。時間の経過は理解を深めるには必要で、俺は少しだが早紀さんのこと知ることができた。
だから俺は―――早紀さんのわずかに震える華奢な肩を優しく包み込むようにして抱きしめた。びくっと、彼女の身体が揺れた。
「俺のために……ありがとうございます、早紀さん。ご飯、とても美味しかったです。それに、フフ。この状況は俺へのご褒美になってませんか? だって……食べていいんですよね、早紀さんのこと?」
俺は早紀さんの頬に手を当てながら顎をくいっと持ち上げて、口を真一文字にして早紀さんの驚きに見開いた瞳をじっと見つめる。彼女の頬が面白いくらいに一気に赤くなった。
「―――!? は、晴斗君!? ちょ、ちょっと……どうしたの!? 目が怖いよ!?」
「早紀さんがいけないんですよ? 俺が必死に我慢しているのに容赦なく誘惑してくるから……」
抱きしめながら、今度は俺が早紀さんに覆いかぶさるように身体を起こしていく。華奢な早紀さんをソファの上で半ば押し倒すような体勢になった。
「えっ!? ちょ、ちょっと待って晴斗君!?」
「ダメです。待ちません」
徐々に距離を詰める。左手で髪を梳きながら、右手は腰に添える。顔は彼女の耳元に寄せて彼女の香りを堪能する。あえて吐息を吹きかけながら、彼女の耳元で囁きかける。
「早紀さん……すごくいい香りがしますね。俺、早紀さんの匂い好きです」
「うぅ……あ、ありがとう。晴斗君、前に柑橘系の匂いが好きって言っていたから……」
「俺の好みに合わせてくれたんですか? フフ。嬉しいなぁ。ずっとかいでいられます。早紀さんだからですかね」
「ほ、本当にどうしたの、晴斗君……急に……へ、変だよ?」
くすぐったそうに身をよじりながら言う早紀さん。赤みは頬だけでなく首まで広がっている。それは照れと羞恥によるものか。声音にも徐々に憂いが混じる。
「バレンタインだから、ですかね。あと、早紀さんが誘惑するから。据え膳食わぬは、と言いますしね。だって、食べてほしいんですよね?」
「うぅ……そ、そうだけど……心の準備がぁ……シャ、シャワーとか、お風呂入ってからとかじゃないと……」
「俺は構いませんよ? 何なら……一緒にお風呂、入りますか?」
「は、晴斗君…………」
早紀さんの瞳が潤い光を浴びてキラキラと輝く。それがどんな宝石よりも美しく、同時に愛おしく思えた。
だから、俺はそろそろ本来の自分に戻ることにした。
「―――な、なんてね! じょ、冗談ですよ! 冗談! 俺もいつも早紀さんにやられっぱなしは悔しんで、少し頑張ってみました!」
「…………晴斗君?」
「どうでしたか?俺の迫真の演技は!? 驚いてくれま……した……か?」
早紀さんの頬を伝う、一筋の涙。俺は何か言わなければと言葉を探すが何も浮かばない。早紀さんは俺の身体をそっと押してソファから抜け出して厨房の方へと消えた。
後ろを追わないといけないのに、早紀さんの涙を見た俺は愕然として動けない。頭を駆け巡るのは後悔。調子に乗ってやりすぎた。今すぐにでも謝らなければ彼女のとの関係が終わってします。
誰よりも俺を慰めてくれて、応援してくれた早紀さんとの関係が。
「―――ねぇ、晴斗君」
「は、はい!」
早紀さんに声をかけられて、俺は飛び上がって姿勢を正す。怖くて彼女の顔を見ることが出来ないが、どうやら早紀さんは背後に立っているようだ。
「いじわるした子には……お仕置き、しないとね?」
「……甘んじて罰を受けますのでお手柔らかにお願いします」
「フフッ。年上のお姉さんをからかった罪は……重いよ?」
俺はギュッと目を閉じる。どんなお仕置きかはわからないが、それで早紀さんが許してくれるならどんなことだって受け入れる覚悟だ。
「晴斗君―――ハッピーバレンタイン!」
ふぅと背中から香るバーベナの匂い。見上げると、早紀さんの晴れやかな笑顔がすぐ横にあった。
いつものようにフフッと一つ笑い、いつ準備したのだろうか、トリュフチョコレートの端をパクリと咥える。そして俺が何かを発するより早く、電光石火の早業でそれを俺の口へと流し込む。
「ゥン……ンゥン……ハァ……ンンゥ………はると、くん……」
「……ハァ……ハァ、さ、さつき……さん」
最初は甘いチョコレートを介しての優しいキス。だがその甘い口づけに箍が外れた早紀さんはチョコの口移しだけでは満足せず、スイッチが入ったかのように何度も、何度もむさぼるように舌を絡ませながらキスを繰り返す。
「フハァ……フフッ。どうだった、私の味は? 甘かった? それとも……苦かったかな?」
時間にしてわずか数分足らず。しかし俺の中では永遠とも思える時間。早紀さんは先ほどまで奏でていた熱を帯びた蕩けた声ではなく、いつものような年下の俺をからかうお姉さんのような声で尋ねてきた。
「すごく…………甘かったです」
「フフッ。そう、よかった。ところで晴斗君。ここにまだいくつかおかわりがあるんだけど、どうする?」
早紀さんがじゃじゃーんと効果音を口に出しながら見せて来たのは小さな正方形の箱。その中には六つの小分けされた部屋があり、そのうちの一つが空白になっていた。
「私の手作りチョコレートなんだけど……どうする? 食べたい?」
「……食べたいです」
「フフッ。食べたいんだぁ? そうなんだぁ?」
俺は恥ずかしくなって下を向く。ここまでされて、断ることが出来る男がいるだろうか、いやいるはずがない(反語)。
早紀さんは再び俺の隣に座る。彼女の両手が俺の肩の上に乗る。その手にはチョコレートがある。
距離は、ほとんどない。
「じゃぁ、また食べさせてあげるね? フフッ。夜は長いから……私のこと、味わって食べてね?」
忘れられない、甘いバレンタインデーの夜が更けていく。