第 漆 話
撫子の花を志摩は抱きしめる。
「ちいひめ……」
可憐な薄紅色の花びらに唇を寄せて、そっと囁く。
この花の下にちいひめは眠っている。
「ちいひめ」
花畑に身体を横たえ、大地を彼女は抱きしめた。
どこもかしこも閉めきった、部屋。
銀光放つそれを、志摩はじっと見つめた。
大きく深呼吸をする。
強く心に決めたことのなのに、いざ実行に移すとなると手が震えた。掌が、幽かに汗ばんでいる。
ぐっ、と束ねた髪を掴む。
大切な髪だった。光矢に誉めてもらった、大切な髪だった。少し劣等感を覚えたこの淡い色の髪が、彼の一言で好きになれた。
でも……!
一度、瞼を軽く閉ざす。遠くで足音が聴こえる。
感傷を振り払い、鈍色の刃を髪に押しあてる。
ザッ……シュ
「きゃぁああぁ! し、志摩さまぁ」
腰まで覆う淡い色の髪は、肩口から先が失せていた。
◇◆◇◆◇◆
ひそひそ、ひそひそと話し声が聴こえる。遠巻きに、自分のこと囁いている声が聴こえる。
すすり泣く声が聴こえる。
暗く閉めきった部屋と相まって、鬱陶しいことだ……と志摩は思った。
「そのように泣くものではないわ、とわ子」
そう声をかければ、なおいっそう激しく乳母は畳に額を擦りつけ泣き叫ぶ。
わあぁぁあぁ……
厭だことと、志摩は嘆息する。
「それで……真仁さまには、お知らせして?」
泣くばかりの乳母は答えてくれなかった。
志摩は立ちあがる。明かり障子へと向かう彼女の袴の裾を、何かが掴んだ。この騒動で、十も、二十も急に年老いてしまったかのような乳母の手だった。
その手を見て、ほんの少し申し訳ない想いが志摩の中で芽生える。
「ど、どちらに?」
涙で涸れ嗄れた声が問う。
繻子のような綺麗な手だったのに。琴の調べのような、美しい声音だったのに。
「わたくしの、罪ね」
「は?」
「いいえ。外に……真仁さまに知らせたのか、訊きに」
と、前に進もうとする志摩の足に乳母はしがみつく。
「知らせていないの?」
足許を返り見ると、彼女はぷるぷると震えていた。
「隠し通せることでもないでしょうに……」
溜息と共に漏らす。
◇◆◇◆◇◆
真仁の訪れは、思ったよりも早かった。呼ばれての訪問ではなかった。
早い訪れに、志摩はほっとした。が、久遠寺邸内で事件を知る者は慌てた。
真仁も驚いたろう。訪れた久遠寺邸は、普段通り機能しながら、まるで通夜のような空気を湛えていたのだから。
荒々しく障子が開け放たれても、志摩は驚かなかった。
ふと既視感に誘われる。今から六年前のことだ。そう、志摩が真仁に求婚されたときの出来事。だが、今はそれとなんと違う様相をなしているのだろう。
傍らの乳母が、首を絞められたような悲鳴をあげる。
「とわ子の責ではないのよ。下がっていいのよ」
優しく声をかければ、乳母はますます怯えた様子だった。
「お願いがありますの」
母の、兄の、父の姿を真仁の後ろに認め、どこまでも六年前の写しの悪い再現のようだと志摩は思った。
「婚約を解消してください。わたくしは、あなたさまの妻となる資格をなにひとつ持っていません」
力まず言えたことに、志摩はほっとする。
「何を言っているのです……?」
驚きに両手を広げながら、真仁は志摩に歩み寄る。その顔は微笑みが張りついてる。志摩は後退った。
「その髪を、気にしているのですか?」
注がれる眼差しに、志摩は真っ向から視線を返す。
「髪は、伸びるものですし……志摩さんには純白のドレスのほうが似合うでしょう」
にっこりと微笑むその顔が、怖いと志摩は感じた。
「西洋では、六月の花嫁は特に幸せになれるそうです。その頃には、髪も落ち着いているでしょう」
真仁は膝をつき志摩と目線を近くすると、色を失った頬に指を這わせる。
「不安にさせてしまったんだね。待たせすぎて、ごめんね」
頬に落ちてきた口づけは、まるで死の宣告のようだった。
年が明けて六月。
西九条伯爵家嫡男の婚儀は盛大に執り行われた。
花嫁は目映いばかりの純白のドレスに身を包み、参列した年若い令嬢たちに羨望の溜息を吐かせた。なんでも、遠く欧州からの特注品だそうで、花婿が欧州への遊学中に選び抜き、お針子をわざわざ呼び寄せたという噂だ。
花婿の花嫁に対する溺愛振りを窺わせた。
招待者の中に光矢の姿がないことに、志摩は何処かほっとしつつも落胆せずにはいられなかった。
◇◆◇◆◇◆
侍女に案内された寝室で、寝台に腰をかけた志摩はそっと襟の合わせに手を滑らせる。
手に触れる、硬質な感触。
漏らすのは吐息。必要以上に高ぶった気を鎮める。
懐剣を鞘から払った。見つかり取りあげられないかと気を揉んだが、うまく持ち込むことができた。
喉を突くくらいなら、この刀で充分だった。
銀の刃に、思いのほか心が落ち着かせられる。
懐剣を掲げる。
息を吸いこむ。
深呼吸をひとつして、手を振りおろすはずだった……。
!
その手を、寝台の影に身を潜めていた真仁が掴んだ。
「あなたという女性は……」
「悪趣味ですわね。隠れて、覗き見ていましたの」
毒を思わせる歪んだ笑みで、志摩は真仁を睨めつける。
「ッ!」
志摩の喉から短い悲鳴が漏れた。
手首を捻られ、志摩は懐剣を手放してしまう。涙を湛えた瞳で、それでも彼女は真仁を睨み続けた。
「あの男への、義理立てか?」
志摩は答えない。だが、眼差しがすべてを答えていた。
「女の顔をするのだな」
白い頤を捕らえ。
「ふんっ! 気に入らないなッ。俺以外の男の存在で女の顔をするようになるなんて」
顎が締めつけられる。
「初めてあったときから、君のことが好きだったよ。君だと思ったよ。婚約解消だなんて、とんでもないと思った。君はわたしのものなのに」
氷のような口づけが落とされる。
志摩は寒さに震えた。
「面白い話を聞かせてあげる。あの男はね、人殺しなんだよ。自分の命を狙った異母姉の母を、殺したんだ。自分が本家に戻るためにね」
「嘘よ」
「そうだね。直接手を下したわけではないかもしれない。でも、彼が殺したようなものだよ。あれは、ただ殺すよりも凄かったね。何処までも何処までも、精神的に追いつめる酷い遣り方さ。とても十歳の子供のすることとは思えなかったよ」
ほろり、志摩の頬から涙が伝う。
十歳。それは志摩と別れた時の彼の年齢だ。何が彼をそれに駆り立てたのか、志摩は悟り哀しくなった。自分の存在がひとつの要因になったかと思うと、哀しかった。
「何故、あなたがそのようなことを知っておいでなの……?」
問わなければよかったと、次の瞬間後悔した。その、唇の端を吊りあげた笑みが、雄弁に語っている。
「嬉しいよ……コウヤは、わたしとの友情を取ってくれた。彼はね、昨年の秋に大陸に渡ったよ」
そして、君は自分の妻だ……と。
「何もなかったのだよ……すべて元通りだ」
子供の無邪気さで笑うこの人が、志摩は怖いと思った。
「すべて……なかったことにするおつもり……」
「何を? コウヤはわたしの親友だ、これからもね。そして、君は最愛の人で……妻だよ、一生」
瞳を輝かせ、歪ませた頬を揺らす。
「死ぬまでずっと、君はわたしのものだよ」
死より怖ろしいものに志摩は捕らえられたことを知った。
目の前のこの青年が、死神よりも怖ろしかった。
死神のほうがまだ慈悲深いと思えた。