第 陸 話 / 閑話2
志摩は光矢から引き離された。
付けられたことに気づかなかった。
急の訪れだった真仁が西九条家の別荘ではなく、久遠寺家の別荘に泊まっていたことを志摩は知らなかった。早々に部屋に籠もったのが、裏目に出たと言うべきか。
真仁によって引き剥がされた志摩は、君敦の腕に抱きとめられる。心の片隅で、兄も来ていたのかと志摩は思う。
だが、それはさして重要なことではない。今、大切なことは……。
「貴様ァ!」
真仁が光矢を殴る。
光矢の身体が、『思い出の樹』に打ちつけられた。
いやぁ――――!
志摩は、信じ難いものを見る心地をした。
怖ろしい顔をした真仁。彼の怒りはもっともだ。しかし、怒りの矛先を向けられるべきは、己れだ。光矢ではないはずだ。裏切ったのは自分なのだ。唆のかされたわけでもない。出逢ったは光矢とのほうが先だった……約束も。
悪いには志摩だ。志摩がすべて悪い。大事な約束を忘れてしまった。幼かったといって許されない……許されるつもりもない。
流されるまま、『恋』の意味も知らぬまま真仁との婚約を受けてしまった志摩の罪だ。
許婚がいながら、忘れかけていた『恋』を諦められなかった志摩の罪だ。
幹に肩を打ちつけ跳ね返る光矢の胸ぐらを、真仁が掴みかかった。
光矢は、なにひとつ抵抗らしい抵抗をしない。瞼を伏せ、歯を食いしばり、真仁の為すがままだ。
「おやめになって、真仁お兄さま! 悪いのは、わたくしなの……わたくしが悪いの。打たれなくてはならないのは、わたくしだわ」
必死にもがくのに、君敦の腕の束縛から逃れることができない。
「いやよ、やめて……お兄さま、離して」
「志摩……志摩……落ち着いて。そんなに暴れては、発作が」
「そんなの……! 知らないわ、知らない。いやよ――」
いやいやと、志摩は激しく頭を振る。
心臓が軋んだってかまわない。真仁を止めたいのではない。彼の拳から光矢を守りたいのだ。そのためなら、己れが打擲されてもいい。それこそが正しい。
「いやぁ――」
ド・クン
「―――― ・ ……!?」
悲鳴が喉で掻き消える。
鼓動が大きく脈打つ。
がくっ、と志摩は膝から崩れた。それでも、彼女は最後の気力を振り絞り、己が肩を抱く兄の腕にしがみつく。倒れるわけにはいかない。
「 ・ ……」
叫ぼうにも、声が出なかった。
「志摩!」
君敦の悲鳴。
「志摩ちゃん!!」
光矢の叫びに、真仁も異変に気づく。だが真仁のしたことは、志摩に駆け寄ろうとする光矢の腕を掴み、殴り倒すことだった。
声にならない悲鳴が、志摩の喉からほとばしる。
「やめるんだ、真仁ッ! 志摩を殺すつもりか!!」
君敦の怒声に真仁が震える。幼子のように左右の手を見比べ、呆然と立ち尽くす。その横を光矢がすり抜ける。
「志摩ちゃん……」
かけられる声の優しさ、殴られた顔の痛々しさに志摩は涙を零す。
「ごめんなさい」
震える手を差し出し、光矢の頤に触れる。その手に、光矢は己が手を重ねた。
篤い息を志摩は吐く。ほんの少しだが、呼吸が楽になった気がする。
「わたくしが、愚かだったわ……」
ゆっくりと瞼を閉ざす。
つぅ、と伝った涙を拭き取ってくれた指の感触を、思い出の最後の縁にしようと志摩は心に誓った。
志摩は意識を手放す。兄の君敦がいるから、安心して意識を手放すことが出来る。
意識を失った志摩の身体は、君敦に抱きかかえられ別荘に連れ戻された。
がたん……がたん……
汽車が揺れる。
「志摩……大丈夫か?」
「平気よ、お兄さま」
気遣う兄に、志摩は晴れやかに微笑んでみせる。だが、赤く腫れた瞼と憔悴しきった顔色が、それを弱々しいものに君敦の目に映る。
「そんなに気になさらないで」
この数日で、妹はなんと艶やかに微笑むようになったのだろう。面やつれし、まろみが消えた頬から顎にかけての曲線が、彼女から少女の面影を消し去った。
あの後三日間、熱に浮かされている間、何を手放し、何を選び取ったのだろう。
二日、志摩は泣いた。手放すことを選んだ『恋』ではあったが、それでも健康な身体であれば少しは違っていただろうかと思うと、更なる涙で咽せいだ。
泣いて泣いて。瞳が溶けるほど、喉が痛くなるほど泣いて。
それでも、何も変わらないことに三日目に気づいた。
こんなに泣いても、こんなに哀しいのに志摩は生きていた。
物語で、深い哀しみや絶望の果てに命果てるなどと言うけど、嘘だと思った。そう思うだけで、頬に笑いが滲んでくる。笑いは、生きる気力だろう。
哀しみだけでは、死ねない。
光矢以上に大事なものはないが、好きな人たちや物が他にも志摩にはあったから真の絶望は知らない。
うなされながら、何度か意識が底のない闇に落ちていくような感覚を体験した。その度に何かに掬いあげられた。それは、自分を愛おしんでくれる人たちの想いと、その人たちを愛おしいと思う自分の気持ちだったのかもしれない。
それに……
恋を手に入れることは諦められそうだが、忘れ去ることはできそうにない。だから、志摩はやめた。手放すことを、やめた。
別に、好きなままでもいいのだ……と思い至ると、なんだかすぅっと楽になった。
自分本位でも、我侭でもいいではないか、と。その代償は、いずれ贖うときが来るだろう。
すると、次の日には熱がひいてしまった。
くすっ
思い出し、志摩は笑いを鼻先で転がす。
「志摩?」
「なんでもないのよ」
訝る君敦を、にっこり笑顔で志摩は制す。それでも、彼女を溺愛する兄は何か感じるものがあったのだろう。不安げな表情を崩さない。
ほっ、と志摩は溜息を吐く。
「少し、疲れたみたい」
すまなさそうに告げれば、
「とわ子を呼んでこようか」
と腰を上げる。
志摩は首を振る。ここで乳母を呼ばれては、なんのために兄と個室に二人っきりにしてもらったのかわからない。「疲れた」と言えば甲斐甲斐しく世話をしてくれるだろうが、今はそれが煩わしいものに感じてしまう。
「少し休めば治りますわ。お兄さま、膝枕してくださる」
妹の様子を不審に思いながらも、君敦が志摩の『お願い』を撥ね退けられるはずもない。それでも、空いてる向かいの長椅子を指し、
「向こうで寝たほうが、楽なのではないか?」
と促してみる。だが、
「お兄さまの膝枕が安心できるの。子供っぽいと呆れられて?」
重ねて請われれば、もう何も云えない。
牡丹のように微笑む志摩は、「ありがとう、お兄さま」と囁くと、その華奢な身体を横たえる。
甘すぎる兄は、細い肩に上掛けを掛ける。
まだかろうじてあどけなさを残す寝顔に、吐息を零した。
六歳の夏。
庭で志摩は泣いていた。掘り返したばかりのこんもりとした土の小山の前で、涙に暮れていた。
初めて自分の身近で起こった『死』に、ただ為す術もなく泣いていた。
『夏になれば、可愛い朱い花が咲きますよ。
お嬢様と共に、花を愛でるのが好きだった猫です。花の種を植えて差し上げましょう』
そう言って、庭師の源吉が花の種をくれた。本当にそうかしら、そうすればちいひめは淋しくないかしらと、志摩は土の山に穴を開け花の種を落とした。
本当に淋しいのは、志摩だった。
猫のちいひめは、物心ついたときからずっと一緒だった。
少し前まで当たりまえに傍らにあった存在が、急にいなくなってしまったのだ。その喪失感はどれほどのものだろう。自分の半分を持っていかれたようだった。それは幼い志摩には持て余す感情だった。
「泣かないで」
はっ、と志摩の小さな心臓が震える。
その声はもう一度言った。
「泣かないで」と。
じわぁと志摩の瞳に、新たな涙が滲んでくる。その言葉は、懐かしい人を思い出させる。夏に出逢った、綺麗な人を思い出させる。今、志摩が会いたくて会いたくて仕方がない人だ。
「だって、ちいひめが死んでしまったのだもの。わたくしをおいていって、しまったのだもの」
「そうだね。ちいひめは、志摩ちゃんを守っていてくれていたものね……。大丈夫だよ。これからは僕が守ってあげる」
夢だと思った。淋しい志摩の心が生みだした幻だと思った。
「あなた、だれ……?」
「まさよし……西九条 真仁」
年の頃は、あの綺麗な人と変わらないのかもしれない。だが、志摩の中には『彼』の美貌が鮮烈に焼きついていた。
志摩の顔をのぞき込む人は、整った顔の持ち主だろうけど、美貌とは言えない。それでも、
「お迎えに参りましたよ、お姫さま」
目をすがめて笑うその笑顔の優しさが、同じだと思った。そして今、彼が口にした言葉は……。
嬉しくて志摩は、目の前の人の首にしがみつく。しがみつき、志摩は泣いた。
やっと迎えに来てくれた。
きっと姿が違うのは、やはり彼は精霊か山神さまの子供で、志摩のためにヒトに生まれ変わったのだろうと、幼い頭で自分のいいように解釈してしまった。
これが、罪の始まり。
嬉しくて、その後もちょくちょく久遠寺家を訪れる少年に、志摩は出逢ったときの思い出話を話した。彼は、黙って、そして時には相槌を打って聴いてくれる。その優しい笑みが好きだと思った。
それで、幼い志摩はますます信じこんでしまう。
幼い頃の記憶はどんどん曖昧になり、己れの中で辻褄が合うように都合よく改竄されていく。
罪は、誰にあったのだろう。
あの時、真仁は両親と共に久遠寺家を訪問していた。それが、初めての訪問だったのだろう。
きっと母が告げたのだ。
「もうひとり、娘がおりますの。ですが今はちょっと、挨拶できる状態ではなくて……お許し下さいな」
とでも。そして、尋ねられるままに話したのだろう。可愛がっていた愛猫が死んでしまって、涙に暮れていると。
「その子はどこにいるの?」と真仁が尋ねたのかもしれない。
そして母は、「庭に」と答えたのだろうか。
それこそが、真実に近いのだろう。志摩は、思い違いをしてしまったのだ。
「お兄さま……わたくし、あの方と『いきた』かったわ」
君敦の膝に頭を預けたまま、志摩は呟く。
『行きたかった』。
『生きたかった』。
君敦は右手で、志摩の額を覆う。その掌の下で、静かに彼女は涙を零した。
~ 閑話2 ~
気がつくと、この手は血にまみれていた。
ただ、望むものを手に入れたかっただけなのに――――それがこんな結果になるだなんて。
否。心の何処かで彼は気づいていた、この結末を。
どちらかの死しか、この決着はつかなかった。
「僕が死ぬか……あの女が死ぬか……」
結果として、少年が勝ったのだ。あらゆる手を、策を尽くし、あの女を死に追いやった。友と、幼い子供ふたりで生きるための必死の闘いだった。
ふと胸に、少女の面影がよぎった。幼い、まだ蕾を思わせる少女。だが、記憶に鮮やかな思い出。この胸に抱いた、大切な花。
「…… ・ っ」
嗚咽が喉を吐く。涙が、少年のやわらかな頬を伝った。
「後悔、するものか」
ぐいっと、彼は乱暴に目元を拭う。その瞳の冥さは、少年の持ち得るものではなかった。
コンコンと、やわらかく少年の部屋の戸を叩く者があった。
「どうぞ」
少年は軽く肩を震わせると、それとは気取らせぬ声音で応じる。戸の叩き方で、それが誰なのか彼にはわかっていた。
「よろしいかしら」
マホガニーの重厚な戸を開け顔を覗かせのは、艶やかな黒髪に小さな白い顔を縁取られた、可憐な乙女であった。
「ええ、どうぞ」
答えると、彼は呼び鈴を鳴らす。
控えた侍女は、彼が何かを言うまでもなく心得顔で一旦下がる。
侍女がお茶の用意が終わるまで、ふたりは無言で向かい合い、彼は目の前の乙女に伏せた瞼越しに視線を送る。
彼女は、どこか居心地が悪そうに小さくソファーに腰をかけ、膝の上で手と白い手巾を握りしめていた。華奢な身体を包むのは、黒い服――――喪服だ。
(そうか、今日は……。あの女が死んでもう一年になるのか)
だが、少年にその法要に参列する義務はなかった。譬え、それが父の愛人であっても。むしろ、なおさらだ。
ティーカップに口をつけ、一口温かな紅茶で喉を潤わせると彼から話を振ることにした。
「どうしました、異母姉上」
カップの湯気で頬を温めていた乙女は、
「いい匂いね」
と小さく笑い、ソーサーへ戻す。そして小さく深呼吸をすると、少年に向き直る。
「わたくし、嫁ぎ先が決まったの。秋月男爵さまの許に」
「えっ」
異母姉の言葉に少年は腰を浮かせる。
「そん、な。秋月男爵の子息はもう妻帯されている。その下の子息にも婿養子先が決まっているはずです」
「ふふっ」
彼女は笑った。
「その、お父様のほうよ。後添いにと、是非にと望まれたの」
「なっ」
「わたくし、できるだけ速くこの家を出るつもり。あなたもそのほうがよろしいでしょう? あちらは再婚ですし、わたくしは脇腹の子だもの。大仰にするつもりはないの」
「愛人を何人も囲っていると評判の男ではないですか、伊都子ねえさま!」
「ふふふっ。懐かしいわね、光矢さんにそう呼ばれるの」
笑う彼女の頬を涙がひと雫、伝った。それが呼び水となったのか、いくつもの涙が、彼女の頬を伝い落ちる。
「ごめんなさい。わたくし、本当はあなたに嫌われていたのに――――疎まれていたのに……気づかなくて。あなたに『伊都子ねえさま』と呼ばれるの、とても好きだったわ。知らなかった、知ろうともしなかった……それがわたくしの罪ね。お母さまが、あなた達の命を狙っていたなんて……。本当は、わたくしのこと『ねえさま』だなんて呼びたくもなかったでしょう?」
光矢は答えることができなかった。
伊都子は握りしめた手巾で涙を拭うと、立ち上がる。
「でもね、わたくしあなたのこととても大好きだったの」
◇◆◇◆◇◆
異母姉が去った椅子を見つめ、彼は拳を握りしめた。
「これが、本当に望んだ結末か――――」
後悔なんてしない、そう誓ったはずなのに。
自分はひとつのモノを手に入れるために、いったいいくつのモノを失っていくのだろう。
本当に欲しかったモノは、たったひとつのはずだったのに。ひとつの花の蕾を手に入れたくて、そしてその蕾を守る力が欲しかっただけ……それだけ。
今年二歳になる姪の頬を、白く繊細な指が優しくつつく。
「やだ、光矢さん。亮子が起きてしまうわ」
それをやんわりと窘めるのは、夫君と三人の子供と共に里帰り中の伊都子だ。
四年前には第二子、そして二年前にこの姪。そして五歳になる長男。まったくもって仲睦まじい限りである。
「すみません、異母姉上」
軽く詫びると、彼は異母姉が進めるソファーへ腰を降ろし、卓へ用意された茶へ手を伸ばす。
と、うぅぅう~とむずがる声がする。
「ほら、あなたが悪戯をするから」
溜息と共に立ち上がる異母姉の姿は、だが何処か嬉しそうだった。
「はい、叔父様。責任をとってくださいな」
ぽすんと膝に落とされた温もりに、思わず光矢は目を細める。そして、彼は慣れた仕草で姪をあやす。と、途端に姪はおとなしくなり、かと思うと健やかな寝息を立てだす。
「まぁ、本当に亮子は叔父様がお好きね。すぐに機嫌を直すのだもの。旦那様がね、焼き餅を焼くのも仕方がないわ」
そう言い拗ねる姿は、とても三児の母には見えない愛らしさだ。
腕にずっしりとかかる重さに耐えつつ、光矢は笑った。だがその笑顔は何処か淋しく哀しげで、伊都子は眉をひそめる。が、そこで「どうかなさったの?」と声をかけることはしなかった。彼の性格上、泰然と構えているのが上策なのを知っているからだ。
再び眠ってくれた娘を異母弟の腕に預けたまま、伊都子は湯呑みに手を伸ばし熱い緑茶を啜る。そして、茶請けの栗羊羹を楊枝で切り分けると、口へ運ぶ。
「異母姉上、亮子が重いのですが」
「まぁ、日々順調に育ってくれているのね、喜ばしいわ」
「異母姉上……」
光矢の向ける抗議の眼差しを、伊都子は笑って流す。
「異母姉上は今、お幸せですか?」
急に問われた内容に、真剣な声音に伊都子は戸惑いはしたが、やはり笑顔を返した。
「ええ、とっても幸せ。旦那様はとてもお優しいし、子供には三人も恵まれて。お姑さまはちょっと口やかましい処もおありだけど、良くしてくださるわ。……内緒よ。出戻りのわたくしには、勿体ないほどよ」
「それは良かった……」
綺麗に笑う異母弟のその笑顔が、哀しいと伊都子は思った。
十年前、一度は決別した異母姉弟だった。
秋月男爵家へ嫁して二年、あっという間に先立たれ未亡人となってしまった自分。でもそれは、哀しくなかった。罪に服するような気持ちで嫁いだ先だった。
そして、出戻って一年。思いがけず今の主人と出会い、さすがに色々と問題はあったが――特に、自分は一度は嫁した身であるし――異母弟の尽力で結婚することができたようなものだった。異母弟が、彼に言ったひと言がどんなに嬉しかったことか。
『わたしの大切な異母姉上です。もし泣かせるようなことがあれば、その時は覚悟してください』
と、そう言ってくれたのだ。それが、どんなに心強い護符となったことか。
今、確かに自分は幸せだ。だが、まだ異母弟は過去に囚われているのかと思うと、哀しく……そして何もしてあげられない無力さが歯がゆかった。
幸せになって欲しい、幸せを掴んで欲しいと願わずにはいられないのに。