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第 伍 話




 夢を見た……。

 

 

 

 

 

 懐かしい、愛おしい思い出。

 記憶の底から目覚めた佳人の顔が、ある人と面影が重なる。

 すべて思い出した。

 何故、忘れていたのだろう。

 許せない。

「……許されないわ」

 大事な、大切な約束。彼は、今でも覚えてくれているのだろうか。それは出逢ってからの、自分に注がれる眼差しが答えとならないだろうか。

 

 

     あの樹の下で……

 

 

「行かなきゃ」

 幼い頃とは違い、年頃となった今ではいつまでも乳母は彼女の傍に張りついてはいない。それに、着物くらいならひとりで着られる。

 星月夜。

 十一年もの前の記憶は、少々不安だった。頼りない記憶を手繰り、裏林へと飛びこんだ。

 不思議と、覚えている。

 不思議と怖くない。

 一歩林に踏みこめば、遠ざかっていた思い出が霧を払うように鮮やかに蘇る。

 何度も何度も辿った路。約束を交わした後も、次の夏も、その次の夏も辿った路。あの約束の日を最後に、会えることはなかった。

(大丈夫)

 星明かりが照らしてくれる。草や木が導いてくれている気がする。

 ちいひめがいないのが少し淋しく、心細くなる。ちいひめが彼と志摩を出逢わせてくれた。

 気持ちは急くのに、駆けることができないこの身体がもどかしい。だが、ゆっくりでも大丈夫。小さな子供が歩く範囲だ。そんなに遠くはないだろう。

「…………あぁ」

 思い出の樹の下に人影を見つけ、そこまでもう十歩余りなのに志摩は立ち止まってしまった。

 泣きたくなった。

 瞳が潤みだすのがわかる。

 声をかけて。『また会ったね』と十二年前のように言って。

 思い出の場所に着き彼の姿を認めた途端、志摩は急に夢から醒めたような心地になる。

 あのときの佳人は、彼ではないのかもしれない……。

「しま……ちゃん」

 戸惑うように呼ばれ、志摩はハッと顔を上げる。その拍子に涙がひと雫こぼれ落ちた。それを、大股に歩み寄ってきてくれた彼が、袖口でそっと拭ってくれる。

「泣かないで」

 まるで十二年前のあの日の再現のよう。

 ふるふる、志摩はかぶりを振る。ポロポロとそのたびに、雫がこぼれ落ちた。

「あなたが、あのときの……?」

 震える声で問う志摩に、光矢は頷く。

「あなた ・ でしたのね……」

 しゃくりあげながら志摩は顔を上げた。そんな彼女を、変わらない穏やかな瞳が見ている。心を甘くさせる眼差しが注がれている。

「ごめんなさい。……ごめんなさい、わたくし」

 その後をなんと続ければよいかわからなかった。だが必要なかった。堰を切ったように零れる涙を、伝う頬を、唇で優しく吸いとってくれる。

 頬に、睫毛に、瞼にあのときの温もりが落ちてくる。

「泣きやんだ」

 変わらないその人に、ようやく志摩は微笑むことができた。そうして、光矢(あきなお)も笑顔を返してくれる。

「ずっと待っていてくださったのね」

 約束通り、彼は大きくなってからずっと待っていてくれたのだろう。

 しかし、幼い志摩は勘違いをしてしまった。そして、それからこの林に足を踏み入れることはなかった。必要ないと、忘れてしまっていた。

 ふたりはすれ違ってしまった……。

 なんと罪深いのだろうと、志摩は再び涙を零す。

「ごめんなさい……」

「泣かないで。わたしも悪いのだから。あのとき、きちんと名前を訊いておけばよかったのだから。……それに、本当に迎えにこれる自信もなかった。……だから、名乗ることもできなかった」

 そう告げる光矢の辛そうな表情を見て、志摩はそれ以上自分を責めるのはやめた。自信を責めればきっと同じ分だけ彼を傷つけてしまうと気づいたのだ。

 傷ついた彼を見るのは、志摩も辛い。

「少し思い出話をしようか」

 肩を抱かれ、思い出の樹の下へ。

 恥じらいながら、志摩は光矢の膝へ腰を降ろす。

 膝の上で小鳥のように小さくなる志摩の肩を、光矢は己れの羽織を脱ぎ包んだ。夜風とはいえ、彼女が身体を冷やさぬようにという心遣いなのだろう。

「あの頃のわたしはね、事情があって母方の祖父母の許に預けられていたんだ」

「…………?」

「その事情の所為で……幼い頃、わたしは女の子として育てられていたんだよ。顔立ちが男の子っぽくないお陰で、周囲は騙されてくれたね」

 そう告げ笑う笑顔が、何処か痛そうで初めて逢った頃を志摩に思い出させる。そして納得した。あの時の佳人の清潔な綺麗さは、無性別さが感じさせるものであったのかと。

「怖い鬼に、命を狙われていたんだって。魔除けのための女装だったんだけど……長じてくれば、厭でも気づくものだよ。自分の恰好が何か違うってね。

 でも、それを主張すれば祖父は烈火の如く怒るし、祖母は泣き伏すし。一番辛かったのは、母上がね、静かに哀しそうな……申し訳ない顔をすることだったかな。それでも、最初のうちは頑張ってみたんだけど、同じことの繰り返し。段々、()んできて……ちょうどその頃だね、出逢ったのは」

 哀しく翳らせた瞳で、光矢は笑う。

「なんだか、何もかも厭になっていたよ。女装までして、さらに屋敷の中に押し込まれて。そうまでして守られる意味に、わたしは気づかなかった。誰も教えてはくれなかったし、知ろうともしなかったんだけどね。

 ただ、憤りだけを募らせて、もうどうでもよくて、抜けだして林の中に踏みこんで……最初は楽しかったよ。今まで見たことのない景色が、空気が広がっていたんだから。そして調子に乗って、疲れて、迷子になって」

 頬を揺らしたのは照れ隠しか。

「座り込んだ。浮かれた気分が一気に萎んで、途端に倦怠感に捕まってしまう。

 このまま、ここでのたれ死んでもいいと思った――今思えば、屋敷からそんなに離れた距離でもなかったのにね……その時、茂みから猫が出てきて、続けてとっても愛らしい女の子が飛び出してきた」

 この声は、鼓膜を震わせるのではない。寄り添った志摩の身体を震わせて、伝わってくるのだ。

「淡い印象のその子を、精霊か天からの御使いかと思った」

 志摩の白い(おとがい)に指を当て目を合わせると、にっこり目をすがめて笑う。志摩も笑う。はにかみ、目許を淡く染め微笑む。

「とても不思議な女の子だったよ。愛らしいかと思えば、突然わたしの袖口を、袖が千切れそうなくらいの力で引っ張って……」

 そして、ぞんざいな口調で「あの実を穫って」と命令された、と。

「まぁ……!」

 悪戯に笑うその人に、志摩は顔を赤らめる。

「小さな子供の頃の過ちを……」

 腕の中で拗ねる志摩を、光矢は優しくあやす。それがなお腹立たしかったが、そんなに嫌な気分にならないのが不思議だ。

「すぐに好きになってしまったよ」

「…………」

 殺し文句だ。それは狡い、と頬を染め志摩は思う。光矢の顔をまとも見ることができないではないか。

「帰るわ」

 ついと立ちあがり、背を向けて。

 光矢は何も言ってくれない。

(きっと笑ってらっしゃる)

 これでは四歳の子供となにひとつ変わりないではないか。

 恥じらいの末起こしてしまった行動に、ますます後がなくなってしまった。

 歩きだした志摩は、だだ十歩余り進んで立ち止まる。

 振り向かぬまま、

「また、会えますわね」

 問う。

 返答は期待していなかった。

 だが……

「もう、来てはいけない」

 十二年前と同じ言葉が返ってくる。

「明日も来るわ。明後日も、その後も。あなたがお出でになるまで、ずっとずぅーっと待っていますわ」

 聴かないふりをする。

 振り向かない。振り向けば、泣いてしまいそうだった。泣き顔を見せたら、すべてが終わってしまうような気がした。

 

 

 

 

 

 次の日も、志摩は寝室を抜けだした。

 その次の日も。

 何かを話すというわけではない。志摩は、その腕の中に(いだ)かれているだけで幸せだった。光矢の温もりを感じていられるこの数刻が、何よりも幸せだと思った。

 言葉なんていらない。この与えられる温もりがすべてだと思った。

 このまま時が止まってしまえばいい。

 このままひとつに解けあえてしまえればいいのにと思う。

 彼の一部になりたい。ああ、なれるのならば彼の命を支える心臓になりたい。瞳はイヤ。自分以外の女性(ひと)を見るなんて、耐えられない。唇もイヤ。彼の声は好きだけれども、その声で他の誰かに愛の言葉を囁くなんて哀しすぎる。だから、心臓がいい。誰も触れることのできない場所で、彼の命を支え、彼の中に(いだ)かれることができる。

 自分の想像が可笑しくて、志摩は笑った。

「?」

「なんでもなくてよ。自分の想像が可笑(おか)しくて……。

 わたくし、あなたの一部になりたい。あなたの心臓になりたい。そう思ったの。そうしたらずっと一緒ですもの」

「…………」

「でも、そうしたらこうして触れあうこともできなくなりますのにね」

 再び笑いを転がす拍子に、志摩の瞳から涙が零れる。

 幸せなのに、今のこの時がとても幸せなのに、哀しくて仕方がない。

 それでも、精一杯の笑顔を志摩は作る。もうそろそろ戻らなくてはならない。泣き顔で別れるのは嫌だった。

 ここ数日、別れの言葉は言わないでいた。今日もそのつもりだった。別れの言葉も、約束の言葉も交わさない。それを繋ぐのが、ふたりの絆だと志摩は思っていた。

 そっと、志摩は光矢から離れた。笑顔を交わす。それが『さよなら』であり『また明日』。だが、離れていく志摩の手を光矢が捕らえる。

「嫌です」

 光矢が何かを言うより速く、志摩は拒絶する。

「わかっているはずだよ」

「なら、来なければよろしいのです。こうやって来てくださるくせに、……卑怯です」

「卑怯でもかまわない」

「ひどい……ひどいわ……」

 志摩は袖口で顔を覆った。だが、すっくと顔を上げると、光矢に向き直る。

「お好きになさればいいんですわ。わたくしも、好きなようにいたしますから。――――つまらない情けはかけないでください!」

 

 

 

 

 

 ひと眠りし夜が明けると、途端に後悔が胸に押し寄せてくる。

 どうして自分は、いつまでも幼子みたい言動が抜けないのだろう。これでは、真仁にも光矢にも、いつまで経っても相応しくないではないか。

(きっと、呆れられてしまったわ……)

 

 

      ◇◆◇◆◇◆

 

 

 日中はずっと、心ここにあらずであった。

 欧州から帰ってきたばかりの真仁が、志摩は避暑地にの別荘にいると聞き、旅の疲れもとらず飛んできてくれたというのに。

 たくさんのおみやげ、珍しやかな異国の話。

 せっかく一番に聴かせようと来てくださったのに、志摩の耳には入らなかった。

 自分に為に選んでくれたであろうおみやげの存在が、心苦しかった。

 許婚の前で何もないように振る舞うことが苦痛で、とはいえすべてを明かす愚を冒せるわけもなく、気持ちが沈鬱になるばかりだった。

 それに気づいた真仁に、

「志摩さん、どうしたの(つまらない)?」

 と声を掛けられ慌てるほどであった。

「久しぶりの避暑地の思いがけない涼しさに、身体が遅ればせながら驚いているみたいで」

 なんだか疲れてしまっているみたいだと、志摩は中座する失礼を詫びながら、早々に部屋に引きこもる。

 残念そうな真仁の表情が胸に痛かったが、それでも夜が、皆が寝静まるのが待ち遠しく思う。

 ちいひめがいないことが、ひどく淋しい。喜びと、この不安を分かちあえる存在がいないことが、淋しかった。

 大丈夫。

 昨夜にも増して強く、志摩は自らに言い聞かせる。

 大丈夫……。

 駆けることができればいいのに。

 小走りさえも許されないこの身体が、もどかしい。

 駄目かもしれない……。

 胸に灯るひとつの想いを、志摩は泣き出したい気持ちで見つめ直す。

(この身体が、枷となるかもしれない……)

 そう思うと哀しい。けれど、消せる想いでもなかった。

 茂みをくぐり抜ける。

 月明かりが射していた。

 そして、彼はいた。

 志摩の姿を認め、光矢は眉をしかめ痛そうな表情をする。それが、志摩の胸に幽かな後悔を生みだす。

 来てはいけなかったの?

 だが狡いではないか。彼は来ているのに、志摩が来ることは許されないなんて。

 意地悪な気持ちになって、志摩は駆けだした。

 光矢は慌てる。慌てて樹の幹から身体を離し、彼女を抱きとめる。

「なんてことを……!」

 静かだが、深い憤りの宿った声だった。咎める響きに、志摩は泣き笑いの顔を作る。

「この程度くらいなら、平気でしてよ」

 そんなに心配しないで欲しかった。気遣われるのがかえって哀しくなる。

「お願い……」

 切ない声音で、彼女はずっと胸の裡で温めていた想いを吐露する。

「わたくしを、連れ去って」

 息を飲む気配が、空気を震わせ伝わる。

 顔を上げることができないのは、不安だからだ。頬が熱い。なのに、身体は震えるほどに寒い。胸許を伝うのは、ひやりとした汗だ。

「何もかも捨てられるわ。何もいらない、あなた以外。あなたでなくては、厭っ! お願い……わたくしを連れ去って。あの人から奪い去って……」

 沈黙が怖ろしくて、ひと息に志摩は告げる。指先が白くなるほど強く、光矢の着物の胸許を握りしめる。

 指先が痺れ、震えた。鼓動が耳許でうるさいほど主張している。

「驚いた……」

 溜息のように漏らされた、呟き。それだけで、志摩の心臓はギュッと締めつけられた。

 脆い身体……ヒビ硝子の細工……。

 そんな言葉がぐるぐる回る。

「こんな激しさを、この華奢な身体に隠し持っていたなんて」

「おいや……駄目、ですか。わたくしを攫ってはくださらない?」

 ようやく顔を上げた志摩は、潤んだ瞳を真摯に光矢に向ける。張りつめたひたむきさを、面にする。

「駄目ではない……駄目ではないよ。でも、本当に行けるの? 君は、すべてを捨てられるの?」

「捨てられるわ!」

「今までの暮らしも? 華族の娘としての生活も? わたしも周藤家を捨てなくてはならない。貧しい暮らしに耐えられる?」

「かまわない。意に染まぬ結婚をするくらいなら! どんなに貧しくても、この手がアカギレにまみれようと……平気」

「君の身体が保たないよ。優しい乳母も侍女もいない。すべて己れでしなくてはならない」

「平気よ……大丈夫だわ。あなたと生きていくためなら、きっと奇跡が起きる――――起こしてみせる」

 激しいまでの一途さ。儚げで、あえかな乙女だと思っていた。

「本当に……?」

「ええ」

 志摩は頷く。だが、なのに……。

「な ・ ぜ……」

 憤りと哀しみが、混然となって志摩の瞳を翳らせる。頬がわななく。

 それでも、光矢はゆっくりと再び(かぶり)を振る。優雅に、舞の所作のような幽玄さが、志摩をかえって哀しくさせる。

「だって、無理だよ」

 すぅ、と志摩の背後を指差す。

「逃げられない」

 長く繊細な指先を、志摩は視線で追った。

「そん ・ な……!?」

「見つかってしまったもの」

 光矢が指し示す先に志摩が見たのもは、白い月の光に、闇よりも冥い顔をさらす許婚の姿だった。

 

 

 

 

 

 夢が終わりを告げる……。





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