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第 肆 話 / 閑話1




 夢を見る……。

 

 

 

 

 

 てくてくてくてく、幼い志摩は林を行く。

「志摩ぁー志摩ぁー」

 と呼ぶ兄の声も、どんどん遠くなる。

 一度だけ志摩は立ち止まったが、ほんの少し首を廻らせただけですぐ歩き始める。その前を、猫の『ちいひめ』が行く。

 歩くことにも馴れ始め、少しでも遠く、何処まで行けるのか楽しくて仕方ない年頃――志摩 四歳――である。

 避暑地の別荘の裏の林は、物珍しい景色で溢れかえっている。なのに、兄や乳母は、

「危険だから(ですから)駄目 (ですよ)」

 と言って、志摩が林に足を踏み入れることを許してくれない。だから志摩は強硬手段にでることにした。鬼ごっこの振りをして、うまいこと兄を出し抜いた訳だ。

 さやさやと鳴る耳にくすぐったい葉擦れの音に勇気づけられ、志摩は奥へ奥へと進んでいく。それが次第に、甘い香りに導かれ出す。

 一本の樹の前で、志摩とちいひめは立ち止まった。

 ごくっ、と志摩の喉が鳴る。

 見上げたその先に、甘い香りのする木の実が生っている。

 穫りたくて手を伸ばすが届かない。一生懸命背伸びをしたり、跳ねたりするが、やはり届くことはなかった。木の実は、志摩のはるかはるか上にある。

 はぁ、と切ない溜息を志摩は零した。

 ずいぶん遠くまで来てしまった自覚はある。が、怖ろしくはなかった。帰れる自信はあった。困ったのは、この果実の匂いに触発された喉の渇きをどうするかだった。

 ふと、ちいひめが動く。

「あっ」

 志摩は慌てた。ちりちりなる鈴の音と、ゆらゆら揺れる尻尾を追いかける。茂みを掻き分け、再びひらけた場所へと出れた。そこにちいひめの姿を見つけ、ほっとする。

 茂みから転がり出ると、志摩はちいひめに駆け寄る。

 ちいひめの視線の先に、『ヒト』を見つける。

 志摩は髪に着いた葉を払い足許の猫を抱き上げると、木の下にうずくまるその人に声をかける。

「ないてるの……?」

 その人は顔を上げた。目を大きく見開くと、不思議そうに志摩の顔を見る。

 志摩は首を傾げ、

「どこか、いたいの? いたいの?」

 舌足らずに言葉を紡ぐ。

 それでも何も返さないその人をじぃ~と見つめ、胸に抱く愛猫を下に降ろすと、志摩は腰を屈めた。

「いたくありましぇんよ。いたくありましぇんよ。いたいのいたいの、お空へとんでけぇ」

 手をぐるぐると回し、バンザイをする。

 そして、にこっと満開の笑顔を見せる。

「も、いたくないでしゅよ。うばやの、とっておきのジュモンよ」

 舌足らずの志摩は、『さしすせそ』の発音がまだ未発達だった。

 志摩は俯くその人の顔を、膝の間からのぞき込む。

「おまえは、わたしが怖くないのかい?」

 高くも低くもないその声に、志摩はにこっと笑う。だがその人は、志摩の笑顔に痛そうに顔を背けると、

「放っておいてくれ」

 素っ気なく言い放ち顔を伏せてしまう。

 志摩には不思議なことだった。志摩が笑えば、誰もが笑顔を返してくれるのに。

 それでもしばらくしゃがみ込み、首を傾げ様子をうかがっていた志摩だが、ふぅと大人びた溜息を吐き立ち上がる。

 ぽんぽん、と袴を払う。

 ミャア、と鳴くちいひめに笑顔で応えると、彼女はまたうずくまるその人の袖を引く。ぐいぐい、小さな身体に似合わぬ、精一杯の力で引っ張った。

 ようやく立ち上がったその人を、志摩はまだぐいぐいと引く。相手の袖が裂けるのではないかということは志摩の頭にはない。茂みに突入し、抗議の声が上がるのも無視した。

 そうして着いたのは、先ほどの樹だった。

 小さな志摩は、充分に見上げなくてはならないその人を見上げ、

「あの実とって」

 とぞんざいに命令する。

 上を指差し、じっとその人を志摩は見つめる。困った顔も知らんぷりだ。

「あの実、とって?」

 もう一度言った。

 その人は諦めたようにひと呼吸すると、

「わかったよ」

 とひとこと告げる。

 するすると器用に樹に登るその人を、志摩は見上げた。

 ひらひらと、葡萄茶(えびちゃ)の袴の裾が揺れる。ひらりひらりと、袖の胡蝶(こちょう)がはためく。志摩より背の高いその人だが、背伸びをした程度では果実には届かなかった。

「ひとつか?」

「もうひとつでしゅわ」

 志摩は叫ぶ。

 登ったときと同じように器用に降りてくると、懐から果実をふたつ取りだし志摩に渡す。

 にこぉ、と笑う志摩に、その人は痛そうに眉をひそめる。志摩はほんの少し不満そうに眉を寄せるが、それでもふたつ渡された実を受け取り、袖口でよく拭うとそのうちのひとつに歯を当てる。そして、もうひとつを目の前の人に差し出した。

 受け取ったその人が一口囓るのを見届けると、やはり志摩はにっこり笑う。

「おいしいね」

「……そうだね」

 ようやっとその人は笑った。それが嬉しくて、なんだかとても嬉しくて、それはそれは愛らしく志摩は微笑み樹の下に腰を降ろす。その人も、傍らに腰を降ろした。

 ふたり並んで幹にもたれ、しゃくしゃくと果実で喉を潤す。ふたりの間で、ちいひめは微睡む。

 果実でべとつく手を舐める志摩の手を、その人は手巾で丁寧に拭ってくれた。

 風がわたる。木々が揺れた。

 俯くその人の前髪を優しく撫でる。

 木漏れ日が射す。

 葉を乱反射した陽の光が、志摩の目の前に座す人をやわらかく照らした。

「ふわ……」

 志摩は息を飲む。

 その人はとても綺麗な人だった。白練りの肌。陽の光が照らしだす、やわらかな頬の曲線。すうっと通った鼻梁。すっきりとした眉。一重の双眸。涼しげな目許。言葉に表わすとありきたりで、ましてや志摩の中にそんな言葉が浮かぶわけもなく、自分の兄と変わらない年であろう人の整いすぎた美貌に圧倒され、頬を染め俯くのが精一杯だった。

 ただ綺麗、とても綺麗、すごく綺麗。

 射干玉(ぬばたま)の黒髪をえり足で一纏めにしているのが、この中性的な人には相応しく感じられた。

「どうしたの?」

 急に俯いてしまった志摩を怪訝(けげん)に思ったのだろう。顔をのぞき込まれ、志摩はいやいやと首を振った。

「どこか痛いの?」

 優しく尋ねるその声に志摩はただただ首を振る。困ったような気配に、志摩も困ってしまう。

 唐突に志摩は立ち上がる。

「ちいひめ!」

 まるで悲鳴のように短く愛猫を呼ぶと、駆け出す。

 背後の気配を振り切るように、志摩はその場から逃げ出した。

 

 

      ◇◆◇◆◇◆

 

 

 翌日。

 てくてくてくてく、ちいひめを先頭に。

 乳母の目を盗むのは、兄を撒くこと以上に困難だった。

 お昼寝をするふりをして、「ひとりで寝れるわ」と言って眠ったふりをし、乳母が立ち去るのを待ち寝床から抜けだした。

 志摩は困ってしまった。

 あの樹の下にあの人がいたのだ。

 そして、志摩の気配に気づいたのか、顔を上げ目をすがめて笑う。それは白百合がほころぶような、とても綺麗な笑顔だった。

 志摩の兄と年恰好はそう変わらない。なのに纏う雰囲気は落ちついていて、ヒトには見えない。

(セイレイさま……? ヤマガミさまの子なのかしら……)

 乳母が寝物語に聴かせてくれる噺の幾つかを、志摩は思いおこす。だから、滅多に他人には懐かないちいひめが懐くのだろうか、と。

「こんにちは。また会ったね」

 お母さまより低い声、お兄さまよりもやわらかな声。

「嫌われて、しまったかな……」

 立ち止まり俯いてしまった志摩を見て、その人はそう思ったようだ。

 志摩は慌てて(かぶり)を振る。拳を握り締め、目眩(めまい)がするほど振った。

 くすっという笑いが、志摩の耳をくすぐった。

「よかった」

 吐息が志摩の前髪をかすめる。

 顔を上げて、志摩は驚きで息を飲む。目の前に綺麗な人の顔がある。その夜の星空のような瞳に映る自分の姿に、志摩は戸惑った。父や母、兄や乳母が自分に注ぐどの眼差しとも違う眼差しに戸惑った。

「あっ……」

 昨日はごめんなさい、そう言いたいのに言い出せない。

 察してくれたのか、綺麗な人は微笑んだ。

「喉は渇いていない?」

 その笑顔のまま小首を傾げる。艶やかな黒髪が、さやさやと肩から滑りおちるさまを志摩は見蕩(みと)れていた。

「おいで」

 綺麗な人の綺麗な声に促され、志摩は昨日の樹の下に腰を降ろす。白い布が敷かれており、その上に草紙が一、二冊転がっている。

「はい、どうぞ」

 差しだされた器には、不思議な色の液体が満たされていた。

 不思議な色、不思議な匂い。差しだされた白く、長い指。

 受け取った志摩だが、器と佳人の顔を交互に見比べると、結局えいっと器を(あお)る。

「?」

 ほどよく冷えたその飲み物は、やはり不思議な味がした。少しとろりとしたその味は、そんなに嫌いな味ではなかった。

「お代わりは?」

 志摩は首を横に振る。

「飲み終えたら、お帰りね。小さな子が独りで、こんな遠くまで来るのは危険なことなんだから」

 もう来てはいけないよ。

 諭す声に、志摩は素直に頷けなかった。

「『キケン』てなぁに。こわくなんてないわ。ちいひめもいるからヘイキよ」

 器の残りを飲み干すと、空になったそれを突き返す。

「ちいひめは、とても『おりこうさん』なのよ。ちいひめといて、こわいことにあったことないわ」

「君は……」

「『きみ』じゃないわ。『しま』よ。それにここは、しまが先なんだから」

 自分が先に見つけた場所だと、志摩は幼いながら主張する。

 泣きたくなった。自分はそんなに泣き虫ではないと思う志摩だが、この人といると、どうしてこんなに泣きたくなるのだろう。

「しま……ちゃん」

 拳で目許を拭い、ふるふる志摩は(かぶり)を振る。

 この涙の意味はわかった。悲しくて涙が出るのだ。綺麗な人に疎まれている……嫌われているのだと思うと、どうしようもなく涙が溢れてくる。

「そんなに泣かないで」

 何度の何度も、志摩は首を横に振った。

「もう、こないわ。ごめんなしゃい。しま、おじゃまだったのね」

「泣かないで」

 いやいやと、志摩は抵抗する。

 意地悪だ。この綺麗な人はなんて意地悪なのだろうと彼女は思う。

「いたいわ。はなして」

 泣きながら志摩は抗議する。細い志摩の手首は、佳人の手に捕らえられていた。

「泣きやんだら離してあげる」

「ひどいわ! どうしてそんないじわるするの」

 ひくっ、と志摩の喉が震える。

 ちいひめは何をしているのだろう。何故、志摩を助けてくれないのだろう。

「どうしたら泣きやんでくれるの? このまま連れ去ってしまうよ」

「いや、いや」

 抱きすくめられ志摩は暴れた。だが、暴れる志摩をものともせず、佳人は右手で志摩の頬を包むと、震える睫毛に温もりを落とす。

 志摩は身体を強張らせた。

 唇は甘く、最初は右目に、そして次に左目に落とされた。

「泣きやんだ」

 そう言うと佳人は志摩を離す。薄色(うすいろ)の袖口を彼女の赤く腫れた頬にあて、最後のひと雫を吸いとる。

 ひくぅ、と志摩は喉を鳴らした。それを聞き、

「もう泣かないで」

 ほんの少し苛立ちをこめて佳人は告げる。

 もう一度志摩の喉が鳴る。だが、それは涙を怺え息を吸い込んだから。幼い志摩なりに、もうこの綺麗な人に嫌われるような真似をしたくないと思ったのだ。

 嗚咽を漏らすまいと唇を噛みしめているのだろう。桃色の唇が、紅梅の花びらをおいたように朱が注す。

 それを見て、綺麗な人は笑う。白い花のような笑みを零す。

「かえるわ」

 溜息のように志摩は呟き、背を向ける。歩き出せば、今まで何処に隠れていたのか、ちいひめが志摩の先頭を行く。

「もう来てはいけないよ」

 志摩は立ち止まらなかった。

「さらっていってしまうからね」

「しらないわ!」

 叫ぶと志摩は駆け出す。

 

 

      ◇◆◇◆◇◆

 

 

 不公平だと志摩は思った。

 志摩は来てはいけない処に、何故この人は来てもいいのだろう。それに、来るなというくせに、なんだか志摩が来るのを待っているかのようなのだ。

「君は……」

「しま、よ」

「しまちゃんは、さらっていって欲しいのかな」

「どうして?」

 絵草紙に目を落としたまま、志摩は問い返す。

「『今度来たらさらっていくよ』と、と何度も言っているのに来るのだもの」

 くすくすと、鈴を振るように愛らしく志摩は笑う。

「だって、ここはしまが先よ。それに、ヘイキよ」

 面を上げ、にっこり志摩は笑う。

「さらわないわ」

 確信犯は満面の笑顔で告げる。

 ふぅ、と志摩の横で佳人は溜息を零す。

 ぱたんと志摩は草紙を閉じた。すくっと立ち上がると、絵草紙を佳人に返す。

「帰るの?」

 こくんと志摩は頷く。と、微睡んでいたちいひめは大欠伸をし、伸びをすると彼女の足許に纏いつく。

「そう……」

 佳人の白練りの肌に睫毛の影が落ちるのが綺麗で、つい志摩は見蕩れてしまう。

「今日が最後だよ」

「いやよ」

 だが告げられた言葉は受け入れられるものではなく、志摩はきっぱりと撥ね退ける。それを、困ったものだとほの苦く笑いながら佳人は言葉を続ける。

「大きくなったら、またここで会おう」

「とおくへ行かれるの?」

 それには答えぬまま。

「わたしのことを好いてくれている?」

 梔子を思わせる微笑みを湛えて尋ねられては、志摩は素直に頷くしかなかった。

 それに満足したのか、佳人は笑みはいっそう華やかさを増す。

「大きくなったら、迎えに来るよ。僕はしまちゃんが好きだよ」

 志摩はハッと息を飲んだ。花のように華やかに微笑むことのできるこの人は、兄や父と同じ殿方なのだと。そうと知ると、俄に志摩は頬を赤らめる。

「おおきくなったら?」

「そう、大きくなったら」

「わからないわ」

 そうとしか志摩には言えなかった。

「うん……いいよ。迎えに来るから、大きくなったら。また、この樹の下で逢おう」

「このきのしたで……ね」

 少年の言葉を繰り返す。

「また、ね」

 だが少年の言葉をあまり理解できぬ志摩は、

「うばやがしんぱいしゅるから、かえるわ」

 背を向け、その場を去った。

 

 

      ◇◆◇◆◇◆

 

 

 三日後。

 

 

 一昨日の雨のおかげで、一昨日も昨日も外へ出ることを許されなかった。

 ようやく渇いた林の中を、志摩は駆けた。

 ちりん

 ちいひめの鈴の音が止む。

 樹の下には、あの綺麗な人はいなかった。

「どうして……」

 呟いた志摩は、ふと三日前のことを思い出す。

「そんな」

 あれがお別れだったなんて、そんなのはないと思った。

「 ・ ……」

 志摩は悲しくなる。花のように綺麗な少年の名を、志摩は知らなかった。知らない名は呼べなかった。

 呼べば、声が届くかもしれないのに。

 ほろりと、水晶のような涙がひと雫、志摩の頬を伝った。

 

 

 


~ 閑話1 ~

 

 

 

 

 僕はゆくよ。

 いつか、本当の自分で君の前に立つために。

 僕の居場所を手に入れるため。

 そのための勇気を、僕は手に入れたから。




「本宅に戻ろうと思うんだ」

 告げた言葉に、又従兄弟は驚く。

「でも、おまえ・・・・・・」

「うん。そんなに簡単なことではないと知ってるよ。でも、決めたんだ」




 

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