第 参 話
残暑も終わりを告げる頃。
真仁は、欧州へと旅立った。
約二年は戻っては来られないと聞いた許婚が淋しげに眉を曇らせ、涙を滲ませた表情は、真仁の鬱屈をほんの少し晴らしてくれた。
あぁまったく、うるさい監視人たちがいなければ、その目尻に口付けることもできただろうに……。でも、そんなことをしたら恥ずかしがり屋の彼女は頬を赤らめるどころか、鼓動を速めて発作を起こしかねないか。
『お身体ご自愛くださいませね……?』
そう告げた声の、表情のなんと愛らしいことか。
君がいつまでも手を振り見送ってくれるから、走る汽車の窓枠から身を乗り出して手を振り返すことに恥ずかしさなど感じなかった。
『港までお見送りできないなんて……』
君と一緒なら、この退屈な汽車の移動も楽しく過ごすことができただろう。
「まったく、二年も君の声を聴くことができないなんて」
懐から取りだした手帳を真仁は開く。そこには、ぎこちなく写る白黒で彩られた許婚の写真。
「二年も、君に会うことも触れることもできないなんて……」
気鬱でしかない旅はそれでもまだ始まったばかりで、少なくともそれは二年は続くというのだから真仁はうんざりとするしかなかった。
窓の外を流れる景色も興味なく、ブラインドを降ろすと彼は座席に身体を預け瞼を閉じた。
穏やかに、そして駆け足のように過ぎてゆく日々。
日々、それなりに生きているつもりなのに、振り返るとあっという間に過ぎ去ってゆく。
最初の一年は、淋しくてどうにかなってしまうのではないかと思ったが、兄や許婚の親友の心配りのおかげでそんなにひどくはならなかった。
そして気がつくと、もうじき二年。何事もなければ、この秋口には真仁は戻ってくる。
遠く海を隔てた国なのだから仕方がないが、彼からの手紙は頻繁に届くことはなかった。だがその度に、草紙のように分厚い手紙と、彼女への贈り物が入っている。
真仁が行った地はどんな所なのだろうと興味を持つ志摩に、光矢はいろいろなことを調べて教えてくれた。
彼女が一番喜んだのは、光矢が話してくれるあちらのお伽噺だった。
カボチャの馬車に、小さな老人、赤い頭巾を被った女の子――――
「まるで小さな子供のようだよ」
と兄は相変わらず皮肉屋だ。
「お兄さま、いじわる。もう、よろしいわ。わたくし、これから琴のお稽古ですの。
光矢さま、ありがとうございます。また、お聞かせくださるととても嬉しいですわ。席を外しますわね。後は、殿方同士でどうぞ」
最後の言葉は兄に向け、志摩は淑やかに頭を下げると浅黄色の袖を翻す。
「まったく、……」
それでも愛おしい背中を見送ると、君敦は額に手を当て前髪を掻きあげる。その横で、光矢は声を殺し笑っている。軽く睨むが、青年が改める様子はない。
「まったく、誰のためにぞ咲き染むる花ぞ……てね」
「君敦さん……?」
この約二年、物語ばかりを聴いて志摩は過ごしていたわけではない。
少しでも許婚に相応しい女性に近づきたくて、以前より琴の稽古も熱心にこなしたし、華道や茶道も結構な腕前に成長したと聴く。刺繍の腕前も中々だ。こちらから送る手紙と共に、彼女が同封する刺繍入り手巾や着物は大いに真仁を喜ばせていることだろう。
気力が充実しているからだろうか、体力も少しついたような気がする。青白いばかりの頬が、やわらかな弧を描き出し、桜色に色づいている日が多い。そして、寝込む日は少なくなった。喜ばしいことだ。
髪は決して黒髪になることはなかったが、その艶やかさは影で令嬢たちに羨ましがられている――本人は気づいていないが。
西九条伯爵家嫡男の許婚は、『西洋のビスクドールのような容姿で大層愛らしく、その慎ましやかな風情は好ましい』と良家の子息の間で、秘かに評判だったりする。
兄として、誇らしくないはずがない。だが、その声は苦かった。
訝る後輩を無視し、君敦は話題を変えた。
「今年の夏はまた暑そうだな。志摩もずいぶん体力がついてきたみたいだし、久しぶりに別荘で一緒に過ごせそうだ」
今年の夏は暑そうだった。
少し体力のついてきた志摩は、これ以上暑くなり体力が消耗する前にと避暑地へ行くことになった。
兄と、当然乳母が同行だ。父と母は、少し遅れて来るといういうことだった。
別荘へ行くのは何年振りだろう。確か、八つの時が最後か。九歳の時の夏は寒いぐらいで本宅で過ごした。十歳の時は発病し、それからはそこまで行くのに体力が保ちそうになく行くことはなかった。
では、八年振りということになる。
ちくり。
胸の奥で何かが悲鳴を上げた。だがそれを、志摩は誰にも言わなかった。告げた瞬間、即避暑地行きは中止になってしまうことは目に見えていた。
八年振りにもなる遠出を志摩は逃したくなかった。