第 弐 話
※『とわ子』は志摩の乳母の名前です
そして十四歳。
私は、私の『運命』に出逢った。
カリカリとペンの走る音と、紙をめくる音だけがその部屋の空気を支配していた。
青年が二人。
艶やかな、少し長めの黒髪をえり足で束ねた青年はなにやら必死に机に向かっていた。
その傍らの、やわらかな黒髪の青年はふと頁をめくる手を止め、顔を上げる。
「なあ、コウヤ」
「なんだ、真仁」
ペンを走らせる手を止めず、コウヤと呼ばれた青年は問い返す。本当の名は、『光矢』と書いて『あきなお』と読む。
「おまえ、結婚しないのか?」
「何をいきなりっ」
又従兄弟の言葉に彼は吹きだすと同時に目を瞠り、発言の主に向き直る。
「まだ学生の身分だぞ、何を言っている」
だが相手は食い下がる。
「それにしても、許婚もいないだろう? 周藤家次期当主が」
「それを言えば、御歳二十二になる君敦先輩も同様であろう? 全く幸せ惚けしている奴の言葉なんて聴いてられないな。自分は意中の姫君をさっさと許婚にしているからと……」
「さっさとだと。莫迦を言うな。承諾をいただくのに三年だぞ。こっちは出逢ってすぐに心決めたというのに、あの親父、『娘はまだ幼いので』と渋りやがって」
自分の前でだけ地を出す又従兄弟の姿に、光矢は喉を震わせ笑う。
「はいはい、御苦労偲ばれます。ところで真仁、準備は進んでいるのかい。あちらへ出発するの、もうじきだろ?」
「ああ、欧州へ約二年ほど予定の遊学の旅さ。そこそこの英語と片言の独語しか操れないのに、な。父上の命令だ、仕方がない。ったく、その間に愛しの君に悪い虫が付いたらどうしてくれる」
「親の命には逆らえないさ。まぁ、せいぜい本場で揉まれてくるがいい」
悪戯に笑う光矢に、「イヤな奴ー!」と真仁は悪態を吐く。
「間違っているよな。コウヤのほうこそ行くべきなんだよ。えっと、なんだっけ? 英語に独語に……」
「中国語までだ。今は、ラテン語に挑戦中かな」
「はぁ!? それだけ使いこなせれば充分だろうに、まだ欲張っているのか」
「探求心旺盛と言ってもらいたいな」
「言ってろよ、物好きめ」
「結構ですよ、物好きで」
又従兄弟であり幼馴染みである青年の言葉に堪えた様子もなく、光矢は再び机へと向き直り作業を続ける。
その様子をのぞき見た真仁は、自分には到底理解できない呪文のような文字の羅列を見て一声呻くと肩を竦め、手にある本を棚へ戻す。
「違う、真仁。それはその隣の上から三番目の棚、右から五冊目の本だ」
「細かい奴め」
指摘され、渋々彼は本を支持された場所へ収めた。
「明日の、うちの祖母さまの茶会、来いよ」
「…………」
「社交界に顔を出すのも、良家の子息の務めだぞ」
「東根作のお祖母さまが口癖だ……ね。出るよ。その祖母の名代でもあるし」
「必ず来いよ。許婚を紹介するからさ」
そう言うと、真仁は掌をひらっとさせ、「勉学の邪魔したな」と背を向ける。そのまま扉へと足を向ける。
その背に、
「真仁、私は人を愛せないわけではないよ」
と。
真仁は肩越しに光矢を振り返った。彼は背を向けたままだった。
振り向かぬまま光矢は言葉を続ける。
「約束、した娘がいるんだ。十歳の頃の約束なんだけど」
「ん、安心した。頑張れよ」
そう言い残すと、真仁は光矢の部屋を後にした。
「志摩さん、準備はまだ? 真仁さんがお待ちですよ」
急かす母の声に、志摩は乳母と顔を合わせくすくす笑う。
「お母さまったら、せっかちね」
「あら志摩さま、動かれては駄目ですわ」
優しくたしなめると、乳母はほんの少しはみ出た紅を、花紙で優しく拭き取る。
「ごめんなさい」
唇を最小限に動かし、彼女は詫びた。その後は、おとなしく乳母や侍女たちがなすがままに任せていた。
「さ、終わりましてございますよ」
促され立ち上がった志摩は、姿見の前でくるりと回ってみせた。やわらかな生地をふんだんに使われたスカートが優しく舞うのを、嬉しそうに眺める。
ドレスなど、初めての体験だった。つい浮かれてしまいたくなるが、ここをぐっと耐えるのが淑女のたしなみの第一歩だ。
西洋風の館が増える昨今、久遠寺邸は珍しい純和風家屋であった。それに合わせて住人もまた和装を好むのだろうか。志摩は幼い頃から和服で過ごしてきた。母もそうである。父と兄は必ずしもそうとは言えないが、邸宅でくつろぐ時はやはり和服であることが多い。
「お似合いですわ、志摩様」
山吹のお仕着せに身を包んだ侍女たちは、あこがれの眼差しを萌葱色のドレスに注ぐ。
「ありがとう」と志摩は頷く。
「ええ、本当にお似合いですわ」
目をすがめる乳母の表情は、この上なく晴れやかだ。そっと手を差し出し、
「さ、参りましょう」
少女が手袋をはめた手を差しだすのを受け取ると、客人の待つ応接室へ彼女を誘った。
◇◆◇◆◇◆
乳母に手を引かれ応接室に姿を現した志摩は、スカートの両端をつまむとちょこんと首を傾げ、
「遅くなって、ごめんなさい」
と、淑やかに告げる。
腰を覆う淡い色の髪は、耳の上辺りの髪を後ろで結い上げられている。残りは、背に流したまま。
すべてを結い上げるには、まだ志摩は幼い。
薄化粧も惜しいくらい、その肌や唇は初々しい。ただ、紅梅に色づいた唇が、少女をいつもよりほんの少し艶やかに見せた。
「志摩……か。見違えたな」
「お兄さま、褒め言葉と受けとめてよろしいのかしら」
小首を傾げ愛らしく拗ねてみせる志摩の頬を、君敦は軽く撫でると、
「はいはい、誉め言葉ですよ。感心できないなぁ、志摩。兄の言葉を疑うなんて……兄は哀しい」
嘆く振りをする。
いつもの兄の様子に、志摩は微笑んで受け流す。
そんな兄も、洋装で決め出かける準備はできているようだ。
志摩は視線を廻らし真仁を捜した。
「真仁……さま、似合っています?」
『お兄さま』と呼ぶのをそろそろ直さなくてはね、と周囲に言われ始めている志摩は、ぎこちなく許婚の名を呼ぶ。
「ええ、とても。見立てた甲斐がありました。お辞儀の仕方も完璧ですよ」
目をすがめる真仁の誉め言葉に、志摩はさっと頬を赤らめた。
「そりゃあ、オレが念入りに仕込んだし」
と言う兄の言葉はきっぱりと無視をして。
兄と許婚にエスコートされ、志摩は真仁の父方の祖母主催のお茶会へと招かれた。
◇◆◇◆◇◆
出逢ったのは、そのお茶会。
西洋風をとても好む方でらっしゃるとは伺ってはいたが、その方自慢の庭でのお茶会。
艶やか、華やか……でも趣味の良さを伺わせるのは香椎家の大奥様のお人柄。西洋庭園を初めて見る志摩は、すっかり魅せられてしまった。
でも……
それ以上に彼女の心を震わせるものに出逢ってしまった。
母方の又従兄弟であると、許婚に紹介されたその方。
「初めまして。周藤光矢です」
夏の清水のように清やかなお声と、涼しい目許が印象的な方だった。
「久遠寺……志摩と申します。お初にお目もじいたします」
何故こんなにも心が震えるのか、志摩は不安になる。
痺れたようにいうことを利かない腕をなんとか動かし、習ったばかりの西洋式の礼をする。
それが精一杯であった。理由もわからず瘧のように震える身体を抱き締める。
「志摩!」
ぐらりと傾いだ身体を君敦が支える。
「ごめんなさい。馴れない場に……酔ってしまったみたい」
気力を振り絞りそう答えるのが、もう限界だった。
ほうぅ、と切ない溜息を志摩は藤棚の下で零した。
薄紫の見事な花房が、風が吹くたびに優しくたなびく。
先日の庭園の見事さを志摩は思い起こす。記憶はまだ鮮やかだ。目も心も奪われた、久遠寺邸では見かけない花の中で、幾つかこの庭に植えてみたいと思うものがあった。だが、昔ながらの大陸風の流れをくむこの庭園にはそぐわないように感じられた。
(一度、庭師の源吉に相談して見るのがよいかしら……)
そして、志摩は再び溜息を零す。
気になることはもう一つ。
あのときの震えはなんだったんだろう。
恐怖――それが一番近い感情な気がする。だが腑に落ちない。何故、初めてお目にかかった方に恐れなど覚えなくてはならないのか。
「変だわ」
そして厭なことと、深い溜息を吐く。
本来ならこの時間は琴の稽古の時間だった。でも気乗りがしないと、
「今日は、少し身体がだるいわ」
そう言えば、琴の師匠でもある乳母は「では今日は止めにしましょう」と、あっさり中止にしてしまった。
身体が弱いからと何もさせてもらえないのが辛くて堪らなくて、必死にお願いして始めた習い事だった。なのに、少しでも体調が優れない言えばあっさりと取りやめになる。
もう少し厳しくてもいいのに……と我侭なことを志摩は思う。そう思うことさえも、甘えで我侭だと言うことくらいは彼女は自覚していた。
何度目になるかわからない溜息を、志摩は吐く。
「なに、惚けてるんだ」
そこへ突然かけられた声に、彼女は驚いた。が、強張らせた頬は次の瞬間笑みに変わる。
「ひどいわ、お兄さま」
藤棚をのぞき込む君敦を志摩は詰る。胸元を押さえ、大きく胸を上下させ胸の動悸を整える。
「悪かったよ、悪かった。本当に惚けていたとは思わなくて」
何度も呼んだのだよ、と言い訳をする。
「それで、琴の稽古を怠けて何をしておいでで?」
兄の科白に、志摩は頬を膨らませた。遜った物言いをするのは、志摩を戒める時の君敦の癖だ。
「いじわる……」
上目遣いで君敦をうかがえば、優しく口許を緩ませる兄の顔と目が合う。
「志摩が為だよ。わかっているのならいいが」
と告げ、屈めた腰を伸ばす。お説教が長引かなかったことに志摩がほっとしたのも束の間。
「真仁ー、光矢ー、ここだぁ!」
左手を口に添えると、叫ぶ。
志摩は目を丸くした。ギュッと襟の合わせを掴む。
「先日の方も、来ておいでですの……?」
「?」
「真仁お兄さまも!? まぁ、わたくしこんな恰好ですのよ」
志摩は立ち上がると、パタパタとついてもいない埃を払う。
「まぁ、いいではないか。今さら振袖というわけにもいかないだろ」
それはそうだがと思いはするが素直に納得はできず、許されるなら今すぐ着替えに戻りたかった。
「志摩の乳母がお茶の用意をしているが……ここは丁度いいな、涼しくて。ここでおやつとしよう」
と決めるが速いか、
「志摩はここで待っておいで。とわ子に頼んで、ここにお茶を持ってくるから」
「お茶……て、お兄さまが?」
志摩の返事も聞かず、君敦は走り去ってしまう。
「お兄さまったら、勝手だわ」
ぽすん、と藤棚の下に設えられた長いすに志摩は腰を掛け直した。
不思議な方……
それが、二度目以降彼に彼に会って印象。
触れれば切れそうなまでに鋭い美貌の持ち主なのに、目をすがめて笑うととたんにやわらかな印象に色を変える。
美貌……殿方なのに、美貌というのが相応しい容貌の持ち主。女性が羨むだろう練り絹のようにしっとりとした白い肌は、笑うとほんのり桜色が注す。だが女性に見紛うことがないのは、纏う雰囲気が決してなよやかではないこと。
真仁を若木の瑞々しさに譬えるなら、光矢の凛としたその風情は、若竹を思わせる。
そして、とても美しい声をお持ちだ。
ときに洒落て詩を吟じるその声は、鳥も聴き惚れるのではと思われた。
そんな、なにもかもに恵まれた方なのに、時折ふと表情を翳らせる。哀しそうに、淋しそうに……何処か遠くを見つめる眼差し。
「志摩さんは、あまり茶会などは好まないのかな?」
ふっと問われた内容に志摩は首を傾げる。
「いや……あまり、そういう場でお見かけしたたことがないので」
あまりも何も、そういった社交場へはあれが初めてである。もしかしたら、その最初のお茶会が最後のものになるかもしれないのだ。
「丈夫なほうではないので。それに……」
「それに?」
言い淀む志摩に、今度は光矢が首を傾げる。
「わたくしの髪、明るい色でしょう。黒髪と言うには、明るすぎるでしょう」
何度も口籠もりながらそう告げると、志摩は俯く。もうそれ以上は何も言いたくないと口を閉ざし、葡萄茶の袴を握り締める。
光矢にはそれだけで察するに充分だったようだ。
「ああ」と唸ると。
「陰口を、囁かれたのだね」
その瞬間袴を握り締める手に力が籠もったのを光矢は見逃さなかった。
久遠寺家の屋敷の中では、仕える家のお嬢様のことであれば、誰も志摩の髪について悪し様に囁くようなことはないだろう。
だがあのお茶会で志摩は聞いてしまった。
『ねぇ、見てあの方……』
『まぁ……』
『まぁ、あれはあんまりね……』
『どちらの……?』
『さぁ、初めてお目にかかる方よね』
『なんだかちょっとねぇ……』
気味が悪いわ。
扇子の影でくすくすと忍び笑いと共に交わされる囁きが紛れもなく志摩のことを指しているのは、ちらりちらりと向けられる思わせぶりな眼差しで明らかであった。
白磁のように白い肌に淡い栗色の髪、濃い琥珀の瞳の愛らしいお嬢様は、まるで西洋の陶器人形のようと言われたことはあったが、やはり美しい黒髪が美人の第一条件であれば、志摩は美人の類に入ることは許されないだろう。
確かに、あのお嬢様たちの髪は美しい黒髪だった。
「気にすることではないのに……」
君敦、真仁、光矢の三人は囁くが、志摩にとっては説得力に欠けていると思う。三方ともそれぞれ美しい黒髪の持ち主なのだ。特に光矢の黒髪は、緑為す黒髪ではないが闇を凝縮したような極上の黒髪だ。
「そうだね。お二方は身近すぎて気が利かないね。
志摩さんの髪は、綺麗ですよ」
「む、無理にお世辞など、仰有ってくださらなくてもよろしいのよ」
「綺麗ですよ。陽の光にきらめくお日様色の髪ですよ。他の人と違うからというだけで、ご自分を卑下するのはお止めなさい」
ひくぅっ、と志摩の喉が鳴った。こんな厳しいことをいわれたのは初めてである。
それに、不思議なことを言う。
滲みかけた涙を飲みこみ、志摩は面を上げる。
「周りの方々と違うからと、それはすべて悪いことではない……ということ?」
志摩は恐る恐る尋ねる。胸許で組んだ指が痺れるほど強く握る。
「そういうことです」
志摩の回答に光矢は教師然と頷くと、微笑む。
「変な方……」
無意識に零れた言葉に気づき、志摩はハッとする。慌てて口を押さえ、面を伏せる。
「も、申し訳ございません……過ぎたことを口にしました」
「気にすることはありませんよ」
と光矢が言えば、
「気にすることはないよ。コウヤは変わり者であることが自慢なんだ」
と真仁がとりなすように言を継ぐ。
だが、志摩は面を上げることができない。失態に頬は熱く、胸許を冷たい汗が伝う。
「志摩さんは、賢くはっきりした方なのですね。少々驚きました」
そう言われては、尚のこと顔を上げることなどできないではないか。
「光矢、そう妹を苛めてくれるな。このままでは失神してしまう」
可笑しみを含んだ声でいう兄に、(意地悪なお兄さま……)と志摩は俯いたまま心の中で詰る。
「そんなつもりはないのですが……」
年長者の苦言にさすがの光矢も困ったように口籠もる。と、
「お詫びに、志摩さんをお茶会にご招待してもよろしいですか?」
問われても志摩が頷けるはずもない。
黙ったままの志摩を気遣い、光矢は言葉を続ける。
「うちの母君が、どうしても真仁の許婚を見たいと言ってまして。
どうです? ごく内輪の集まりで。志摩さんと真仁……そして君敦さん」
「おい、オレはついでかい」
「そして私の母に、姉」
「伊都子さん、帰っているのか?」
「第二子を連れて里帰り中だよ。どうでしょう」
兄や真仁に問うているのだろうと、志摩は頭上で交わされている会話を聞く。
だが、違った。
「どうする、志摩?」
兄に促されようやく志摩は頭を上げる。すると、光矢の眼差しは自分に当てられていることを知った。
困った志摩は、つい許婚に救いを求める。
「そうだね。周藤のおばさまにも紹介したいな」
志摩の眼差しを受けての真仁のこの一言が、決定となる。
約束の日。
志摩は招待された周藤邸に行くことができなかった。
前日からの熱で侭ならない身体を、志摩は忌々しく思った。
(せっかくあの方のご招待なのに……)
それでもなんとか手紙を自筆で綴り、せっかくの招待だからと出かけた二人に託した。
夕方になり、君敦はおみやげを携え帰宅した。
真仁は光矢の父に捕まってしまい、『お見舞に行けなくてごめん』と伝言を託したらしい。
「はい、志摩」
渡されたのは、花と、焼き菓子と果物が詰まった籠。
「光矢と、周藤の奥方さまのお見舞」
と。
この兄が花と籠を抱えて帰宅したと思うと、少し可笑しかった。
見舞いの品の果物は、なんだか懐かしい味がした。