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第 壱 話




 十歳の頃、原因不明の病に冒された。高熱が何日にも亘り続き、幼い身体を蝕んだ。命さえも奪いかねないその状態からの生還は、奇跡に等しかっただろう。

 医師が匙を投げなかったのは、偏に相手が華族の娘だったからだろう。

 

 

 

「先生、娘は……?」

 久遠寺家奥方の問いに、医師は一度無言で頭を振る。顔を上げれば縋るような奥方の瞳とぶつかり、目を伏せた。

「なんとも言えませんな。手の施しようが御座いません。……あとは、お嬢様のご運次第。この熱が下がらないことにはなんとも。……ですが、熱が下がられたとしても本復なさるかどうか」

「……そ、そんな!? 娘の病はいったいなんのですっ!!?」

「ご当主、冷静に。原因がわかれば、手の施しようが御座いましょう。ですが、お嬢様の症状はなんとも……。迂闊に薬を投与するわけにもいかない状態です」

 せいぜい熱冷ましの薬湯を煎じるのが精一杯のこと。幼い身体ゆえ、強壮薬を与えるわけにもいかない。なんとも難しいことだ。

 医師の言葉に、奥方は絶望の悲鳴を上げた。久遠寺家当主は苦渋に唇を歪め、よろめいた奥方を支える。

 

 

 

 

 数日後――――

 それはどんな奇跡のなせる技か。久遠寺家令嬢、志摩嬢の熱は、なんとか微熱と呼べる程度のものに落ち着きをみせた。

 両親がほっと一息をついたのも束の間。

 医師は告げる。

「長生きはできないでしょう……」

 長く続いた高熱は、幼い身体の内側を蝕んでいた。

「あまりに脆いお身体なのです。もちろん、子を産むことなど無理でしょう。その……行為も、お嬢様の命を縮めるだけ」

 高熱に耐えに耐えた心臓は、まるで細かい亀裂がいくつも走った硝子細工のように、何かの拍子に脆く崩れてしまう。

 告げられた事実に、奥方は膝を折るとその場で泣き伏した。声を殺し。ごく普通の幸せを望めぬ娘の幸を思って嘆いた。

 

 

 

 

 

 でも、それは私にとっては幸せなことだった。

 だって、それは愛せぬ方の子を成さなくても良いということなのだ。……愛した方の子も望めないということだろうけど。

 それでも、愛した方の子なら命と引き替えにしてでも望んだことだろう。

 

 

 

 

 

 この時すでに志摩には許婚が決まっていた。

 だが、双方の親同士が決めたばかりのことで、まだ志摩には告げられてはいなかった。もう少し大人になってから告げようと、相手方の親と許婚と決めていた。

 相手は、六歳年の離れた――彼女が『お兄さま』と呼び慕っている西九条伯爵家の嫡男である。

 志摩の容体が落ちついた頃を見計らい、久遠寺家当主と奥方は西九条家へと婚約解消の願いを申し入れた。

 まだこの件を告げずにいたのは幸いだったと、両親は思った。兄のように慕う少年が将来の旦那様だと、愛娘が頬を染める前でよかったと。それが解消となったと知れば、それひとつで命を危うくすることになったかもしれないのだ。

 志摩には幸い、兄がいる。

 妹を溺愛している――両親の目から見ても明らかなほど――兄は、彼女をずっと庇護してくれるだろうことは想像に難くない。そう思えば、当主の心が少しは軽くなる。

 だが、だからこそ嫡男である君敦の結婚相手は心優しい女性でなくてはと強く思った。

 

 

 

 

 

 布団に押し込まれた志摩は、そろそろ寝ていることに飽いてきていた。もう熱はすっかり下がっている――というのはあくまでも彼女の思いこみであって、まだ微熱続きなのだが――のだ。床上げをしたいというのに、両親と乳母がそれを許してくれないことに苛立ちさえも感じていた。乳母などは、枕元にしっかりと腰をおろし見張っている状態だ。

 この乳母さえいなければせめて部屋の中だけでも歩き回れるのに……と、普段は頼りになる優しい乳母がこの時ばかりは少し憎らしく思えた。

 なにしろ二人の年長者が止めなければ、木登りさえもしかねないこのお嬢様はかなりのお転婆だ。また、大変な花好きで庭師と一緒に土いじりをし、挙げ句に衣装を汚して怒られることもしばしばである。

 そんな元気なお嬢様が……と、乳母は何度目になるかわからない溜息を噛み殺した。

 そんなお転婆なお嬢様でも、愛らしく優しげな顔立ちと天真爛漫さとで使用人たちにずいぶん愛されている。

 ほうぅ、と枕に頭をつけたまま、この乳母の大事なお嬢様は溜息をつく気配に彼女は現実に立ちかえり慌てた。

「志摩さま」

「乳母や、わたくしもう厭きたわ」

 乳母の心配は杞憂に終わり、志摩は愛らしく拗ねてみせる。

「何を厭きましてございます?」

 優しく問えば、志摩は頬を膨らませた。

「まぁ、いじわるだわ。わたくし、もうからだの具合、よくてよ。熱がでるまえ、もうじき『しゃくやく』の花が咲きそうだったのよ」

「いいえ、いけません。お熱はまだ下がったわけではございませんのよ」

「でも……」

「でも、はいけません」

 少女のおねだりをきっぱりとはね除ける乳母だが、ふっと表情を和らげ、

「ここ数日、寒うございましたからね。まだ、蕾がほころび始めたというところだそうですよ」

 と告げれば、翳った志摩の表情が輝く。

「では、咲くのは明日? あぁ、明後日であればいいのに。そうしたら、縁から見るぐらいは許してくれるでしょう?」

「そうせずとも花器に生ければよろしいでしょう」

「だめ!」

 乳母の提案を少女の鋭い声が遮る。

「だめよ。生けなくても庭を見れば愛でられるのよ。そのほうがながく楽しめるわ」

 それは少女の口癖。だから、花好きの志摩なのに、部屋を飾る花は少ない。今、この部屋を飾るのはお見舞にと贈られた花々だ。

 それを補うように、志摩の部屋に面した庭は四季折々の花で溢れていたが。

「でもねぁ、乳母や」

 これだけはお願い、という志摩に乳母は「なんでございます」と首を傾げる。

「お顔をあらいたいわ。おぐしもすきたい。なんだか気持ちわるいの」

 と、決して我侭ではない彼女の大事なお嬢様は愛らしくお願いを口にする。

 

 

      ◇◆◇◆◇◆

 

 

 用意された手水で顔を洗う。よく気の利く乳母が手拭いを濡らし、志摩の首や胸許、腕などを拭ってくれる。それだけで、ずいぶんと気持ちが清やかになる。

 もともと茶色い髪が、この数日の熱の所為かずいぶんと淡くなったものだと乳母は思った。

 丁寧に、丹念にその髪を梳く。

「さぁ、終わりましてございますよ。床にお戻りくださいな」

「ありがとう」

 にっこり微笑む志摩を布団の中に戻し、控える侍女に乳母は盥や濡れた布を片づけるように指示する。

 布団を肩まで引き上げ眠るように促す乳母に対し、志摩はぐずった。

「夜、ねむれなくしまうわ。いやよ。乳母やたちがねてしまったのに、わたくしひとりだなんて」

「ですが……」

「物語を聴かせて。……それならいいでしょう?」

 外は駆け回るのと同じくらい読書が好きな、彼女らしいおねだりに一瞬緩んだ頬の筋肉を、乳母は慌てて引き締めた。

「それなら、読むよりつかれないわ。つかれたら、すぐねむるわ」

「本当でございますか?」

「ほんとうよ。むりはしないわ。明後日、『しゃくやく』の花を見たいもの」

「絶対ですよ」

 念を押す乳母に、志摩はこくりと頷く。それを確認すると、志摩が今気に入っているお伽噺の類を乳母は読み聞かせ始めた。

 

 

 さて、二話目も終わりに差しかかっった頃。

 部屋の外の雑然とした気配に耳をとめたのは、志摩が先だった。

 遅ればせながら気づいた乳母が耳をそばだてた時には、その騒ぎは先ほどより近づいていた。

「まあ、なんでしょう」

 どんどん近くなる騒がしさに乳母は眉をひそめる。本を傍らに置くと、立ち上がる。

 その声が、父や母、兄……それと聞き覚えのある男の人の声だわと、と志摩はのんびりと思う。いったい何事なのかしらと、立ち上がる乳母を首を傾げ見送った。

 入り乱れる声、足音。

 襖を隔てた居室が騒がしくなる。

 あらあら、と思った時には乳母の悲鳴が聞こえ、志摩は思わず身体を起こす。

 と――――

 

   「志摩ちゃんっ!」

 

 ひくっ、と志摩は肩を竦ませた。掛け布の端を握りしめ胸許に引き寄せる。

 いつも綺麗に身なりを整えている『お兄さま』が、髪も服も乱し襖を開け放った。ぜいぜいと大きく肩を上下し取り乱している様が、志摩には現実のように感じられなかった。

 その『お兄さま』に引きずられるように、似たように乱れた姿の兄、父、母……そして起きあがった乳母と続く。

真仁(まさよし)、これ以上礼を欠く真似をするなっ」

 兄がこんなに大きな声を出すのも珍しいことだと、志摩はぼんやりと思う。あり得ないことの連続に、志摩にはまるで遠い出来事のようにしか認識できずにいた。

 君敦(きみあつ)の制止も無視し、真仁は呆然としている志摩の許へと歩み寄る。

 誰も真仁の行動を止めることもできず、息を詰め成り行きを見守る。

「まさよし……お兄さま……」

「志摩ちゃん、僕のことは嫌い?」

 戸惑う志摩だが、目の前の少年はにっこり微笑む。優しい顔、安心させられる穏やかな声はいつも通りの――自分のよく知る彼以外になく。強いて変わっている点といえば、いつも整えられている身なりが少々乱れていることぐらい。

 いつもと変わらないお兄さま……という思いが志摩を安心させた。

「変なお兄さま。お兄さまったら、そんなことをわざわざわたくしにおたずねになりたくて、いらせられたの?」

 瞠った瞳をあどけなく細め、

「好きですわ」

 愛らしく、僅かに恥じらいを滲ませ志摩は笑む。

 だが、突然そんなことを訊かれる理由が思い当たらずに、小首を傾げる。少年の眼差しの真摯さは、幼い少女には読み取れなかったのだ。

 一連の志摩の仕草を見守っていた真仁には、少女の自分に対する認識というものが、兄の君敦に寄せる親愛の情と大差ないということを感じ取っていた。それでも愛おしいと目をすがめ、志摩の細い肩を抱き寄せる。

「なら志摩ちゃん、僕のお嫁さんになってくれるね……結婚しよう」

 耳許で囁かれる、甘い言葉。

 けっこん……およめさん……?

 父や母、兄が口々に何かを発している。だが、志摩の頭の中にはその言葉だけが響き渡る。

 およめさん……けっこん……お兄さまの『およめさま』……

 晩生らしい志摩は、ぐるぐると回る言葉に意識も回り、ことりと真仁の腕の中で前後不覚となった。




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