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第 玖 話




 雨に濡れる芍薬を、縁に設えたソファーセットの、スプリングの効いたクッションに身を預け志摩は眺める。

「ほっ」

 と茶碗に息を吹きかけ、熱い緑茶を啜った。

「雅やかねぇ……」

 それは端から見れば、まこと見事な一幅の絵。

「志摩!」

 だがその空気は、君敦(きみあつ)の怒声によって砕かれる。

「あら、お兄さま」

 お帰りなさいませ、と淑やかに志摩は頭を下げる。が、いつまでも盲目的に妹を溺愛する兄ではなかった。

「いつまでここに居座るつもりだ!?」

「まぁ、お兄さま」

 さっ、と志摩は眉間をくもらせる。

「悲しいわ……。奥方さまをお迎えになってから、すっかりわたくしに冷たくなられて」

 袖口で目許を覆うと、椅子の肘当てに倒れ伏す。

 が、背けた肩口に注がれる怖い眼差しに諦めたように吐息を零し、面を上げる。

「いやですわ。あらあら、わたくし気づかなくてごめんなさい。お掛けになってくださいな」

 向かいの椅子を指し示す志摩の悪びれない様子に、君敦は肩で大きく息を吐くがその勧めに乗った。

 兄が腰を降ろすのを見届け、志摩は言葉を続けた。

「だって、あの家にはわたくしの居場所はないですもの」

 ちりん、と呼び鈴を志摩は鳴らす。

「あちらの家の方々は、皆、とても優しくしてくださいますのよ。本当、維新後成り上がり男爵家の娘が、公家華族の西九条家に嫁げるなんて……この上ない身の幸運だわ。でもねぇ」

 そう言葉を濁し、溜息をひとつ。

「嫁して三年以上も子に恵まれないとなると、聴こえない処で色々……あ、西九条家ではなくてよ。あちらは本当、人柄のよい方ばかり。後継ぎだって、姉君か弟君の子を養子にすればいいと仰有ってくださるの」

 志摩は笑った。淋しく頬を揺らす。その表情は苦く、自嘲の色が濃かった

「浮気のひとつでもしてくだされば、大手を振って離縁できますのに……」

「志摩!」

「失礼いたします」

 からりと、縁に続く居室の障子が開く。

「おばさまーっ」

 そして、愛らしい存在(もの)が飛びこんできた。少年は腕に抱えた篭を志摩に差し出し、にっこり微笑む。

「まぁ、それを叔母さまに?」

「気の早い葡萄ですわ」

 そう言い、慎ましやかな女性が君敦に茶托を勧める。

「まぁ、わたくし侍女を呼びましたのに」

 志摩のすまないという言葉に、君敦の妻・喜和(きわ)はふわりと笑む。

「旦那さまがこちらなのは、存じておりましたから……偶然ですのよ」

 と。その昔、『きよ』という名だった女性は微笑む。

「ちいひめは、大丈夫ですの?」

 ちいひめとは、今は君敦と喜和との間にこの春産まれた娘をいう。

「ええ、眠っておりますの。それに、乳母がいますもの」

 悪戯に笑うその笑顔が、可愛い人だった。

「こら、光流(みつる)。暴れるな」

「やっ! おばさまのおひざがいい」

 君敦の膝でむずがる光流を、おいで……と志摩は己が膝の上に抱きあげる。

「あら、また大きうなったのではなくて」

 ちょこんと膝におさまる少年に、志摩は笑いかける。

 そこには、幸せの絵姿があった。

 志摩たちの父が亡くなる少し前、君敦はきよを妻に迎えたいと父に許しを請うた。

 当然、反対にあう。だが、彼は強かであった。母の実家にきよの養子縁組を頼み、結納を早々に交わしてしまったのだ。そしてきよは喜和になった。

 病に倒れた気弱になってきた父に、もう反対することはできなかった。それは些か気の毒な風景であった。

 式も間近に控えた秋、父はなくなった。

 必然、式は喪が明けるまで延期となる。父の死は哀しかったが、きよとの誓いが反古になってしまうのではないかと志摩は気を揉んだ。周藤(すどう)家の追尾の手は間近に迫っていたのだ。

 が、君敦の行動は速かった。ふたりの間にはすでに子がいるからと、実質的にはもう妻であると公言し、母の実家に預けていた彼女を久遠寺家へ迎え入れてしまったのだ。

 ふたりの間の子とは、光流だ。光矢の忘れ形見である光流を、君敦は自分の子とし自分の後継者とすることを、庇護を求めた喜和と志摩に誓った。

 とはいえ、周藤家も中々手を引かなかった。その周藤家の使いに対して告げた君敦の言葉は、中々ふるっていた。

『確かに彼女は光矢とは乳兄妹のきよです。わたしは、彼から彼女を紹介され……身分違いと彼女が気にするので、今まで付き合いを公にしていませんでした。

 光流は、わたしと彼女――喜和との子です。ふたりの仲を取りもってくれた光矢の一字を貰っただけです。

 ……それともなんですか? 光矢は先輩に紹介した女性に横恋慕し、挙げ句に無体を強いたと仰有るので』

 と。

 客間に(しつら)えた秘密の小部屋で聞いていた蒼醒める喜和の横で、志摩は笑いを怺えるのに苦労していた。そして、喜和はそれを見て頬を膨らませ拗ねてみせる。だが、次に瞬間にはふたりこっそり笑う。

 正直、兄にここまでの実行力があるのかと志摩は舌を巻いた。

 迎えられた喜和は、夫が亡くなった心労で倒れた母の介護を、それは献身的に尽くしてくれた。初めは喜和を疎ましく思っていた母だが、その人柄に触れるうちに、心がほぐされたようだった。

 喜和はそういう、人を和ませることのできる雰囲気を持つ女性だった。

 だから、なるほどと志摩は頷ける。一時とはいえ、光矢が彼女を求めた理由が。思った瞬間、自分の浅ましさを恥じすぐその考えは捨てたが。

 最後には、母は喜和を君敦の妻と認めたようだ、その手を取り、

「本当に、ありがとう。君敦と……志摩のこと、頼みますね。誰に憚ることなく、あなたは立派な久遠寺家の嫁です。逝った主人には、私からきちんと告げますわ」

 と告げたそうだ。

 その母も、父の喪が明け、兄夫婦の式を正式に挙げるのを見届けると、秋も暮れ冬の足音が近づいてきた寒い日の朝、父の後を追うようにして亡くなった。

「父はきっと母のことをとても想っていたから、だからお一人では淋しかったのね」

 実の娘である志摩より嘆き悲しむ喜和の背を優しく撫で、そう囁く。

 喜和の母は、彼女が二歳の時に亡くなったという。はっきりとはわからないが、毒に中ったという噂を長じてからちらりと聞いたそうだ。

 そんな彼女にとって、久遠寺家の奥方は再び得られた母であったと。もっと孝養を尽くしたかったと、彼女は嗚咽の下で漏らしていた。

 優しいひと。親不孝の限りを尽くしてきた志摩とは大違いであった。

 すんなり久遠寺家に馴染んだように見えた喜和だったが、実はそうではなかったらしい。

 娘が産まれ、ようやく本当の意味で妻になれた気がする、と涙を流し志摩に告げたことがある。

 それは嬉し涙だった。涙を零しなら微笑むその顔は、清らかで綺麗だった。

 そうなのだろう。

 目の前で睦みあうふたりの間には、確かな絆がある。

(うらやましいこと……)

 母の葬儀が終えてもまだ小姑然として居座っている志摩は、誰にも気づかれないように溜息を零す。

 それでも、まだ真仁を受け入れる気持ちにも、西九条家に帰る気持ちにもなれなかった。

 変わらないものなんてない。それは目の前のふたりを見ていればよくわかる。

 だが、それでも変えられない想いもあるのだろう。

 

 

 

 

 

 篤い吐息を志摩は漏らす。

 ついにその時が来るのかと思う。そう思うと、数々の思い出が走馬灯のように志摩の脳裏を駆け抜ける。

「もう……充分、生きたわ」

 ぷっくりと盛りあがった雫が、目尻から伝い落ちる。

 それを優しく拭ってくれる指があった。

「そ……んな……」

 忘れたくても、忘れられない――今でも鮮明に記憶に残る白い指。

 大きく目を瞠った。

「迎えに来たよ」

 忘れるはずのない、声。

 もう聞き間違えはない。

「ええ……ええ。待っていました」

 両手で顔を覆い、少女のように志摩は泣きじゃくる。

「遅くなって、すまない」

 ふるふると、首を横に振った。譬えこれが夢でも、幻でもかまわない。

「わたくしを、攫っていってくださいませ」

 ずっと待ち侘びた、愛おしい人の首にしがみつく。

 

 

 

 


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