第 捌 話
年が明け、やっと梅の蕾がほころび始めた頃。
志摩の許に、ふたつの報せが届いた。
ひとつは、大陸へ渡ったという光矢の訃報。
もうひとつは、久遠寺家の父が倒れたという報せだった。
父が倒れたと聞き里帰りした志摩だが、できることは何もなかった。身体の弱い彼女が看病に就くというのは、父にむしろ心労を与え逆効果だと言われてしまった。
(そんな……。あの頃に比べればずいぶん丈夫になったのに……)
だが、実際目の前で父に気を遣われては、周りの言葉に従うしかない。
そうなると、できることは少なかった。日に何度か様子を伺いに部屋を尋ねること、母を励ますこと、その程度だ。
己れの役立たずぶりに、志摩は影ながらひっそり嘆息した。
やることもなく、その日も庭をそぞろ歩いていた。
今まで志摩の世話を甲斐甲斐しく見てくれていた乳母も、志摩が嫁ぐと同時に暇乞いをしてしまった。
藤棚の下に設えられた床机を見て、志摩は目を細めた。
感傷を払うと、志摩は再び歩を進める。と、なにやら喧騒が耳を打つ。男と女が言い争っているかのような様子である。
気づくと、内門近くまで来てしまっていたらしい。
その声に、ぴくっと志摩は耳をとめた。言い争う声の中に、自分の名を聴いた。
「何をそう言い争っているの?」
興味を怺えきれず、彼女は庭からそのまま姿を現わした。我ながら自分の大胆さに驚きながら。
と。
志摩とそう年の変わらない女が、彼女の前に走り出るとばっと額ずいた。
女を掴みあげようとする門衛を、志摩は手で制す。
「乱暴はしないで。あなた、面を上げて。顔が汚れてしまうわ。わたくしに用があるのね?」
問えば、こくりと地面に伏せたまま頷く。
「お立ちなさい。わたくしの部屋に行きましょう」
と、ぎゃーという泣き声が響き渡る。女は慌てて立ちあがると、転がる篭へと駆け寄る。その後を志摩もゆっくりと追った。
「あかちゃん?」
覗きこみ、志摩は問う。
「かわいいわ」と頬に触れると、ぴたっと赤ん坊は泣きやんだ。
不思議なこともあるものだと思いつつ、志摩はそのまま庭から女を招いて部屋へと戻った。
◇◆◇◆◇◆
女は、『きよ』と名乗った。
光矢の乳母の娘だという。
赤ん坊の名前は、『みつる』……『光流』という、と。
「あの方の……御子?」
「はい……光矢さまの和子です」
「そして、あなたの子でもあるのね」
静かに問う志摩の言葉に、きよはただ首を縦に振る。
「そう……」
溜息と共に志摩は吐きだす。
もっと心が荒れ狂うかと思ったが、意外と凪いでいた。
「それで?」
用件はなんなの、と。ただこの子を見せに来ただけなの、といくぶん険を孕んだ眼差しで彼女を促す。
着物の合わせから、きよは封書を取り出した。そしてそれを押し戴き、志摩に差しだす。
「あの方からのお預かりものです。いつか、あなた様にお渡しするように……と」
志摩は受け取ると、恐る恐る封書を解いた。
今さらながら、心が騒いだ。訃報を耳にしたときも、こんなにも心は揺れなかった。だが今は、こんなにも指が震え、封を解くのも覚束ない。
「これ……は」
鳶色の瞳を志摩は瞠る。その大きく瞠った瞳から涙がひと雫、伝う。
「これを、わたくしに……?」
「はい」
きよが頷く。
油紙に厳重に包まれていた手紙には、こう書かれていた。
『いつか必ず迎えに行く』
感動に、志摩は涙を零す。静かに静かに、涙を零す。
届け物以外に、きよには志摩にお願いがあるらしい。
きよの身の保護と、光流の身の保護だった。
光矢の忘れ形見の光流には、当然だが再三周藤家からの迎えが来ているという。その度にきよはなんとかくぐり抜け、現在に至るのだがもうそれも限界が近づいている。が、我が子を手放したくない彼女は志摩を頼ってきたという。
「お金には、不自由はしていないんです。でも、このままでは和子が取りあげられてしまう」
身ひとつで華族の屋敷に乗りこんできた気丈な女性だと思っていた。だが、それは母としての強さだったのだ。
「何かあったら、久遠寺家の若当主か、志摩さまを頼るようにと仰せつかりました」
「あの方が、わたくしを頼れと?」
なんだか複雑な気分だ。だからといって、この親子を放りだす気にもなれなかった。
「そうね。わたくしにはそんなに権力はないのよ。でもそうね、お兄さまなら。大丈夫……悪いようにはしないと誓うわ」
眠る赤子の頬を指でつつき愛おしそうに眺め、志摩はきよにそう告げた。