「咲き誇れ」
「ありがとう。パパ」
その一言が、パトリックの頭に響く。
ミュウの腕の中で、深く暗い水底に沈んでいた在りし日の記憶が、直に消えゆく遥か昔の古き記憶が浮かび上がった。
「いる。いっしょに」
ミュウが穏やかな表情でそうつぶやいたとき、現実を飲み込む轟音。研究室の扉は水圧によって破壊され、水が流れこんできた。
パトリックは、くっくと笑う。
「大きくなった娘と再会し……子孫と遊び……末代まで消えぬ妻の怒りをこの身で知れた。奇跡はもう起きた。それでも未だに……この研究意欲は、尽きぬ」
その頭部は、既に半分ほどが魔力の粒子となって崩壊している。次第に声も上手く発声出来なくなってきていた。
パトリックは再びおかしそうに笑い、そして、
「──ふざけるな」
怒気を孕んだ静かな声を上げ、ミュウを睨めつけた。
「解っている。やはり適応などしなかったのだ。その魂は──ミュウの魂は、とうに崩壊して消えたのだろう?」
「…………」
「吸収した魂に残された記憶の断片を繋ぎ、器が道化を演じているに過ぎない。最期まで貴様のくだらぬ芝居に付き合うつもりはない」
「…………」
「貴様は──娘ではない。我が娘は、もうどこにもいない……」
「…………」
ミュウは。
「…………ごめんなさい……」
ただ謝罪の言葉を口にして、俯いたその瞳から涙をこぼした。
水かさが増していく。
ポッド前に供えられた枯れない花々がぷかぷかと水に浮かんだ。
いずれすべては沈んでいく──。
そのとき。
ミュウが持っていた一輪の花が──パァッと輝きだした。
「……え?」
呆然とつぶやくミュウ。
水に浮かんでいた花々まで、かつてミュウが生けたすべての花たちが色とりどりの光を放った。
それらはすべて潤沢な魔力となり、ミュウの身体に取り込まれていく。
「……? ……っ?」
戸惑うミュウの背後から、花開く美しい植物たちがその姿を現した。まるで花々で作られた翼のように。
それを見てパトリックは小さく笑い、
「……があっ、あ、あ、ああああああああっ!!」
最期の魔力を振り絞り、《竜焔気》の頭部のみを出現させる。
口を開けた竜は、研究室の天井へ向けてその口腔に闇色の光を溜め、放つ。
「──っ!?」
驚愕するミュウの目の前で研究室の天井は融解し、さらにその上階を、地面をえぐり取り、人一人が通れるほどの“道”を穿つ。そこから夕闇色のリィンベルの光が見えた。
「い──」
擦れたパトリックの言葉に、ミュウはそちらを向く。
「最期に貴さ──よう──人ぎょ──顔────るなど我慢──い」
もはやその声は、ハッキリと聞き取ることは出来なかった。
それでも、ミュウにはすべてが理解できた。
だからミュウはふるふると首を横に振った。
パトリックはその片目でミュウを見据える。
「──て責──たせ」
ミュウはハッと目を見開く。
「娘──魂を喰ら──なが──贖罪と──消えよ──ど腹立たし────どがあ──」
ミュウの身体がふわりと浮き上がる。もはや重量のないパトリックの頭部はミュウの手から落下した。
ミュウは必死に手を伸ばす。
水に落ちたパトリックの頭部は、既に片目部分だけが残っている状況だった。
「────」
その瞳は、パトリックの遺志だった。
「…………!」
ミュウは、止まらない涙の理由を魂で理解した。
そして、自分が果たすべき本当の責を理解した。
ミュウは上を向く。
羽ばたく花の翼が、ミュウを自由にする。
ミュウは、その翼で研究室を脱出した。
羽ばたくミュウの姿と散りゆく花びらの美しさを見届けたパトリックは、娘と共に、色とりどりの花たちと共に、水に呑み込まれていった──。
◇◆◇◆◇◆◇
──古き地のリィンベルパレス。そこにはもう不死者の姿はない。
レナ、クロエ、ベアトリスの三人が、眠ったままのレベッカを抱えて魔道具『星天鏡』の前に立つ。
鏡の放つその光は、“道”の証。
「クロエさん!」
ベアトリスが呼ぶ。クロエはすぐに答えた。
「あと十秒です!」
タイムリミット。
光が消えるまでの時間。希望が潰えるまでの時間。クロエだけが認識出来る正確な時。
「レナさん! ここまでです!」
ベアトリスが叫ぶ。
レナは、レナたちは待っていた。
最後の最後まで諦めたくなかった。
「……ミュウ……!」
レナは、ギュッと拳を握り締めて塔の入り口を見つめる。
そして、とうとう鏡の方を振り向こうとしたそのとき。
リィンベルパレスの入り口から──花の翼で飛行するミュウが姿を現した。
「っ! ミュウ!!」「ミュウさんっ!!」「ミュウさん!!」
三人がそれぞれに手を伸ばす。
ミュウは三人の元へと手を伸ばす。
全員の手が繋がり──そして皆はそのまま光の中へと飛び込んだ。




