もう頑張らなくていいんですよ
クレスにはわかっていた。
これから自分が何を言おうとしているかわかっていても、それでも彼女は笑うのだと。
その手を震わせて。
涙のあとを隠したまま。
どんな思いも尊重し、受け入れてくれるだろう。
俺のために。
「…………俺は、俺はっ…………!」
胸の奥が熱くなる。
言わなくてはならない。
決めていたことなのだから。
彼女をこれ以上苦しめてはいけない。
彼女の幸せを願うのならば、自分は離れるべきなのだ。
だから。
だから、クレスは。
不抜けた自分をもう一度殴りつけるかのように叫んだ。
「――ふざけろぉッ!!!!」
その怒声に、フィオナがハッと目を見張る。
「嫌だ! 俺は君と離れたくない!!」
ハッキリとそう告げたクレスは、その瞳から涙を流していた。
「君との思い出を、今でも何も、思い出せない。俺はもう君の知っている“俺”ではないかもしれない。それでも俺は、君のそばにいたい。たとえ俺のせいで君が傷つくことになっても、俺のせいで君に悲しい思いをさせてしまっても、それでも俺は、君のそばにいたい!」
溢れる涙をこらえることもなく、クレスは真っ正面から想いをぶつけた。
自らの左胸に手を押し当て、叫ぶ。
「記憶が消えても、繋がりが途絶えても、俺の魂が覚えている。君を想う気持ちが、ずっとここで燃え続けている。叫んでいるんだ」
フィオナもまた、両の瞳から涙をこぼしていた。
「フィオナが好きだ!」
その告白と共に、空は晴れる。月と星々の輝きが地上を照らす。
雪は止み、白き世界に二人だけが立つ。
ぽろぽろと、フィオナは嗚咽を漏らして泣いた。
「いつだって叫んでいた。それを俺は、自分の気持ちだと気付けなかった。他のことばかりに気を取られて、最も大切なことから目を背けてしまっていた。今なら言える。これが、俺の本当の気持ちだから」
溢れ出した想いと涙が、二人をまた近づける。
クレスは一歩を踏み出して言う。
「でも俺は、何も覚えていない。だから、もう一度君を好きになる。そして、“俺”よりも君を愛すると誓う。君の笑顔を守るために、フィオナを幸せにするために生きると誓う。だから……だからもう一度、俺と一緒に歩んでほしいんだ」
クレスは懐から小箱を取り出し、それをフィオナの前に差し出す。
「笑ってくれ、フィオナ。そして、君を守る俺のことを守ってくれ。何も知らない俺を叱り、甘やかしてくれ。俺には君が必要なんだ。君がいてくれれば、他に、何も要らない」
クレスが箱を開く。
フィオナは――言葉にもならず、ただ泣き続けた。
中に収まっていたのは、月をデザインした指輪。
『ブライト・ムーンストーン』。
誓いの月。
「フィオナ。俺と、結婚してほしい」
クレスは、泣きながら笑った。
「俺は、君を愛している。だからフィオナ、俺と結婚してほしい」
フィオナは、しばらく返事が出来なかった。
どうしても涙が止まらなかったから。
夢でも幻でもない。
時間は巻き戻らない。
奇跡など起こったりはしない。
それでもクレスは、あの日と同じ指輪を手に、あの日と同じ想いを贈った。
フィオナは、今すぐに伝えたかった。
この胸の想いを伝えたかった。
なのに、涙が止められない。
声も出せない。
嗚咽と共に大粒の涙がこぼれ続ける。
クレスはフィオナの手を優しく握ったまま、返事を待ってくれていた。
澄み切った夜空で、《レアリア》の月と《ユクトリシャ》の星々が世界を、二人を優しく照らす。
必死に涙を拭って、呼吸を整えて。
フィオナも、あの日と同じ言葉を返した。
「……はい! わたしも、あなたを愛しています。結婚してください!」
笑顔で伝える。
大好きな人へ。
とびきりの愛を。
あの頃よりもずっと大きくなった気持ちを。
「わたしを、あなたのお嫁さんにしてください――!」
クレスはうなずき、フィオナの左薬指にその指輪をはめる。
二人は抱き合い、笑い合った。
涙を流しながら、キスをした。
これまでも、これからも。
想いは途切れない。
愛は消えない。
誓いの石が輝く。
やがて、二人がそっと身を離したとき、聖都の夜空にとびきり大きな光の花火が上がった。
驚く二人がそちらを見上げていると、城の方からイベント用の法衣を纏ったソフィアが走ってくる。
同時に、どこからか飛び出してきたレナが反対側から走ってくる。
ソフィアとレナは、二人に抱きついてわんわん泣いた。
呆然とするクレスとフィオナ。
それを機として、次々に皆が姿を見せる。
ヴァーンは子供のような笑顔でクレスにじゃれつき、エステルはそばで静かに微笑む。
セリーヌは呆れたような顔で目元を拭って笑い、リズリットは大号泣してフィオナの手を掴む。
涙を浮かべながら拍手をするルルロッテに、執事がハンカチを差し出す。
ソフィアのメイドや、大司教レミウスはいつも通りの顔で。
ドロシーとアイネとペールとクラリスもそれぞれに泣き出し、それよりも激しく泣く講師のモニカをドロシーたちが心配する。
森を離れてまでやってきていたセシリアが、人間モードで尻尾を振るショコラと共に優しい笑みで見守る。
さらには遠国のシノまでもが、和装姿で手を叩いてくれていた。
二人は知る。
皆が、今日この日までも、ずっと二人のことを見守っていてくれたのだと。ひょっとしたら、女神シャーレや歴代の聖女たち、クレスとフィオナの母も見ているのかもしれない。
たとえ元には戻らなくても。
たとえ奇跡が起こらなくても。
二人が前に進み続けられるように。
その想いを受け取って、クレスもフィオナも誓いを新たにした。
クレスは言う。
「フィオナ。俺は、必ず君を幸せにする。今よりももっと、ずっと。そのために、今まで以上に頑張ろうと思う。だからこれから――」
そう言うクレスの口を、フィオナがそっと人差し指で塞いだ。そのまま、目をパチパチさせるクレスの耳元に両手を伸ばす。
かつて彼に贈ったその耳飾りが、再びクレスの耳元で光を宿した。
そっと耳飾りに触れたクレスは、安堵したような顔で笑う。
フィオナはそっとささやく。
「頑張るあなたが、わたしは好きです。でも、もう頑張らなくていいんですよ」
月よりも、星々よりも眩しく微笑む。
「だって――わたしがあなたを幸せにしたいから!」
手と手を取り合い、二人の魂は繋がる。
祝福の夜に、純粋な想いは輝く。
美しい世界の中心で、二人はいつまでも笑い合っていた――。




