奇跡
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街の明るさから逃げるように走り続け、大通りを抜けたところでようやく誰もいなくなり、クレスは足を止めた。ぼんやりと光る魔術灯が、じわじわと地面を照らす。
路地裏に入り込んだクレスは、そこで壁にもたれかかるように座り込んだ。上がっていた呼吸を整えようとするが、胸の熱は収まらない。
「ハァ、ハァ…………俺、は……!」
胸元をぐっと押さえつける。強い衝動が内からクレスを叩き続けていた。少しでも気を抜くと怒りで我を忘れそうになる。
「――よぉ。んーなとこでなにしてんだオメーは」
バッと顔を上げるクレス。
路地裏の闇から、ゆっくりと彼が姿を見せた。
「…………ヴァーン……ッ……?」
さすがに今日ばかりは見慣れた槍は持っておらず、代わりにその手に収まるのは酒。既に結構な量を飲んでいるのだろう。酒に強い彼でもほんのり顔が赤らんでいる。
だが、顔が赤いのは他にも理由がありそうだった。
「ん? あーこれか? いやな、歌姫さんが無事イベント成功させて喜びのあまり抱きついてくるもんだからよぉ。その場でついがっつりケツ揉んじまったんだわ。したらこれよ。やっぱなかなかイイ性格してるぜ姫さんは。もうちっとあちこちデカくなって揉みごたえ出りゃいいわな! ガッハッハッハ!」
左頬にわかりやすい張り手の後をつけたまま、豪快に笑い上げるヴァーン。
それから彼は確かな足取りでクレスの元まで近寄ってくると、「ん?」と目を細めてさらに顔を近づけてくる。それから隣にしゃがみ込み、「ぶふぉっ」と吹き出した。
そしてクレスの顔を指さす。
「オイオイどーしたどーした! お前もずいぶん派手にやられてんじゃんか! 誰にやられた? まさかフィオナちゃん――なわけねぇわな。お前ほどのヤツをここまでボコせるのはこの街にゃそういねぇだろ」
そんなヴァーンの言葉に、クレスは目をそらして何も答えない。
「無視かよコラ。んで、なんでこんなとこにいんだってーの。フィオナちゃんはどうした? まさかお前、このめでてぇ日にあの子置いてデートすっぽかしてきたわけじゃねぇだろな」
「……そのまさかだ」
「ハァァン? んじゃそれ、やっぱフィオナちゃんにやられたか? 女は怒らせるとこえぇからなァ! つっても、お前らがゴリゴリにやりあうケンカなんて想像できねぇけどな」
「……自分でやった」
「あ?」
「自分でやったんだ」
壁の方を見つめるクレスの視線は、今にも爆発しそうな激しい怒気を含んでいる。
その目を見て、ヴァーンは腹を抱えた。
「……ハッハッハッハ!! なるほどなるほど! そういうことかよっ! ハハハハ! そうだよなァよくわかるぜクレス! ブワッハッハッハッハッハ!!」
思う存分に笑ってからうつむき、「うひー」と苦しげに呼吸を整えた後、ヴァーンはゆっくりと顔を上げてクレスを見た。
「――テメェでテメェが許せねぇんだろ?」
低いその声に、クレスがハッと息を呑む。
「そういう顔してんだよオメーは。テメェの女を泣かせたクソ野郎をぶん殴りたくて仕方ねぇってツラだぜそいつはよ」
「……!? っ! ……!!」
怒りと、戸惑いと、焦燥。
クレスは自らの感情を制御することが出来ず、ヴァーンの言葉も理解しきれなかった。
「ま、頭冷やすには他人からの一発も必要かもな。オイクソ野郎。歯ぁ食いしばっとけ」
「なっ――」
直後、ヴァーンは容赦なくクレスの顔面を蹴り飛ばした。
その衝撃で路地裏から大通りまで転がったクレスは、震えながら地面に手をつく。
ヴァーンはのっしのっしと大股に歩み出てきて、耳の穴をかっぽじりながら話す。
「ちったぁ落ち着いたか? 別に痛くもかゆくもねぇだろ。テメェからの一撃の方がよっぽど堪えるもんだからな」
起き上がろうとするが、手から力が抜けて倒れ伏すクレス。
城の方から、パン――パパパン――と花火の音が聞こえてきていたが、ここからではその光を見ることは出来ない。
ヴァーンはそちらの方角を見上げながら話した。
「なぁクレスさんよぉ。お前にとって、フィオナちゃんとの記憶はそんなに大切か」
「……ッ!」
震える手を、ぎゅっと握りしめるクレス。
そして、額を強く地面へと叩きつけた。
「俺はッ!!」
叫ぶ。花火の音を掻き消すように。
「……俺は! 結局、なにも思い出せなかった…………彼女と一緒にいた“俺”に、戻ることは出来なかった…………俺には、彼女と一緒にいることは、もう……!」
「大バカ野郎かオメーは」
「ッ!」
伏した顔を上げるクレス。その額から血がにじみ出ていた。
「そりゃ思い出すに越したことはねぇけどよ。思い出せねぇからあの子と離れんのか。お前はフィオナちゃんよりもフィオナちゃんとの記憶の方が大事なのか」
「……!!」
「オレの知ってる限り、お前は記憶力が良いヤツだったぜ。ちゃぁんとオレ様のアドバイスを守ってよ。クソウゼェのろけ話何度聞かされたか。フィオナちゃんとのことは覚えてねぇかもしれねぇが、旅の途中に教えてやったことは覚えてんだろ?」
ヴァーンはクレスを見下ろし、それからそばにしゃがみ込んだ。
「『お前みたいな不器用なヤツに出来るのは一つだけだ』」
その言葉に、クレスの震えがぴたりと止まった。
ヴァーンを見る。
彼は、クレスの言葉を待っていた。
クレスは、地面に手をついて身を起こす。歯を食いしばって、足をつく。
「オレの知ってるクレス・アディエルってバカ野郎はな、一度抱いた女を手放すようなヤツじゃねぇんだわ。たった一人の女しか愛せねぇクソ不器用でつまらねぇ男だぜ」
必死に、クレスは立ち上がる。
「テメェはテメェに誓ってんだ。フィオナちゃんを一生守るってな。お前はあの子からも、そして自分自身からも逃げ出したテメェが許せねぇんだよ」
ふらつく脚を押さえ、身体を起こす。
「オイ、クレス。お前はフィオナちゃんを愛してねぇのか。お前の誓いは記憶喪失程度で消えちまうようなもんか。過去のテメェなんざどうでもいいんだよ。オレはお前に訊いてんだ。お前が決めろ。お前はどうしたい」
ヴァーンの言葉を聞くたび、胸の内側がさらに強くクレスを叩いた。
呼吸を整え、顔を上げる。前を向く。
クレスは、しっかりとした声で叫んだ。
「『いつか好きな女が出来たら、死ぬまで愛し抜け』ッ!」
その大声に、ヴァーンがニッと笑う。
「もう一つ教えておいてやる。いいかクレス。デートをすっぽかしていいのは女だけだぜ」
「ヴァーン……感謝する!」
「いらねぇんだよ。行けオラ」
クレスは駆け出した。
怒りや痛みや涙をすべて放り捨てて走る。
その背中を見送ったヴァーンは、首をゴキゴキならしながらと立ち上がる。
「やーれやれ。ホントに世話がやけんなあのバカップルは。――んで、あっちはどうよ?」
その投げかけに、先ほど二人が出てきた路地裏から一人の小柄な女性が姿を現した。
「フィオナちゃんなら、ずっとシャーレの丘にいるようね。今はセリーヌさんやリズリットちゃんが見守ってくれているようだけれど……もう、花火や演舞は終わってしまったわね。でも、二人には些細なことかしら」
腕を組みながら、少々アンニュイな表情で息をつくエステル。
「どうやら貴方も、ちゃんとクーちゃんにフィオナちゃんの居場所を伝えられたようだし、あとは二人次第ね。むちゃくちゃな焚きつけ方をするとは思ったけれど、貴方もたまには役に――」
「あ、ヤベ」
「え?」
「クレスにフィオナちゃんの居場所教えんの忘れてたわ。ま、愛の力でどうにでもなるし問題ねぇわな? 愛する二人に障害はつきものだしよ! ガッハッハッハンゲェッ!?」
ズカズカと近づいてきたエステルに氷の鉄拳で思いきり殴られ、頭を抱えてへたり込むヴァーン。
「痛ぇなレジェンドちっぱい女アアアァァァ! 今夜は奇跡の夜だぞコラ! 聖女サマみたいに慈しみの心を持てや!! 乳とケツダブルで揉みしだくぞ!!」
「はぁ……この祝日に脳みそ筋肉性欲魔人と過ごさなくてはいけないなんて、慈しみの化身とさえ称えられる私があまりにも可哀想だわ……。それよりも、伝えていないのならクーちゃんは一体どこに走って……」
「アァン? だから“愛”だろ?」
クレスは、迷いなくあの丘へと向かっていく。エステルは少し驚いたように目をぱちくりとさせ、それから微笑した。
ヴァーンは走る戦友の背中を見送ってつぶやく。
「なぁエステルちゃんよ。ここで都合良く“奇跡”なんてもんが起こると思うか?」
「そんなもの、必要ないでしょう」
「あ?」
「二人が出逢えたこと。それが奇跡なのだから」
さらっと言ってのけたエステルに、立ち上がったヴァーンが愉快に笑い出す。そしてひとしきり笑ってからエステルの背中を叩いた。
「なぁオイ! ちょっと覗きに行くか!」
「貴方という男は……」
エステルはジト目を向けてドン引きし、それからため息をついて言う。
「……けれど、そうね。それもいいかしら」
予想外の返答にヴァーンは一瞬だけ驚愕の顔を見せ、それからまた大笑いした。




