灰になってもあなたと
しばらくして業火の灼熱が収まったとき。
自分を抱きしめていた人の手から力が抜け、ずるりとこちらにもたれかかってくる。
ようやく開けたフィオナの視界。おそるおそる視線を下に向けると、クレスが、全身に大火傷を負った状態で自分に倒れかかっていた。
「――クレスさんっ!!」
フィオナはすぐにクレスを仰向けにして膝の上に寝かせる。
怪我の状態がひどい。右耳のイヤリングは吹き飛び、聖剣を落としたその右腕は、もう、二度と動くことはないだろうとフィオナにもすぐにわかった。
「クレスさん……クレスさん…………!」
震える声で呼びかけるフィオナに、クレスは弱々しくまぶたを開いて尋ねた。
『……怪我はない、かな』
「クレス、さんっ……どうして……っ」
『……妻を守るのは、夫の、役目だろう』
そう言って、クレスはいつものように爽やかに微笑んだ。
「クレスさん……わたしの、こと……」
『……愛する人を……間違えるはずが、ないよ……』
フィオナの瞳から流れた涙が、クレスの顔に落ちる。
クレスは左手を伸ばしてフィオナの頬に触れると、優しく涙を拭ってくれた。けれども涙が止められないフィオナは、そんな彼の手を両手で包み込んで嗚咽をこらえる。二人の左手で重なる結婚指輪が呼応するように光った。
「……あっ」
短い声を上げるフィオナ。
握っていた彼の手の感触が消えた。そのままクレスの腕、肩までもがキラキラと光る砂のように粒子となって溶け始める。
「ク、クレスさん……手がっ!」
『……愛する人を守れた』
クレスは満足げに笑う。
『フィオナ。自分で……自分を、否定することは、ない……。どのフィオナも……本当の、君だ。だから、もう、自分と戦う必要なんて……ない……』
「クレス、さん……」
『きっと……“俺”は、このために、生まれてきたんだろう。だから、何も心配は要らないよ……フィオナ。また、すぐに会える……』
「……はい。はい……!」
何度もうなずいて答えるフィオナ。
彼は間違いなく本物のクレスだ。
しかし本物ではない。セルフィと同じ、彼の魂の反映。
『……君だけを、ずっと、愛している』
フィオナは胸の奥で理解した。
繋がりあった魂が教えてくれる。
クレスが、時空の、次元の壁さえ越えて、“自分”を守りにきてくれたこと。そして今もなお、自分を安心させようとしてくれていること。愛を示してくれたこと。
「わたしも……クレスさんのことを、ずっと、ずっと、愛しています」
だから、フィオナも涙をこらえて笑った。
そんな二人を見つめるフィオナ・セルフィの瞳から、光が消えていた。
『………………愛……』
セルフィの瞳から、一筋の涙が流れる。
その声は震えていた。
『……クレスさんにとって、本当のわたしは……愛する、ひとは…………。なら、わたしは、フィオナじゃない……? じゃあ、わたしは、なんなんですか……?』
『……違う』
即座に答えたクレスは、動かない右腕だけで身体を起こそうとし、フィオナがそれを支えた。
なんとか立ち上がったクレスは、足を引きずるように前へ進む。
『違うんだ、フィオナ……君も、フィオナなんだ……』
フィオナ・セルフィは、逆に後ずさった。
そして頭を抱えながら青白い顔で叫ぶ。
『違う……? そうです、違うんです……。だってわたしは、わたしは、クレスさんを、大好きな人をそんな姿にしてしまった!』
『フィオナ……』
『わたしがクレスさんを傷つけた! 悲しませた! 一番しちゃいけないことをしたんです! そんなこと、おかしいよ……。本当のわたしは、そんなこと絶対にしない! わたしは本当のわたしじゃないっ!』
『待ってくれ、フィオナ……』
『わたしはフィオナなのに、フィオナになれなかった……。わたしじゃクレスさんを幸せに出来なかった……。そんなわたしは、存在する価値がないんです。だから、だからもう終わりなんですっ!』
フィオナとクレスは驚愕に目を見開いた。
セルフィの全身から溢れ出た異常な量の魔力が青白く燃えさかり、ドレスも何も纏わない、彼女自身を燃やし始めた。本来は自分を守ってくれる魂の魔力が命を侵蝕し、己の存在を否定する。
「ダメです! 命の灯火をそんなことに――っ!」
『フィオナッ!』
セルフィがしようとしていることを察して止めようと叫ぶ二人。それでもセルフィはさらに熱量を上げて拒絶する。
『やめるんだ……フィオナ……っ!』
『いやっ! 来ないでください!』
『待ってくれ……すぐに、行く……!』
『ダメなんです! 来ちゃ、いけないんですっ!』
頭を降って拒絶するセルフィに、しかしクレスはゆっくりと歩を進めた。粒子となって消えていく身体を引きずって、それでも着実に進む。
彼は最後に一度だけ振り返り、フィオナに、優しく微笑みかけた。
『フィオナ……今行く……』
『来ないで!』
『そうはいかない』
『わたしはもういいんです! わたしじゃクレスさんを守れなかったから!』
『そんなことはない』
『お願い……来ないで…………来ないでくださいクレスさんっ!』
『君を…………独りに、出来るはずがないだろうッ!』
クレスは叫び、最後の力を振り絞って走る。
その足が、下半身が崩壊する寸前に、燃えさかるセルフィの身体へと飛び込んだ。
「――クレスさんっ!」
フィオナが呼ぶ。
青い炎はさらに轟々と強くなり、フィオナもその場所から一歩も近づけないような熱量になる。
もう一人のクレスを、もう一人のフィオナがその手で抱き留める。
しかし身体を支えきれずにセルフィは膝をつき、クレスはそんな彼女に上半身のみでもたれかかっていた。
『……ごめん、フィオナ。最期に、君を、抱きしめることも、出来ない……』
『どうして……どうして…………なんで……』
『君も、本当のフィオナだ。俺の愛する、たった一人の、女性なんだ……。神様にも、誓ったね。俺は、君のために、生きると……』
『クレス、さん……だって、わたしは……ほんとうの……』
『……笑ってくれ、フィオナ』
クレスが顔を上げた。
『俺はずっと、そばにいる。いつまでも、一緒にいるよ。君を、魂から、愛している――』
目を閉じたクレスは、もう、何も言葉を発しなかった。
セルフィは炎の中でボロボロと泣き崩れ、強く、クレスを抱きしめた。
ボボウ、と青い炎が大きな火柱を上げて教会の天井を突き抜ける。
燃える二人の身体は魔力の粒子に還り、煌びやかに魂の輝きを放つ。
すべてを見ているしかなかったフィオナに、セルフィが最後に視線を送った。
自分が、笑っていた。
『――どうか、わたしは、クレスさんを、幸せに…………――』
それだけを口にして、セルフィは、もう意識のないクレスへとキスをする。
その瞬間に青い炎は弾け――二人は、完全なる粒子となってこの世界に溶けた。
最後に残ったのは、燃え尽きた二つの木偶の灰だけだった――。




