勇者から人間へ
だから、クレスは聖剣から手を放す。
そして言った。
「……頼みがある」
魔王がわずかに表情を変えた。
「フィオナには……フィオナたちにだけは、手を出さないでくれ」
クレスは風景と化したフィオナの前に立ったまま、強気な視線を崩さずに言う。
「俺は、一人で魔王の城へ乗り込んだ。戦ったのは俺だけだ。なぜお前がここにいるのかはわからないが、もし俺を追いかけてきたのだとしたら、お前が恨んでいるのは俺だけのはずだろう。フィオナたちには何の関係もない。だから、頼む。フィオナたちには、手を出さないでくれ」
「……」
「それだけを約束してくれるなら、俺は、自分の命を差し出してもいい」
そう言い切ったクレスに対して。
魔王の少女は――掴んだままの聖剣から手を放し、自らの腹に手を当てた。
そして。
「…………くっく。あははははははははははっ!」
腹を抱えて笑い出す。
その笑い方は外見通りの幼い少女のものであり、クレスは少し驚いてしまった。
魔王はひとしきり笑いきったあと、ちょちょぎれる涙を拭いながら言う。
「分をわきまえているのだな。よいぞ。貴様のそういうところは嫌いではないな」
気分良さそうに告げる魔王に、クレスはぐっと拳を握りしめて言う。
「……再会した瞬間から、わかっていた。今の俺では、お前には勝てない。戦うことすら成立しないだろう。だから、こうすることしか出来なかった」
「それほどまでにその女が大切か」
「ああ」
「命を捨てられるほどか」
「それでフィオナが助かるのなら」
迷わずに答えたクレスの瞳を見て、魔王は大きく目を開く。
そんなときだった。
フィオナが、クレスの“前に”立っていた。
「「!?」」
クレスと魔王の二人が同時に仰天する。
強力な魔力によって空間ごとを歪められ、今はクレスと魔王だけが存在出来るはずの世界で、フィオナが再び命を取り戻して動いていた。
魔王が眉をひそめてつぶやく。
「小娘……貴様、妾の術を中和したな」
対するフィオナは、星の杖を両手で握りしめながら答える。
「あなたが、本当に『魔王』なのかどうかわたしにはわかりません。そんなことはどうだっていいんです。けれど、もしもあなたがクレスさんに敵対するというのなら……わたしの取るべき行動は決まっています」
フィオナの頭部にクインフォ族の耳が出現し、その瞳が、強い魔力を帯びた。
「クレスさんは――わたしが守ります!」
星の杖が強力な魔力を内包し、フィオナと共に力を高め合う。爆発的に高まった魔力の胎動が、魔王の空間にさえ作用していた。
それは、魔王に対してすら怯むことのない気高い魔力。フィオナの瞳に輝く“星々”の光と魔力に、魔王は魅入られている。
「貴様……よもや……」
それから魔王は、クレスとフィオナの左手に光るものを見てさらに目を見張った。
そして、すべて理解したかのように笑う。
「……くくく! アルトメリアに“聖母の片割れ”、これは愉快なことだな。勇者が生きていることさえ妙なものだと思ったが、それよりもいっそう可笑しなヤツがいおったわ。あはははははは!」
言葉通り可笑しそうに笑う魔王を無視して、クレスは後ろからフィオナの肩を強く掴んだ。
「フィオナっ! ダメだ、下がっていてくれ!」
「いいえ、下がりません」
「お願いだ! 頼む! いくら君でも、魔王が相手ではどうしようもない!」
「それはクレスさんも同じはずです」
「なっ……」
「それでもクレスさんは、わたしを守ろうとしてくれました。勝てるかどうかは関係がありません。わたしだって、同じです」
フィオナがクレスの方へ振り返る。
「愛する人を守るためなら、どんな相手だって怖くはありませんから」
「……フィオナ」
微笑むフィオナの表情には、恐怖の色が滲んでいない。本当に怖がっていないようだった。
クレスにはよくわかった。
フィオナはいつも、こうしてきたから。
常に自分の前に立ち、引っ張ってくれた。守り続けてきてくれた。それこそが彼女の持つ強さ。守るべきもののための強さ。成長し続ける強さ。
だから彼女は引かない。
クレスを守るためなら、フィオナはどんな敵とも戦う。
それが、クレスの愛する人の姿だった。
「……わかった。ありがとうフィオナ。なら、俺を守ってくれる君を、俺にも守らせてくれ」
「はい!」
手を繋ぐ二人。
そんな二人を見て、魔王が鼻で笑いながらつぶやいた。
「――ふん。ようやく勇者から人間になったか」
クレスは訝しげに返す。
「……どういう意味だ?」
魔王の言葉の意味がわからない。
すると、フィオナの方が杖をそっと下ろした。
「? フィオナっ?」
「大丈夫です、クレスさん。やっぱり、この人に戦う意志はありません」
「え?」
「だから怖くはなかったんです。対峙して、それがよくわかりました」
「小娘ごときが。妾を試したか」
忌々しそうにフィオナを見やる魔王。クレスは何が起きているのよくわからず、フィオナと魔王とで視線を行き来させていた。
フィオナが一歩踏み出して口を開く。
「フィオナと言います。あの、あなたは本当に、魔王……なんですか?」
「三度目だぞ。魔王などもうこの世のどこにもいない。妾は妾でしかない。これ以上鬱陶しい問答を続けるようなら殺す」
「わかりました。戦う必要がないのなら、それでいいんです」
「……ずいぶんと肝の据わった娘を娶ったな。気分が悪い」
魔王相手に落ち着いた様子のフィオナ。クレスはもう驚いていることしか出来なかった。
「フィオナと言ったな。貴様がいれば面倒は少なそうだ。後のことは貴様がやれ。これ以上妾たちに構うな。それなら手を引いてやる」
「え? あっ、わ、わかりました」
フィオナが答える寸前に、魔王は既に指を鳴らしていた。
――次の瞬間には夜空の星が輝き、波の音がささやいて、木々も揺らぎを取り戻し、空間が正常な領域へと戻っていた。
当然、ヴァーンやエステル、そしてメイドも風景から実在する人物へ蘇る。まるで、止まっていた時間が動き出したかのような状況だった。
歩き出していた魔王が呼んだ。
「ぼうっとしていないで来い馬鹿!」
「――ふぇぁっ!? あ、あれ? あれあれ? ああっ! メル様また使ったんですね! もう~待ってくださいよ~! ――あ、皆さんお疲れ様でした! どうか良い夜をお過ごしください。おやすみなさいませ!」
メイドはクレスたちの方にペコペコ頭を下げ、去って行く魔王を追いかけて走る。
ヴァーンとエステルが顔を見合わせた。
「オイ。何がどうやってやがる。さっきまでなんか白熱してなかったか!? 時間が飛んでね!?」
「……魔力の痕跡。何か特殊な状態にあったみたいね。私にも、何が何だが……」
「だ、大丈夫です! ちょっと揉め事みたいなものがあっただけで、えっとえっと」
困惑した様子のヴァーンとエステル。フィオナは魔王が言っていた『後のこと』が何かを理解し、どう説明したものかと言葉を探していた。
「――あっ、ク、クレスさん!?」
フィオナが彼の背中に声を掛ける。
クレスは聖剣を拾うこともなく、魔王の方へと走り出していた。