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バイバイ

作者: 幸橋

「楓、あなたが好きよ」

 口調と同じく品の良い声が言葉を紡ぐ。暴言を吐かれてもこの声では一瞬その意味が分からなくなるのではないだろうか、と楓はぼんやり思ったが、すぐに

「私も好きだよ、詩」

 自然と笑えている。それが楓には嬉しかった。

 毎日のように好きだと繰り返した。慣れはしたけれど、飽きることはなかった。

 中学3年で初めて出会ったときから、何か特別なものをこの少女に感じていた。詩もそうなのか、二人はいつの間にかいつもいっしょにいるようになった。高校も当たり前のように同じ高校を受験して、高校1年の今もずっといっしょにいる。

 大好きだ。本当に大好きで、それを先に言ったのは自分だと思うのに、詩は先に言ったのは自分だと言い張る。

「ねえ、楓、好き、本当に好きよ。誰よりもあなたが好きでどうしようもない。あなたに依存してる。傍にいてほしい。私を見てほしい、ずっと、ずっと」

 でもね、と詩が振り返る。あれは夕方だった。太陽を背にした彼女の髪がオレンジの光を孕んでいた。長い黒髪をばっさりと切ったあとで、髪と肩の間の隙間から光がこぼれて眩しかった。

「あなたが私から離れるときがきたら、私はちゃんと笑って手を振るわ。約束する。あなたを縛ったりしない。だから、」

 その時まではあなたに依存していていい?

 笑顔が美しい詩に楓はきょとんとした目を向けた。そんなことあるはずがない。詩が自分から離れることは、考えたくないことだが、あったとしても、自分が詩から離れることはない。依存しているのは自分の方なのだから。そう言おうとしたが、言うまでもないことだと思って止めた。うんとだけ楓は頷いた。

 いつもの交差点で楓は詩と別れた。微笑む唇からこぼれる快い声音でバイバイと言って楓より少し背の高い詩は楓の髪をすくように頭を撫でた。その指の動きはとても甘美だ。いつまでも触れていてほしいと思う。離れていく細い指、腕、首、そして、艶やかな唇に視線をずらし、一瞬、言葉を失う。覗き込んできた詩の目を見て、やっと呪縛から解き放たれたようになんとか、じゃとだけ言った。

 離れていく詩の背を見送りながら、これから繰り返す毎日を思った。明日も明後日もまたたくさん話すのだろう。帰り道で二人は多くを語った。帰り道でお互いを知っていったし、これからも知っていく。膨大な時間を会話につぎこんでも、相手の全てを知っているというおごりは二人にはなかった。だから、何を話すかはまだ分からなくても、また話すのだろう。お互いを知るために。そんな変わらない毎日に楓は幸せを感じた。そして、楓も帰宅の途についた。

 次の日、詩は学校を休んだ。熱が出たから休むと直接詩からメールがあった。詩は体が丈夫なわけではなく、最近もずっと調子が悪そうだったから、一日も離れるのはつらいけれど、仕方なかった。三日後、詩が入院したとなぜか人づてに聞いた。お見舞に行くという楓からのメールに詩はただの検査入院で短期間だからそんな必要はないと病院も教えてくれなかった。

 詩が自殺したのはその一週間後だった。

 病院の非常階段で首をつったのだ。詩が白血病だったと楓が知ったのは詩の通夜の席だった。そこでも葬式でも楓は泣かなかった。

 泣けなかった。


「はい、じゃあ、二人一組になって互いの顔をスケッチしてください」

一斉にガタガタと生徒が立ち上がり、仲の良い友達同士が集まってスケッチブックを捲くり出す。芸術の時間は三年は一学期だけだ。若い新任の女性美術教師はそんな短い期間に、それも受験の時期にもなって芸術なんてかったるいと思っている生徒に作品製作を課すことを諦めたようだ。毎時間何かのスケッチをやらせている。結局は友達同士のおしゃべりの時間になってしまうことにも目をつぶっているようだ。今回もおしゃべりの声が聞こえだし、鉛筆が動いているのはわずかな生徒だけだ。

 それまで動かずにいた楓だが、もういいかなと思って周りを見回した。美術選択者に仲の良い友達はいなかった。二年、三年と同じクラスでいっしょにお昼を食べる綾菜は書道の選択だった。その前も“あの子”は音楽の選択だった。余りものになるのには慣れている。たいていは自分以外にも余りものはいて、いなければ教師に相手を頼めば済むことだった。だから、組があらかた出来てしまうまで楓は待っていた。人の環の中に入って行くのは苦手だが、どこでもやっていける、自分はそういう人間なのだと楓自身思っていて、それに不満もなかった。

そうして周りを見た楓は一番後ろに座りぼんやりと外を見ている女の子に目が吸い寄せられた。見たことがない子だ。2つのクラスが合同でやるのだから別のクラスの子だろう。もう何度も授業があったのに見た覚えがないというのも不思議な話だが。

「ね、組になってもらってもいいかな?」

楓は声をかけることに躊躇はしなかった。それは慣れもあったが、なんとなく心に繋がる糸を引かれるような感覚があったのだ。

 女の子は気のない返事をしたが、楓は気にすることもなく女の子の前の席の椅子を後ろに向け彼女と向き合うように座った。女の子は窓に顔を向けたままだ。改めて見てどうして興味が引かれたかわかったような気がした。

 綺麗な横顔

 鼻筋が通っていて、肌が白い。日差しに当たっているからかと思ったが、髪も色素が薄く茶色に近い黒髪だった。外国人の血が混じっているのかもしれなかった。パーマは禁止のはずだが、耳下までの短い髪は緩いウェーブがかかっていた。これも地毛かなと思いながら楓はスケッチブックを開いて描き始めた。

紙に形を書き起こすと益々彼女の美貌が身に染みてきた。スカートは短いが、それ以外は制服を着崩すことはなく、ピアスを開けていたり、アクセサリーを身につけていたりするわけでもなかった。自分の美しさを理解し、無駄な飾りは必要ないことがわかっているのだろう。

瞬きしなければ人形と見紛うその目を描いているときにふと何を見ているのだろうと楓は彼女の視線の先を追った。なぜかここだけがカーテンが開いている。五月の真昼の日差しはまるで夏のように鋭く、窓際に植えられた木々の隙間を縫って教室に差し込んでいた。逆光を浴びて黒く見える植木の向こうにグラウンドが有り、どのクラスも体育の授業ではないのか誰もいなかった。全面に太陽の光を受け、グラウンドは発光しているかのようだ。フェンスを挟んで並び立つ家々もこのときだけは人気がなかった。風もなかった。ただ地面が影一つなく白いことが目に痛かった。

 楓はその光景に見とれた。何もない場所には引き込まれる。何もないのが寂しくて、動くものを、生きるものを見つけようと目を凝らすからか、それとも、何もない空間が自身を埋めるために何かを求めているのか。しかし、どこか神聖な感じのするその場所を侵したくなくて動けなくなる。

「誰もいないね」

 女の子がこっちを向いたのがわかって楓は女の子を見た。やはり綺麗だった。大人びていて、自分と同い年とは思えない。目は灰色で虹彩の放射線状の線がくっきり見えて少し不気味だが、それも綺麗だ。楓はおのずと身を乗り出していた。

「綺麗だね」

 眉をひそめる顔さえ綺麗だ。ある中国の故事のようにまねしたところで他の人なら綺麗だとは思わないだろう。変な奴。そう言いたそうな顔には慣れていたので、綺麗な顔も合わさって楓は気分を害すことはなかった。ますますじっと見つめたせいだろう。しまいには相手の女の子の方が目を逸らし、楓の手元を見て少し息をのんだ。

「上手いもんだね」

 ハスキーボイスが耳に心地よい。こんな声も好きなのかもしれない。楓は苦笑した。“あの子”の繊細な声が好きだったから、高い声が好きなのだと思っていた。

「ありがとう。……あなたは描かなくていいの?」

 女の子はちょっと考えてからスケッチブックを楓の方に押し出した。

「あんた描いてよ。上手いし」

 女の子の声に耳を傾けながらスケッチブックの下の方に鉛筆で名前が書いてあるのを見つけた。

 高山真凛

「……高山さん?」

 と言ってから顔を上げると高山真凛はまた眉をひそめていた。これも慣れた展開だった。楓がマイペースと言われるゆえん、途中で会話を成り立たなくさせてしまうのだ。“あの子”は楓らしいと笑って言ってくれたが、それ以外の人には不愉快なだけだった。綾菜は慣れたと言っていたが。

「あ、えっと、絵だよね?でも……」

「センセイに怒られる?」

 真凛は鼻で笑った。

「ううん、あの、私……自分の顔見れない……」

 楓は困って言った。自分の顔をぺたぺたと触って、さすがにわからないよねと呟いた。真凛は顔を傾けた。少し細められた目が猫のようだ。

「あんた天然?」

 楓の答えを待たず真凛はくすくすと笑った。そして、ぴっと楓の顔を指差した。

「私が教えてあげるよ。ここに鼻、こことここに目、眉、でこっちに口」

 と言いながら高くない鼻と一重の目、薄い唇が形作る口を指差した。

「平安時代なら美人かもね」

 ああ、でも顎のラインはきれいと付け加えて真凛は笑った。言い方も笑い方も高飛車で“あの子”とは真逆だ。でも、

「綺麗なのはいっしょだね」

 真凛は少し形の良い唇を引きつらせてからため息をついて、やっぱり天然と呟いた。

「綺麗、綺麗うるさい。そんなの聞きなれてる、耳たこだよ」

「綺麗って言われるのは嫌い?」

「……どちらかと言えば」

 真凛は訝しげに答えた。

綺麗は褒め言葉にも侮辱にもなるのよ。

そんな声が真凛の顔に被さった。

ほとんどの人は綺麗なものに綺麗なだけでい続けることを望むの。でも、あなたは違う。大好きな楓・・・・・・

「そっか」

少し吐いた息は笑ったような音だったが、続いた声は笑いとはかけ離れたものだった。

「それもいっしょだ」




「楓ちゃん。さっきの授業、6組の高山さんと話してたって本当?」

パックジュースのストローをくわえながら柳綾菜は言った。食べ終わった焼きそばパンの袋を弄んでいる。

綾菜とは2年からの仲だった。一人でお昼を食べている楓を綾菜が自分のいるグループに引っ張り込んだのだ。一人の子が放っておけない性分なのだという。3年で皆がばらばらになり、今は綾菜と楓の二人でお昼を食べている。それだけでなく、何かとぼーとした楓を姉気分で面倒を見てくれていた。

楓は弁当の卵焼きを口に運んだ。今日は父が作ったので甘くない。

「うん」

そんなことを考えていたせいか上の空で頷いた楓に綾菜は顔をしかめた。

「あの人には近づかない方が良いよ」

「何で?」

「見た目からして他の子と違うじゃん。所謂不良少女らしいよ。学校もサボってばかりだってさ。去年同じクラスだった子がよく進級できたなあって驚いてた」

 ぴんっと指で弾いたくしゃくしゃの袋は机を滑って楓の弁当箱にぶつかった。まだ少し残っているが楓は弁当箱のふたを閉じた。

「そうなんだ」

「そうなんだって楓ちゃん。心配してるんだよ。楓ちゃんおっとりしてるし、騙されそうだし」

「うん、自覚してる」

 楓は照れ笑いを浮かべた。

「でも、デッサン仕上げなくちゃいけないから、来週の授業もいっしょにしなきゃ」

「歩美が確か美術だったね。同じ組にいれてもらえないか訊いてくる?あの子なら断らないよ、きっと」

「ううん、いい」

「そう」

 綾菜は音をたてて椅子を引いて立ち上がり少し離れたゴミ箱に丸めたビニール袋を放った。ゴミが外れたので舌打ちをしてゴミを拾いに行き、ゴミ箱に入れると戻って来た。戻ってきた綾菜は話を変えようと考えていたようだが、その前に予鈴が鳴った。

「次は理科か。楓ちゃんは生物だから教室だよね」

「ううん。今日は実験だから移動する」

「そっか。私も移動だ。じゃ、また後で」

「うん、また」

 綾菜は少しほっとした顔をして自分の席に教科書を取りに行った。にぶいと言われる楓にもわかるようなあからさま表情だった。そういう時は……と楓は考えた。

綾菜ちゃんが気付いてほしいと思っている。

何に?

空気が読めないと綾菜は楓に苦情のような忠告を繰り返す。まったく同じになれるはずがないのだからズレがあってもいいではないかと楓は思う。それを言ったことがあった。綾菜は楓ちゃんらしいねと言った。でも、ひどく困ったような歯がゆいような顔だった。“あの子”のように笑ってはくれなかった。


 教科書がなかなか見つからず遅れ気味だった楓は生物の実験室へと廊下を早足で歩いていた。職員室前まで来たところで向こう側から真凛が歩いてくるのが見えた。日本人離れした長い手足で、高い位置にある腰がしなやかに細く、やはり目立つ。

真凛はすぐ傍まで来て楓に気がついた。真凛に比べれば、楓は平凡な姿だ。他の生徒に埋もれてしまう。また、小柄なので多くの生徒が行き来するこの時間に見つけるのは困難だ。しかし、真凛は見つけてしまった。しまったという顔をして、すぐに目を逸らそうとした真凛より一瞬早く楓はこんにちはと言った。言った後で綾菜に近づくなと言われていたことを思い出して舌を出した。また怒られそうだと思っていると、すれ違ったはずの真凛がねえと楓に声をかけた。振り返ると少し目を見開いた真凛がいる。楓は立ち止まった。

この目だ。

灰色の玉が二つ、自分を映す。その真ん中にぽっかりと開いた黒い穴に魂が吸い取られてしまいそうだ。薄もやのように濁り、しかし、その先へと誘惑する美しさの奥にある何かが楓の興味を引く。

「あんた1組だよね」

「うん」

「次は何?」

「理科だけど」

「理科か……」

「6組は?」

 真凛は頭をかいて少し唸った。

「数学……いや、古典だったかな。どっちにしても教室。担任が教室にいろって言ってたから」

「たぶん古典だと思うよ。6組の担任の山田先生は国語担当だから」

「よく知ってるね」

「1組の古典も担当してるから」

 気づくと周りの生徒がぐんと減った。壁にかかった時計を見るとあと1、2分で授業開始時刻だ。早く行かなければ遅刻してしまうと思って、楓はあっと声を上げた。

「高山さんは教科書持ってるの?」

真凛はかぶりを振った。

「いや、何の授業があるか知らずに来た」

 それを聞くと楓は顔を明るくして、ぱっと真凛の腕を掴んで走り出した。慌てたのは真凛だ。

「何なの」

「教科書と、そうだノートも貸すよ。ないと困るでしょ」

「授業遅れるよ」

「良かった。今日、私のクラスも古典があって」

 聞こえていないのか、いつものマイペースなのか楓は自分の言葉を続けた。そこで授業開始のチャイムが鳴った。


 楓は電気も付けずに美術室の席の一つに腰をおろした。南向きの日当たりの良い部屋だが、夕方にもなると少し薄暗い。でも、この薄暗さがなんとなく楓は好きだった。グラウンドから運動部の掛け声が聞こえる。一番大きく聞こえるのは陸上部のジョギングの掛け声だった。さっき綾菜が窓越しに手を振って歩いていくのが見えた。今日は部に参加しているらしい。綾菜は大会には出ず、体力作りのために時たま陸上部の練習に参加する。足は速いから大会でもそれなりの成績を残せそうなのだが、綾菜自身は勉強を優先させたいとのことだった。綾菜はちゃんと現実を見たしっかり者だ。でも、その分頑なな面がある。窓越しに見せた顔は笑っていたが少し引きつっているように見えた。自分が彼女と話したことを誰かから聞いたのかもしれない。

 楓は俯いた。すると、目の前のスケッチブックが目に入り、なおさら気が滅入った。ここ数日まともに手をつけていない。

 違うのを描けばいいのに

 その前にこんなものを描こうと考えなければ良かったのだと楓は後悔した。なぜ描くことを思いついたのか自分でもわからなかった。描けるはずがない。自分は何一つ表すことは出来ない。何一つ理解していないのだから。

「今里楓」

 楓ははっとした。見るとドアのところに真凛が立っている。真凛はつかつかと歩いて来ると楓が座る席の斜め前にどっかりと座った。そして教科書とノートを投げやった。

「あ……」

「余計なおせっかいありがとう。そのおかげであんたを探す手間がプラスされた」

 忘れてたと楓が言う前に真凛は一息で嫌味を吐き出した。それは楓にもわかったのか楓は苦笑した。

「ごめん……でも、ありがとう。明日も古典で予習があるからないと困るんだ」

 自分の嫌味を特に気にする風でもない楓を見つめて、真凛は足を組んだ。真凛を見ながらも目の端に人影がちらつく。そして、声も。真凛がぽつりと言った。

「……理科の授業どうだった?」

「遅刻して怒られちゃった。で、先生の片付けの手伝いをさせられたら次の授業も遅刻して、また怒られて」

「だから構わず行けば良かったのに」

「でも、授業は出られたし、それに……別にどうでもいいかな」

「何が?」

外からの掛け声が遠くなった。

「いろんなことが」

 真凛は意外そうな顔をした。その顔を見て楓はやっと自分が本音を言ったことに気付いた。

「今時みんなそんなもんだよ」

 口をぱくぱくさせながら声が出ない楓の代わりに真凛が言った。そして、楓の手元を見た。

「ここで何してるの?」

「・・・・・・練習をしようかなって」

 閉じたままのスケッチブックを手に取った。授業用の全生徒共通のスケッチブックとは違うものだ。

「あんた美術部?」

「この学校には美術部はないよ。あったらしいけど、漫研になったんだって」

「じゃ何でここにいんの」

「美術の専門学校に行こうと思ってるから、美術室を借りて練習してるんだ」

「美大じゃなくて?」

「私が行けるような美大は近くにないよ」

 楓は苦笑してスケッチブックの表紙を撫でた。それを真凛が身を乗り出してすっと奪った。あっという間にぱらぱらと中身を見てふーんと呟いた。

「私はあんたの絵好きだけどね、いばりくさった感じがしない」

 楓は驚いて、でも、声が出なかった。褒められることには慣れていなかった。その間に真凛はスケッチブックを捲る。それを見て口ごもりながら、

「あ、えっと、新しいのは見な……」

「何で?」

 スケッチブックは終わり近くまできていた。一番新しいページには描きかけの絵があった。卵型の丸の中に十字。見たことがあった。

「これ、人の顔描こうとしたの?」

 楓ははっとしてスケッチブックを真凛から奪い取り、胸に抱いた。さきほどまでと違う素早い動きに真凛はあっけにとられた。楓は意味のない声をこぼしながら、唇の両端を上げた。

「あの、これはどうしても上手くいかなくて、それで……」

 一瞬で真凛が表情を変え、楓は口を閉じた。整っている分、無表情になると氷のように冷たい印象を受ける。細めた目が鋭い。

「それむかつく」

 真凛は足を組み替えた。

「その作った顔もそうだけど、その顔作るのに慣れてるのがむかつく」

 楓は目を逸らした。それを見ていた真凛も少し目を逸らした。

「あんたはちょっと違うと思ったのに」

「ごめん」

「むやみに謝るな。何に謝ってるかわかってないくせに」

 ごめんと言いかけて楓は口をつぐんだ。真凛がため息をついたあとに沈黙が横たわった。

太陽が家並みに姿を消そうとし、部屋は暗くなっていく。薄暗がりは好きだ。でも、暗いのは苦手だった。世界が変わるように思えるのだ。そして、そこには自分が恐れるものしかないような気がする。星が瞬くようになるまで公園で空を見ていた子供がいつの間にそうなったのか、楓自身にもわからない。そっと見ると真凛は消えかかる太陽を見ていた。

「高山さんは、帰らないの?」

 沈黙を破ろうとしたわけではなかった。ただ真凛を見て浮かんできたことを口にしてみた。真凛は黙っていて、楓の質問を無視しているかのようだったが、太陽がすっぽりと隠れ、残った光が家並みをなぞるようになってやっと、まだ開いてないからと呟いた。

「それまでは学校にいる」

「もう、学校閉まるよ?」

「だから、もう行く」

 そう言って真凛は立ち上がった。そして、楓を見た。

「あんたは?」

「美術室の鍵を返してから帰る」

 そうと真凛は呟いた。そのまま真凛が行ってしまいそうだったので楓は慌てて声をかけた。

「来週の美術の時間来る?」

 すぐにさあと考えもせず返事が返ってきた。

「明日は?」

 また同じ返事が返ってきた。

「私ね、放課後はここにいるんだ。だからね、学校来たときにここに来て。そしたら、デッサン仕上げるから、わざわざ美術の時間に来なくていいから」

 真凛が振り返ったのがわかった。でも、暗くて表情がわからない。

「……私、いつも学校にいるよ」

 しばらく間をあけてぽつりと呟くと真凛はそのまま出て行った。


 真凛は次の日の放課後に美術室に来ることはなかった。次も、その次の日も。その数日間、6組を覗いてみたりもした。だけど、真凛はいなかった。真凛はどうしているのか、6組の生徒に尋ねようにも理由がなかった。会いたかったが、どうしてなのかがわからない。どう接するべきかもわからない。綾菜に対してのように、他の友達に対してのように。それとは違うように思えた。曖昧な思いのまま時間だけが過ぎた。

「楓ちゃんは何に出る?」

「へ?」

 綾菜は軽く持っていた日本史の教科書で頭をはたいた。

「また歩きながら寝てたな」

 笑いかけて楓は真凛の言葉を思い出した。今の自分の顔はどうなんだろう。わからなかった。顔はそのままにして、何のこと?と訊いた。

「体育祭のことだよ。何出る?」

「わからない。余ったやつかな」

「またそれか」

「綾菜ちゃんはリレーだよね」

「たぶんね」

 日本史選択なのは同じだった。だから、朝一番の日本史の授業のために別の教室に移動するときは綾菜といつもいっしょだった。最近はずっと天気が良く廊下も窓から差し込む光でぽかぽかと暖かかった。ぼんやりとしていたのはそのせいだった。今日も晴れのようだ。楓がふと窓を見た瞬間、目があった。

「え?……」

 そこはちょうど別館にある図書室の窓だった。この時間は開いてないはずだ。しかし、一箇所だけカーテンが開いていて、そこに真凛がいた。真凛もなんとなく窓を見やっただけなのか体は横を向いてそのまま固まっている。

「高山さん」

 楓の声を聞いて窓を見た綾菜が顔をしかめた。

「またサボるつもりみたいだね。勝手な子」

 楓は綾菜を見た。

「綾菜ちゃん、高山さんは学校サボってるって言ったよね?」

「いつもは図書室にいるみたい。授業に出ないんだからどっちでも同じでしょ」

 いつも図書室に……

 楓は思った。

 “あの子”と同じだ。

 楓がじっと見ていると真凛はその視線を気にしながらも本を何冊か取ると部屋の奥に行ってしまい見えなくなった。楓は傍の通用口に飛びついて、綾菜を振り返った。

「綾菜ちゃん、先行ってて」

 綾菜は驚いた。

「授業は?」

「わからない」

「ノート写させないよ」

 綾菜は苛立って声を上げた。

「うん、わかってる」

 楓は妙に生真面目に頷いて出て行った。

 図書室に入ると真凛はすぐ見つかった。本棚がこちらに側面を見せて並び、その前にあるテーブルの一つに本を開いて座っていた。湿気でしめり軋む床、黄ばんだカーテン、窓から見える壊れたベランダ、そして、ほこりっぽい本の匂い。久しぶりだった。意図して避けていた場所だ。胸一杯に淀んで変わらない空気を吸いこんで楓は真凛の真向かいに腰を下ろした。

「授業は?」

 顔も上げず、真凛はノートに何か書き込みながら言った。楓はくすっと笑った。綾菜も同じことを言ったが、言う人によってだいぶ雰囲気が変わる。叱責のような綾菜の声と違い真凛の興味のないような声は楓がここにいることを許容しているようだった。その声を聞いて確信した。

「サボり」

 真凛は顔を上げた。

「何で?」

「なんとなく」

 理由を求めるというより流れから言ったのがわかり、楓はそう答えておくことにした。実際、特に理由はなかった。

「高山さんはなんとなくじゃないね」

 真凛が開いているのはロシア語の辞書だった。

「ロシアが好きなの?」

 十分な間をとって、真凛はわかんないと呟いた。

「好きかどうか知りたくてロシア語やってる」

「そっか」

 真凛はじっと楓を見た。

「変な子だよね、あんた」

「良く言われる」

 楓は照れて頭をかいた。そして、なんとなく

「高山さんも変だよね」

 ぽつっと言った楓の言葉に真凛が目を細めたので楓はあたふたと言いつくろった。

「そういう意味じゃなくてね、変わってるっていうか、あ、それだと同じか」

「何?はっきり言いなよ」

「……高山さん、怒ってる?」

「さあね」

 真凛はまたノートに視線を戻して調べた単語を綴っていく。伏せ目がちで睫毛の影が落ちていた。

 睫毛長いなあ

 髪もふわりとしてきっと触ったらさらさらしているのだろう。近くにいると香水だろうか、何か良い香りがする。“あの子”はいつもシャンプーの良い匂いがした。長い艶やかな黒髪が直に鼻に当たり鼻腔をくすぐるその匂いは清々しかったのを覚えている。違うのに同じ。嗅ぐと落ち着いた。

 突然、真凛がぱたんとノートを閉じた。

「どうしたの?」

「じっと見られると気が散る」

 ごめんと言おうとしたが、頬杖を付く真凛の顔が意外にも穏やかなので楓は言葉を飲み込んだ。

「勉強はいつでもできるしさ」

 楓は微笑んだ。あっと思ったが、真凛は何も言わなかった。それは自分でもわかっていたのかもしれない。笑ったときの感覚はいつもと違っていて、それでいて懐かしいものだった。

「高山さんは」

「真凛でいいよ、私もあんたのこと楓って呼ぶから」

「じゃあ、真凛……はハーフなの?」

 真凛は小首をかしげた。細めた目からこぼれるのは少し悲しげな色だ。

「そう見える?」

「うん」

 真凛はロシア語の辞書をいじった。

「正確にはクォーター。おばあちゃんがロシア人なんだ」

 会ったことはないけどねと真凛は付け加えた。

「……真凛は嫌なの?おばあさんがロシア人なの」

 物憂げに辞書をめくる真凛を見て楓は言った。

「さあね」

 楓はそのままじっと真凛を見つめた。ちらりと楓に視線をやって真凛は諦めたように嘆息した。

「最初に見たときから思ったけど、楓は、言葉を吸い取るね」

 楓はへ?と間の抜けた声を出した。

「こっちが何か言うまで待ってんだ。こっちの言葉を吸い出す、言うつもりのないことまで」

「えっ?私、ただ、話すの邪魔しちゃいけない、と思って……」

「どうでもよくない?他人のことなんてさ」

 気だるそうに真凛は言った。それは本当にそう思っていて、そして、本当にそう思っている人たちと会ってきた者の声だった。周りの人皆がどこかで持っている声で、でも、いつもは隠している声だ。楓も持っている声だった。

「そうだね・・・・・・でも、私はにぶいから言ってくれないとわかんないの。言葉にしてくれないとわかんなくて、だから、知りたかったら、ちゃんと聞く」

「意味わかんない」

 楓は口下手だった。言っていて何がなんだかわからなくなるのだ。それを真凛に指摘されて唸った。本当は一言でこの気持ちを言い表すことはできた。さっき真凛を見たときにわかった。でも、思ったことをストレートに言うのは勇気がいる。

楓はすっと息を吸った。

「あのね、だから、真凛の話は聞きたい。私は真凛のこと知りたい」

 一気に言うとやはり反動で鼓動が早まった。真凛が手をそっと楓の頬に当てた。火照った顔にひんやりとした手は心地良かった。白くて細い指が肌に吸い付く。

「よくできました」

 そう言って笑う真凛に突然“あの子”の姿が被さって楓は目を見開いた。

「高山さん!」

 図書室の入り口から見たことのある女性がスリッパのぱたぱたという音をさせ、早足でやって来た。司書の女性だ。真凛がすっと無表情になり、楓から離れた。近くに来た司書の女性は厳しい目で真凛を見た。どんな言い訳も許さないといった体だ。

「話は山田先生から聞いていますから、ここにいることは許可しています。しかし、他の生徒を巻き込むことはないようにと言いましたよね」

「私、バカなんで覚えてないです」

「高山さん」

「ご存知のように劣等生なので」

 甘ったるい声を出し、真凛の美貌ではその声さえ似合ってしまうが、長い足を組んだ。スカートが短いので太ももが露わだ。女性は顔をしかめた。真凛は挑発するように笑った。他人から見れば、その笑顔はしっくりと真凛に馴染んでいて、美しかった。しかし、楓は違和感を覚えずにはいられなかった。

 嫌だ。

 楓は思った。それは楓が作り笑いをしたときに真凛が思ったことと同じだった。

「すみません、私が……」

 司書の女性が楓に注意を向けるとはっとして、眉をひそめた。

「また、あなたですか、大概になさい」

 ぴしゃりと放たれた声に楓は身をすくめた。

「他人に情けをかけて自分の時間を無駄にするのは止めなさい。それが優しさだと思っているんですか?」

 違うと言おうとした楓を遮った。

「ええ、わかっています。あなたは本当はそういう社会に不適格なものに憧れているのです。この子や坂口さんを通して。いい加減に現実を見なさい」

 前と同じ、見下し、蔑む目だった。彼女の視線からいつも隠れるように本棚と壁の間に座り込んでいた“あの子”の姿が脳内で閃いた。そこで言われた。抱きしめられて、“あの子”の髪が鼻に当たっていて、そんな状態で言われた。「嫌われたくない」と。

悲しみや怒りや困惑が頭の中を駆け巡った。何かを叫びたいのに、叫びたい言葉がものすごいスピードで通り過ぎ、掴めない。衝動を持て余して唇が震えた。

「黙れ、おばさん」

 低い、どすの効いた声がした。

「その金切り声やめてくんない。耳障りなんだけど」

 真凛が睨む。司書の女性が真っ赤になった。

「なんて口の利き方」

 声が怒りで震えていた。

「うっさい。黙れって言ったの聞こえなかったの?もう、ばばあなんじゃない」

 何か言おうと女性が息を吸って胸をそらすと真凛は目を細めた。ナイフのような鋭い光だった。負の感情を凝縮した視線に貫かれ、女性も、楓も息を飲んだ。

「噂知らないわけじゃないよね。彼氏に頼むよ?」

 女性は青ざめた。真凛はさっきの甘ったるい声に戻った。

「私、ガキだからわかんないけど、いろいろあるよね、報復の方法ってさ」

 後ろによろめいた女性に追い討ちをかけるように真凛が睨むとかすかに舌打ちして彼女は踵を返した。

 司書の女性が出て行くと真凛はため息をついた。

「楓は次の授業出な。あのおばさんうっさいから」

「真凛……噂って?」

 まだ唇が震えてうまくしゃべることが出来なかった。真凛は少し驚き、納得したように頷いた。

「知らないから、私と話せるわけか」

 諦念が混じった声、急に真凛が遠くに行ってしまったように感じた。

「ねえ、真凛、噂、噂って何?」

「噂は噂だよ。デマばっかり。みんなバカだから信じてる」

 子どもが追いすがるように同じ言葉を繰り返す楓に真凛は苛立たしげに答えた。

「でも、何を信じるかはあんたしだいだよ」

 楓に向ける真凛の鋭い目はさっき司書の女性に向けたものと似ていた。誰に向けているのか。周りの人、名もない一般大衆。少なくとも楓一人にではなかった。楓の後ろにいろんな人たちを見ているのだ。こんな怒気に満ちた目ではなかった。でも、似た目を知っている。周りの人々が塗りたくった一枚の壁にしか見えない目。それぞれ個々の人々の集まりだと見ることができない目。

「あんたじゃない。私は楓だよ」

 楓は真凛をじっと見た。目を逸らしたら負けだと思った。

「言ったよね、私にぶいから言ったことしかわからないって。それにね、自分で見たものしか理解できない。私、自分が見聞きした真凛しか知らない。それが真凛の一部でしかなくても、真凛が私に見せられる部分だけだったとしても、それでも良いよ。だって、それも真凛だから」

 心臓が早鐘を打っているかのようだった。

 これは本当の私じゃないかもしれないよ。

 “あの子”が出会った頃そう言った。今見せているのは本当の自分じゃないかもしれない。本当の自分なら好きになってもらえるはずがないからと。“あの子”はただ素直なだけだった。素直に愛するものを愛しただけだ。大好きな弟にキスしただけだ。それだけで変人扱いされて独りだった子だった。同じ言葉を使いまわすのはひどいのかもしれない。でも、必死なのは同じだった。

「不良少女なんて一緒くたにされたらたまらないよね」

 “あの子”も真凛もたった一つの色に塗りつぶされた。それが楓にはわかった。だから、いろんな色が見たいと思うのだ。今見ている色とまったく違う色が現れても、その色も好きになれるという理由がなくとも自信があった。

 真凛の瞳に見えた氷がぱきんと割れた。目を逸らしたのは真凛だった。しかし、

「本当にバカだね」

 真凛は呟いた。

「そんなの信じられないよ、私は。楓と違ってお気楽じゃない。裏切られてばっかり」

 裏切り。その言葉を聞いた瞬間思ったのは“あの子”の死だった。でも、それを裏切りと名付けたくなくて頭を振った。それをどう取ったのか、真凛は、

「私もだけど、楓も隠してる。坂口って誰?」

 心が軋んだ。

「隠し事してるのがばればれなのに信じるって無理じゃない?」

 “あの子”のことは隠しているわけではなかった。でも、“あの子”のことを言おうとすると声が出なくなる。それなら相手には隠しているのと同じだ。

無意識に本棚の奥を見た。向かって左から二つ目、百科事典が置いてある本棚。その奥にいつも“あの子”はいた。中学も高校も“あの子”はクラスの環の外にいて、自分の世界、自分の時の流れに従っていた。そんな“あの子”が好きだった。“あの子”のキスが欲しかった。キスは“あの子”の好きの証だから。どうして、キスしてくれないの?私が嫌いなの?好きじゃないの?何かを恐れて楓は繰り返した。すると“あの子”は頬にキスをして、いつも楓を抱きしめて言うのだ「好きよ、好きだから、嫌われたくない」と。

図書室で語った記憶があまりない。いつも抱きしめあって、相手の顔を見ないように、相手にしゃべらせないように息をひそめた。暗い図書室の隅は不都合な見たくないものを暴いてしましそうだったから。ちょうどよいくらいの自分たちを照らす夕方を二人は好んだ。

ずっと前から何も知らないままだった。“あの子”の何もかもを知らなかった。

そのことをこの場所は楓に教えてしまった。青くなる楓を見て真凛はどうしていいかわからなくなった。沈黙の末に真凛がこぼした「ごめん」はひどく幼いものだった。

 授業終了のチャイムが鳴った。ぎこちなく吸った空気はひゅっと笛のような音をたてた。少し落ち着いた楓は真凛のせいじゃないとだけ言って席を立った。真凛のせいではない。ただ、今まで見たくなくて逃げていたものが見えてしまったのだ。“あの子”を理解していなかった。

それでも・・・・・・

誰も信じないかもしれない。それでも、“あの子”が大好きなのは本当なのだ。好きで、好きで、離れたくなくて、ずっといっしょにいたくて、だからこそ、“あの子”が一番好きで、一番恐い。その末に選んだ無知だった。“あの子”が隠すことへの無知を楓は選んだ。

「楓?」

いつの間にか真凛はじっと楓を見ていた。ぼーとして動かない楓を不審に思ったのだろう。灰色の目が楓を見つめる。いつも目がいくのはこの不気味で神秘的で美しい灰色の瞳だった。それを見ていて、なぜだか、泣きたくなった。知りたいと思った。この灰色の瞳の奥を知りたいと思った。それは“あの子”に対する後悔からか、真凛自身への興味からなのか、それともまったく違う理由からなのか楓にはわからなかった。それでも知りたいと思った。

 亡羊とした顔の中に鋭い悲しみが閃いたのを感じ取ったのか、真凛は小さく楓と呼びかけた。

「今日は放課後いる?」

それは美術室にということなのだろう、楓は頷いた。真凛も小さく頷いた。

「そっ。じゃあ、また、後で」

一瞬、楓は意味がわからず呆けた。が、顔を少し上気させて大きく頷いた。


「二人三脚?」

真凛はペットボトルのミネラルウォーターを口に含んだ。6月に入るとすぐに梅雨になった。今も雨が降っていてじめじめとしており、そして、暑い。薄く肌に汗が浮き、張り付く髪をかきあげる真凛はなんだか色っぽい。話しながら手を動かした。鉛筆と紙がこすれてシャッシャッと音がする。ちょうど真凛の髪を描いていた。

「そう。1組と6組は同じ団だから、組めるんだ。私、組む人がいないからいっしょにやらない?」

「いつもいっしょにいる子は?ポニーテールの」

楓は顔を上げた。

「綾菜ちゃんのこと?ダメだよ。綾菜ちゃんは足が速いからきっとリレーの選手。ねえ、だから、いっしょにやらない?」

サボるつもりだったのにと真凛が呟くと、楓がそうだと思ったとくすくす笑った。

「夏休み前の7月に何でするんだろう、暑いのに。秋にするべきだよ。夏は運動に不向き」

そうぼやく真凛に楓は秋でも団体行動が嫌いな真凛はサボるだろうとは言わなかった。 ただ笑ったままだった。

「1,2回練習に付き合ってくれて本番に来てくれればいいから。ね?」

「練習もするの?何それ、張り切りすぎじゃない?」

楓から鉛筆を奪い、真凛はそれをくるくると回した。

「それがね、クラスの子で体育祭、優勝したら好きな男子に告白するつもりの子がいるんだって」

「うわっ、今時そんなこと考えるやついるんだ」

「私も綾菜ちゃんから聞いたんだけどね。それでね、綾菜ちゃんがそういうのに弱いというか、熱くなっちゃって、絶対優勝するんだって頑張ってる」

「それで楓も張り切ってるってわけ?」

「張り切ってるというか、うーん、でも、綾菜ちゃんにすごく念押しされてるから」

楓は苦笑した。

「好きだね、そういうの。キャンプファイヤーとかさ、恋人たち限定って暗黙の了解だよね」

 真凛はどうなの、とは楓は訊かなかった。

真凛の言う噂は綾菜がちゃんと知っていた。彼氏がヤクザだとか、ある組の幹部の愛人だとか似たり寄ったりの複数の噂があるらしい。それが嘘か真実かは楓は知らない。真凛に確かめたこともない。真凛とこうして話すのに噂が事実かどうかを知る必要なんてない。どちらにしても、ああ、そうなのかと言うだけだ。そののんびりと構えている点をまた綾菜に呆れられた。

「楓はどうなの?」

 代わりに真凛がそう訊いた。楓は驚いた。

「まさか」

その言葉を聞いて真凛も驚いた。

「予想してたけど、一度も付き合ったことないとか?」

「変かな?」

「変」

 スパッと一刀両断され楓は笑った。ここまではっきり言われると逆に気持ちいい。

「良いなと思う人いなかったの?」

 付き合っても良い人・・・・・・

 そう考えてふと浮かんだのは“あの子”の言葉だった。

 これってレズかな。

 ひどく驚いたのを覚えている。当時は自分と“あの子”の関係なんて考えたこともなかった。友達?恋人?友達ならレズじゃなくて、恋人ならレズなのだろうか。でも、“あの子”のことを友達とも、恋人とも呼びたくなかった。そんな枠でくくりたくなかった。友達や恋人という関係で繋ぎ止めておけなかったから、好きだと言い続けた。“あの子”が言う好きが飛び上がるほど嬉しかった。好きという言葉で繋がっていた。それだけで楓は満足だった。幼い熱情に浮かされていた、“あの子”が死ぬまでは。

「・・・・・・ねえ」

 楓の呼びかけに真凛は首をかしげた。

「何?」

「私たちって友達?」

 突然の問いに真凛は目を丸くした。ふざけているのかと思ったが、楓の目は真剣だった。

「・・・・・・友達」

 楓をじっと見たまま真凛はぽつりと言った。

「・・・・・・って言ったら嫌なわけ?」

「どうしてそんなこと言うの?」

 わかんないの?と言って真凛は軽くでこピンした。

「今の楓、泣きそうな顔してる」

 楓ははっとした。そして、苦笑した。真凛の言葉はいつも胸の痛みを伴う。鋭いナイフのように厚い皮を切り裂き、隠してきたものを白日の下にさらす。とても、とても痛い。なのに、どうしてこんなに嬉しいのだろう。そして、

「見えないからわからなかった」

 どうしてこんなに切なく、悲しいのだろう。


 真凛は夕方の廊下を歩いていた。まだ電気をつけるほどの暗さではないため、夕日だけが差し込んでいる。ちょうど屋外で楓と二人三脚の練習をしてきたところだった。身長差があるわりに意外に息があい、軽い練習だけで済んだ。後は直前にまた感覚を取り戻せば問題ないはずだ。早く終わったからと楓はデッサンの練習のために美術室に戻ってしまった。自分はと言えば、短時間の練習とはいえ、じっとしていても汗ばむ蒸し暑さが不快でシャワーを浴びたかった。どうせ今日は休みだと思い、仕方なく荷物を取ってきて家に帰るつもりだった。

 真凛にとっては荷物置きの意味しかない教室に入ると生徒が一人だけ座っていた。それが誰だかわかって真凛は目を細めた。無視を決め込んで前を通り過ぎると彼女は立ちあがった。

「高山さん」

 それでも無視する真凛を声を強めて再び呼んだ。

「高山さん」

 真凛はやっとおっくうそうに振り向いた。綾菜だった。振り向いても何も言わない真凛に綾菜は眉をひそめた。

「返事くらいしてもいいと思うけど」

「そっちこそ言いたいことがあるなら言ったら?」

 楓と話すようになってからずっと知っていた。綾菜が自分に敵対心を持っていることに。会う度に鋭い視線を向けてくる。それがわからないほど真凛はにぶくはなかった。そろそろ来るだろうと思っていた。見るからに綾菜の敵対心は膨れ上がり、爆発しかけていた。真凛の挑発的な物言いは綾菜を刺激した。綾菜はキッと真凛を睨みつけた。こいつもだと真凛は思った。自分のことをどう思っているのかすぐわかる。そして、それが真実だと信じて疑わないことも。

「楓ちゃんから離れて、あの子をかどわかすのは止めて」

 綾菜も竹を割ったような性格で、回りくどいのを嫌いだった。相手が真凛なら遠慮はしなかった。

「楓ちゃんは高山さんとは違うの。普通の高校生でのんびりしてて、人が良いからって変な環境に引きこむのは止めて、わかった?」

 熱くなる綾菜に少し残虐な気持ちが現れ、真凛は薄笑いを浮かべた。

「何が?」 

「二度と近付かないでって言ってるの」

 綾菜はカッとなり叫んだ。

 綾菜は真面目なのだろう。だが、真凛にしてみれば失笑ものの正義感だった。普通とは何だ。普通ではないとは何だ。普通である楓が何をしてなくて、普通ではない自分が何をしていると思っているのだろう。噂に妄想をかきたてられ、一人相撲をとっているだけだ。

「馬鹿じゃない」

 真凛はその気持ちを隠さなかった。

「ガキみたいに喚いて。楓を取られたとでも思ってんの?」

 それは図星だったらしい。綾菜はわなわなと唇を震わせ、声が出せないようだった。しかし、掴みかからんばかりに近寄って来て、口を開いた。

「あ、あなたこそ、楓ちゃんを自分のものにしたと思うんじゃないわよ」

「思ってないし」

「思ってる!思ってるからそんな澄ました顔してるんでしょ」

「付き合ってらんない」

 会話が成立しなくなる兆しを感じ取って真凛は踵を返した。

「待ちなさいよ。馬鹿はあんたよ。何も知らないくせに」

 真凛は顔だけ振り返って、鼻で笑った。 

「優等生さんに馬鹿は酷だった?」

 綾菜は何か喚いたが、真凛は無視した。こういうタイプは簡単に幼児化してしまう。聞いていても意味はない。

 しかし、坂口という名前を聞いて、真凛は無意識に綾菜の方を向いていた。やっと注意を引けた綾菜はまくしたてた。

「坂口さんを思ってるの、楓ちゃんはずっと。私さえ見えないの。他の人なんてどうでもいいの。あんたなんて思ってないの。勘違いしないでよ。何も知らないくせに」

 後は同じことの繰り返しだったので、やはり真凛は無視した。ただ心の中で呟いた。

 知ってる。

 いや、気づいたと言った方が良いのかもしれない。楓がいつも誰かを基準にして比較してるのはわかっていた。そして、それは坂口という子なのだろう。坂口詩という、この世にはいない少女。死んだことは楓から聞いたのではない。例の司書の女性からそれとなく聞きだしたのだ。楓の口から坂口詩の名前が出てきたことはない。

 どうでもいい。今までの自分ならそう言っていた。そう言えないことに真凛は苛立っていた。坂口詩は死んでいるのだ。気にする必要はない。でも、楓の心の中に生き続けている。巣食っていると言ってもいいほどだ。だから、何だ。楓が誰を思っていても関係ないではないか。でも、確かに自分はその事実に心乱されている。なぜ?そんな堂々巡りを繰り返してきた。

 真凛は嘆息した。本当は気づいているのに認めたくないのだ。わかりにくいはずの自分のことさえ嫌になるくらい自分は聡い。とっくに気づいている。楓が自分にとって特別であることは。そうだとしたら、自分はどうしたいのか・・・・・・

「馬鹿じゃない」

 真凛は荒々しく鞄を掴み取った。


 そろそろ宿題をしようと思って9時を過ぎるとのろのろと楓は2階の自分の部屋に戻った。部屋は淡いピンクを基調としており、そこは女の子らしい部屋と言えるが、それ以外は必要最低限のものしかない簡素な部屋だった。机と本棚、タンスとベッド。ぬいぐるみ一つなかった。その中で机の上の貝殻をあしらった写真立ては母のお土産で数少ない小物の一つだった。楓は無意識にその写真立てを手に取った。そこには楓と“あの子”が写った写真があった。二人が写った写真は他にないことはなかった。でも、意外なことに二人だけの写真はこれ一枚だけだ。進んで写真を撮ろうとする二人ではなく、修学旅行のときに誰か友達の一人がほとんど無理矢理二人を並べて写真を撮ったのだ。そのせいか楓は苦笑しているし、“あの子”は前を向いてはいるが視線はカメラに向いていなかった。当然のことながら写真を見ても“あの子”と目が合うことはなかった。でも、それが楓には何にも増して悲しかった。

 “あの子”は楓に何も言わず逝ってしまった。白血病の診断を受けた次の日には自殺してしまった。強い子だと思っていた。もちろん人間なのだから弱い部分があって当たり前だ。でも、“あの子”は自分よりよほど意志が強く、揺るがない自己を持っていた、“あの子”の母親が葬式で言ったように忍耐強く治療を受けてくれると思っていた、生きようとしてくれると思っていた。しかし、現実には“あの子”は死んだ。結局、自分は何一つ“あの子”のことを理解していなかったのだ。好きだ、大好きなのに。

 笑って手を振るわ

 そう言った“あの子”の方が去って、何の心の準備もなかった楓が取り残された。

 机の横にある本棚にはスケッチブックがある。その途中に1ページだけ完成していないものがある。“あの子”を描こうとしてどうしても描けなかった。微笑む唇と悲しげな眉と意志の強い目と儚げな首筋、どれが“あの子”なのかわからなくなってしまった。ただどれも大好きで、大好きで、触れたい。それは一番に願うことなのに叶わないことだった。

 描きかけのページの後は全て同じ人が描かれている。真凛だ。図書室で話してから真凛は毎日のように放課後に美術室に来た。最初は美術のデッサンを仕上げるためにモデルになってもらった。でも、それからも真凛を描き続けた。話しながらだから出来は大したことはないだろうけれど、どれも微妙に表情が違う。その時その時に見える真凛がそこには描かれていた。“あの子”と同じ部分に懐かしさを感じ、“あの子”と違う部分に驚きを覚える。真凛は好きだ。知るほど好きになっていく。でも、その度、“あの子”に対する好きが消えていくようにも感じてしまうのだ。いや、それも正確ではない。“あの子”と真凛へのそれぞれの好きが一つになると言った方が近い。二人を別々に考えられなくなっている。一つの好きの対象として見ている。それは吐き気がするような嫌な感覚だった。個々のものを同じに見るのは“あの子”と真凛がされてきて、そして、してきたことだ。それが嫌なはずの自分がそれをしている。

 ただ好きでいたいだけなのに

 “あの子”がいたときはそれで良かった。好きという気持ちを全部あの子にぶつければ良かった。でも、“あの子”は不可解な存在となって消え、真凛に会って、“あの子”への好きが薄れていく。それは何にもまして耐え難い。ただ好きなものを好きなままでいたいだけなのに、“あの子”のように。

 笑って手を振るわ

 しかし、それが言えない時点で自分の好きが“あの子”の好きと異なることを楓はどこかでわかっていた。


 腕を掴んだ手の力は今までには知らないものだった。容赦のない強さに骨が軋む。怒鳴るつもりだったのに、男の顔を見て声が出なくなった。心の中で警鐘が鳴っていた。まずい、これまでと違う。一見すると真面目な姿が本当の危険を語っていた。どんな声も出なかった。助けなんて呼べるはずがなかった。


 家と反対の駅前に来たのはなんとなくだった。体育祭前の準備でここ数日は授業は午前中だけなのだ。3年に大した仕事が与えられず、帰らされるのは受験勉強のためだ。しかし、美術系の専門学校に行くつもりの自分に勉強も何もない。今は4時になるかならないかで、帰宅中の学生やサラリーマンはおらず、駅前はそれほど混んではいなかった。

 空をアスファルトと同じ色の雲が覆っている。もしかしたら、こんな天気だから出てきたのだろうかと楓は考えた。曇り空が好きだった。どんよりと暗く重い雲ではなく、薄い雲が光を抱え、淡く輝いている、そんな雲が好きなのだ。とても優しい雲。天から降り注ぐ全てを照らす光から自分を守ってくれる。光と闇は真逆の性質を持つというが、自分は同じものに思う。その中にいることは苦痛だ。自分が見えてしまう。こんなに卑怯で醜いのだと纏わりつく空気が叫ぶ。

ふと足が止まった。すぐ横をスピードを出した車が通り過ぎ、風が髪と制服のスカートを揺らした。見上げた雲は動かない。雲に開いた穴から絹のようななめらかな光の線が落ちていた。

 あんな子といるの止めなよ。

 綾菜がそう言ったのは6月の中旬。それから2週間は経っていた。

 私がいるじゃん。

 理由はなかった。ただ思ったことを言っただけだった。ただ少しだけいらついていた。

 綾菜ちゃんがいたらなんなの。

 綾菜が傷つくのはわかっていて楓は言った。今までならきっと言わなかった。だから、綾菜が楓ちゃんは変わったと言ったのは一部は的を射ているのかもしれない。でも、綾菜がいるから真凛といなくていい理由にならないと言ったのは楓の心だ。昔から変わらない楓の心が言ったのだ。ただ綾菜はその心を知らなかった。楓も見せようとしなかった。そして、綾菜はそんな心が楓には存在しないと思っていたのだ。

 それから綾菜とはほとんど話していない。お昼もいっしょに食べなくなった。一人で手早くお昼を済ませると図書室にいる真凛の傍で昼休みを過ごす。それは嫌ではなかったが、綾菜のことが気にかかる自分がいた。違うクラスで友達とお昼を食べているのは知っている。そのことではなくて、綾菜ちゃんがいたらなんなのと言ったとき、一瞬見せた綾菜の顔が忘れられない。驚きとも、悲しみとも別種の、感情がすっぽり抜け落ちて呆けた顔。それに感じたのは後悔でも、憐みでもなかった。

 ざわりと空気が変わり、そのために現実に戻った楓はすぐにその原因を知った。

駅前の広場で不自然なほど人が避ける区画があった。遠回りしてこちらまでやってきた中年の女性2人は昼間から騒がなくてもとこっそり文句を言った。その視線の先には数人の男たちがいた。彼らに囲まれるように制服姿の女子高生がいる。見間違えるはずがない。真凛だ。腕を掴まれた真凛は男たちを睨んでいるが、顔は青ざめていた。強気な真凛があんな顔をするのを初めて見る。それだけでどれほど危険な状況にあるのかわかった。なぜ助けを呼ばないのだろうと思って、さっきの会話を思い出して、はっとした。

 同じだと思われているんだ。

 あの男たちと同じ部類の人間と思われているから、助けを求めても無駄だと真凛は知っているのだ。

楓がじっと見ていると男から顔をそむけた真凛が楓を見つけた。楓は視線と共に言葉にできない何かが繋がったのを感じた。真凛がわずかに口を開けた。しかし、そのまま硬直し、何も声を発さず、唇を引き結んでうつむいた。ぷつりと音を立てて繋がった何かが切れた。あっと思わず手が出たが、手のひらには何も落ちてくるはずがなかった。楓はじっとその手のひらを見つめた。

奇妙な感覚が楓を満たした。一言でそれを言い表せば、冷たいだった。今までのような激しい感情がわいてこない。頭の中心と腹の底が冷たかった。何かが切れる音が繰り返される。引いても手ごたえのない感覚が手に残る。そんな経験、実際はしていないはずなのに。いや、したはずだ。こんなに鮮明に残っているのだから。手の中にある色は、赤、オレンジ、夕日の色。言葉が弾けた。

行かないで。

真凛が大人しくなると、男たちは観念したと思ったのか、そのまま腕を引いて行こうとする。楓は迷わず、男たちのもとに歩み寄った。

知っていた。楓は綾菜のあの顔を知っていた。何度も目にしたそれは自分の顔だ。自分の手の中にあると信じていたものが、実はそうではなかったと知った愚かな幼子の顔だ。執着して、それは自分のものだと叫ばずにはいられない哀れな人間の顔だ。

綾菜に感じたものは共感だった。

「真凛」

 男たちが不審そうに傍に立った楓を見下ろした。

「誰だ、お前」

「その子、私と同じ学校の生徒なんです」

 楓の声は単調だった。

「だから、何だ」

「連れて行かないで」

 拙い物言いに男たちは顔を見合わせて嘲笑った。しかし、楓は気にしない。目を見開いて固まっている真凛を見て、手を差し出した。

「行こ、真凛」

 真凛は動けない。おいと男たちの一人が割って入るが楓は真凛しか見えていない。

「行きたくないんでしょ?私といっしょにいて」

 真凛を力ずくで引っ張って行こうとするので、楓は真凛の腕を掴んだ。そんな楓を男が怒声を発して振り払ったので楓はよろめいて倒れた。真凛が声を上げる。周りでも声が上がったようだが、楓は心のどこか状況を把握していない部分で、真凛の声だけを歓喜の思いで聞いた。すぐに立ち上がってまた真凛の腕を掴む、しっかりと。絶対に離すものかと思った。

「真凛、行かないで」

 その瞬間、真凛が色をなくした。

 そこへ大きなどなり声が聞こえ、警官が2人走って来た。男たちは舌うちした。素早い身のこなしでさっとその場を離れる。警官の1人は男たちを追い、1人は楓と真凛のところにやって来て、大丈夫かと声をかけた。

 結局、男たちは逃げおおせたらしい。2人が連れてこられた駅前の交番に男たちを追った警官がしばらくして戻って来て、そう報告した。

 真凛はこの交番の警官と顔見知りのようだ。五十代くらいの警官はあいつらはいつもの不良とは違うんだから、関わるなとご立腹の様子だった。真凛はいつも向こうから近付いてくるのと赤みを取り戻した顔でふてくされて言った。どうもこういった騒ぎは度々起きているのだろう。真凛の容姿を考えれば、不思議ではない。これが噂の原因なのかもしれないと楓は思った。

 警官が時間までここにいろと言い、デスクで事務仕事を始めると、真凛は楓に部屋の隅のパイプ椅子を示し、2人で並んで座った。座ってすぐに真凛は楓の顔も見ずに、馬鹿じゃないと呟いた。そして、声をひそめて言った。

「ヤバいことわかってだでしょ」

「うん」

「何で来たの」

「ダメだった?」

「ダメって・・・・・・」

 真凛は呆れた。

「身の危険感じたら近付かないのが普通」

「真凛はいたでしょ」

 真凛は口ごもった。

「私は・・・・・・逃げられない状態だったから」

「真凛がいたからだよ」

 真凛は楓を見た。楓は気負っている様子はまるでなく、呼吸をするような自然さで言った。

「真凛がいたから行ったの」

 ダメ?と楓は小首をかしげた。

「楓・・・・・・」

 心が温かくなるのと同時に薄ら寒いものを真凛は感じた。楓は自分が言ったこと、したことの異常さをわかっていない。誰が危険に突っ込んで行く?何の対処の方法も持たずに。言うだけならできる。でも、楓は実際にそうした。

 楓は危険であることさえわかっていなかったのだ。頭で理解はしていたかもしれない。でも、真凛の腕を掴んだとき、危険を危険とは思っていなかった。ただ、真凛がいたから行ったのだ。他のことは何も気にならず、真凛だけを見ていた。

そして、真凛は楓の顔を思い返し、言いようのない悪寒を感じた。

「楓さ・・・・・・」

「うん?」

「・・・・・行かないでって誰に言ったの?」

「へ?」

「行かないでって言ったでしょ。誰に言ったの」

 真凛が繰り返すと楓がきょとんとした。

「真凛だよ。他に誰がいるの」

 真凛と楓の視線が交わった。今は楓が自分を見ているとわかる。でも、あの時、行かないでと楓が言ったとき、なぜかひどく恐くて、ひどく怒りを覚えた。楓は自分を見ていて、でも、それと同時に他の何かを見ていた。嘘つきと叫びたくて、叫べなかった。

 馬鹿だ、馬鹿だと思った。何でやって来るんだと。危ないんだと。自分でさえもうダメだと思った。でも、嬉しかった。真凛と呼ばれて、それで腕を掴まれた。男の汗ばんで熱いだけの堅い手と違って、柔らかくぬくもりを持った手だった。嬉しかった。

 馬鹿だ、馬鹿だ。そして、勝手に傷ついているのだ。楓が自分以外の誰かを見ているから。

 楓が少し顔を上げないと身長差で視線は合わない。楓のあごに手をかけた。あごのラインがきれいだと思ったのは本当だ。すっと耳元まで伸びるラインを指でなぞる。

 突如わいた衝動はキスしたいというものだった。キスして、これは私のものだと叫びたかった。


 日が暮れると、真凛は付き合ってほしいところがあると楓を駅前のあるビルの地下に連れて行った。地下には店があって、openの札がかかっていた。地下に下りる階段の壁は鉄筋のコンクリートだったが、中に入ると内装は木材で統一していた。暗闇にぼんやりと浮かぶ木目が暖かみを持つ。オレンジ色の照明を囲うように流線状に薄い紙のオブジェが下がっているのが洒落ていた。薄暗く、会話を邪魔しない程度のジャズが流れている。まだ開店したばかりなのか客はぱらぱらとしかいない。真凛は散らばった丸テーブルを縫うように歩き、カウンターにまっすぐ向かっていった。そこにはパリッとした白いシャツに黒のズボンとベストを着た二十代くらいのメガネをかけた若い男性がいた。彼は真凛が入ってくるとすぐに気が付き、目の前に座るとばっと身を乗り出した。声をひそめてはいるが、かなり動揺している。

「おい、聞いたぞ。また、からまれたって。大丈夫なのか?」

「ご覧の通りです」

 軽い口調で返事をする真凛に男性は頭を抱えた。

「こっちはめちゃくちゃ心配したんだ。寿命縮めるな」

「ノミの心臓しか持ってないあんたが悪い」

 そう言ってから真凛はどうしていいかわからず突っ立っている楓を振り返った。

「そんなとこにいないでここに座りなよ」

 そこで初めて男性は楓に気がついて目を丸くした。真凛と楓を交互に何度も見ていたが、楓が会釈するとバツが悪そうにはにかんだ。

「すみません、お恥ずかしいところを。店主の佐野です。どうぞ、座ってください」

「このマスターは信用できるから大丈夫。取って食ったりしないよ」

 佐野はおいと抗議の声を上げたが、楓にはカウンターから出てくると椅子を引いて座るよう促した。

 楓が座り、カウンターに戻ると何かカクテルを作り始めた。その姿は様になっていた。

「まだ注文してないんですけど」

「ニックに頼まれてるんだよ。そうじゃなきゃお前に酒なんて出さない」

 佐野は楓に向かって秘密にしておいてねとそっと人差し指を口元に立てた。

「こら、ナンパしない」

「してないよ。魅力的なお嬢さんだけど」

「それがしてるって言ってんの」

 そして、くすくすと2人で笑った。カウンターのほの明るい照明を浴び、向かい合った2人は絵になる。佐野は美男子と言うほどではないが、目に見えるような柔らかな雰囲気が魅力的だ。メガネ奥の細い目が優しげに下がる。それは親しい女性、恋人を見る目というより・・・・・・

「2人は兄妹?」

 思ったことがそのまま口から出ていた。

「は?」

 声がはもり、2人は顔を見合す。そして、ぷっと吹き出して、肩を震わせた。全てみごとなまでに同じタイミングだった。

「楓、最高。初めて言われた」

「本当に。似たことは言われたけどな。お前ら恋人らしくないぞって。でも、ストレートにきたね」

 相乗効果で2人の笑いの波は収まらない。楓はしっくりこず、尋ねた。

「恋人なの?」

「まさか、もっと良い男じゃないと私と釣り合わない」

「言ってくれるね。俺だってお前なんか眼中にないね。百万倍魅力的な奥さんがいるんだから」

「結婚されてるんですか?」

「そ、こいつ中学からの大恋愛を成就させて去年の春にね。逃げられたけど」

「誤解を招くことを言うな。真衣はデザインの勉強のために留学しただけだ」

「逃げられたんじゃない」

「違う」

 そして、またくすくすと笑った。すごく自然な笑い方だった。今の真凛は年相応の顔をしていて、普通の女子高生に見えた。昔からの付き合いのようなので気心が知れてくつろげるという理由もあるのかもしれないが、佐野自身の柔らかな雰囲気に感化されているようにも見える。楓自身初めて来た店だというのに緊張しなかった。

 佐野がすっと淡いピンクのカクテルを差し出す。

「これ一杯だけだからな」

「本当にニックに弱いわね」

「もちろん。大事なピアニストだからな。代わりに後でよろしく」

「はいはい」

 手に取り、真凛はわずかに目を細めて色を眺めた。グラスを傾け、カクテルが同じ色の唇に消えて白い喉が上下する。小さく息をついて、良い味と自分にだけわかるように呟いた。うっとりするような図に見惚れていた楓を瞳だけで真凛が見やる。そして、微笑んだ。どきりとする。優しい微笑みなのにさっき佐野に見せたものとは微妙に違う。艶を感じるのは唇が濡れているだけではないだろう。

「楓も飲む?」

「おい、少しといってもアルコール入ってるんだぞ」

「弱い?」

 真凛が尋ねる。楓はかぶりを振った。アルコールへの耐性は遺伝的なものだ。母は飲めないが、父は酒豪だ。楓はどうも父の血を受け継いだようで酒には強い。飲めない母の代わりにと父の晩酌の相手もしている。飲めると楓はきっぱり言った。少しむきになるような言い方だったせいか2人がまた笑う。佐野はグラスにオレンジ色の液体を入れて差し出した。オレンジジュースねと言って、いたずらっぽい笑顔を見せる。

「信用できるって言われちゃったからね。未成年には酒は出せません」

 楓が少し不満そうな顔をすると、こいつにだっていつもは出してないんだよと佐野は言った。

それからしばらくたわいもない話をしていたが、突然、ずっと流れていたジャズが消えた。そして、ポロンと軽いピアノが聞こえた。ポロンポロン。いつの間にかいっぱいになっていた店の隅がゆっくり明るくなってグランドピアノがぼんやりと現れた。ポロンポロン。おいで、おいで、こちらにおいで。まるで小人か妖精がそう言っているかのような音色だった。ピアノを弾く黒人の中年男性が白い歯を出してこっちを見て笑った。まるで少年のようなあっけらかんとした笑いだ。

「ほらニックが呼んでる」

 佐野がとんと真凛の肩を押す。

「カクテル一杯なんて私も安く見られたもんね」

「生意気なこと言うな」

 佐野が苦笑する。

ピアノのリズムはだんだん速くなる。弾いている本人も体を左右に動かして、踊りたくなるようなテンポの良い曲を弾く。

「待ちきれないだってさ」

「仕方ない」

 真凛はすっと立ち上がると楓にウインクした。見ててと言うかのように。楓は頷いた。

 真凛がピアノの傍に立つとどこからともなく拍手が起きる。ニックと呼ばれる黒人男性の頬にキスして、いくつか言葉を交わすと真凛は頷いた。拍手の波が引いていく。しんと店内が静まりかえると彼とアイコンタクトを取り、真凛は微酔をおびたようなぼんやりとした表情でライトを見上げた。上げた手をおろすのと同時に密やかに声をすべり出した。その後を追うようにゆっくりとピアノの音が響く。真凛の声がミルクのようにまろやかに空気に溶けていく。そこにピアノがリズムを付ける。知らず知らず皆がその美しさに息をのむ。真凛の半眼の目はどこか遠くを見ているようで、もしかしたらそれは楽園ではないかと思わせる。讃美歌に似ていると思ったのはそのせいかもしれない。何かを讃え、悲しいまでの憧れが滲み出す。空間がすーっと広がる感じがする。それは解放感だった。どこまでも続く草原と海と空、そして、その先の豊饒な大地。何を歌っているのか楓にはわからなかったが、そんなことを歌っているに違いない。飛翔して、眼下にそんな風景が流れていく映像が容易に頭の中を流れていった。美しい。

 その緩やかな調べはゆっくり収束していき、最後に吐息のような儚さで消えた。息を詰めていた客たちは一斉にほうと息をついた。だが、すぐに曲風が変わり、アップテンポのリズムが壁を、床を、人々を叩いた。真凛はぱっと笑い、体全体でリズムをとって張りのある声で歌い出した。まるで春の花畑で浮かれ踊る少女を見るように自然に皆笑顔を浮かべていた。

「綺麗な歌でしょ?」

「はい」

 佐野の声に呆けたままの楓はそれでも反射的に頷いた。

「ニックのオリジナル。ニックってのはあのピアノ弾いてる人ね。真凛にしか歌わせないって言ってる。真凛の歌に惚れたんだってさ」

「わかります」

 佐野が楓を見た。それに気付かず、楓は真凛を見たまま、わかりますと繰り返した。

「君は真凛が恐くないのかい?」

「え?」

 そこでやっと楓は佐野を見た。佐野はしばらく楓を見ていたが、一つ頷いて歌っている真凛に視線をやった。

「俺ね、真凛の従兄なんだ。俺の父親が真凛の父親の兄で、近くに住んでたから、真凛が生まれたときから知ってる。真凛の両親はどちらも忙しい人だったから、あまり真凛に構うことが出来なくて、真凛は俺の家によく預けられて、年が近い俺が面倒を見てた。俺に一番懐いてて、だから、保育園や学校が終わって泣きついてくるのはいつも俺のとこだったよ」

 楓に視線を戻すと、佐野は悲しげに微笑んだ。それでなんとなくわかってしまった楓は目をそらした。

「君はいくらか事情を知っているみたいだね。全部あの姿のせいさ。日本人離れした姿のせいで、ある人は真凛を恐がって、違う人は厭わしく思って、で、仲間はずれにするんだ。真凛の教科書や筆記用具、いろんなものが隠されて、それが日常茶飯事だったよ。あいつもあいつで不器用で、愛想を振り撒いたり、長いものに巻かれたりとかできなくてね。強がってたけど、俺のとこでは泣いてた」

「・・・・・・それ、私に言っていいんですか?」

 楓が呟く。真凛はずっと昔のことは言わなかった。たぶん自分に弱さを見せたくなかったのだろう。だったら、自分が聞いてはいけないことなのではないだろうか。

「ここに連れて来たということはきっと君に知ってほしいんだと思うよ。あいつは自分では言えないだろうし、俺から伝えてほしかったんだと思う」

「・・・・・・そうですね」

 ここは真凛にとって特別な場所だ。きっと真凛が真凛でいられる居場所で、侵されたくない大切な場所だ。それはとっくにわかっていた。そして、そんな場所に連れて来たことに何か意味があるのだろうということも。期待に似た予測ではあったけれど。

 知ってほしいのかな、私に。知って、いいのかな・・・・・・

 真凛を見た。照明を浴びて真凛はきらきら輝いている。色素の薄い髪一本一本が光を弾いていた。暗いところから明るいところはよく見える。しかし、明るいところから暗いところは見えない。楓に真凛がよく見えても真凛からは楓は見えないだろう。カウンターも今はほとんど明かりがついていないのだから。だが、真凛がこちらの方を見たとき、楓は真凛と目があった。あの繋がる感じだ。高揚している真凛は楓に手を振った。

 真凛はどうしてか楓を見つけるのがうまい。気づかないだろうと思っても見つけてしまう。それが嬉しい。気づかれなくて当たり前な自分なのに、気づいてくれる、見つけてくれる。試すように息を殺していることがある。そして、視線が繋がると幸福を感じるのだ。

「恐くなかったです」

 不思議そうに見る佐野を楓は見た。

「私は、真凛が恐くなかったんです」

「『なかった』?過去形なの?」

 楓は自分に教え込むようにゆっくり頷いた。

「はい。今は、恐いです・・・・・・真凛がいなくなったらどうしようって、恐い」

 佐野は少し考え込んで言った。

「誰か亡くした?」

 楓ははっとして顔を歪ませた。それを見て佐野が困ったように苦笑した。

「そんな泣きそうな顔しないで。驚くことだったかな・・・・・・ただ、君くらいの年の子が近しい人がいなくなることを恐れる場合は、大抵そんな経験があるものだから」

 ごめんねと謝る佐野にかぶりを振る。もやもやとしたものが胸につっかえて、押し流すようにぬるくなったオレンジジュースを飲んだ。そして、楓は遠慮がちに佐野を仰ぎ見た。

「佐野さんの奥さんは・・・・・・海外にいるんですよね?」

「うん」

「寂しく・・・・・ないですか?悲しくないですか?近くにいなくて」

 おずおずと言う楓に佐野は微笑んだ。そして、きっぱり言った。

「寂しいし、悲しいし、つらいし、苦しい」

 好きな人と離れてるんだ、当たり前だよと佐野はまた微笑んだ。その微笑みは少し歪んでいた。自分が子どもだから適当に言っているのではないと感じた。佐野は何でもないように生ぬるいオレンジジュースの代わりにアイスティーを出した。飲んで見てと言われ口をつけるとほのかな甘みが舌をくすぐり、喉を滑りおちた。おいしかった。とても優しい味がする。真凛が好きなんだ、それと佐野が加えて言った。楓はもう一度口をつけた。表面で茶色の自分が心細そうに揺れている。真凛もこのアイスティーを飲んで、そして、やりきれない思いを癒してきたのだろうか。同じように優しいこの人にぽつりぽつりと語りながら。丸くなり震える背中は頭の中に見えるのに、どうしてか涙を流す顔だけは見えない。その顔を佐野は知っているのだろう。なんとなくわかる気がした。このアイスティーが理由を語っている。佐野の前では凝り固まったものが糸のようにするするとほどけていく感じがする。

「ある人が・・・・・・」

「うん?」

 楓は嫌な汗が浮く手のひらを水滴のつくグラスに当てて呟いた。

「ある人が・・・・・・好きな、人に、言ったんです。縛らないって。もし、離れる時が来たら、笑って手を振るって」

 そうと佐野は相槌を打った。

「潔い人だね」

「はい」

「俺には言えないことだね。真衣が離れようとしたら、泣きつく。十数年越しにやっと夫の位置をゲットしたんだし」

 情けないねと佐野は頭をかいた。実はと佐野が語り出す。

「結婚したのもさ、真衣が留学するってわかったからなんだ。離れたら真衣が他の男に取られないかと心配で、だから、ずっとためらってたけど、プロポーズして・・・・・・俺は出来ないな、そんなこと」

「私にも絶対できません。あの子だから、あの子は強いから、言えたんです」

 声が震えて楓はうつむいた。佐野は少しの間、近くにあるグラスをいじっていたが、ごめんねと呟いた。

「でも、それは強いとは思わないな」

 楓は驚いた。

「どうしてです?」

 佐野は楓を見つめた。

「好きな人と離れたいと思う人はいない。それなのにそんな覚悟をするのは恐いからだよ」

「恐いって何が?」

「そうだね……嫌われることに……かな」

 嫌われたくない

 楓は目を見開いた。佐野は続ける。

「突然の別れが恐いというのもある。あらかじめ覚悟してるとかね」

「そんな・・・・・・別れたいなんて・・・・・・」

 胸が痛い。喉が熱くて、言葉を出せないように何かが詰まって息苦しい。それでも声を絞り出した。

「一度だって思わなかった」

 かすれても、それは叫びだった。佐野は何かを悟ったように目をふせ、かぶりを振った。

「誰も誰かの心全てを理解することはできないよ」

 優しいだけの言葉を佐野はかけなかった。でも、楓に向けたその目はやはり優しかった。

「俺が言ったことはその人が思ったこととは違うかもしれない。でも、皆恐いのは確かだよ。皆他の人がわからない。だけど、恐くても、好きになる」

「でも……私は自分の好きが嫌いです」

 ずっと好きでいたくて、しがみついて、それなのに他の人が好きになって、いろんな人を傷つけている。“あの子”のように相手を考えることができない。そんな自分本位な好きが嫌いだ。

「あの子のように誰かを好きになりたかった……」

 そうすれば、こんなに醜くならずに済んだだろう。しかし、佐野が言った一言が突き刺さった。

「でも、君は嬉しそうじゃないね」

 どくんと心臓がはねた。

 嬉しそうじゃない?

 “あの子”に願うことはたくさんあった。もっといっしょにいたかった。離れたくなかった。別れの覚悟なんていらなかった。依存してほしかった。ずっと、ずっと。

 だけど、“あの子”の好きではそれは叶わなかった。

「どんな方法で好きになるのが一番だなんて俺なんかがわかるはずないけど、君が満足してないなら、そんな風に誰かを好きになる必要ないよ。それにたぶんしたくても出来ない」

 楓は何も言えなかった。 わからなかった。あの子の好きは美しくて、清純で、憧れていた。でも、その純粋なガラス細工の気持ちが自分から“あの子”を奪ったのだろうか。自分は今も昔も幼稚な好きを叫んでいるだけだ。ただ心が示す方へ自分を躍らせている。その途中で出会う手を掴んで、離して、離せない手をもてあましている。どれが良いというのだろう。わからない。ただ“あの子”と真凛が押し寄せてきて、おぼれてしまいそうだった。無意識に真凛を見やると、すでに歌い終わっていて、客の男性と何かしゃべって笑っていた。

「あれは前の前の彼氏だな」

 佐野が呟いた。楓はもう一度男性を見た。彼はスーツを着ていて、平凡な姿だった。

「ヤクザの?」

 自分でもそう思えないまま言うと、佐野は吹き出した。

「まさか。それならあっちの青のシャツ着てる彼の方がらしいな。最初に彼氏と呼んだのが彼のはずだよ」

 佐野が示した方向には、暗闇でもわかる白い肌、白人男性がいた。確かに胸元を大きく開けて少し悪そうな感じだが、どうもヤクザという感じではない。佐野を見ると、もちろん違うよと笑って言われた。

「真凛はこの店に閉店までいるんだ。昼間の騒ぎもそうだけど、遅い時間にふらふら歩いて帰るから警察につかまったりしてね。そのせいで変な噂がたつ。あいつらは気持ちの良い連中だよ。代わる代わる真凛を家まで送ってくれる。だから、昼より夜の方が安全なくらいだよ」

 佐野が言っていた男性が真凛に声をかける。他の男性も、女性も。真凛は学校ではまるで空気に針でも混ざっているかのように息苦しそうにしている。でも、ここではそんなことがない。伸び伸びしている。肩や背中を叩きあって子犬がじゃれているようだ。

「なんだか、兄弟みたい」

「そんなもんだよ。みんな真凛を妹か何かと思ってるんだ」

「え?でも、付き合っていた人もいるんじゃ……」

 そこで佐野は悪戯っぽく微笑んだ。

「あんな色気のない奴は女と呼べないだってさ」

「色気がない?」

 楓は目を丸くした。あんなにスタイルが良いのに?真凛ほど足が長い人はめったにいない。真凛ほど綺麗な女性はお目にかかったことがない。

「見た目だけが色気じゃないんだよ。あいつもくだらないとか言って流し眼一つしない。あいつらしいと言えば、あいつらしいけど。ただ彼女、彼氏と言っていた方が説明しなくて楽なんだよ。いっしょにいると他人は詮索したがるから。みんな真凛は良い奴だと言うよ。いっしょにいて楽だって。真凛も同じことを言う、ここでは誰も見た目だけに囚われない。自分の一部として見るだけだってさ」

 佐野の目が優しく細められた。

「それを言ったのは最近になって。君に会ってからだ」

「え?」

「学校のことを話すようになって、珍しいと思ってたんだ。よく聞いてたら、同じ女の子のことを話してて、名前は絶対教えてくれなくてさ。でも、今日見て気づいたよ。君のことだったんだなって。この見た目に一番囚われていたのは自分だったって言ったときの真凛の顔、穏やかでさ、こんな顔出来るんだって驚いた」

 ニックと呼ばれるピアニストが真凛を後ろから抱きしめて、どっと客が沸いた。茶色を明るくしたようなオレンジの淡いライトの下、皆がたったひとつの灯火の中にいるようだ。真凛は身をよじって嫌がるが、口を大きく開けて笑っている。

楓は思わず微笑んだ。暖かい何かが心を満たした。真凛が笑っている。そのことが何だかとても嬉しかった。

「真凛は君と出会えて自分と向き合えるようになった。君にとっても真凛との出会いは良いものだったかな?」

「はい」

 こぼれた吐息はアイスティーの甘みがそのまま乗ったようだった。

 真凛が人混みを掻き分けてこちらにやってきた。人いきれの中にいたせいか顔がほのかに上気している。珍しいあどけない表情に楓は佐野を見て、ちょうど楓を見た佐野といっしょにくすりと笑った。それを見た真凛はじろりと佐野を見て、この女たらしとふてくされて言った。佐野の真凛の扱いは慣れたもので、なだめながら楓の隣に座らせるとミネラルウォーターのグラスを置いて、その場を離れた。

 真凛が喉渇いたと呟いて、ミネラルウォーターを飲み干すと、楓は少しはねた真凛の髪を整えるように撫でた。頭を動かせず、真凛は瞳だけ動かして楓を見た。気持良さそうな猫みたいな目は確かに色気とはほど遠い。だけど、心から絶えず何かが湧き出し溢れ出す。抱えきれずにいろんなものをこぼしながら楓は言った。

「きれいだった」

「うん」

 真凛は目を閉じた。楓の手は動き続ける。

「まだ響いてる。響いていてほしい、ずっと」

「そっか」

 真凛が満足そうに笑う。

「最高の褒め言葉だね」

「真凛」

「ん?」

 溢れる、溢れる。やはり抱えきれないまま指が痺れた。

「ありがとう」

 真凛はそこで目を開けて楓を見た。

「何が?」

 言葉だけで、その目も、手も、声音も楓に尋ねることはなかった。大理石のように美しさで全てを跳ね返すのではない。白砂が静かに水を吸い込むように楓から溢れ出す何かを受け入れてくれていた。そのまま全て浸み込んでしまえばいいと思った。醜いものも全て、彼女といっしょになれば浄化してしまうのではないかと感じた。その時、真凛からも湧き出す何かを感じた。

「楓」

 真凛が唇を噛みしめて、髪を撫でる楓の手を取り、ぎゅっと握った。

「言いたいことが……」

 灰色の瞳が揺れた。が、真凛はかぶりを振った。物怖じしない真凛らしくない躊躇いを楓は不思議に思った。

「真凛?」

「……土曜日」

 真凛は呟いた。楓に再度向けた目は何かを決心していた。

「土曜日。体育祭の後に、言う」

 溢れ出す、溢れ出す。指の間を滑り落ちるそれは痺れた指では熱いのか冷たいのかもわからなかった。




 体育祭の日、前日の雨のせいでグラウンドはぬかるみ、空もすっきりとしない曇り空だった。ぬかるみはいただけないが、日が照り、暑くなるよりはましだというのが大多数の意見だった。夏は受験の天王山だという。その前にある最後の一大行事に3年の張り切り様は凄まじかった。その熱気に1年と2年も感化され、次第に天候も気にならない盛り上がりをみせるようになった。頭が割れそうなほどの声援が上がる。誰とも知らない生徒の振り回す腕がぶつかるが、その肌と周りの空気の熱もなぜか楓には伝わらなかった。

集団から抜け出し、楓は自分の団の席に座って前の方で立ち上がって応援する同じ団の生徒の背中を見た。彼らの足の間から時たまものすごいスピードで駆け抜ける足が見えた。ここからは見えないが、盛り上がりからして1位争いをしているようだ。リレーには綾菜が出ているはずだ。せめてリレーは応援しようと思っていたのに、どうしてか立つのがおっくうだった。左に目をやると6組の席には誰も座っていなかった。真凛も。ちらほら気分の悪くなった女子生徒が座りこんでいるくらいだ。楓は背もたれに体を預けて真上を見上げた。濃い鼠色の雲が空を這うように動いている。そして、鼠色の次に目の端に薄い灰色がゆっくりと現れた。こっちの色の方が好きだ。真凛の目の色に似ている。頭の奥で羽虫が音をたてて羽ばたいているかのようだ。脳がすかすかのスポンジみたいでそれだけ考えるのにも時間がいった。注意力が散漫なのはこの体育祭の後に真凛が何か言うと宣言したせいだろうか。良いとも悪いとも言えない予感が胸を騒がせる。

 灰色の雲が流れ、突然ぽっかりと青空が現れた。丸くくり抜かれた空間に太陽が顔を出す。全てのものに影が落ちる。光に目を貫かれ、腕で庇うのと同時にゴールを告げるピストルが響いた。

「楓」

「真凛……」

 真凛が楓を上から覗き込んだ。

「次、私たちの番。行くよ」

 楓は目をぱちくりさせていたが、うんと言って手を上げた。その手を真凛は仕方ないなと笑って掴み、楓を引き起こした。

 スタート地点の傍で内側の足にゴムを付けて順番を待つ。いくつかの競技を終えたグラウンドには至る所に穴が開いていた。そして、コースの周りには泥まみれの三角コーンがそれでも赤く目立って点々と置かれている。短いものだ。ほんのグラウンド半周。それだけで、自分の役割は終わってしまう。

「楓こっち」

 動きやすいように真凛が楓の腰に手を回して引き寄せた。楓もつられて真凛の腰に手をやった。結局、体育祭前に二人三脚の練習はしなかった。だから、最初に練習したときの見た目の細さからは想像できない真凛の体の柔らかさへの驚きがまた新鮮なものとしてよみがえった。真凛を見上げると、同時に青空も目に入った。ぽっかりと開いた穴に覗く青空。何もなくて引き込まれる。

何もなくて?本当にそうだろうか。自分の心も連れて行かれたように、本当はいろんなものが詰まっているのかもしれない。ただ透き通ったその色に自分が何も見えていないだけなのかもしれない。その青は綺麗過ぎて恐くなる。飲みこまれてしまいたいという衝動と固い地面に足をつけることで感じる暖かみと心地よさが渦を巻く。よろめいて真凛をぎゅっと抱き寄せた。

「楓?」

 楓は真上を見上げたまま、快楽に似た感情とその感情への恐怖とで感じる眩暈に耐えながら言った。

「あの空……真凛に似てると思ってた。あの青空……」

 真凛が空を見上げた。その灰色の目に青が滑る。

「そう」

「でもね、今は、違うと思うんだ……」

 歪んだ空で青と灰が混ざる。

「“あの子”に似てる……」

 真凛の手に力がこもった。遠くで教師の声とピストルの鳴る音がした。無意識に出した足は練習と同じ、繋がってない方の足だった。呼吸が真凛とあまりにも同じせいか自分が息をしていないように感じた。真凛の呼吸と鼓動ばかりがやけに大きかった。すがっても離れても転ぶ。そんな中で走っていた。何も考えていなかった。ほんのわずかな時間の後にやってきたゴールテープもほとんど感じていなかった。ただ足を止めたとき、まるで人生をその短い時間で辿ったような奇妙な徒労感が残った。何も口にできないまま、ぽん、ぽんと同じ団の生徒に肩を叩かれ、最後に真凛が背中を叩いたときにやっと楓は顔を上げた。

「終わったあと、教室で待ってて」

 そうささやいて真凛は離れていった。

 楓たちの団は2位だった。優勝したら告白をするという女子生徒がどうなったか、楓は知らない。ただいつものように恒例のキャンプファイヤーが自由参加で行われた。自由参加でもかなり多くの人が残っているし、明らかに生徒ではない大人の男女も増えていた。自然にカップルで歩く人が増える。暗黙の了解でキャンプファイヤーに参加するのはカップルのみ。一度は参加したいという憧れがあるせいか、この時期だけ無理矢理相手を見つける生徒もいるらしい。どこかぎこちなく身を寄せ合って歩くいくつかのカップルもそんな出来合いの一つなのだろう。

 なかなか火のつかなかった積み上がった木材も辺りが真っ暗になるころには火の粉を噴き出して火が立ち上り出した。消防署からの注意があり、今までより規模は小さいが、それでも炎がその激しさに似合わず優しい色で人々の顔を照らすとどの顔も満足そうにその色に見惚れていた。闇は人を近くする。光が妨げる距離を消す。だけれど、距離がなくなることが恐くて、また光を求める。それは無意識の欲求なのか、明るい方へと人々は流れて行く。楓はその流れと逆の方向に向かった。わざわざ玄関に回るのも面倒なので、近くの通用口へと歩いて行く。廊下の明かりが教室を通してわずかに外にもれていて、足元は見えていた。そこで後ろから声をかけられた。

「楓ちゃん」

 綾菜がそこに立っていた。ずっと話していなかった綾菜はどこかおずおずと楓を見ている。楓は綾菜に向き直った。ふと見えた綾菜の足に渇いた泥が筋になって白くこびりついていた。

「リレー1位だったね、おめでとう」

 綾菜が次の言葉に迷っているのを感じて、楓は言った。リレーの順位は最後の結果発表で知った。

「ありがとう。私も1位になるとは思わなかった」

棘のない楓の態度にほっとして、綾菜は顔を明るくして声を弾ませた。

「みんな足速いしね」

「そうそう。3組の田中さんとか」

「7組の佐川さんとか?」

「ああ、確かに速いよね」 

 綾菜が笑った。彼らに勝ったのだといういやらしい笑みではなく、スポーツをする者に特有のやり遂げた晴れ晴れとした笑みだった。そして、何か思い出したようにあっと声を上げた。

「楓ちゃんはこれからどうするの?帰るの?」

 軽い調子で綾菜は尋ねた。用事がないなら、どこか寄って行こうと誘う声だった。

「ちょっと教室でね」

 楓は困って苦笑した。楓のその表情で気づいてしまったのか、綾菜はさっと顔をくもらせ、泣きそうな顔になった。

「……高山さんと会うの?」

 楓はじっと綾菜を見ていたが、ゆっくりと頷いた。

「何で?」

「会いたいから」

 楓は率直に躊躇いもなく答えた。

「私じゃダメなの?」

「綾菜ちゃん……」

「見てたよ、高山さんといるとき、楓ちゃん、本当に嬉しそうに笑うの。いつもよくわからない天然な子だって思ってたけど、あの人といるといつも嬉しそうで、幸せそうで。それがすっごくわかる。なんで私じゃダメなの?私、楓ちゃんといたいよ?いつまでも友達でいたい。ダメなの?」

 涙声で、向けた目は真っ赤だった。そんな感情を露わにする綾菜とは対照的に楓の声は穏やかだった。

「ダメじゃないよ。私たちは友達でいられる。綾菜ちゃんが友達でいたいなら」

「なら!」

「でも、真凛といるときのようにはなれないよ。綾菜ちゃんの前では」

 さっきから2人の距離は一歩も縮まってはいなかった。それに綾菜は気づいているのだろうか。楓は自分から一歩近づこうとはしなかった。それは卑怯なのかもしれない。けれど、これがその距離なのかもしれない。「友達」という言葉の距離。

「綾菜ちゃんは『友達の私』しか受け入れてくれない。でも、真凛は『私』を受け入れてくれる」

 綾菜は目を見開いた。表面張力で留まっていた涙が同時にこぼれた。綾菜は何か言おうとするが、声が出なかった、言葉が見つからなかった。そして、うつむいて、叫んだ。

「変だよ!絶対、変!楓ちゃんも、あの人も。何で?みんなそうしてるじゃん。友達でいるじゃない!何でダメなの?」

「……友達って名付けたら、楽だよね」

 楓はぽつりと言った。綾菜は漠然と楓の言いたいことがわかっている。それを無理に言葉にして見せつける必要はないのかもしれない。でも、楓は言いたかった。

「友達って言えば、友達らしいことだけしていればいいんだから。それだけで、友達と呼ぶだけで、その人を知って受け入れる覚悟をしなくても、いっしょにいられる。独りじゃなくなる」

 綾菜の顔はヒビの入った花瓶のようにただ意味もなく涙が流れていた。心の中に葛藤が見える。だけど、どうしても口に出来ないことが楓にはわかって、優しく微笑んだ。

「良いんだよ。そんな覚悟しなくても。出来なくても良いことなんだよ。私も誰に対してもそんな覚悟できない。だから、綾菜ちゃんが友達でいたいなら私は綾菜ちゃんの友達でいるよ。それがきっと普通のことだから。でも、真凛は違うの。私は真凛に会いたい。ごめん」

 綾菜はわっと声を上げて泣き出した。

慰める言葉も、差し伸べる手も楓は持っていなかった。きっと自分の持つどれも綾菜が望んでいるものではない。見せかけのものなんて嫌だった。嘘偽りの生温かい甘い心地よさが嫌で、それに妥協するのが嫌で、綾菜を傷つけた。泣き声が追いかけてきたが、ごめんとだけ呟いて、楓は校舎の中に入って行った。

 真凛はすでに教室にいた。教室内の電気はついていなかったが、廊下の電気と外のキャンプファイヤーの明かりで教室の中は見えていた。真凛は当然のごとく1組の教室に馴染んで、誰の席ともわからない机の上に足を放り出して座っていた。

美しい横顔が闇に浮かんでいる。出会ったときと同じだった。

楓が真凛と呼びかける前に真凛は楓に気づき机から飛び降りた。窓を背にして、こちらに歩いて来る。楓も教室の中に足を踏み入れた。空間がぐにゃりとねじれて、別の世界にでも来たかのように奇妙な感覚が楓の全身を包んだ。それは脳髄が痺れるような甘美な感覚だった。

「真凛、どうしたの?」

 目の前に真凛が立った。真凛は黙ってゆっくり手を差し伸べて、楓のうなじに手をやり、首筋に顔を近づけた。産毛がぞわりと逆立って、楓は硬直した。蛇に睨まれた蛙というには胸がちりちりと焼けるように熱かった。真凛がくんと鼻を動かした。

「楓、汗臭い」

 真凛がくすりと笑った。

「……真凛だって」

 なんだか脱力して、楓もつられて笑った。2人とも着替えず、ジャージのままだったので、汗と泥の匂いが染みついていた。でも、その奥から真凛の香りがした。官能的な疼きが体を這い上って、楓は体を震わせた。真凛がすっと顔を離して楓を見た。真凛の目は熱っぽいものになっていた。自分もそんな目になっている自覚があった。真凛が手を上げて、楓の頬に当てたのが目の端に見えた。

「楓ってさ、付き合ったことなかったよね」

 ゆったりと手を動かし、楓のあごを指でなぞりながら真凛は言った。

「うん」

「ってことはキスもまだだよね」

「うん」

 頭がぼーとして、よくわからず、楓は答えた。真凛が悪戯っぽい笑みを見せ、しかし、目は真剣な色をたたえ、言った。

「教えてあげようか。キスの仕方」

 その瞬間、楓は覚醒した。いつの間にか背中に壁の感触があった。しかし、楓は自分の意思で感覚はそのままに、夢の中に意識を浸して笑った。真凛も笑った、幸せそうに。

 近付いてくる真凛の顔に影が差して見えなくなると、柔らかい何かが唇に触れた。泣きたくなるようなキスだった。本当に触れるだけの短い口づけで真凛は顔を離した。真凛の背後で空が燃えていた。キャンプファイヤーの炎で夜の空は焼かれ、赤く、またはオレンジに濁っていた。夕日みたいだ。そう思った途端、力が入らなくなって壁に身を任せた。

「女の子の唇って柔らかいね。知らなかった。……男ってずるいな」

 真凛は親指で楓の唇に触れて優しく微笑んだ。妖艶とも呼べる表情で、でも、慈愛に満ちた目をしていた。見慣れた、胸を締め付ける輝きを持っている。真凛にも“あの子”にも出来るのに、自分にその目が出来ないことが楓には悲しかった。

「優しいキスだね……」

 呆然としたまま楓は呟いた。空が燃えている、あの日のように。

「そんなキスがしたかった。でも、私には出来ない……大好きで、大好きで、でも、憎んでるから……」

 きっと自分は許さない、こんなに好きで、好きで、それなのに置いて行った“あの子”を。触れたいのに届かない。キスでこの気持ちを痛いほどに伝えたいけど、それはきっと奪うだけの破壊衝動のようなキス。音にならない声で楓はその名を呼んだ、悲痛なほどに。

その時、真凛の中で何かが弾けたことに楓は気づかなかった。強い力で突然楓は壁に押し付けられた。楓の唇に触れていた真凛の手がまるで引き千切りそうな勢いで楓の髪を掴み、顔を上に向かせた。目を最大限まで開いた楓の目に窓の外の夜空のように燃えた真凛の瞳が映った。その一瞬後にはもう真凛は息が出来ないほど深く口づけた。思わず楓は声を漏らしたが、その声さえ吸い取られてしまいそうなほど激しい口づけだった。角度を何度も変え、口内をむさぼり、飲み下せない唾液がこぼれて胸元を濡らした。それが汗と混じって何が何だかわからなくなる。酸素が足りず、脳が破裂してしまいそうだった。足に力が入らず、ずるずると座りこんでも真凛はキスを続ける。意識が飛びそうになってやっと真凛は楓を解放した。肩で息をして、目の焦点が合わず虚ろな表情の楓を真凛はぎらぎらした目で見下ろした。まるで獣のようだった。

「こんなキスがしたかったの?優しいキス?馬鹿じゃない」

 真凛は叫んだ。闇の中では真凛がよく見えなかった。ただ荒い息の向こうで目だけが光っていて、そして、見えないはずの真凛の心が血を流しているのが見えた。私を見て、私を見てと叫ぶ声が聞こえた。真凛の目にあった光が頬を流れた。

「ふざけないでよ、何を見てるの、いつも、いつも。私は坂口詩じゃない。その子と比べなきゃ私はいないの?馬鹿だよ、楓は。“あの子”は、“あの子は”いつもそればっかり……そんなに……そんなに好きなら、後追って死んじゃえ!」

 自分の叫びにはっとして、でも、真凛はぐっと唇を噛みしめてうつむいた。その優しさに楓は苦笑した。なぜだか頭がやけに冴えていた。真凛の言葉がすとんと心に落ちた。

ああ、そうか、そうだったのか……

 真凛の震える肩をしばらく楓は見ていた。夜の闇が次第に赤い光を眠らせていった。楓は静かに息を吸った。

「……私が死んだら、真凛はどうする?」

 ひどく冷めた声しか出なかった。真凛がびくっと反応した。

「どうもしない」

 しかし、涙をぬぐって、そう叫んだ。楓は笑った。どうして笑ったのか自分でもわからなかった。

「そっか、私もそうだった……」

 真凛は顔を上げた。表情のない楓が闇を見ていた。その闇に何かあるのだろうけど、真凛にはそれが何かわからなかった。

「“あの子”が死んだとき、生きていけないと思った、“あの子”がいなきゃ……って。でも、私は生きてる、死ななかった。大好きなのに、大好きで、いっしょにいたかったのに」

 あの頃からずっと誰も、何も、自分と“あの子”の関係を証明してくれるものはなかった。自分たちの間には名前がなかったから。それは自分が選んだことだった。それで構わないと思っていた。好きで、本当に好きで、誰より一番好きで、この気持ちだけで構わないと思っていた。この気持ちを疑わなかった。それなのに“あの子”が死んだとき、自分は何もしなかった。“あの子”がいなくなれば狂うだろうとずっと思っていたのに、“あの子”の死を前にした自分は恐いほどに落ち着いていた。心の波は凍りつき、何の揺れも起さなかった。

 自分に残ったのは好きという気持ちだけだった。

少なくともそれは真実だと信じたかった。それなのに自分が生きていることが“あの子”への好きを偽りにしていく。それが恐いはずなのに、どうしてか自分は何事もなく生きている。必死でその氷を突き破ろうとする自分は次第に錆びついて動けなくなっていた。

息をするほど、体が時を重ねるほど、自分は醜いものになっていく。それが苦しかった。だから、好きだと届かない叫びを続けて、“あの子”を追いかけた。“あの子”と繋がっているには自分にはそれしかなかった。

 真凛は黙って聞いていた。真凛に見えないもの、それを拙いながらも口にしようとする、そんな楓に愛しさが溢れた。楓が顔を歪めた。“あの子”に伸ばす手が動けないまま風化してひび割れるのを聞いた。

「何で死ななかったのかな……」

 真凛は楓を見つめた。自分にとって特別で大切な女の子。死んだ少女への好きを盲目なほど全身で語ることに苛立ちながらも、自分を見ようとしてくれていたことを本当は知っている。この子が最初だった。だから、自分も知ろうとしたのだ、この子と自分とその周りの世界のことを。

真凛は静かにかぶりを振った。もう言うことはわかっていた。

「楓だからだよ」

 力なく楓は真凛を見た。

「楓はその子とは違う。違う好きを持ってる。違う方法で人を好きになれる」

 真凛が楓の頭を撫でた。自分が傷つけた、自分の好きで傷つけたその人の指は自分の心を癒した。目の前の景色が輪郭を失う。

「好きだよ」

 その言葉しか知らなかった。

「本当に好きなの」

 “あの子”も真凛も。

 真凛は頷いた。

「だから、好きになった」

 馬鹿みたいなまっすぐな好きが心の奥深くまで突き刺さった。だから、自分も馬鹿みたいに好きになったのだろう。

 坂口詩を自分は知らない。だけど、この子を好きになった理由はわかるのだ。同じものをこの子に感じたのだろうか、そう思うと今まで感じた嫉妬も優しいものに変わる。

「嘘じゃない、信じてる、だから」

 それがどんなものであっても楓の好きに救われた。馬鹿でもいいと思った。楓の好きだから、自分は……

「どこへでも行けると思った」

 我儘なのは楓ばかりではない。不思議そうに見上げる楓に真凛はまっすぐ心を投げた。

「ロシアに行くの、私。この夏に」

 楓の顔に亀裂が入る。痛みを胸に抱えながら、真凛は楓を見た、まっすぐ、まっすぐ。

「もう自分の生まれに目をそむけたくない。だから、行く。何かを得るまで帰って来ない」

「真凛……」

 楓は震える手で真凛の服を握りしめた。

 行かないで、行かないで、行かないで。心は叫んでいた。佐野にも言った。真凛がいなくなることが恐い、すごく恐いのだと。また繰り返すのか、“あの子”が死んだときと同じことをまた繰り返すのだろうか。だが、不思議なことに一気に高ぶった波は凍りつくことなく収まっていく。じんと沁みる胸が叫んでいた行かないでは別のものに変わっていた。

「好きだよ」

 体はすぐに心について行かず、息は震えたままだった。それでも、かすれた声で楓は言った。

「好きだよ、真凛。どこに行っても」

 楓は真凛の目を見た。その灰色のもやをかきわけた向こうに身を投じていた。

「別れるなんて言わない。ずっと好き、ずっと、ずっと」

 “あの子”のようなきれいな好きを自分は持っていない。それが良いのか悪いのか、まだ自分は知らない。でも、我儘で醜い好きでもそれが自分の心が叫ぶ真実だった。好きなんだ。どこに行っても、好きなままでいたいんだ。

 真凛は優しいと思う。本当はすごく優しい人なのだと。だって、笑ってくれた。好きだ、離さない、真凛がどう思っても、嫌がっても、そうやって好きを押しつける自分に笑ってくれたのだ。

「だから、行ける」

そう言って真凛は楓を抱きしめた。まるで祈りのような抱擁だった。真凛の体温が伝わるにつれて、真凛の言葉も楓に浸み込んできた。

これでいいんだ。

少なくとも真凛にはこんな好きで構わないのだ。

好きな人を亡くした人がみんな死んだら、地上にはだれもいなくなるだろう。自分はそうさせない死なない人間の1人だ。他の人がどういう気持ちで今を生きてるかは知らない。

“あの子”は相手にとって不都合な自分を恐れていた。嫌われたくなくて、邪魔でいないようにしていた。その末に出来た関係はとても美しいものかもしれない。でも、自分は邪魔でもいい、綺麗な、温度のない好きはできない、自分の心が告げるようにただ荒々しい好きを叫んでいたい。後を追うのではなく、忘れるのではなく、好きを抱えたまま、自分らしく明日を行きたい。

それは我儘ですか。

その時、あの日、夕日の中で手を振る少女が見えた。笑っていた。都合のいい図に1人楓は苦笑した。だけど、許されている、そう感じた途端、いくら叩いても割れなかった氷が時を越えて溶けだし、抑えられていた心が溢れ出た。歪んだ視界は一瞬で崩れた。

 涙を流さなかった。“あの子”が死んだときも、その後も、楓は泣かなかった。泣けなかった。そんな自分が憎かった。

忘れかけていた頬を伝う熱さは痛くて、辛くて、悲しくて、そして、どうしようもなく嬉しかった。

今ならちゃんと言える。あなたが好きだよ、

「……詩」

 やっと言えたその名前は自分でも驚くくらい愛しさがこもった声で響いた。

 そして、泣きながら楓は真凛の背中に手を回して抱きしめた。ここにいるのはたった一人の高山真凛という自分には大きすぎる存在なのを確かめて。

「真凛……」

 幸福が楓の胸を満たした。2人の少女へと自分を導いてくれた全てのものに楓は心の底から感謝した。


 その日一日も暑くなりそうな、からっと晴れた8月の朝に楓は真凛を見送った。佐野の車に荷物を詰め込み、空港へと向かうために車に乗り込む前に真凛は楓に近寄り抱きしめた。多くは言わなかった。言う必要がないのを知っていた。

その名の通り凛とした背中が離れていく。最後に真凛は振り返って夏の日差しに負けないくらい明るく笑った。

「じゃあ、また。バイバイ」

 真凛が乗り込むと人通りの少ない静かな道を車は発進した。乳白色の光とまだ薄い青空が溶け合って、淡い色彩が世界を包んでいた。旅立ちを祝福していると思った。これは真凛と、そして、楓自身の旅立ちだった。

 楓はすっと手を上げた。

「バイバイ」

 うだるような暑さがまだ訪れない朝に緑はきらきらと輝き、一人立つ楓にその色を落としていた。



END



2009年5月30日    幸橋


あとがき


 ここまで「バイバイ」を読んでくださった皆さん、お疲れ様、そして、ありがとうございます。これだけの長さの作品を書き上げたのは本当に久しぶりです。まず完成した作品自体が極端に少ないですから。

 私が物語を書くとき、いろんな理由があります。ある場面を書きたい、あるセリフを言わせたい、ある設定を使いたい。今回は私が言いたいことを代弁してもらうためにこの話を考えました。様々な場で言ってきたように私はこの話を同性愛の話とは位置付けていません。確かに少女ばかりが登場して、同性同士で好きだと言いあっていますが、単に彼女たちの好きな相手が同じ女であっただけで、特別、同性であることに葛藤していません。それが主題ではないのです。

 書いているうちにどこまでが自分の気持ちで、どこまでが彼女たちの気持ちなのかわからなくなってきましたが、その全てを眺めて何か感じてもらえたら嬉しいです。伝えたいことはありますが、それは他の人にとって重要ではないかもしれないし、私がささいなこととして書いたことが他の人には重要かもしれない。それが小説の醍醐味だと思います。

 この話のタイトルは「バイバイ」ですが、これにはちゃんと意味があります。私は昔、バイバイが言えない子どもでした。どうしてか子供っぽいと思ってしまって、他の子が自然にバイバイと言う中でどうしても私は言えなかったんですね。だから、バイバイと言われると戸惑ってしまって、でも、返さないわけにはいかなくて、「じゃ」とだけ言っていました。その時に一番、自分と他者の差を感じていたんです。この話はそんな他者との差を感じる少女たちの話です。だから、この「バイバイ」という言葉をタイトルにしました。最後に楓はこの言葉を口にします。それは他の人とは違う自分を認めて、その上で他の人と同じ、今回は言葉ですが、それは行動かもしれない。とにかく他の人と同じことをする。でも、確固たる自分を持っていたら同じことをしても、それに縛られることはないと思うんです。他者とよりよく付き合うために定められた言葉やルールに縛られることは馬鹿げている。本質を見るべきだと思う。そのための出発を象徴して楓には「バイバイ」を言ってもらいました。

 力不足でいろいろ補足しましたが、本当に最後まで読んでくださってありがとうございます。そして、この場を借りて「今里楓」「高山真凛」「坂口詩」「柳綾菜」の名前を提供してくださった倭姫様に感謝を述べたいと思います。ありがとうございます。

 今後もよろしければ私の生み出す世界にお付き合いいただけると嬉しいです。


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[良い点] 真凛の後ろに詩の事を見ていた楓が最後には真凛自信を見ることができて「ああ良かったなあ…」と思いました。作者様のあとがきにもあるように、最後のバイバイには色々な意味が込められていて、楓にとっ…
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