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窓から差し込む朝日がマルガリーテの顔を照らして、自然と目が覚めた。
「う~ん……ふわあぁ~あ」
昨日はあまりにもいろいろなことが起こりすぎて、頭の中で処理しきれなかった。
大きく伸びをして、目を擦りながら辺りを見回すと、そこは王女の寝室だった。
「……夢じゃなかったのね……」
まだ、こんなことを考えているようでは、さすがに罰当たりかな。
すでに、マルガリーテの心配がただの杞憂であることは証明されているのだから。
それにしても、なんて素敵な寝室なのだろう。
昨日はまだ夜中で薄暗かったからよくわからなかったけど、こうして明るくなった部屋を見渡すと、感嘆の声しか出ない。
まあ、月明かりに照らされたこの部屋も幻想的で美しかったけど。
「……でも、王女の寝室にしてはやっぱりちょっと物足りないかな」
そう感じさせられたのは、やはり置かれている家具のせいだろう。
全ての家具が真っ白なもので統一されていて、それはそれで清潔感に溢れていて美しいのだけれど。
いかんせん、カラフルな物が一つもないというのは、殺風景な印象も与えてしまうものだ。
おまけにマルガリーテの着ている寝間着も真っ白なワンピースのドレスだった。
いったい王女は何を考えてこんな物を好んで使っていたというのか。
「……これじゃあ、人の家に遊びに来たお客様の感想だよね」
そう、そんなことを考えている場合ではないのだ。
アミーの掛けた魔法がどんなものかは知らないが、マルガリーテは今日から王女としての生活が始まるはず。
なのに、どうすればいいのかさっぱりわからなかった。
自分の家だったら、起きたら取り敢えず顔を洗いに炊事場へ行くのだけれど。
ここでも同じようにするならば、まずこの部屋から出なければならない。
足を引きずるようにして扉の前まで歩き、ノブに触れようとしたが、躊躇してしまって結局またベッドに戻った。
ベッドの端にちょこんと座ったまま、扉を見つめる。
これじゃ、元の家にいた時とほとんど変わらないじゃないか。
部屋に閉じこもって生活するなんて、せっかく願いを叶えてもらったのに何の意味もない。
そう理屈ではわかっているのに、まだ部屋から出るのが怖かった。
別に、もうアミーの魔法のことを疑っているわけではない。
ただ、知らない人に会うのが怖いだけだ。
思い返せば、何も考えなしにアミーに願いを言ったけど、覚悟をする間もなく王女になってしまったのだ。
昨日の夜こそその興奮に我を忘れていたけど、こうして冷静になると不安ばかりがマルガリーテの心を襲った。
――コン、コン。
そうこうしている間に、何者かが扉をノックした。
――誰?
そう言うつもりだったのに、声が出ていかなかった。
すると、扉の向こうの何者かが、扉越しに声をかけてきた。
「王女様、朝ですよ。起きてください」
はっきりとした女の子の声だった。
おそらく、メイドと思われるその彼女は、どうやら王女であるマルガリーテに起床の時間を知らせに来たようだ。
返事をしなければ不審を抱かせてしまうと思っているのに、どう返事をしたらいいのかさえもわからなかった。
「王女様? マルガリーテ王女様!?」
「あ……」
自分の名が王女として扱われていることに少しだけ安心した。
それどころではないというのに。
メイドと思われる彼女の声は段々とトーンが上がっていく。
「マルガリーテ!? まったくもう、仕方ないわね」
あろうことか、最後には彼女は王女の名前を呼び捨てにした。
そして、何度か強めに扉をノックした後、驚くべき行動に出た。
寝室には中から鍵がかかっている。それがマルガリーテの冷静さを保つ唯一の砦だったのだが、なんとそれが外側から開けられたのだ。
ガチャリ、と音を立てて鍵がひねられた。
(ちょっと、どういうこと!?)
声にならない想いが頭の中に響く。
いったい、ここのメイドはどういう教育がされているのか。
王女の許可なく寝室の鍵を開けるなんて、無礼にもほどがあるというものだ。
かといって、ここで扉の鍵をマルガリーテが閉めるわけにもいかず、ただ開けられるのを待つしかなかった。
ゆっくりと扉を開けて入ってきたのは、やはり想像した通り、紺のワンピースにフリルが可愛らしい白いエプロンを身に纏ったメイドだった。
小柄で可愛らしく、さっき聞いた声の印象のように明るく元気そうな少女のメイド。年は、マルガリーテと変わらないくらいに見える。
「あれ? 起きてたのなら、返事くらいしてよ。珍しく寝坊でもしたのかと思ったじゃない」
メイドはマルガリーテと目が合うと、まるで友達にでも話しかけるかのように気さくにそう言った。
何がどうなっているのか混乱していると、そのメイドもいつもと様子が違うことに気がついたのか、心配そうに近づいた。
「どうしたの? なんか顔色悪いわよ? もしかして風邪でも引いた? 調子が悪いなら私から王様にその旨伝えるけど」
「え……いや、そうじゃなくて……」
正直、そんな大事にされては、困る。
けど、何から話したらいいものか、まだ何も整理できていない。なのに、そのメイドは勝手に話を進めてしまう。
「そう? ならいいけど。それにしても、珍しいわよね。いつもは私が起こす前に着替えも済ませちゃってるあなたが、まだ寝間着のままだなんて。まあ、私としては仕事ができて嬉しいけど。マルガリーテっていつも自分のことは自分でやっちゃうから、私たちの存在意義が感じられなくなっちゃうのよね」
「あ、あはは……。そ、そうだっけ……」
マルガリーテは相づちを打つのが精一杯だった。
「ねえ、今日はどの服を着るの? 特に希望がなければ私が選んじゃうけど、それでもいい?」
「う、うん。あなたに任せるわ」
メイドはマルガリーテに背を向けてタンスの中を漁りながら聞いてきたので、とにかく無難に返事をすることに努めた。
しかし、ずっとこの調子で生活するわけにはいかないだろう。
せめて、自分の置かれている状況と、これから何をしなければならないのかくらいは聞き出さないと。
マルガリーテは意を決してメイドに話しかけた。
「ね、ねえ。これから少し当たり前のことを聞くかも知れないけど、ちゃんと答えてくれない?」
「……別に構わないけど」
「それじゃあ、まずあなたの名前は?」
「は? ……マルガリーテ、あなた私をからかっているの?」
不審、というよりはどちらかというと不快そうな顔でメイドはマルガリーテを見た。
「からかってなんかいないわ。それよりもちゃんと答えてよ」
「私は王女つきのメイド。マリアンヌ=サンドーラよ。どう? これで満足?」
明らかに皮肉とわかる言葉を付け足して、マリアンヌは答えた。
「そう……マリアンヌ、ね。それで、私はいつも朝起きたらどうしてるのかしら?」
「はあ? ……やっぱり、熱でもあるんじゃないの?」
マリアンヌはタンスから出したドレスを持って、小走りにマルガリーテに近づいた。
心配そうにマルガリーテの顔を覗き込むマリアンヌにドギマギしていると、彼女はおもむろにドレスを両手で抱え、さらに顔を近づけてきた。
「ちょ、ちょっと……」
お互いの吐息がかかるくらいの距離にまで迫って、やっと彼女の顔が止まった。
「……熱は、ないみたいね」
何がしたいのかわからなかったけど、その言葉を聞いて理解した。
何のことはない、ただおでこを重ねて熱を測っただけだった。
「まあ、いいわ。とにかくこれに着替えて」
「うん……」
言われるがままにドレスを渡されたが、そこでもマルガリーテは固まってしまった。
こんなドレスなんて着たことがなかった。
純白のそのドレスは、庶民にとってはまるで花嫁衣装のよう。
どうやって着ればいいのか、戸惑っていると、マリアンヌがマルガリーテの着ていた寝間着に手を掛けてきた。
「って、何してるのよっ」
あわてて抗議したが、
「放っておいたらいつまで経っても着替えられそうにないから手伝ってあげるのよ。このままじゃ朝食に遅れるじゃない。私は王様に信頼されてマルガリーテの専属になったんだから、王女様を起こすこともできないっていう汚点は残したくないのよ」
そうまで言われては、もう言い返すことはできなかった。
悔しいけど、着替えはマリアンヌのお陰で滞りなくできた。
「さ、次は洗面所に行くわよ」
言うが早いか、マリアンヌはマルガリーテの手を引いて歩き出した。
こちらとしては、洗面所の場所なんてわからないから聞こうと思っていたので、助かった。
あれほど外に出るのを怖がっていたマルガリーテだったが、あっさりと連れ出されてしまった。
自分の意思だけではそれすらも難しいことのように感じていたから、これでよかったのだろう。
寝室の扉から一歩出るとそこは廊下だったのだが……。
目の前には大理石で造られた道路が広がっていた。
いや、これがこの城における廊下なのだろうけど、マルガリーテにはそう感じられた。
馬車だって軽く二台はすれ違うことができそうだ。
「何? どうしたのよ?」
「ううん、何でもないわ」
ここでいちいち驚いていては、また何を言われるかわかったもんじゃない。
寝室だけであの広さだったのだから、これくらいは普通なのだ。もっとここでの常識というものに慣れないといけない。
城の荘厳さに圧倒されつつ歩いていると、急にマリアンヌが立ち止まった。
目の前にはこれといって珍しくない扉があった。比較的今までのものより、どちらかというと庶民的なただの木の扉だ。
「ここが洗面所よ」
そう言ってマリアンヌが扉を開ける。
中には、確かに井戸と洗い場があった。
水を汲もうとしたら、慣れた手つきでマリアンヌがそれをやってくれた。
桶に汲まれた水をすくって顔を洗うと、心も体もしゃっきりとする。
「はいっ」
マルガリーテが探そうとする前に、手際よくマリアンヌがタオルを差し出した。
「あ、ありがとう」
「……ふぅ……。ねえ、やっぱり朝食はお断りしてこようか? どう見ても、いつもと様子が違いすぎるわよ」
顔を拭いている時に言われたので、マリアンヌの表情は見えていなかったけど、どんな顔をしているのかは簡単に想像できた。
「そ、そうかな」
「そうよ。さっきから目が泳ぎっぱなしで、何もかもが珍しいって、顔に出ているもの」
「…………」
言葉はとても返せなかった。
何かを言えばそれで余計に墓穴を掘るような気がした。
アミーの魔法のお陰でマルガリーテが王女だと認めてはくれているものの、明らかにエリーゼ王女との違いに戸惑っていた。
「先に言っておくけど、朝食は王様と一緒に食べるんだからね。王様は娘であるあなたを溺愛してるから、そんな状態じゃ、きっと王様を心配させることになるわよ」
それは、その通りだろう。
誰も気づいてはいないが、ある日突然娘が別の人間になっているのだ、おかしいと思わないはずがない。
ここに正解があるとしたらそれは、マリアンヌの助言を聞くことなんだろうけど……。
「いやよ。私は引きこもって生活するために幸せを手に入れたわけじゃないわ。ここでもあの家と同じ生活をするなんて、絶対にお断りよ」
「……は? あの家って、何……?」
「マリアンヌ、私を食堂に案内してちょうだい」
マリアンヌの言葉を遮って、強い口調でそう言った。
「え、それは構わないけど……。本当にいいのね?」
「ええ」
そうだ、何のために王女になったのか。
びくびくしながら生きるためなんかじゃない。
特別な存在として、普通の人では味わうことのできない幸せを手に入れるためになったのだ。
たかが、王様と朝食を食べるだけじゃないか。
しかも、今のマルガリーテは王様の実の娘なのだ。恐れる必要などありはしない。
歩き出したマリアンヌに続き、マルガリーテも力強く後を追った。
少し歩くと、二枚の大きな扉の前に辿り着いた。
「ここが食堂よ。ここに入ったら、私はもうあまり手助けはできないからね」
「いいって言ってるでしょ」
「…………」
「何?」
「いや、ちょっとだけ昨日までの王女様に戻ったような気がしただけ。気にしないで」
マリアンヌはほほえみを浮かべて、扉に手をかけた。