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「おーい、いつまで寝てるつもりだ」
ぺちぺちと頬が叩かれる。
痛くはないけど、うっとうしい。
「もう、なんなのよ!?」
少しイラつきながら手を払って起き上がると、まだ夜中だった。
「……まだ夜じゃない。いいかげんにしてよね、カトリーヌ」
寝惚け眼で再びフカフカのベッドの中に潜る。
「……おいおい、あたしはカトリーヌじゃないぜ」
聞き慣れない声にハッとして、今度こそマルガリーテは飛び起きた。
するとそこは天蓋つきの豪華なベッドの上だった。こんな物はマルガリーテの家にはない。
あったとしても、どの部屋にも入りきらないと思う。
「……こ、ここは?」
「バルバロッサ=ルウ=ローザが治める、セントロード王国。その象徴とも言える薔薇の城だ。って、こんなことはあたしよりお前の方が知ってるはずだろ?」
「そ、それは……」
知ってるも何も、マルガリーテの住む国の名であり、その国の国王のことだ。知らないわけがない。
「ちなみにここは王女の寝室だ」
「じゃ、じゃあ私はエリーゼ王女のベッドで寝てるの!?」
わざわざ確認するまでもない。
マルガリーテのベッドはこんなにフカフカではないし、何年も使い古されている毛布だって色がくすんでしまってこんなに白く美しくはない。
「さっすが、王女の寝室なだけはあるよな。さっきまでの部屋とは雲泥の差だよ。まあ、お前がうらやむ気持ちも少しはわからんではないが……」
「す、凄いっ! アミーって本当に凄い力を持った悪魔だったのね!?」
マルガリーテにはアミーの言葉はまったく耳に入っていなかった。
「その口ぶりだと、あたしの話を信じていなかったように聞こえるけど?」
「なんて素敵な部屋なの……」
「って、ちょっとはあたしの話を聞けよっ」
「聞いてるわよ。それに、感謝もしてるわ」
薄暗い部屋の中をぐるりと見回してから、アミーに正対した。
「そ、そうか……?」
「ええ、ありがとう。私の願いを叶えてくれて」
「い、いやまあ……そう改めて言われるとちょっと照れるな。あたしら悪魔はあんまし人間に感謝される存在じゃねーからよう」
さっきまでふてくされていたアミーは、この薄暗い中でもわかるくらい顔を赤くしていた。
しかし、いったいどんな魔法を使ったらこんなことが一瞬のうちにできるというのか。
それに、今のマルガリーテがどんな状況にあるのか、聞きたいことも聞かなければならないこともたくさんあった。
マルガリーテは少し落ち着くためにも一呼吸置いてから真面目な顔をしてアミーに聞いた。
「――それで、私は王女になったのよね?」
「ん? ああ、そうだよ。そうだ、だからさっきお前はエリーゼ王女のベッドとか言ってたけど、それはもう違うぜ。この部屋は王女であるマルガリーテ=ルウ=ローザのものだし、もちろんこのベッドもマルガリーテ王女のものさ」
「マ、マルガリーテ=ルウ=ローザ……!? そ、それじゃあまさか、エリーゼ王女は?」
「何の疑問もなく、お前の家――つまりはブリード家の次女エリーゼ=ブリードとして、あの狭い部屋の、硬いベッドの上で寝てるだろうよ」
ブリード家は、マルガリーテの本当の家族だ。
美人の女将が経営する食堂で、美人の娘たちがお手伝いをする店として城下町ではちょっと名の知れた一家だった。
そのお陰で、マルガリーテは特に不細工というわけでもなかったのに、美人な姉妹に囲まれているせいか、ブリード家の出来損ないとして知られてしまっていた。
幼い頃から店の客や周りに住む男たちにそうして馬鹿にされて生きてきたので、マルガリーテが全てに対して恨むようになったのもある意味では当然だったのだ。
「フ……フフフ……アハハハハハハハハッ! やったわ、私は全てを手に入れたんだわ」
沸々と込み上げてくる喜びに打ち震え、笑い声がつい口からもれてしまった。
これで、もう誰からも馬鹿にされることはない。
マルガリーテは王女として、この国の民衆から羨望の眼差しを受けるのだ。
マルガリーテがそうしてエリーゼ王女を見ていたように。
「王女になったからって何でも手に入るわけじゃないと思うけどな……」
冷めた口調でアミーはそう言ったが、さして気にはならなかった。
マルガリーテの思い描く幸せを与えてくれたのは、間違いなくアミーなのだから。
それに、アミーがどう思っていてもマルガリーテの気持ちだけはわからないと思っていたから。
たとえ、悪魔の魔法を使ったとしても、この気持ちだけは理解されないだろうことは、わかっていた。
この気持ちはマルガリーテ=ブリードとして十八年を生きた者にしかわからない、と。
「……ま、いいわ。悪魔に人の気持ちが理解できたとしたら、それはそれで奇妙だしね」
「それって、どういう意味だ?」
マルガリーテはアミーの問いかけには答えず、ベッドから降りて一通り部屋を見回ることにした。
まず、その広さに驚かされる。
一つの部屋に過ぎないはずなのに、普通の家なら収まってしまうんじゃないか、というくらい広い。もちろん、マルガリーテの家なら入ってしまうと思う。
ただ、意外だったのがそれほど物が置かれていないシンプルな部屋だったことだ。
今までは城の外観しか見たことはなかったけど、薔薇の城と国民から形容されているように、きらびやかで華やかな印象があったから、贅沢な家具の数々に囲まれた暮らしをしているものと想像していたけど。
でも、ここは寝室らしいし、王女となれば部屋だってたくさんあるはず。もしかしたらそういった物は他の部屋にあるのかも知れない。
この部屋で高そうな物といったら天蓋つきのベッドくらいだった。
マルガリーテは月明かりの差し込む窓際へ行った。
この部屋は、シンプルな中身に負けず劣らず、部屋の作り自体がシンプルだった。
部屋の扉は一つしかなく、窓もさして大きくない物が日や月の指す方向に設けられているだけだった。
わざわざ窓なんかに近づいたのは他でもない、そこに珍しい物を見つけたからだ。
「何だ? 外が気になるのか? でもここからバルコニーには出られないし、今は夜中だからあんまり外に出歩くのはやめた方がいいと思うぞ」
「別に、外なんかどうでもいいわよ。私が気になったのはこれよ」
そう言って、軽く握った拳で窓をコンコンと叩いた。
透明な窓から音が返ってきたのは、そこにガラスがはめられていたからだった。
ガラスはとても庶民に買える物ではない。
ましてやこの大きさとなると、それはもう宝石と同じくらいの価値があるのではないだろうか。
「そんなもんがねー」
「いちいちケチつけるわね。いいじゃない、少しくらいはしゃいだって」
「それこそ別にあたしにとってはどうでもいいことなんだけどな」
アミーはそう言うと、一つ大きなあくびをした。
「そろそろあたしは帰って寝るよ。こんなところじゃ落ち着いて眠れやしねえ」
「え? か、帰るって、どこに?」
思いもよらぬ言葉に、マルガリーテは動揺させられた。
「帰るっていったら、家にだよ。変なこと聞くなよな」
「そ、そう……帰っちゃうんだ……」
悪魔にあまり弱みを見せるべきではないことはわかっていたのに、急に不安になってきた。
動揺を取り繕うことさえ忘れてしまっていた。
「そうそう、もしあたしに何か用事があったら右手の甲に口づけをして心で呼びかけろ。そうすればいつでも……いや、気が向いたら来てやるから」
それだけ言い残して、アミーは飛び上がると闇に溶け込むようにして消えてしまった。
「あ…………」
現れてから消えるまで、なんとも忙しない悪魔だ。
しかも、身勝手極まりないと思ったが、悪魔なんてそんなものかも知れない。
人間の思う通りに行動するわけがないのであって、これが当たり前なのだ。
だから、マルガリーテの願いを叶えてくれたことは奇跡にも等しいこと。
……これが夢でなければ。
この期に及んで、まだ信じ切れていないことに少しだけ嫌になった。
嬉しいことでさえ、素直に受け入れることができないほど、心がひねくれて歪んでいるのだと、思い知らされるようだ。
取り敢えず、頬をつねったりベタなことをしてみたが、夢から覚めることはなかった。
「こうなると、寝るのが怖くなるわね」
起きたら元のベッドだった、なんてよくありがちな話ではないか。
これが悪魔の叶えてくれたことだから。
でもきっと、神が同じことをしても疑ってしまっただろうけど。
要は、自分の心の問題なのだ。
こんな自分が幸せになんかなれるわけがないと、心のどこかで思っている。
こんな簡単に、願いが叶うわけがないと、思っている。
……十三年もかかったのだから、決して簡単に叶ったわけではないけれど。
「……ふぅ……でもアミーも言ってたけど、さすがに夜中に出歩くのはよくないわよね」
本当に王女として扱われているのなら、誰かに見つかりでもしたらちょっとした騒ぎになってしまうのは想像に難くない。
もし、万が一アミーの魔法が不完全で、もしくはアミーが嘘をついてマルガリーテが王女でなかったとしたら、事態はもっと厄介なことになる。
王女でない者が夜中に城の中を動き回っていたら、賊だと思われるのは必至。下手なことをすればその場で処刑される可能性だってある。
様子を見るためにもここから動くのは得策ではなかった。
思考を巡らせながら部屋の中を行ったり来たりしていたマルガリーテは、結局目覚めた場所であるベッドの上に戻った。
どのみち、朝になって誰かがこの部屋を訪れるまで、マルガリーテにできることはないという結論に至ったのだ。
その誰かが「マルガリーテ王女」と呼びかけてくれなかった時は、あまり恐ろしくて考えたくはないが、非常にまずい立場に置かれることになるわけだけど。
ここは、懸けるしかない。
それは、結論というよりは決意に近いものだった。
今さら死ぬことを恐れて、どうするというのだ。
それよりも、今の状況を少しでも楽しむべきだ。
せっかく夢にまで見たフカフカのベッドが目の前にあるのだ。
味わわなければもったいない。
さっきは気づかぬままアミーに連れてこられたベッドの中だったけど、今度は自分の意思でフカフカのベッドに体を埋めた。
そのなんとも心地よい感覚は、心が高揚して興奮しているはずのマルガリーテをも睡りに誘うには十分だった。
暖かな雲にでも包まれているかのような、優しいベッドに抱かれながら、マルガリーテのまぶたは自然と閉じていった――。