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パーティーが終わってから、マルガリーテはずっと部屋にこもって姉さんからもらった魔法事典を読みふけっていた。
それこそ、危うく儀式のことを忘れてしまいそうになるほどに。
幸いにもそのことを思い出したのは、家族みんなが寝静まった真夜中だった。
窓を開けて空を見上げると、マルガリーテを祝福するかのように、月が真円を描いていた。
何かが起こりそうな予感がする。
「希望って言った方が正しいかな……?」
月明かりを頼りに、部屋に儀式の準備を施すことにした。
準備といってもすることはそんなにない。
すでに儀式用の黒いドレスに着替えていたし、床に描かれた魔法陣は、初めて儀式をやった五歳の時から一度も消していない。
だから後は、ろうそくを並べてそれに火を灯し、精神を統一させるだけだ。
ま、その精神統一が一番重要なんだけど。
マルガリーテが行おうとしている儀式は、悪魔を召喚するためのものだった。
この十三年間、一度も成功させられなかった原因のほとんどが、儀式を行うマルガリーテの心にあったんじゃないかと思っている。
決して、この世界に魔法が存在しないわけではない。
決して、この禁断の召喚魔法が間違っているわけではない。
――決して、悪魔が存在しないわけではない。
「今度こそ……」
マルガリーテは一度強く拳を握り締め、本棚の奥にしまっておいた古くさい本を取り出した。
それは十三年前に、亡くなった父の書斎から勝手に持ってきたものだった。
日に焼けて茶色くなってしまった一ページ一ページが、この本の年月を感じさせる。
初めてこの本を読んだ時は恐ろしかった。
その日の夜は一人で眠ることもできず、トイレにも行くことができず、もちろんおねしょをしてしまった苦い思い出がある。
おねしょをしたのは後にも先にもその時だけだったから、はっきりと覚えていた。
そんな目にあっては、普通二度とその本には触れようとしないはずだが、マルガリーテはその本に関してだけは普通ではいられなかった。
何かに惹かれるように、いや……取り憑かれたようにその本を隅から隅まで読み込んだ。
今では、本の内容のほとんどが頭に入っていた。
それでも、儀式の時だけはこの本を持つことにしていた。
マルガリーテの魔法に対する解釈ではその必要はなかったのだが、この本が儀式をするきっかけを与えてくれたのだから。
「……だけどこの本、いったいなんて言う本なんだろ」
本の内容は熟知していたけど、タイトルだけはわからなかった。
消えてなくなってしまったわけではない。
表紙にも、裏表紙にも、背表紙にも、本の一ページ目にもどこにもタイトルは書かれていなかった。
そのことが逆にこの本の神秘性を高め、本物の魔術書なんだと確信させていた。
見る人が見れば、それは悪魔の本だろう。
しかし、マルガリーテにとっては希望の本だった。
幼くして世の不条理を突きつけられたマルガリーテが、一筋の光を見出した本なのだから。
この本がきっかけで、魔法を知り。
悪魔の存在を知り。
そしてそれを呼び出す召喚魔法を知った。
この十三年間は、全てこの召喚魔法のために費やしたと言っても過言ではない。
姉さんのように美しく、そして聡明でもないマルガリーテには姉さんのように学力で生きていくことはできないとわかっていた。
カトリーヌのように可愛らしく、そしてセンスもないマルガリーテにはカトリーヌのように芸術で生きていくことはできないとわかっていた。
だから、幸せになるには全てを捨ててでも魔法に懸けるしかなかった。
何においても平均でしかなかったけど、魔法に関する知識だけは、特技といえるだけのものを習得していた。
これだけは裏切らない。
そう信じて、魔法の勉強だけは独学でしてきたのだ。
「そろそろ、始めよう――」
いつの間にか、さっきよりも高いところに月が昇っていた。
結局、いつもと同じであんまり集中できなかったけど、今さらそれを言っても仕方がない。
マルガリーテは窓から離れてベッドの側に立った。
ここなら、ちょうど部屋の真ん中に描かれた魔法陣と正面から向かい合い、なおかつ月明かりを正面から浴びることができる。
マルガリーテの召喚魔法はいたって簡単だった。
呪文を唱えるでもなく、また指を切って血を滴らせる必要もなく、ただひたすら祈り続けることだった。
悪魔の求める魂を差し出す代わりに、望みを叶えて欲しい、と。
ここに至るまで、マルガリーテはありとあらゆる方法を試していた。
最初に儀式をやった時は何も知識なんてなかったから、本に描かれていた魔法陣を描いて本に書かれていた通りの呪文を唱えた。
そして、ある時は自分を傷つけ、またある時は命を失いかけたこともあった。
そこまでしても現れない悪魔を呪ったりもした。
そうして至ったのは魔法の真理だと思う。
信じて祈り続ける限り、魔法は存在し続けるし、いつかは悪魔だって現れるはず。
……もう、いつかでは困るんだけど。
すでに覚悟は決めてある。
なぜ、覚悟を決めたのか。
一番の理由は、今日この召喚魔法が成功しなかったらその時は、いやその時こそマルガリーテが何者でもない証明になると考えていた。
それは今日が十三回目の儀式だったから。
十三という数字は悪魔が好む数字だった。
十三歳の誕生日に行った儀式の時に現れなかったことで、もう十三回目の儀式しか十三にまつわる数字は思い浮かばなかった。
二つ目の理由は、マルガリーテが自分自身と交わした約束のためだった。
去年はまだ学生だった。だから、もう少し母さんの世話になっていてもいいと思っていた。
今年は違う。
学校を卒業し、就職も結婚もできなかったマルガリーテは家族のお荷物でしかない。
もしかしたら母さんたちはそうは思っていないかも知れないが、マルガリーテ自身が今の自分を一番許せなかった。
できれば、悪魔に殺されたいな。
そうしたら、この世界を終わらせることができて、自分が特別であるという証明が叶うのだ。
これ以上のない終わり方だよ。
「プ……クククッ……」
その時、のどの奥でこらえるような笑い声が薄く聞こえた。
小さな声だったので、何か物音と聞き違えたのかと思った次の瞬間、ろうそくの火が消えた。
何が起こっているのか、マルガリーテにはわからなかった。
窓は開いているけど、風はまったく吹いていない。それなのに、なぜろうそくの火が消えたのか。
冷たい汗が頬を伝う。
「アハハハハハハハハハハハッ!」
重苦しい空気を打ち破るかのように、大きな笑い声が部屋の中に響いた。
しかし、誰の笑い声なのかわからない。
今、マルガリーテの部屋の中には、マルガリーテしかいないはずだった。
少なくとも、この両の目には他に誰も映ってはいない。
「だ、誰!?」
「おいおい、そんなに怯えるなよ。お前はあたしが現れるのを望んでいたんだろ?」
部屋に入る月の光を遮り、一つの影が突如として現れた。
そいつのせいで部屋が一段と暗くなってしまい、しかも逆光だからそいつがどんな奴なのかちっともわからなかった。
ただ、そいつが何者なのかは知っていた。
人生を懸けて求めた存在。
――悪魔、だと――。
高鳴る胸、激しくなる動悸。
呼吸をするだけでも精一杯で、言葉が口から出ていかない。
これほどまでに待ち望んだ瞬間だ。聞きたいこと、話したいことは山ほどあるというのに。
見つめることしかできない。
「それで、なんであたしを呼んだんだ?」
「私を、幸せにして!! 何と引き換えでも構わないからっ!」
悪魔からの問いかけには、間髪入れず答えることができた。
それは、一番大事なこと。一番大切なマルガリーテの想いだった。
「ほぉう、何と引き換えでも、ねぇ」
そう言いながらマルガリーテへと一歩近づいた悪魔は、マルガリーテとたいして年の変わらぬ少女の姿をしていた。
声の感じから、男ではないと気づいていたけど、容姿を見たせいで一気に恐れが吹き飛んでしまった。
足下にも届かんばかりの黒く艶のある髪、黒く澄んだ瞳は、とても悪魔とは思えないほど美しかった。
スラリとした体型を強調するかのように、体には薄く長い布のようなものを巻き付けるようにして着ていた。
中身が美しいからまるでマーメイドドレスを着ているようにも見えるけど、マルガリーテが同じ物を着たら浮浪者にしか見えないだろうな。
悪魔はまるで品定めでもするような目で、マルガリーテを見ていた。
「……あなた、本当に悪魔なの?」
人間とあまりに変わらぬ容姿をしているからか、急に押し寄せてきた不安をそのまま口にしていた。
「ああ、そうだよ。あたしは魔界で最強の悪魔さ。少しは喜べよな。あたしが人間の前に現れるなんて滅多にねーんだから」
胸を張って自信たっぷりに答えてはくれたものの、ますます疑念が増えるだけだった。
「あなたの名前は?」
「あのさぁ、さっきからなんだか、人間のクセにずいぶんと偉そうじゃないか? 普通人間だって相手にものを尋ねる時は自分から名乗るもんだろう」
悪魔にしては実に正論を言ってきた。
ちょっと前までなら躊躇していたかも知れないが、マルガリーテはあっさりと名前を教えた。
「ふ~ん。マルガリーテ、ねぇ。あたしはアミー。よろしくな」
「は……?」
アミーと名乗った悪魔は、自己紹介をして手まで差し出してきた。
「こうするのが人間の世界の礼儀ってやつなんだろ?」
「……まあ、そうだけど……」
なんだか、アミーが期待に満ちた目で見つめてくるので、仕方なく握手をした。
すると、手を握ったまま満足そうにほほ笑んだ。
それがあまりに無邪気な顔だったので、マルガリーテはあわてて手を振り払った。
こんなことをするために、十三年も費やしたわけじゃない。
アミーがマルガリーテの望みを叶えられる悪魔でなければ、たとえ本物の悪魔だったとしても意味はないのだ。
落ち着きを取り戻したマルガリーテは、鋭くアミーを見据えた。
「ところで、アミーはどんな悪魔で、何をするために現れたの?」
「お前に呼ばれたから現れてやったんだ」
「それは目的じゃないわよね。何の目的もなく悪魔が人間の前に現れることなんてないと思うけど」
「……ふむ。なかなか鋭いな。お前の前に現れた目的は確かにあるよ。教えてやってもいいけど、聞く勇気はあるのか?」
目を細めて、そう逆に質問で返してきたアミーに、マルガリーテは初めてたじろいだ。
その時になってやっと、アミーが本物の悪魔なんじゃないかと信じられた気がした。
だからこそ、知りたいと思った。
「教えて。アミーが私の前に現れた目的を」
「悪魔の目的なんて、決まってるだろ。人の魂をいただくためだよ」
「それって、私を殺しに来たってこと?」
「それは違うな。直接でも間接でも、あたしが手を下して殺した魂は、手出しができないのさ。だから、手っ取り早く手に入れることができる魂を探していたんだ」
「手っ取り早く手に入れられる魂?」
「そう。――つまり、寿命が残り少ない魂のことさ」
「寿命が、残り少ない……? それって、まさかっ……!」
「見かけによらずなかなか察しが良いな。想像している通りさ。お前の寿命は、あと三日しかない。だからあたしはお前の前に現れたのさ」
アミーは、少しも表情を変えずにそう告げた。
「わ、私の寿命はあと三日しかない……?」
「ああ、さっきお前に触れて確信したぜ。間違いなく三日で死ぬ。それがお前の運命ってやつだ」
アミーはやっぱり本物の悪魔だ。
悪魔のお告げによって、マルガリーテは絶望の底に突き落とされた。