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マルガリーテが起きた時には、すでにお昼のかき入れ時は過ぎていた。
いろんな意味で、町でも評判の食堂でもあるマルガリーテの家は、お昼の時間ともなると席は常に満席で、場合によっては店の外にまで列ができてしまうほど。
そうなると、どんなに寝入っていても階下がうるさくて起こされてしまうのだが、今日はそうはならなかった。
一階に降りれば、今がどれくらいの時刻なのかわかるけど、誕生日をお祝いするパーティーを開こうとしてるまさにそこに現れるわけにもいかないので、仕方なく窓に近づく。
木の板で閉め切られている窓を開けると、オレンジ色の光が目に飛び込んだ。
柔らかな日の光のはずだったが、起き抜けの目には強すぎた。
あわてて目を細める。
そして、そばにあった木の棒を、板を押さえつけるように立てかけた。
「う……ん……」
部屋に視線を戻し、目を擦りながら辺りの様子を窺う。
寒くなく、暑くなく、さわやかな風が部屋の中の空気を入れ換える。
もう一伸びをして、ようやく目が冴えてきた。
「これは……夕焼け……?」
独り言をつぶやいて、やっと今の時刻を理解する。
「って、そんなに寝てたのっ!?」
いつもはお昼頃に起きてるはずだから、今日はだいぶ寝過ごしたことになる。
頭も冴えてくると、今度はお腹が減ってきた。
そりゃそうだろう。今日は寝る直前に朝食を食べたきりだ。
……寝る直前に朝食、というのもおかしな話だけど。
とにかくマルガリーテはタンスの中から服を引っ張り出して着替えた。
お気に入りの、地味な黒いワンピースである。
一応ドレスのような作りをしているが、色が真っ黒なため一見すると魔法使いのよう。それが気に入っている理由でもあるのだが。
マルガリーテが顔を洗うために一階に降りると、食堂であるはずの一階部分が色とりどりの紙で飾り付けられていた。
小さな子供じゃあるまいし、さすがにこの年にもなると、特にうれしくはない。
恥ずかしいから止めて欲しいと言ったこともあるけど、今ではもう諦めている。
何しろ、この光景は年に四回も見せられる上に、母さんも姉さんもカトリーヌも好きでやっていることだから、マルガリーテ一人が反対しても無駄というもの。
いいかげん、慣れたし。
「ちょうどいいところに、って言いたいところだけど、まだ準備が整っていないのよ」
「いや、別にパーティーに合わせて起きたわけじゃないから、それは別に構わないんだけど。姉さんとカトリーヌは? まだ帰ってきてないの?」
部屋の飾り付けをしているのは、母さんだけだった。
「学校からは、もう帰っているのよ。今は別の用事で二人とも出かけているの」
「そう」
それだけ答えて、マルガリーテはここに降りてきた当初の目的を果たすために、炊事場に行った。
井戸から汲み上げた水はほどよく冷たかったので、それで顔を洗うと一気に目が覚めた。
すると、目の端に何かが止まった。
何かと思って振り向くと、それは炊事場のテーブルに並べられた料理の数々だった。
どれもこれもまだ下ごしらえといったところで、完成はしていないが、見る限りではフルコース並みの料理が並べられていた。
これだけの料理はマルガリーテの食堂でも注文されたことはない。
そして、中央に置かれた白い物が一際目を引いた。
それだけは完成しているようだった。
チョコレートで真ん中に今日の主賓であるマルガリーテの名前がデコレーションされてある、今日のもう一つの主役――ケーキだ。
食堂を経営しているとはいっても、母さんの料理の腕は割と普通だ。それに、お菓子職人ではないからケーキはどちらかというと得意ではないと思う。
でも、見るからに美味しそうだった。
「マルガリーテー! つまみ食いなんかしちゃダメよー!」
食堂の方から母さんがそう叫んだ。
ここは食堂からは見えないはずなのに、どういうわけかマルガリーテがケーキに見とれていることが伝わってしまったらしい。
これ以上ここにいて、つまらないことを疑われたくなかったので、食堂の方へ戻った。
それに、この料理の数々は見ているだけで気が重くなりそうだった。
こんなに豪勢にお祝いしてもらえるような人間じゃないのに、母さんにはそれがわからないのだろうか。
「……カトリーヌじゃないんだから、私がつまみ食いなんてするわけないでしょ」
ぼそぼそと、聞こえるか聞こえないかくらいの声で愚痴をこぼすと、
「あら? そうかしらね」
椅子の上に立って、壁に飾りをつけていた母さんがそう言った。
「だいたい、いくら何でもあの量は作り過ぎじゃない? 私は姉さんとかカトリーヌみたいに友達がいるわけでもないんだし。このパーティーは家族だけでやるんでしょ?」
「いいのよ、あれで。私が用意できるプレゼントなんて料理くらいだから。みんな同じくらい愛してるんだから。だから、あれは私の気持ちなのよ」
「――っ――」
さらりと言いきった母さんの言葉に、マルガリーテは言葉を失った。
母さんの言葉には棘もナイフもまったく含まれていないというのに、なぜだか心に刺さった。
どうしていいかわからず、かといってその場に留まることもできなかったマルガリーテは、逃げるように部屋に戻った。
「あ、マルガリーテ!? もうすぐ準備が終わるから、ちゃんと降りてくるのよ」
背後からかけられた声には、とても応えられるような精神状態ではなかった。
バタンッ、と自分でも驚くほど扉を強く閉めて、そのままベッドに突っ伏した。
嬉しいのか、悲しいのか、とにかく心が苦しいのだけは間違いなかった。
荒くなった息を整えていると、次第に冷静さだけは取り戻せた。
やっぱり、母さんは何もわかっていない。
この十八年、人生を呪い続けてきた人間を「愛している」だなんて。
そんなことは望んでいない。
「私は、こんな世界なんかに生まれたくはなかったのにっ!」
慟哭ともとれる言葉を、ベッドに顔を埋めるようにして叫んだ。
どんなに母さんを呪っていても、この本音だけはまだ聞かせたくはなかった。
なぜなのかはわからない。
何もできず、また何も得られなかったマルガリーテが生きていくためには、この家にしがみつくしかないからだろうか。
自分が愛されているから、まだこの家に置いてもらえているけど、嫌われてしまったら捨てられてしまうかも知れない。
それを恐れている?
……だけど、そもそもこの世界で、この人間として生き続けたいなんて思ってもいないのに。
だったら、なぜ今すぐに終わらせないのだろうか。
母さんに対して情を感じている?
違う。
自分が何者なのか、証明されるまで終わらせたくないだけだ。
「……もしかしたら、今日が最期の日になるかも知れないんだ……」
――そう。今夜、ちょうど十三回目の儀式が行われる。
そしてもし、何も起こらなかったなら、証明される。
自分が、この世界で何者でもないということが。
「……フッ……、本当はもうわかっていることだと思うけど」
失笑しながら自分に言い聞かせるようにつぶやく。
「でも、私が私と交わした約束くらいは守らなくちゃね」
それは、儀式を行うことではなかった。
生きることで誰かに迷惑をかけるようになってしまったら、終わらせよう、と父が死んだあの日自分に誓ったのだ。
死ぬことは怖くはなかった。
それよりも、何者でもないまま生きることの方が辛いから。
「私が死んだら母さんは悲しむかな。でも、仕方ないよね。望んでもいない世界に勝手に産んだ母さんが悪いんだから。きっと、その悲しみは必然的なものなんだ。私を産んだ罪に対する罰。それくらいは、受けてもらわなきゃ。私が感じてきた生きる苦しみよりはよっぽどマシだもの」
こんなことを考えているのだから、きっと天国には往けないだろうな。
……そんな世界になんて往くつもりもないけど。
――コン、コン。
扉をノックする音が聞こえて、マルガリーテはハッとした。
まさか、聞かれた?
いつからかはわからないが、気づかない内に部屋の前に誰かがいたらしい。
息を殺して扉を見つめていると、優しくおっとりとした声が聞こえてきた。
「マルガリーテ? 起きてる? ソフィアだけど、パーティーの準備は整ったわよ。みんな待ってるから降りてらっしゃい」
どうやら、姉さんがマルガリーテを呼びに来たみたい。
「う、うん。今、行くわ」
扉を開けると、姉さんはほほえみを浮かべて出迎えた。
マルガリーテとは違い、母さんの美しさを見るからに受け継いだ姉さんのことは、いつも直視できなかったが、今日は一段と目を向けられなかった。
さっきの言葉を聞かれてやいないか、ヒヤヒヤしていた。
「マルガリーテ、おはよう」
「へ? あ、ああ、うん。おはよう」
何を言うのかと思って一瞬身構えてしまったが、なんてことはない、ただのあいさつだった。
そういえば、今日は起きてから初めて姉さんと顔を合わせたのだ。
「お祝いの言葉は、みんな揃ってから言うから、もう少し待っててね」
「う、うん……」
姉さんはそう言うと、背を向けて食堂へと歩き出した。
マルガリーテも黙って後に続く。
ぼんやりと姉さんを見てると、どうしてこの人が同じ親から生まれた姉さんなのか、と考えさせられる。
目の前で長くストレートの金髪が揺れる。母さん譲りの髪は、柔らかさこそないが、芯の通った美しさに満ちている。
そして、後ろからでもわかる絶妙の起伏をしているスタイルは、すでに母さんを凌駕しているといえる。
ふくよかな胸と、引き締まった腰は男でなくとも憧れる。
でも、それ以上に羨ましかったのは細く切れ長の色気に満ちた目だった。
その目に宿る瞳が、急に振り返ってマルガリーテを捉えた。
「どうしたの?」
一緒に歩いていたはずのマルガリーテは、いつしか階段の真ん中で立ち止まっていたようだった。
息を呑むほど美しい姉さんを前に、完全に動くことを忘れてしまったマルガリーテは、姉さんに手を引かれて食堂へと降りた。
食堂は、いつもと違う様相になっていた。
夕食の時間まで開店しているので、日が沈んでも食堂の中はこの界隈では比較的明るかった。
しかし、今は照明用のランプが半分も点けられていなかった。
薄明かりの中で、一つのテーブルだけが浮かび上がるかのように明るかった。
その側には母さんとカトリーヌ。
『お誕生日、おめでとう!』
家族から祝福の言葉を浴びせかけられた。
テーブルに近づいてから気づいたけど、そこだけが浮かび上がっているように見えたのは、そこの真ん中に置かれた、ケーキのろうそくのせいだった。
「ねえ、お姉ちゃん。早く消してよっ、もう待ちくたびれちゃったんだから」
「ああ、うん……」
そうは言ったものの、なかなかろうそくの火を消すことができなかった。
マルガリーテは間違いなくこのパーティーの主役で、家族が祝福してくれているのも間違いではない。
それなのに、この場の全てが間違いのような気がしてならなかった。
みんなが幸せそうな笑顔をしているのに、マルガリーテだけが仲間外れみたいに浮かない顔をしていた。
「マルガリーテ?」
「あ、ごめん。消すね」
姉さんがマルガリーテの顔を覗き込んできたので、あわてて十八本のろうそくを吹き消した。
目の前の明かりが消えると、今までとは逆にテーブルの辺りが暗くなった。
ギリギリ、姉さんに顔を見られなくてすんだ。
どんな顔をしていたのかは、鏡を見なければわからないけど、今の表情だけはたぶん、いや、決して家族には見せてはいけないと思った。
「おめでとう、マルガリーテ」
さっきとは打って変わって、母さんがしみじみと言ってテーブルから離れた。
何をするのかと思ったら、ただ部屋の明かりを点けに行っただけだった。
食堂の中がいつもの明るさを取り戻すと、目の前には美しい姉妹が並んで立っていた。
「はい、これ。お姉ちゃんにプレゼント」
そう言ってカトリーヌが差し出したのは、シンプルな赤い櫛だった。
「……こういうのは、私よりカトリーヌが持っていた方がいいんじゃない?」
「ううん。お姉ちゃんに使ってもらいたいから」
皮肉のつもりで言ったのだが、カトリーヌは通じなかったようだ。
ま、裏表のないカトリーヌに皮肉が理解できるわけはないのだが。
「私からは、ありきたりだけど本をプレゼントするわ」
姉さんがそう言って差し出した本を見て、マルガリーテは言葉に詰まった。
「え? これって……」
その本はとても〝ありきたり〟のものではなかった。
「苦労したのよ。こういう本って、どういうところで売ってるのかわからなかったから、まずそこから探さなきゃならなかったんですもの」
「そ、そりゃそうだろうね……。これだけ詳しい魔法事典なんて、私だって見たことはないもの」
ページを少しめくっただけでも、興味深い内容が目についた。
「マルガリーテ、プレゼントを見るのは後にしなさい。せっかく作った料理が冷めちゃうわよ」
食堂の明かりを全て点け終えた母さんが戻ってきてそう言った。
そうだとばかりに、姉さんとカトリーヌも席に着く。
そうなると、マルガリーテも席に着かないわけにはいかない。名残惜しい気持ちを抑えて、魔法事典を料理の並べられていないテーブルに櫛と共に置き、席に着いた。
「いただきます」
マルガリーテは、目の前のコーンクリームスープを一口飲んだ。
なぜだか、姉さんたちは固唾を呑んで見ている。
「……どう?」
まるで、試験の結果を待つかのような表情で姉さんが聞いた。
「え、どうって言われても……。美味しいわよ」
「お姉ちゃん、お姉ちゃん。それじゃあこっちも食べてみて」
今度はカトリーヌが野菜サラダを差し出した。
「ん……。これも、美味しいけど、さっきから何なの?」
「その二つは、ソフィアとカトリーヌがマルガリーテのために作ったものなのよ」
「なんだ、そういうことだったの」
「さ、あなたたちも見ていないで、そろそろ食べましょう」
「はーい、いただきまーす」
「はい、いただきます」
姉さんとカトリーヌは挨拶をしてから料理を口に運んだ。
その夜は、今までのどの誕生パーティーよりも豪勢だった。
作りすぎた料理の数々は結局食べきることができなかった。
それでも、ケーキだけはみんなで食べた。
客観的に見ても、ごく普通の家庭よりもよっぽどマルガリーテの家は恵まれていた。
今日は特に、幸せそうな家族の典型だと言えるだろう。
この国は、近隣諸国と比べても中流家庭の多い国だ。その中でも、マルガリーテの家は裕福な方に入ると思う。それに加えて、優しい母。優しい姉。優しい妹。そして、温かい家庭。
これ以上の幸せなんてあるのだろうか。
なのに、マルガリーテだけがこの生活を幸せだとは思えなかった。