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「行ってきまーす!」
「はい、行ってらっしゃい」
くぐもった声が部屋の外から聞こえた。
あの声が聞こえてきたということは、もう朝なのだろう。
この部屋の窓は、ほとんど四六時中閉め切られているから時間の感覚なんてありはしない。
燭台のほのかな明かりとよどんだ空気の支配する、板張りの小さいこの部屋が世界の全てだった。
部屋の主であるマルガリーテはベッドに寝っ転がりながら本を読んでいた。
「ふぁ~あ……」
一際大きなあくびをしてから、マルガリーテは部屋の扉をのそのそと開ける。
学校を卒業してから、マルガリーテの生活は世間一般とはまるで逆転してしまった。
この国では女の就ける仕事など限られている。
だから、ほとんどの女はある程度の年齢になった時点で男のところに嫁いでいく。
よほど就きたい仕事があって、そのための努力をするか。あるいは少しでも多くの男に気に入られるために、美しくなるための努力をするか。女の生き方なんて、この二つの内どちらかしかない、と思う。
そのどちらも努力を怠ってきたマルガリーテには、どちらの人生も手に入ってはいなかった。
「あら? おはよう、マルガリーテ」
一階に降りたマルガリーテを、母さんが出迎えた。
長く柔らかな金髪を後ろで留め、たれ目の青い瞳でほほえみかけるその姿は、まるで女神のよう。
母さんを見るたびにマルガリーテは思っていた。自分も本当にこの人から生まれたのだろうか、と。
姉さんや、妹のカトリーヌはわかる。
簡単に言えば、姉さんは美人で、カトリーヌは可愛らしい。
それに比べてマルガリーテはこれといって特徴のないごくごく平凡な顔。
髪は黒く硬い、目だって一重で小さい。今日で十八歳になったというのに、やせて起伏のない体。まるで母さんとは正反対の姿だった。
……母さんが言うにはマルガリーテは父によく似ているらしいけど、マルガリーテが四歳の頃に父が死んでしまっているから、父のことなんてほとんど覚えていないし、確認のしようがなかった。
「お、おはよう……」
ぎこちなく、あいさつを返す。これも、いつもの光景だ。
普通ならば、これから起きて生活する者が朝食を食べる時間のはずだが、マルガリーテにはそれは当てはまらなかった。
それとも、朝に食べるものが朝食ならば、これから寝ようとしている者が食べるものも朝食なのだろうか。
「ちょっと待っててね。今用意するから」
「あ、うん……」
気のない返事をすると、母さんはパタパタと炊事場の方へ行ってしまった。
マルガリーテの家は、町の中でも評判の食堂を経営していた。自宅と兼用の家は一階部分がお店である食堂になっていて、二階と三階がマルガリーテ達の居住スペースになっている。
食堂が営業している時間にマルガリーテ達が食べる場合、炊事場で食べなければならないが、このように営業時間外の時はたいていお客さんのように食堂で食べていた。
「あ! お姉ちゃん……おはよう」
「え?」
食堂の一角にちょこんと座っていたマルガリーテは、不意に聞こえてきた声に顔を向けた。
「……また、夜更かししたの?」
そう言ったのは、まるで人形のように愛らしい少女だった。
茶色いセミロングの髪は絹のように美しくふんわりとしている。二重の瞳はパッチリとしていて宝石のように輝いていた。
家族に対しては劣等感しか抱かないマルガリーテにとっても、愛らしいと感じてしまうほどだった。
妹のカトリーヌは、ワンピースの白いドレスのような服をひらひらさせてマルガリーテをキョトンと見ていた。
どうやら、マルガリーテの服が昨日と変わらなかったから、そう思ったのだろう。
……たとえ服が変わっていても、ここのところのマルガリーテの生活を考えてみれば同じ質問が飛んできたかも知れないが。
「う、うん。まあね。カトリーヌはこれから学校? 早く行かなくていいの? 遅刻するわよ」
あさっての方を向いたまま、そう急かすように言った。
うかつだった。さっき聞こえてきたのは姉さんの声だけだったのだ。
はっきり言ってしまえば、このぐうたらな姿を姉妹に見せたくなかったから、必然的に昼夜が逆転した生活になっていたのに、よりにも選ってカトリーヌにばっちり見られてしまった。
「……うん。じゃあ、行ってきます」
マルガリーテの気持ちを察したのか、カトリーヌは素直にそう答えてくれた。
しかし、立ち止まったままそこから動こうとしない。
どうかしたのか聞こうとしたら、先にカトリーヌの方が口を開いた。
「お姉ちゃん、今日は一緒に夕食を食べるからね」
「――は?」
「今日はお姉ちゃんの誕生日だから。一緒にお祝いするんだからね」
まくし立てるように一方的に言って、カトリーヌは逃げるように家から飛び出していった。
その後ろ姿を目で追うと、茶色がかったセミロングの髪が朝日に照らされて美しく輝いていた。
「マルガリーテ、まさか忘れていたわけじゃないわよね?」
母さんが、マルガリーテの前に朝食を並べた。
今日は、というより朝食はいつも同じメニューなんだけど、片手サイズのパンに目玉焼き、それにソーセージである。
「いくら何でも、それは覚えてるわよ」
一応質問に答えてから「いただきます」を言ってパンを手に取った。
本音を言えば、自分の誕生日だけは忘れるはずはなかった。
マルガリーテにとって誕生日は毎年、〝ある儀式〟のための日であるから。
絶対に、決して、必ず、この日だけは忘れない。
「……そうよね。それで、カトリーヌも言っていたけれど、今日は夜の仕事をお休みするから、必ず夕食の時間はここに降りてくるのよ」
「……うん……」
とは言ったものの、正直あまり参加したくはなかった。
マルガリーテにとって誕生日は自分が生まれた呪わしき日である。それをお祝いする席になんか出たくはなかった。
「そうだわ、まだ言ってなかったわよね?」
母さんは何かを思い出したように手を叩いて言った。
「お誕生日、おめでとう。夜のパーティーは楽しみにしててね」
普段は楽天的でぽやぽやした雰囲気なのだが、こういう時は有無を言わせぬきりりとした雰囲気を醸し出す。
その雰囲気に押されるようにして、マルガリーテはうなずいた。
それでやっと満足したのか、母さんは店の奥へと戻って今日の仕込みを始めた。
早くその場から立ち去りたかったから、残っていた朝食をかき込むようにして食べた。
さすがに、夜更かしをしてお腹も膨れると眠気は頂点に達する。
井戸のある炊事場で水を汲み、歯を磨いて部屋に戻ると、倒れ込むようにしてベッドに入った。
そして、早いんだか遅いんだかよくわからないような眠りについた。