M氏の花束
少し肌寒い春の日である。甘い花の香りに誘われて、私はM氏の庭園にある小さな花畑に立ち寄ることにした。
花畑には白、黄、赤など、いろとりどりの花が咲き、箱庭のような狭さがもたらす雰囲気以上の、どこか一点において極まったような美しさを私に見せている。しばらくの間、花畑を外から眺めていると、小さな蝶が南風に乗ってやってきた。蝶は四羽、みな一様に白く小さい。もしかしたら、兄弟か何かだろうかと、私はとりとめもないことを考えた。
私は時折視界に入る蝶のことを気にしながらも、表の邸宅の方にいるはずのM氏を尋ねに行った。昔から知る仲とはいえ、さすがにひとさまの庭に勝手に立ち入るわけにもいくまい。
私はドアを叩く。返事はない。真鍮のドアを押してみると、それは私の声にあっさり応えてくれた。小さく白い邸宅の鍵は開いているのだ。玄関から進んで、私は彼の書斎を覗いた。
しかしM氏はいない。
首をかしげて、私は小さな家のすみずみまでをあらためる。しかし家は空で、しばしば目の前に紫の花びらが現れるのみである。これは、花畑から吹き込んできたものだろうか?
私は不可思議に思って、唯一あらためていなかった家の奥の奥、花畑の横の離れの方に通じるガラス戸の方に向かった。
きしむ木の廊下を進む。ほどなくしてその扉のところに着くと、私はすべてを理解した。ガラス戸は大きく開いていたのだ。私はガラス戸から外に出て、邸宅よりもひと回り小さな離れに向かうことにした。その際、きちんと扉は閉めておくこととする。老いたM氏に、今日の冷たい風は障ることだろうから。
ガラス戸を出たところから離れに向かっては、青々した芝生の中に、まるで道を作るように石畳が敷かれている。家主の彼は、これを石の川と呼んで気に入っていた。少しでこぼことしたその川を下り、私は邸宅をそのまま縮めたような離れを目指した。
離れのドアもやはり鍵が掛けられておらず、案の定M氏もいなかった。不用心だな、とあきれながらも、まぁマイペースなM氏のことだからと、私は少しほほえましく思う。彼はどこかふわふわとした、本当に不思議な人だ。
しかし、ここにもいないというのなら、M氏はどこに行ったのだろう。私は離れを出て、改めて花畑の方を覗きに行った。
邸宅と離れ、そして小さな花畑から成り立つ、簡素なM氏の住まい。それは現役時代の彼の立場や功績から考えれば、あまりにも小さな楽園であった。だが、M氏はそれがこの家のいいところだとも語っていたのだが、私にはまだ理解できそうにない。
離れの真裏に花畑はある。近づけば近づくほど、花の甘くて生っぽいにおいが私の鼻を突く。私はこの香りが、このにおいが好きだ。だからM氏の花畑も好きだ。ここはいつでも生のにおいで満ちている。
私は地にしっかりと足を置き、花畑の前に立つ。結局、M氏はいなかった。そこに開かれているのは、彼の代わりに先程の蝶たちが戯れているのみの風景だ。首をかしげる。仕方なしに花畑に背を向ける。と、そのときである。
「やあやあ、来てくれたのかい」
私の頭の中を、幼いころからよく聞いたM氏の声が揺らしたのは。
驚いて、私は振り返った。するとそこには、ついさっきまではいなかったはずの花畑の真ん中には、私が求めていたM氏その人がいるではないか。その手に小さな花束を握ったM氏が。彼のひょろりと長い身体の周りには、あの四羽の蝶が楽しそうに舞っている。M氏はにっこり微笑んで、私を見ていた。私は、何も言えなかった。
泣くこともできなければ、笑い飛ばすこともできない。そんな中途半端な私を、彼はいつもどおりのやさしげなまなこで見守っている。
黙する。
虹色の沈黙。
動くものは無邪気な蝶たちだけのその空間で、私は勇気を振り絞って小さな一歩を踏み出した。そんな私に彼はやさしく、やさしく語りかけるのだ。
「――ここは、立ち入り禁止だよ」
ものを知らない子供を諭すような口調も、不思議と不快にはならない。
「きっと君には、まだ当分早いよ」
そうとだけ言ったM氏は、さいごにいたずらっぽく笑った。
私が次に瞬きをしたときには、M氏はそこから消え、小さな花畑は花より赤い炎に包まれていた。戸惑う私の足元には、あの蝶たちと彼の手にあった小さな黄色い花束だけが残されている。
ぼんやりと燃えていくそれを眺める。花畑が燃えてできた灰が、風であおられて空に散っていった。
その様は華やかで、私は少しだけ寂しくなった。