中国漢の第九代皇帝元帝劉奭は避暑地で若熊に遭遇すると、夫人たちの中で一人熊に向かった女瑪援がいた。これを機会に元帝の寵愛は瑪援に集中するが、これを嫉んだ傳姫の壮絶な戦いが始まる。
ものがたり漢女列伝
熊に向かった女 瑪援
1. 瑪奉世
中央アジアの砂漠地帯に入ると、昼は照りつける太陽で人間の体温をはるかに超える一方、夜には毛布がなければ凌げないほどの冷気が襲ってきて、とても人が住めるようなところではない。それでも、所々に湖沼が存在し、そこには樹木や育ち、鳥や小動物なども生存する。その一帯の土地が広ければ、人も住み着くようになり、オアシス国家が成立する。
それらのオアシス国家は、古代、長い間、西域で独立国家を保ってきたが、東西の強国は自国では産出できない農作物、鉱物、織物、工作物、装飾品などを求めて、はるか遠くの国々まで交易を求めるようになってきた。そのためには、過酷な自然環境にも耐える駱駝や馬なども必要となってきた。東西への交易の通過点となるオアシス国家は、強国に水や食料、駱駝などを提供し、その代金で国が潤うようになった。
しかし、強国は必ずしもこれら西域諸国に対して友好的ではなく、彼らの要求に応えられないと、たちまち武力で訴えてくる。西域諸国も強国のやりたい放題に抵抗するだけの十分な国力があるはずもなく、その防衛手段として強国の属国となり、庇護を受けるようになった。強国も常に強国であるわけではなく、隣国との力関係や内部の混乱で強国自体が衰亡する。そんな滅亡寸前の国家の庇護をいつまでも受けていたら、新たに興隆した強国にたちまち押しつぶされてしまう。鳥孫、大宛などの西域諸国は常に東西の強国の動静を探り、巧みに外交を行ってきた。
古代中国は、その北方と西方を支配する匈奴との争いに劣勢を続けてきた。漢の創始者高祖劉邦は匈奴との戦いに敗れ、漢は匈奴の弟国の扱いで匈奴に年貢を納める関係が長く続いた。ようやく第七代皇帝武帝の元朔四年(紀元前124年)衛青が始めて匈奴を撃つと、甥の霍去病もそれに続き、ようやく匈奴との屈辱な関係を断ち切った。
武帝は西方に張謇を派遣し、彼が戻ることによって西方の最新情報を知ることで、西方への交易の道が開かれた。その利は大きく、武帝は西方の拠点に城を築き、西域諸国を支配下に置いた。しかし、匈奴がそれを黙認するわけもなく、隙があれば漢の拠点となる城を攻撃し、再び、西域諸国の支配権を奪い返した。これに対して、漢も何万もの軍を西方に派遣して、西域諸国の支配の奪還に終始した。
第九代皇帝宣帝の五鳳三年(紀元前124年)漢は西域に二つの属国を置き、西域諸国との外交の要所とした。その二年後、鳥孫が匈奴の拠点を攻撃し打ち破った。
「現在の匈奴の力は大したことはない。我々は一致協力して、匈奴から自治権を取り戻そうではないか」
鳥孫は西域諸国にそう呼びかけ、そのためには漢の協力が必然として、漢に使者を送ってきた。宣帝はそれを大いに喜び、西域諸国との外交に相応しい者を選任させた。すると、前将軍韓増は瑪奉世を適役として推奨した。宣帝もそれを善しとして、瑪奉世を正使として西域諸国王への宣帝の親書を持たせて西域に送り込んだ。
瑪奉世は今の山西省の東北にある上党郡路県の人で、始祖はいまから二千三百年前の戦国時代、韓の将軍瑪亭にさかのぼる名門の出である。瑪亭は将軍として上党の守りを担当したが、秦に敗れた。その後、趙に降り華陽君に封じられ趙の将軍として秦と戦ったが長平で戦死した。この時、秦は長平の地で四十万人の趙兵を生き埋めにしたという。
その後、秦が六国を統一すると、瑪亭の子孫は秦の将相となった。漢が創設されると瑪家は継続して軍部や警護の重職に就いた。瑪奉世は武帝の晩年、名門の出として抜擢され、武帝直属の警護役として、禄高五百石の郎に就いた。昭帝の時代には武安県の県長となったが、三十歳過ぎで役を解かれたのを機会に兵法を学んだ。瑪奉世の評判を聞いた前将軍韓増は、彼を自分の配下に置いた。そして、匈奴との戦いで実績を上げた瑪奉世は、その後も匈奴との戦いで司空令として従軍し功績をあげた。韓増は自信をもって宣帝に瑪奉世を推挙したのだった。
瑪奉世が西域の駐屯地として置いた鄯善国の伊楯城に到着すると、そこの都尉宋将が瑪奉世に告げた。
「莎車国に内乱が起こり、近隣諸国の協力を得て漢が立てた莎車王と漢の使者を殺しました。匈奴はこれに応じて挙兵し、西域に至る北道諸国との連絡がつかない状況です。このような事態が続くと莎車国の勢力が増し続け、匈奴の思う壺となります」
瑪奉世は副使厳昌と相談し決断した。
「直ちに西域諸国王に訴えて、兵を出してもらい、莎車国を攻めよう」
「そんな勝手なことをして、あとで責任をとらされませんか」
厳昌が躊躇するが、瑪奉世は行動を起こした。ひと月の間に近隣の西域諸国を訪問し、国王に面会して訴えた。
「このままいけば、西域諸国はすべて匈奴の属国となります。漢はこれからも友好国として協力を惜しみません。なにとぞ、莎車国をもとの状態に戻すため、兵力をお貸しいただくようお願いします」
瑪奉世は誠意をもって諸国王を説得し、都合、一万五千人の兵力をもって莎車国を攻め、城を落とした。莎車王は自殺し、その首は長安に送られた。再び、瑪奉世は諸国王と面会し、漢との友好を確認した。
その後、瑪奉世は西域の大国大宛国に到着して、国王に事の次第を報告した。国王は大いに喜び、瑪奉世に敬意を表して特別待遇で接したうえ、漢との永久の親交の証として名馬象龍を宣帝への献上品とした。
瑪奉世の都長安への凱旋は、日ごろ娯楽の少ない庶民にとってもその晴れ姿を見ることは大きな楽しみとなった。渭橋という橋を渡ると、都はもう目と鼻の先である。そこには、出迎えの役人たちに加えて、遠征軍の家族たちが待っていた。当然、瑪奉世の家族も一等席で待ち構えていた。瑪奉世が一年ぶりの家族との再会の喜びに浸る間もなく、一行は宣帝の待つ長安城へ足を向けた。その街道には鈴なりの状態で多くの庶民が出迎えていた。一行が西域の諸国からの献上品として受領したと噂に聞いていた駱駝や大型の馬を一目見ようと、朝早くから街道に陣取っていた。
漢朝代々の皇帝は、西方や北方への遠征の成果に一喜一憂してきたが、多大な成果を果たした遠征軍に対しては、常に多大な褒賞を与えてきた。今回の瑪奉世の目的は西方諸国に宣帝の親書を渡すことであったが、瑪奉世が臨機応変な対応で期待以上の成果を収めた。瑪奉世の報告が終わると宣帝は大いに喜び、瑪奉世の封爵を評議させた。丞相于定国をはじめ誰もが瑪奉世を列候とするよう進言した。ところが、御士大夫、大鴻獹、将軍などを歴任した重鎮簫望之が反論した。
「奉世は西域諸国への使者という命を超えて、諸国の兵を徴発しました。結果として大功を得ましたが、これをもって列候に叙勲したとなると、それが前例となり、競って勝手に兵を調達するものが出てくるでしょう」
それを聞いて宣帝がむっとした顔をしたのを丞相于定国は見逃さなかった。宣帝が評議しろといったのは、瑪奉世を列候とすることの賛同の意を表せということで、これまでは誰もがそれに従ってきた。于定国は簫望之に鋭い視線を送ったが、簫望之はそれを無視したような顔でうんうんと頷き、自分の意見が正しいことを自らの態度で示した。
宣帝は気まずそうに言った。
「然り」
宣帝は瑪奉世を禄高比二千石の高官、光禄太夫・水衛都尉とした。瑪奉世はあまり欲得に執着しない性格で、この評議結果に不満を抱くことはなかった。それでも簫望之の意見にあっさり従った宣帝に、瑪奉世は迫りくる老いを感じた。
― あと二年も持たないのでは
決して口には出せない瑪奉世の実感であった。
瑪奉世は七男四女の子沢山で、すでに長男譚、次男夜王は自立の道を進み始めており、いずれも出来が良かった。その下の五人の息子たちも、瑪奉世の目からすると決して凡庸ではない。特に末っ子の参はいずれ自分を超すような男となり、史書に名を残してくれるに違いないと瑪奉世は確信していた。
「問題は長女の援だな。彼女も決して愚鈍ではない。しかし、このままでは決して女の幸せにはつながらない」
瑪奉世は一つの決断をした。
2.劉奭
宣帝の第一子劉奭は幼年時、波乱の連続であった。劉奭は元平元年(紀元前七四年)に生まれると、その年に昭帝が崩御し、父親の劉潤が第九代皇帝に即位し、母親の許平君が皇后に立った。ところが、その二年後、母親の許平君が政界の実力者霍光の妻に毒殺された。劉奭にも危害が及ぶところであったが、何とか難を逃れた。霍光が地節二年(紀元前六八年)に薨去すると、その翌年、霍一族はクーデターに失敗し滅亡した。その翌年、劉奭はわずか八歳で皇太子に立てられた。
その後の劉奭の周辺には大きな波乱もなく順調であったが、物心がついてからは初めてといってもよい不幸が訪れた。愛する司馬良悌を病で失ったのであった。良悌とは皇太子宮において皇太子妃に次ぐ階位である。劉奭にはまだ世継ぎが生まれていなかったため、皇太子妃を設けていなかったので、司馬氏は皇太子宮での実質的に女性の最高位にあった。軽い風邪と思われた司馬氏の病状は思いのほか重く、あっという間に死を迎えた。
劉奭は司馬氏を皇太子妃の位で葬送したいと願ったが、父親の宣帝に拒絶された。
「お前の尊ぶ儒の教えでも、そんなことは許していないであろう。将来天子となるものが、臣下や民の見本とならずに、どうして尊敬されるというのだ」
「しかし、世宗は李夫人を皇后としてご自分の寿陵の横に埋葬されました」
世宗とは前漢最盛期を飾った第七代皇帝である武帝劉撤のことである。武帝が当時最も寵愛していた李夫人が病死したとき、皇后待遇で葬送したことを言っている。
「あの偉大な皇帝である世宗とお前を比べるなど、百年早い」
そう言って、宣帝は息子の願いをあっさりと退けた。
宣帝親子の意見の食い違いは宣帝の廃皇太子宣言にまで及んだ。劉奭は君子が立派であれば、民も君主を敬い、世の中はすべて治まるといった儒の教えに傾倒しており、父親が信賞必罰の厳しい政治を進めることに強く反対の意を示していた。
宣帝は若いころを民間で育ち、生活の厳しさを味わってきた。自分の理想を追求しても生活はよくはならなかった。許平君との間に長男奭が生まれた直後、昭帝が崩御し、次の皇帝選びに難渋したが、武帝の曽孫にあたる劉詢が霍光に指名され第九代皇帝に即位した。崩御後の諡号が宣帝である。宣帝も即位してからしばらくは、霍光の実質上の傀儡であった。霍光が薨去し、宣帝はようやく真の絶対君主となり、これまでの人生経験から、どんな高位の者でも法を犯せば厳して処罰で臨んだ。近隣国に対しても反抗の意を示せば厳しく接した。その一方で、身分を問わずに功績があれば、それ相当の褒賞で応じた。信賞必罰は漢の全盛期を迎えた偉大な曾祖父武帝の信念でもあった。その意思を受け継いだ宣帝は後世、漢中興の祖と称えられるだけの名君となった。そんな苦労人である宣帝から見れば、形式だけを重んじる儒教などは、上下階級を厳しく貫き、絶対君主を敬わせるためのひとつの道具に過ぎず、儒者たちを決して政治に深く関わらせなかった。
宣帝はいつまでも死んだ女のことを忘れられずにいて、儒の教えなどという理想論ばかりに傾倒する皇太子の器に疑問を感じた。宣帝にはまだ三人の男の皇子がいた。特に秀でたものはいなかったが、このまま劉奭に皇位を継承すれば、漢朝は破滅の道を進むものと考えた。宣帝は劉奭の廃太子を真剣に考えた。
劉奭の廃太子を真っ先に反対したのは、王皇后であった。王皇后は宣帝の三人目の皇后で、父親の王奉光と宣帝は、宣帝が即位前に民間で暮らしていた頃に面識があった。宣帝と王奉光の娘とは年齢差はあったが、面識はあった。素直で明るい娘だったという印象が、宣帝の記憶にも残っていた。宣帝は即位後、彼女が年頃になると召し出して後宮に入れた。王氏は幼かったころの印象通りに、明るく実直な性格に育っていた。王氏は宣帝に愛され、皇后に次ぐ位の婕妤に至ったが、皇子は生まれなかった。霍光が死に、皇后の霍成君が廃后になると、慎ましく皇子のいない王氏が皇后に立てられた。王氏は皇后に立てられた後も、母親のいない劉奭に対して実の母親のように優しく振舞った。劉奭も王氏によく懐いた。
宣帝が劉奭の廃太子を考えていることを知った王皇后は、涙ながらに宣帝に訴えた。
「妾は父親から主上がまだ民間でお暮しのころのご苦労をよく聞かされたものです。主上と恭哀(許皇后の諡号)陛下は、生活はとても厳しかったけれどもとても仲睦ましく、お生まれになったばかりの皇太子殿下を深く愛されておられたとお聞きしています。もし、殿下を廃されたとしたら、草場の陰で恭哀陛下はどれだけ投げ悲しむでしょうか」
そう言われると宣帝も若いころの思い出が蘇ってきた。重臣たちからも強い反対があり、宣帝は廃太子を断念したが断言した。
「漢の滅亡は劉奭に始まる」
王皇后は皇太子劉奭のことを我が子のように可愛がった。劉奭も廃太子のこともあり、王皇后を実の母親のように敬った。そんなある日、劉奭は王皇后に呼ばれた。そこには五人の女が控えていた。
「彼女たちは家人子と呼ばれる後宮に入ったばかりの女です。誰か気に入ったものがいれば、連れてお帰りなさい」
王皇后にそう言われてみても、まだ司馬良悌のことが忘れられずにいる劉奭はその気にならなかった。しかし、恩ある義母の言うことを無視するわけにもいかない。そう思って五人の女をもう一度見ると、ひとり気になる女がいた。他の女は色鮮やかな衣装を身に着けていたが、その女は白の衣装に赤い縁取りを縫いこんだ質素なものであった。劉奭はその女を指名して、皇太子宮に入るように命じた。その女の名は王政君といった。ちなみに王皇后とは縁戚関係はない。
「これは永い付き合いになるに違いない」
劉奭は王政君と何回か閨を共にし、すぐに王政君は身籠った。生まれた皇子は丸々と太った男児で鷔と命名された。劉鷔の祖父にあたる宣帝は、王政君が劉鷔を抱いて自分のところに挨拶に来ると、自ら孫を膝に乗せるなど劉鷔を溺愛した。
その後、劉奭の寵愛の相手は傳夫人へと移った。傳夫人は当時の夫人たちと比べると少しふくよかな体形であったが、それが劉奭に新鮮さを感じさせていた。すぐに男児が生まれ康と名付けられた。
新たな時代が始まろうとしていた。
4. 瑪援の入宮
瑪奉世が西域から凱旋したとき、長女の援はまだ十四歳であった。援は同じ年ごろの娘と比べると身体も大きかった。男勝りの並外れた運動神経の持ち主で、武道や馬術に励み、顔は日焼けして肉体もよく引き締まっており、身なりはいつも若武者のような格好をしていたから、一見すると誰も彼女が女とは思わない。
日本の歴史小説や時代小説がお好きな方は、司馬遼太郎「竜馬が行く」に登場する江戸千葉道場の娘千葉佐那か、池波正太郎「剣客商売」に登場する田沼意次の娘で女剣士の佐々木三冬を思い浮かべるとよいだろう。
援は武道や馬術だけでなく勉学にも熱心で、孫氏の兵法、孔子の説く儒の教えや商氏の法家の教えなど幅ひろく興味を持った。援は自分の邸の書庫に一日閉じこもって読書にふけることも多かった。裕福な家の普通の少女が夢中になるような華美な衣装や飾り物などには見向きもせず、歌舞や音楽などにも興味はなかった。
馮家の広大な邸の中では厩舎の横に馬場もあり、馮家の家来たちは早朝、馬の調教や乗馬の稽古に励んでいた。援は彼らが馬場を去る頃を見計らって厩舎を訪れ、お気に入りの白馬に跨り馬場を駆け巡った。援は乗馬に飽きると、馮家の家来の息子たちで同年代の者を捕まえて剣の相手をさせ、誰も相手が捕まらないと一人で弩と呼ばれる大型の弓を持ちだして的当てに励んだ。
父親の瑪奉世は西域から戻って、宣帝から光禄太夫・水衛都尉の辞令を受け取り私邸に戻った。そこで、援が相変わらず男子のような振舞いを続けているのを見て、自分が下した決断が間違いないことを確信した。しかし、援がその決断を素直に聞くかどうかは自信がなかった。
瑪奉世は多忙であったが、漢の朝廷では五日に一度、洗髪という名目の公休日があり、その日、瑪奉世は自邸に戻ると娘の援を呼び出して言った。
「お前もいつまでもそのように男のような振舞いをしている訳にはいかないことくらい解っているだろう。馮家のことを考えたら、そろそろ女としての修行に励むことを考えろ」
援は唇をじっと嚙んで、黙って父親の言うことを聞いていたが、援も自分の立場を理解できないほど愚かではなかった。むしろ、自分をこれまで好きなようにやらせてくれてきた父親に感謝した。援は立ち上がり首を垂れ、肯定の意を示した。
「まず手始めに行儀作法を学ばなければならない」
瑪奉世はそう言うと、すでに示し合わせていたのだろう、両手を合わせて二回手を叩いた。すると、四十過ぎかと思われる細面の威厳のある顔立ちをした女が近づいてきた。
「この女の名は徐寧という。以前、後宮で女官として勤めていた女だ。彼女に付いて、行儀作法を学ぶがよい。徐寧、援をわしの娘だと思わずに、遠慮なく厳しく鍛えてくれ」
「承知しました」
徐寧はそう言うと、援に向かった深くお辞儀をした。
実は、瑪奉世にはある目論見があった。決してそれは表沙汰にはできないものであった。瑪奉世は西域から戻って宣帝の尊顔を仰いだ時、先帝に老いを感じた。そして、自分の褒章について評議があり、宣帝が瑪奉世を列候にするつもりだったのにそれを押し通せなかったことで、宣帝の命がそれほど長くないことを確信したのだった。
皇帝が崩御すると、皇后は在所が後宮にある椒房殿から皇太后として長信宮に移り、皇帝の皇子を産まなかった夫人たちは後宮を去らなければならない。新たな皇帝には新たな夫人たちが必要である。無論、皇太子の住む東宮にも規模は小さいが後宮に相当するものがあり、皇太子奭の皇太子妃は空席であったが、何人もの側室がいた。
後宮は皇后を頂点としたピラミッドを形成するが、その規模が大きければそれだけ皇帝の偉大さを示すこととなる。一説には宣帝の孫の成帝の時代、後宮は三万を超える人数を抱えていたという。
瑪奉世は宣帝崩御後の後宮に、自分の娘援を入宮させることを決断した。そのためには準備が必要であった。男勝りの性格で武芸に執心し、女の稽古事に無関心ではとても後宮の暮らしなど務まらない。
「これまで援には儂も甘やかし過ぎて、好き放題やらせてきた。しかし、これからはそうはいかない。後宮に入れても恥をかかないように厳しく教育してくれ」
瑪奉世は徐寧にそう命じた。
「承知いたしました。お任せください」
瑪奉世はさらに徐寧に命じた。
「理由は明かせないが、そんなにゆっくりとはしていられない。二年で何とかしてくれ」
徐寧は援のことをかなりのやんちゃ娘であろうと想像し、瑪奉世に命じられた通り、援を厳しく教育していくつもりであった。そして、徐寧が援に初めて面会したとき、援の日焼けした顔と若武者のような姿はとても良家の娘とは思えなかった。援の徐寧へ向ける眼差しは、徐寧に挑みかかるように思えた。
― これは鍛えがいのある娘だ
徐寧の援に対する第一印象であった。しかし、それが徐寧の思い違いであったことがその翌日にすぐに判明した。
援はその日焼けした顔に変わりはないが、昨日とは打って変わって普通の良家の娘と同じように良質の絹の衣装を着て現れた。そして、深く首を垂れて徐寧に挨拶した。
「徐寧さまを生涯の師として附いて参ります。よろしくご指導のほどお願いします」
徐寧は狐に化かされたような気がしたが、そんな心の内はおくびにも出さずに、返答した。
「私こそ、援様を生涯のご主人様として仕えさせていただきます」
それから二年間、援は瑪家の娘として後宮に入っても恥ずかしくないように、徐寧から徹底的に指導を受けた。着付け、行儀作法、歌舞や詩などの嗜み、そして、徐寧の指導はいつ天子から声がかかっても大丈夫なように、天子との夜の営みにまで及んだ。
そして、瑪奉世が案じていた通り、第九代皇帝劉詢が崩御した。黄龍元年(紀元前元年)のことであった。漢中興の祖として宣帝が諡号された。第十代皇帝には皇太子劉奭が即位した。崩御後の諡号は元帝である。
翌年、初元と改元され元帝が即位すると、瑪奉世は警視庁長官に相当する執金吾に昇格した。執金吾は丞相、大司馬、御士大夫の三公に次ぐ、九卿の一つであり、中二万石の禄高はこれまでの十倍であった。瑪奉世はこれまで元帝の尊顔を仰いだこともなく、この決定は宣帝の意が元帝に引き継がれたものと想像された。
瑪奉世の執金吾としての最初の晴れの舞台が待っていた。宣帝の陵墓は長安城の南にあり、杜陵と呼ばれた。宣帝が即位するとすぐに建設が始まり、宣帝崩御の翌年の春、その遺体が杜陵に埋葬される。そして、その遺体と膨大な数の埋葬物が未央宮から杜陵に移送されるが、その先導役が執金吾の役割であった。
その日の長安の空は、その空が抜けるようにくっきりと青かった。その長安の城壁から、赤、紫、白、緑といった鮮やかな色に彩られた軍服を身につけ、おびただしい数の兵士が出てくると、その長安の紺碧の空も霞んでしまうようであった。その先頭には煌びやかな軍服を身につけて白馬に乗った男が、時々大きな声で号令をかけながら進んでゆく。執金吾瑪奉世の勇姿であった。執金吾のすぐ後ろには、巨大な真紅の旗を持った兵隊が随う。その後からは笙と呼ばれる縦笛、銅鑼、喇叭などを持った楽隊が並び、厳粛な音楽を奏でながら歩いて行く。その後ろからは、彩も鮮やかに装飾を施した馬車が続き、その後ろには白い装束の気品のある顔立ちの女たちの歩行の行列が続く。その後ろには牛車が続き、続いて、様々な荷物を積んだ数十台の馬車が進み、さらにその後に数千人の歩兵、騎兵、そして戦車が続いた。この行進の先頭から末尾までの距離はおよそ三キロに及び、末尾はまだ長安城の城門を超えていなかった。
馮援は感動していた。その夥しい人数とその重厚な装備を連ねた行列に感動しているのではない。彼女が感動しているのは行軍の先頭を進む白馬に乗った父親の姿であった。金糸で彩られた深紅の軍服を着て、首からは執金吾の位を占めす印綬が下げられ、頭には黄金色に輝く青銅の大型の兜が乗せられている。その威厳のある顔で父親が先頭を進む姿は、娘の援だけでなく、この瑪奉世の姿を見ていた者は誰でも尊敬の眼差しを向けていた。
この時から約四十年後、同じように長安市中を颯爽と行軍する執金吾の姿に感動した男がいた。その男はその後、「仕官するなら執金吾、妻を娶らば陰麗華」とよく口にするようになった。その男こそ、後漢の創始者光武帝劉秀である。劉秀は目標としていた執金吾に就くことなく、それを遥かに超えた後漢初代皇帝を即位する。劉秀は陰麗華を希望通り妻に迎えることができ、皇帝に就くと陰麗華を皇后に立てることになる。
「私が将来夫とする人は、この父親のように立派な人でありたい」
援は心の中で強く思った。
皇太子には元帝の長男の鷔が立てられ、生母の王政君が皇后に立った。王皇后は皇太后となり長信宮に遷った。これとともに後宮に務める女官たちの総入替が始まった。皇后付きの女官のほとんどは、そのまま長信宮に移って引き続き皇太后の女官として勤めるが、皇帝の側室やその女官たちは後宮を去らなければならない。
皇帝の眠る陵墓の側には長安城の衛星都市が築かれ、そこに豪族や豪商が強制的に移住させられる。先帝の皇子を設けられなかった後宮の夫人たちは、そこに小さな邸が与えられ、生涯、先帝の霊を祈ることになる。宣帝の陵墓である杜陵にも杜陵邑と呼ばれる邑ができ、宣帝の夫人たちが移り住んだ。
その一方で、後宮は皇后王政君を頂点とした新たな体制が始まった。元帝が皇太子時代から仕えていた夫人女官だけでなく、新たに多くの夫人と女官が後宮に送り込まれた。瑪奉世の娘援もその一人として入宮し、家人子としての見習い期間が過ぎると少使の位で専用の館が与えられた。
漢の後宮は当初、皇后の下に美人、良人、八子、七子、長使、少使、五官、順常、無涓、共和、娯霊、保林、良使、夜者といった階位があった。その後、武帝の時代の美人の上に婕妤が追加された。元帝即位した当初、王政君がその位に就いたが、すぐに皇后に立てられたので、その婕妤には元帝の次男康の生母である傅氏が就いた。
親元が貴族や豪族であれば、入宮後のお付きの女官の中に幼少から仕えてきた乳母や婦人を入れることも可能である。瑪奉世は入宮前の行儀作法の指導役であった徐寧を援付きの女官として後宮に送り込んだ。徐寧は宣帝の時代、後宮で李美人のお付きの女官として十年勤めていたので、後宮のしきたりや内幕をよく知っている。徐寧は援の行儀作法の指導役として瑪奉世が自邸に雇い入れていたが、援が入宮しても戸惑わないように徐寧も後宮に送り込んだのだ。
少使以上の位階の女にはそれぞれ位に応じた館が与えられ、いつ皇帝が訪れてもいいように、準備万端して待機する。そのためにはお付きの女官と宦官が、これも位階に応じた人数が与えられる。少使で入宮すると皇帝へのお目見えが行われる。
援の元帝へのお目見えは皇后の在所である椒房殿で王皇后が同席して行われた。その時、援も合わせて十人の娘のお目見えが行われた。大広間に横に一列に並べられて、正座のまま元帝が来るまで待機していた。しばらくすると元帝が後ろに王皇后を従えてやってきた。娘たちは一斉に土下座するように深く首を垂れた。宦官が甲高い声で名前を呼ぶと、その娘が頭を下げたまま一歩前に出る。宦官が頭を上げるように指示すると、ようやく元帝へのお目見えとなった。
「よしなに」
元帝が一言そういうと、娘は頭を深く下げてそのまま後ろに下がってゆく。それが十回繰り返されると、元帝は玉座から立ち上がり奥の間に退いた。王皇后が元帝のあとに従って退くとお目見えが終了した。
徐寧の話では、このお目見えの際の元帝の顔色を見て、宦官が娘たちをさらに上の長使にあげるかどうか判断するのだという。当然、父親の職階や宦官への賄賂の額が位階を決定する際の大きな決め手となる。職階が低く賄賂の額が少なければ、その女は「天子さまがお気に召さらなかった」といって少使に留められる。特別のことがない限り、宦官は元帝の顔色などを見て判断したりはしない。
援は父親の瑪奉世が丞相、御士大夫,大尉の三役に次ぐ九卿のひとつ執金吾であり、宦官への付け届けもたっぷり与えているから、十人の中では最も高位の七子に昇進した。
援が少使として入宮したときは、小さな館が与えられ、徐寧ともう一人の女官と宦官が一人付いたが、七子になると倍近い広さの館に移り、女官が三人、宦官が一人追加された。女官は家事一切を担当し、宦官は主には汚れ仕事や力仕事であるが、後宮内の連絡係も兼ねる。宦官同士で高度の情報網ができており、ち密に情報交換が行われる。担当する夫人が出世すれば宦官の見返りも大きいから、どの夫人に付くかは宦官にとって死活問題である。賢い宦官は巧みに情報を掴み、できる限りの裏工作を行い、やがて皇帝の強い寵愛を受けると思われる夫人に付けるようにする。
援は元帝との初のお目見えの際に、親元からの宦官へのたっぷりの賄賂が効いて長使に昇格できたが、その後も援の実家からは引き続き賄賂を贈り続けていた。ただ、そんなことは親元が有力者であれば誰でもすることであり、それだけでは不十分であった。援の教育係で援が後宮に入ってからはお付きの女官となった徐寧は、かつての経験から後宮内の宦官の力も馬鹿にならないことを知っていた。
徐寧は以前後宮で女官として勤めた時から、趙志明とは顔見知りであった。それぞれ従った夫人は異なったが、お互いにその仕事ぶりを認め合っていたことと、徐寧が少なからず趙志明に心づけを渡していたから、趙志明も貴重な情報を徐寧に伝えた。それが功を奏して二人の女主人はそれぞれ宣帝の寵愛を得て、美人にまで出世した。
徐寧は援の女官として後宮に入ることが決まると趙志明を金品で口説き落とし、援の侍官になるよう工作した。趙志明にとっても、父親が九卿の一つ執金吾という高官であるの援の侍官となることは、願ってもないことであった。援が元帝の寵愛を受け、美人、婕妤と昇格すれば、徐寧と趙志明も後宮内でそれなりの待遇と見返りが待っていた。徐寧と趙志明の利害関係が一致した。
援付きの宦官に趙志明がなった。生殖器を自ら除去した宦官の寿命は短い。趙志明は宦官としてはすでに四十三歳の高齢である。宣帝の時代には李舞美人の担当であった。趙志明には後宮だけでなく、皇帝の政治の中枢である未央宮に務める宦官との情報網もしっかり確保しており、李舞美人にたいしても献身的に尽くしたという。無論、趙志明自身の欲得を最優先に考えてのことだったが、それが結果的に李舞を美人まで昇格させたことになった。趙志明は李舞が宣帝の寵愛を得るために、様々な裏工作を行った。
皇帝が現在最も寵愛している夫人の館を足しげく通うのは当然だが、皇帝には世継ぎを残すという絶対的な使命があり、保険の意味でも様々な夫人と交わる必要もある。どの夫人と一夜を過ごすかは、皇帝付きの宦官の進言が大きく影響する。
秦の時代、趙高という宦官が始皇帝の寵臣として次第にのし上がり、始皇帝崩御の後は実質的に皇帝を凌ぐ権力を握って横暴にふるまい、結果として秦の崩壊を招いた。漢はその反省から宦官に強い権力を持たさないようにした。漢の時代、宦官の最高位でも禄高は六百石であった。禄高が二千石となると高官として認められ、丞相でも皇帝の裁可を受けないと罷免できなかったが、六百石以下の宦官の懲罰などいとも簡単な時代であった。
それでも、皇帝にとって官官は便利な存在であり、皇帝の私的な生活や後宮の運営に欠かすことはできなかった。宮中の高官といえども男性である以上、後宮に足を踏みいれることはできない。そんな後宮で宦官から自分の悪い噂が広まり、それが皇帝の耳に入れば大変なこととなる。そのため、宦官は石高以上の権限も持ち、宮中の高官も宦官の私利私欲的な行動に目を瞑らざるを得なかった。
「鄭夫人の館にご無沙汰です」
「今度入宮した孫夫人は評判の美貌で性格もよろしいと聞いています」
このような発言をお付きの宦官から聞けば、
「準備させよ」
といった具合に、その日の夜伽の相手が決まってしまう。一度、閨を共にしたら、その後、どれだけ皇帝に寵愛されるかは本人次第となるが、とにかく自分の館に訪れてもらわなければ事は始まらない。
趙志明は後宮に入ってから三十年を超えており、後宮のことなら隅々まで知り尽くしている。さらに、賄賂で蓄積した私財を巧みに活用して、援を売り込むため未央宮に務める宦官たちに働きかけた。そして、遂に元帝付きの宦官陽文敬から援のことを元帝の耳に入れることに成功した。
「この度後宮に入られた瑪奉世殿のご息女援さまは、容姿端麗だけでなく、幼いころから勉学に努め、儒学をはじめ、老孟、孫子、商子など幅広い書物を読みこなしているそうです」
それを聞いた儒教を貴ぶ元帝が興味をそそったのは言うまでもなかった。
「面白い。案内せよ」
早速、陽文敬が趙志明にその旨を伝えた。
元帝が後宮の援の館に入ると、他の夫人たちの館とは少し違和感を抱いた。
後宮の夫人たちの館はいずれも、いつ皇帝が訪れても歓待できるように彩も豊かに屋敷を磨き上げ、本人も華美に衣装で着飾っていた。しかし、援の館はもちろん掃除は行き届いているものの、装飾品で飾り立てることもなく華やかさが感じられなかった。援の着ている衣装も緑と薄黄色という質素な色合いであった。ただ、質素な色合いだけに援の引き締まった細身の身体が際立っており、それはそれで援の魅力を引き立たせているようであった。あまり飾り立てていない館も、むしろ援の知性を引き立てているように元帝には感じられた。
元帝はすでに夕食は済ませており、通常であればすぐに控えの間に入り寝間着に着替えて寝室に向かうところであったが、少しの間、援と話がしたくなった。元帝は傍に控えていた趙志明に酒の準備をするように命じると、応接の間に足を向けた。すぐに酒器が持ち込まれ、元帝の手元に置かれた耳杯になみなみと酒が注がれた。そして、援の前にも七分目ほど酒が注がれると、元帝は耳杯を口に近づけた。そして、一口その酒を飲むと部屋の中を見回しながら援に言った。
「この館はまるで華やかさというものがない。これはどういう趣向なのだ」
これに対して、援は一言一言しっかりとした口調で答えた。
「はい、私は幼いころから男子に交じって武芸や学問を学んでまいりました。父親に後宮に入ることを命じられてから、女子としての稽古事を一通り学びましたが、これが主上のお役に立つものとは考えておりません。それよりも、これまで学んできたもので少しでも主上のお役に立つことがあれば、身に余る幸せと考えております」
漢の皇室劉家は高祖劉邦をはじめとして色好みな血筋であり、景帝の皇子中山王劉勝は百二十人の子を設けたという。その末裔が三国志の雄、蜀漢初代皇帝劉備だと伝えられている。元帝は生涯三人の男児しか設けていないが、晩年、匈奴王に求められて後宮の夫人の一人を贈ったが、送別の儀でその夫人の美貌を見て大いに悔やんだという話がある。中国三大美女の一人とされる王昭君である。
年老いても色を好んだ元帝であるが、この頃はまだ三十前の壮健で最も充実したときであり、夜ごと後宮を訪れていた。とは言っても、安定期を迎えた時の皇帝の大きな役割は後継者を作ることであり、後宮を訪れるのも皇帝の義務でもあった。そんな元帝だけに人並みの夫人では心を動かすものではない。ただ、日常の役目として夜の営みに努めているといっても間違いはなかった。
そんな日常的な後宮への訪問の中で、元帝は援に非日常を感じた。
「いろいろと書物も読んでいると聞いたが、一番感銘を受けたものは誰の書物か」
元帝が儒の教えに深く傾倒していることは誰もが承知している。傍に控えていた趙志明も、当然、孔子、孟子などの名が出てくるものと思っていた。ところが、援の口から出てきたのは、意外にも孫氏の名前であった。
「お前は朕が儒を貴んでいることは承知の上で、孫氏の名を出したのか」
それを聞いた趙志明は背筋が凍る思いであった。
「はい、私も論語は何回も読みましたが、あまりに理想が高く理解の及ばないことばかりでございます。これに対して、孫氏の教えは理路整然としており、私のような愚か者にもよく理解できます」
「お前は先帝が申されるように、朕が理想ばかりに走り、現実を知らない愚か者だというのか」
それを聞いて、趙志明は思わず目を瞑った。
「滅相もありません。お許しをいただけるのであれば、儒のすばらしさのひとかけらでも主上に教えいただければ、生涯の思い出となります」
援も必死の思いで弁明した。しかし、趙志明はもはや絶体絶命と思い天を仰いだ。
ところが、趙志明が目を開けて元帝の顔を覗き見ると、元帝は楽しそうに笑っているのではないか。
「儒とは、さほど難しいことなのか。単に君子や親が正しい道を進めば、民や子もそれに従うというだけのことではないのか」
「それでは何ゆえに儒の教える儀式とは、あのように複雑なのでしょうか」
趙志明は援が、また、余計なことを言い出したと思ったが、元帝はそんなことは気にもかけていないといった表情で、穏やかに言った。
「あれは馬鹿な儒者どもが自分たちの地位を高めるために勝手にやっていることだ。まあ、彼らの言うには、臣下や民が君子を敬うためには、厳粛さというのも必要だというのだが」
すると、援がまた趙志明を冷っとさせるようなことを言い出した。
「法を厳しくしなくとも、儒の教えを守れば誰もが善人になるのでしょうか」
元帝は苦笑いをしてから援に言った。
「お前は、きれいごとでは政は治められないと、朕が先帝から諫められたことを言っているのか。朕も天子として国を治めるために法が不要だとは、決して考えたこともない。先帝の御代は謀反人が何人も出るような激動の時代であったから、厳しく法に基づいた国家の再建が必要であった。しかし、そのおかげで朕の時代はそのような不届き者も現れていない。朕の時代は儒の教える道というものを、臣下や民に広めたい」
元帝のその言葉に援は感動で身体を震わせながら言った。
「わが身がどうなろうとも、私は生涯、主上をお慕いして附いてまいります」
「わかった、もうよい。さあ、着替えでもするか」
元帝がそう言うと、趙志明は心得たとばかり着替えの間に元帝を案内した。援は元帝の後に従い、寝間着への着替えを手伝った。そして、自らも薄衣に着替えると寝間に入った。元帝は衣を脱いだ援の身体を見てびっくりした。
というよりは感動したのかもしれない。これまで多くの夫人たちと交わってきた元帝であるが、援のような肉体を持つ女性は初めて出会った。援の裸身は鋼のように引き締まっているが、それはそれで初めての体験で魅力的であった。
元帝が援の乳首を口に含めると、援は小さく喘ぎ声を出した。元帝の舌が援の引き締まった腹筋のあたりに迫ると、援の喘ぎが高まった。元帝が援と交わり、援の身体に自分の身を預けると、元帝は自分の身体が弾かれるような錯覚を感じた。しかし、それは援の身体が決して自分を拒否しているわけではなく、その証拠に自分の身体が再び援の肉体に吸い込まれるような感触を覚えた。
元帝の身体が離れると、援は恥じらいを見せながら徐寧に教えられた通り、元帝の着衣を手伝おうとしたが、元帝はそれを制止し、援を寝かしつけた。元帝はその脇に裸身のまま横たわり、左手で援の脇腹にあて上下させた。その手が援の乳首を触れると、援はたまらず喘いだ。元帝の肉体が再び援の身体に重なった。
援の身体は、見かけは細身だが幼少の時から鍛え上げた筋肉質の身体は良く引き締まり、弾き返されるような援の肉体に、元帝は新鮮さを覚えた。元帝は夜ごと夫人を変えて交わるが、援との閨は異次元の世界であった。援は美人に昇格し、広大な屋敷が与えられ、使用人も二十人を超えた。
援が元帝の寵愛を得るまでは、元帝の寵愛は傅婕妤に集中していた。傅婕妤の実家は援と比べると若干劣るものの、何人もの将軍を輩出してきた名門であった。軍人の家に育った傅婕妤は幼いころからしっかり礼儀作法を教え込まれ、元帝の即位前に皇太子宮に入った。宣帝の晩年には皇子康を出産し、宣帝崩御後、元帝が即位すると婕妤に昇った。当時、上流貴族の男は細身の身体を好んだが、傅婕妤は豊満な肉体で女の色香を漂わせており、真綿に包まれるようなその感覚を元帝は好んだ。
傅婕妤の性格は負けず嫌いで、見栄っ張りであった。自分の館は豪華な調度品であふれ、身に着ける衣装は高価なものに限られていた。後宮の宴席で他の夫人が豪華な衣装で現れると、次の宴席ではそれに負けないだけの衣装を実家に頼って買い求め、これ見よがしに振舞った。自分のお付きの女官や宦官には厳しく接し、不手際があれば即刻、代わりの者に役目を替えさせた。その時の傅婕妤の顔色を見ると、どうしてこれで元帝の寵愛を維持できているのか想像がつかなかった。
その後も元帝の寵愛は傅婕妤と援に集中した。元帝は豊満な肉体を持つ傅婕妤と鍛え抜かれた引き締まった体の援を交互に接することで、常に新鮮さを感じていた。援はわずか二か月で美人、一年後には婕妤に昇った。
4. 傅昭儀の思惑
援が婕妤に昇ったことに負けず嫌いの傅婕妤は、直ちに行動を起こした。一つの賭けと考えてもよい。元帝の信頼を得ている儒者五名に多額の賄賂を贈り、元帝に進言させた。
「後宮においても厳格な階級制度が必要です。春秋公羊伝隠公元年では、母は子をもって尊し、とあります。子が貴ければその母も尊いといいます。天子の皇子の生母が他の夫人と同じ婕妤では、母も子も尊いことにはなりません。天子の皇子の生母はさらに上位の地位に就くべきです」
元帝も儒者の進言にはあまり反論しない。結局、婕妤の上に昭儀という位が新設され、傅夫人が昭儀についた。傅氏は元帝の自分への寵愛が続いていることを確信した。賭けに勝ったともいえよう。昭儀となった傅氏には新たな広大な屋敷が新設された。それても傅氏の不安は消えなかった。
「そうなれば、女の最高位を勝ち取るほかない」
傅昭儀は低い声だが、傍に控えていた女官や宦官たちにも聞こえるような響き渡る大きな声を発した。傅昭儀のその言葉は不敬罪に問われても不思議のない発言であった。しかし、常々、周囲に厳しい姿勢で臨んでいたから、傅昭儀に仕える者たちは恐怖心を抱いており、傅昭儀のその発言を誰も咎めるようなことはしなかった。
現在、女の最高位に位置するのは王皇太后と王皇后であった。二人は同姓であるが、血筋は全く異なる。傅昭儀は自分が女の最高位に立つためには、何をすればよいのか考えた。簡単なことであった。自分が皇太后か皇后になればよいのだ。そのためには、現在の皇太后か皇后が廃され、自分がそれに替わることである。また、皇太子が廃され自分の息子が皇太子、皇帝となれば、自分が皇太后になれる。
傅昭儀は実家を頼って、漢の時代、皇太后、皇后、皇太子が廃された事例と、その理由を調べてもらうことにした。その結果を傅昭儀が最も信頼している宦官陳立が報告してきた。皇太后が廃された事例はなかったが、皇后が廃された事例は四件もあった。
一件目は、景帝の皇后薄氏である。景帝は皇太子時代、祖母である薄皇太后から一族の娘を妃に押し付けられたが、初めから夫婦仲は良くなかった。第六代皇帝として即位すると薄氏は皇后に立てられたが、薄太皇太后が崩御すると薄皇后は廃后となった。
二件目は、第七代皇帝武帝劉撤の皇后陳僑で、文帝の長女劉嫖の娘である。幼馴染の二人はそのまま婚約し、劉撤が即位すると陳僑は皇后に立った。しかし、皇子は生まれず、劉撤の寵愛も衛子夫に移っていた。嫉妬に狂った陳僑を憐れみ、お付きの女官が仕掛けた劉撤への巫蠱が発覚した。巫蠱とは人形に呪いの対象者の名を書き地中に埋めたり、巫女に呪詛させるものである。巫蠱は大罪で発覚すれば直ちに自分だけでなく、関係者もすべて死罪となる。この時も三百人が処刑された。陳僑は直接関与していなかったが、その引責ということで廃后となった。
衛子夫は武帝との間に三人の皇子を設け、三番目に男児拠が生まれ。拠は皇太子、衛子夫も皇后に立てられた。一方、武帝の寵臣江充は、陰湿な性格から皇太子に嫌われていた。江充は保身のため、皇太子と皇后が武帝を巫蠱で呪い殺そうとしていると告発した。皇太子は江充を殺し無実を訴えたが、老害の進む武帝は皇太子が謀反を起こしたと断定し、皇太子とその一家はすべて殺害された。同時に皇后衛子夫も廃后となり自殺に追いやられた。後に皇太子と皇后の巫蠱の疑いは晴れたが、後の祭りであった。
四件目は宣帝の時で、即位後、許平君が皇后に立てられたが、当時の実力者霍光の妻顕が末娘成君を皇后にするために、淳于衍に命じて許平君を毒殺させた。事件は霍光の威光によりうやむやにされ、霍成君が皇后に立てられた。霍光が死去すると霍一族はクーデターを起こすが誅滅され、霍成君は連座して廃后となった。
皇太子が廃された例は巫蠱の嫌疑で殺害された劉拠の件と、もう一例あった。景帝は皇太子の時、栗姫との間に長男栄が生まれた。景帝が即位して薄太皇太后が崩御すると薄皇后は廃され、栄が皇太子となった。しかし、景帝の姉嫖が栄には皇帝となる器量がないと弟に吹き込み、廃太子にしたのである。これは娘僑の婚約者王夫人の皇子劉撤を皇太子にさせるための伏線であった。僑を妻に迎えた劉撤は皇太子に即位し、景帝が崩御すると皇帝に即位した。陳僑は皇后に立ったが、先に述べたように巫蠱が発覚し後に廃后となった。
皇帝が廃されるという異常事態も三回起こっている。一度目は、二代皇帝恵帝崩御後、太皇太后となった呂雉は恵帝の遺児を第三代皇帝に立て呂后の傀儡とした。傀儡の皇帝は後世少帝と呼ばれるが、少帝は自分の母親が呂后に殺害されたことを知り、呂后を恨んた。それを知ると呂后は直ちに少帝を殺害した。第四代皇帝には恒山王義を弘と改名させ、後釜に据えた。
呂后が崩御するとクーデターが起こり呂一族は滅亡し、第四代皇帝劉弘は正当な皇帝ではないと劉一族に殺害された。第五代皇帝に劉邦と薄夫人の皇子の劉恒が立った。諡号は文帝である。
三件目は臣下が皇帝を廃するという事変で、この事実は中国だけでなく日本の歴史にも大きな影響を与えた。第八代皇帝昭帝が崩御したが、昭帝には皇子がいなかった。後継者には昭帝の甥にあたる昌邑王劉賀に決まったが、都に昇ってから即位まで劉賀の行動は目を覆うほどの乱行であった。時の実力者霍光は自分の孫娘の上官皇太后に上奏し、上官太皇后の詔書で劉賀は廃位となった。次期皇帝には巫蠱の禍で殺害された皇太子劉拠の孫劉詢幼名病巳が即位した。諡号は宣帝である。
傅昭儀はこれらの出来事を陳立に報告させると、自分が皇后又は皇太后に昇る可能性について陳立に聞いた。
現在の皇太后は先帝の三番目の皇后王氏である。王氏は霍成君が皇后を廃された後、皇后についたが、非常に温和な女性で、常日頃、宣帝に従順で、口答えをしたことがなかった。王皇后と宣帝との間に皇子は生まれていなかったが、宣帝が皇太子と意見が合わず、廃皇太子を口に出した時、最も反対したのは王皇后であった。
「皇太子殿下は陛下がまだ民間でお暮しになっていたころ、苦労を分かち合った亡き皇后陛下との間にできた忘れ形見ではないですか。ここで廃太子などになされば、どれだけ亡き皇后陛下がお嘆き悲しむでしょうか」
王氏の必死の説得だけでなく、重臣たちからも、
「世の中が乱れる基になります」
と強く反対されたため、宣帝も廃太子とすることを断念した。この件があってから、宣帝は王皇后を心から信頼のおける伴侶であることを確信した。
元帝もこの一件はよく承知しており、王氏を実の母親以上に敬っていた。よほどのことがない限り、元帝が彼女を廃后になどするはずがなかった。もっとも皇太后といっても、別に実権は何もないし、外戚に有力者はいなかった。それに高齢でもあり、いつ死んでもおかしくなかった。傅昭儀は王皇太后を無視することとした。
王政君皇后を廃后にすることは可能かどうか。すでに元帝の寵愛は傅氏に移っていたが、王政君は傅氏に嫉妬することもなく、皇后の立場をよくわきまえて行動し、元帝もそれを高く評価している。現在のところ、王政君が廃后となる兆しは全くなかった。
「ということで、現在のところ皇太后陛下も皇后陛下も廃后となる可能性は全くございません」
陳立の客観的かつ的確な説明に傅昭儀は一応納得したが、さらに質問した。
「では、皇太子を廃することは可能だろうか」
「皇太子殿下はまだ十歳にも達しておられません。決して凡庸ではなく、健康にも優れ、性格も明るく勉学にも熱心です。現時点では廃する理由はありません」
傅昭儀は皇太子驁の身辺を探りだすことにした。しかし、まだ十歳にも満たない皇太子を廃するだけの理由など、そう簡単には見出せるわけがなかった。
「しばらくは様子を見るしかあるまい」
傅昭儀がそう考えた直後に、自分の立場を大きく揺るがせる事件が起こった。
5. 熊と戦う女
皇帝の日常は多忙である。通常の政務に加えて数々の儀式があり、さらには代々の皇帝の陵廟の参拝、自らの寿陵の選定や建設状況の視察などがある。そんな中で、避暑や行楽を兼ねた郊外の離宮への訪問は、皇帝の楽しみの一つであった。そんな時は、後宮の夫人たちを何人も伴うことが多い。
長安の郊外には上林園と呼ばれる今でいう動物園のような皇帝専用の施設があった。そこにはパンダ、虎、象などの珍獣や孔雀、鸚鵡などの珍鳥が近隣国から献上されており、広大な庭に放たれていた。むろん、深い堀と高くて頑丈な柵で囲われており、猛獣は逃げ出せないようにしてあった。ほかにも様々な樹木や草花が植えられており四季を彩っていた。また、池というよりは湖沼ともいえる水辺には、白鳥や鶴などの渡り鳥が飛来してきた。上林園には高台があり、そこにある離宮からはこれらの様が一望できるようになっていた。
元帝は高台にある離宮からの眺望を好み、たびたび上林園を訪れたが、その時は必ずお気に入りの夫人たちをお供に従えた。その年もようやく暑い夏が過ぎ、冷ややかな風が吹く秋が訪れると元帝は、傅昭儀や瑪援をはじめ、多くのお気に入りの夫人たちを連れて上林園を訪れた。
後宮にいる夫人たちは皇后を除くとほとんど後宮を出る機会はない。しかも、上林園となれば宿泊施設や温泉などもあり、夫人たちは行楽気分が味わえる。昼食や夕食は元帝のご相伴にあずかるのだから、豪華な料理が期待できる。上林園行きの選に入った夫人たちは、何日も前から浮き浮き気分でその日を楽しみにしていた。
当日は、雲一つない秋晴れで、早朝に元帝一行は長安城を出た。警護の衛兵に護られて元帝の乗る馬車の後には夫人たちの乗る馬車が連なる。元帝の乗る馬車にはこの中で最高位の傅昭儀が同乗した。援は元帝の乗る場所のすぐ後ろの馬車に、他の三人の婕妤とともに乗って後に続いた。一行は、途中で二回の休憩を含めてゆっくりと進み、元帝たち一行が上林園に到着したのは昼前であった。
豪華な料理が並び、ゆっくりと昼食を嗜むと、元帝は高台にある離宮に行きその眺望を楽しんだ。茶菓が運ばれてきたので、元帝が玉座に戻ろうとしたその時であった。一匹の熊が囲いから逃げ出し、元帝のいる御殿によじ登ってきた。傅昭儀を始めとする列席していた夫人たちや貴人たちは慌てて逃げだした。元帝も初めての経験であり、自分で何をしたらよいのかわからず、その場に立ちつくしたままであった。
熊は成人の男子と同じくらいの大きさで、まだ成長段階の若熊であった。熊は自分が妙な場所に迷い込んだことに気づいたようで、周囲を見回しながら元帝の傍に近寄ろうとした。その時、とっさに元帝の前に回り込み、熊の前に大きく両手を広げ、仁王立ちとなった女がいた。援であった。数十秒間、援と熊の視線が合い、にらみ合いが続いた。そして、熊は援の気迫に負けたのか、後ずさりを初め、その後、後ろ向きにその場を去ろうとした。その時、ようやく太刀や鉾、槍、楯などを持った命知らずの衛兵たちが駆け付け、熊に立ち向かった。熊は何人もの衛兵に槍で刺され、鉾で頭を打ち砕かれて殺された。
当初、元帝の一行は上林園で一泊してから都に戻る予定であったが、この騒ぎの混乱を鎮めるためにも、元帝はその後の予定をすべて取りやめて、急遽、帰城することとなった。元帝の馬車には往路と同様、当然のように傅昭儀が同乗しようとした。しかし、元帝はそれを拒絶し、同乗者に援を指名した。傅昭儀は目を吊り上げ、不満の態度を露わに出したが、元帝はそれを無視した。
元帝とともに援が馬車に乗ると、元帝が尋ねた。
「あの時、お前は怖くなかったのか」
これに対して、援は平然と答えた。
「猛獣は餌食となる者があればそこで留まります。そこで私は身をもって立ち向かったのです」
元帝はその言葉を聞くと、
「朕はその勇気を讃えたい」
そう言って、狭い馬車の中で援を抱きしめた。
その後、援は元帝の寵愛を一心に集めた。そして、ついに援は元帝の胤を宿し、上林園の出来事から一年後、皇子興を出産し、昭儀に昇格した。
その一方で、元帝の傅昭儀への寵愛が薄れてゆくのも当然のことであった。傅昭儀の息子康は元帝の次男にあたり済陽王に任じられていたが、まだ幼少なことと元帝の傅昭儀への寵愛が冷めていなかったことから、親子ともに都に留まっていた。ところが、援が昭儀に昇格した機会に、元帝は済陽王康を領地に赴任するように命じ、母親の傅昭儀も王太后として国元に赴くことを命じた。
劉康の皇太子の目は完全に塞がり、傅昭儀の野望は消え去ったと思えた。ところが、傅王太后は心の中で自分自身にこう語った。
― これで終わってなるものか。妾はこの屈辱を噛みしめて、必ずや都に舞い戻ってくる
6. 廃皇太子
瑪奉世をはじめ瑪一家はこの頃、繁栄の頂点を迎えていた。瑪奉世は元帝の信頼も篤く、右将軍常恵の下で西方に出撃し、常恵が死去すると代わって属国を掌握する右将軍・典属国を兼任し、西方鎮圧に活躍した。瑪奉世は執金吾から宮殿を管轄する光禄勲に任じられた。瑪奉世はさらに右将軍として活躍し、光禄勲のまま左将軍に昇格した。そして、永光二年(紀元前三十八年)西方の反乱を治めると、瑪奉世は列候に次ぐ関内候に叙せられた。関内候は本来領地を持たない名誉職であるが、五百戸の領地が与えられた。
瑪奉世は永光四年(紀元前四十年)病没した。生前の功績から瑪奉世に列候を贈ることが審議されたが、
「先帝がお決めになったことを覆すわけにはいかない」
元帝はそう言って却下した。
瑪奉世の長男の譚は校尉となり父親に従軍し活躍したが、病死した。弟の野王は学業に秀で、外務大臣に相当する九卿の一つ大香炉となった。さらに、野王は三公のひとつ副総理に相当する御史太夫に推挙された。しかし、元帝は、野王の妹援が昭儀であることを理由に、それを拒絶した。外戚に権力が集中することを恐れたのであった。野王はその後もその才能を発揮し、次の成帝の時代も活躍したが、老衰で病死した。野王の弟、俊、立もそれぞれ郡太守として活躍した。
援の兄弟で最も出世したのは、末弟の参で郡太守、諫太夫を歴任し、成帝崩御の後、宣郷候に叙せられた。ただ、瑪奉世や野王のような輝かしい実績があったわけではなかった。瑪参が列候に叙せられた理由は功績ではなく、後述する別の理由であった。
援は皇子興を出産した後も自分の身体を鍛えることを怠らなかった。妊娠、出産までは医師から強い運動を禁じられていたが、出産後は自分の館の一室を現在のスポーツジムのように改造して、上腕筋、腹筋、背筋などを鍛えた。昭儀に昇った援の館は、正に宮殿といってよいほど広大で立派なつくりで、使用人も二百人を超えていた。援がスポーツジムのような部屋を造らせても、それは隠し部屋といってもよく、援の館の使用人でもその部屋の実態を知るものは限られていた。援の身体は出産前のいわばボディビルダーを思わせる筋肉質の鋼のようなものに戻っていった。元帝は援のその引き締まった身体に魅力を感じて、たびたび援の館を訪れた。継続して援に対する元帝の寵愛は続いたが、援が元帝の胤を宿すことは二度となかった。
済陽国王として赴任した劉康の母親傅王太后は、自分が都落ちしたことで不満だらけであった。楽しみといえば、豪華な食事と酒だけであった。元帝に寵愛されていたころは、ふっくらした身体で綿のような肌が元帝を夢中にしたころもあったが、現在は、でっぷりと太った身体をもて余すように動きも緩慢であり、いくら豪華な衣装を身に着けても女の魅力は感じられなかった。
劉康は皇太子にはなれなかったものの、次男ということで済陽王から山陽王、定陶王と大国への国替えが続いた。劉康は文武両道で才能に秀で、若いながら多才多芸な国王として都にも評判が伝えられていた。もっとも、その評判は傅王太后が作り上げたもので、定陶国を往復する役人や商人に無理やり言わせたものであった。
皇太子劉鷔はまだ十歳をこえたばかりなのに、酒を好み女にも興味を持ち始めていた。この情報を聞いた傅王太后は、皇太子を廃する絶好の機会ととらえて、起死回生の手を打った。
傅王太后は正月の宮中の参賀に息子の康とともに都に上った。その後、傅家の法事で久しぶりに実家に戻ると、傅家の宗主となった兄の傅光に相談を持ち掛けた。傅家もまた列候や関内候は輩出していないが、歴代の宗主が公職に就く名門で、現在、傅光は禄高二千石の公職に就いている。広大な屋敷には百人以上の使用人が住み込みで働き、何不自由なく暮らしている。豪華な調度品を誂えた応接間に酒肴が並べられ、傅后、傅光とその息子博が着席し酒宴が始まると、使用人はすべて席を外させた。そのころ、傅后の息子の定陶王劉康は、都にある定陶国の屋敷に戻っていた。
「なんとしても廃皇太子にして息子の康を皇太子にしなければなりません。そうすれば、やがて康は皇帝に立ち、妾は皇太后、兄上も皇帝の外戚として列候に叙せられ、三公に昇ることも夢ではありません」
傅后は真剣な眼差しで兄の傅光に訴えた。
「そんなことを言っても、皇太子を廃するなど簡単にはいかないぞ。そんなことを企てたら、あの温和な皇后も黙ってはいまい。発覚すれば傅一族は皆殺しだ」
「だから、兄上に過去に皇太子や皇后が廃された事例を調べるようお願いしたではないですか」
「お前はそんな大それたことを考えて、儂にそんなことを頼んだのか。それで、なにか策略でも思いついたのか」
「現在の皇后を廃することは難しいでしょう。しかし、皇太子であれば、それは不可能ではありません。現在の皇太子はまだ十二歳と年少ですが、すでに女色に興味を持ち、酒も結構嗜むと聞いています」
「すると、それを助長させて酒色に溺れさせたうえ、素行不良で廃太子にしようと考えているのか。どうやって、皇太子に酒色の道に誘い込もうと考えているのだ」
傅光があきれたような顔をして傅后に尋ねると、
「それを考えていただくために、妾はこうしてはるばると定陶国から兄上に相談に来たのではないですか」
「そうはいっても、儂も皇太子とはほとんど面識もないし、皇太子の傅役との伝手もない。そう簡単にいかないぞ」
傅光がそう言って押し黙ると、横から傅光の息子の望が発言した。
「私の友人に冨平侯の張放という男がいます。かれはまだ十八歳ですが、二年前に父親が亡くなり冨平侯を継ぎました。張放はもう少し都で勉学に努めたいと言って母親を説得して、現在もなお都に留まっています。実は張放という男はなかなかの悪戯者で、もう少し都で遊びたいためにそのような言い訳を思いついたようです」
「その張放という男に皇太子を酒色の道に誘い込ませようと考えているのか。そんな簡単にいくかな」
傅光が息子に問うと、
「張放がもう少し都で勉学に努めたいと言っているのは、決して噓ではありません。そして、張放が儒について師として仰いでいる韓班という儒者が、今度、皇太子の教育係に就いたのです。張放が韓班に皇太子の学友として仕えたいと申し出れば、張放も冨平侯という高位の身であり断る理由はありません。かならずや、韓班も張放を皇太子の学友とすることを許すに違いありません。ところが、一つ問題があります。張放は冨平侯といっても国からの仕送りは大したものではありません。国元でも張放が遊び好きであることは十分承知しているから、警戒して送金の額を抑えているのです」
「その遊び金を傅家が出してやろうというのか。しかし、儂の家もそんなに潤沢な資金は持ち合わせていないぞ」
傅光がそう言うと、傅后は笑みを浮かべながら言った。
「そんなことくらいお任せなさい。定陶国は豊かな国です。どの程度かかるか知りませんが、二人が遊興に使う金くらいのことなら妾が何とかしますよ」
「それは頼もしい。そういうことなら、お任せください。すぐにでも張放に声をかけましょう。彼も皇太子相手に遊べるなら、領地に戻らず都に留まっている格好な理由が見つかったというものです」
望はそう言って、自分の胸をたたいた。
「そういうことなら、傅望殿にお任せしましょう」
傅望は伯母の傅后の頼みを聞いて、早速、冨平侯張放の屋敷を訪れた。
皇太子宮の一室に、皇太子劉鷔と張放が並んで座っていた。その前で年老いた老人が論語の一部を呟くような小さな声で読み上げると、劉鷔と張放の大きな声がこれに続いた。
「子曰く・・・」
ただ、皇太子は声を張り上げてはいるが、あまり熱心さが感じられない。それでも教師役の韓班は淡々と論語を読み上げていく。張放はすでに韓班について儒の教えを学んで二年に及び、論語の同じところを何度も繰り返し声を出して読み上げているから、その内容はどこまで理解しているかはわからないが、一応、諳んじている。一方、劉鷔のほうは、本格的に儒の教えを学ぶのは初めてなので、大きな声を張り上げていてもたどたどしく、間違いだらけであった。
韓班は二時間ほど休憩もなく論語の同じ章を何度も読み上げてから、ようやく二人に言った。
「きょうのところはここまでとしよう」
すると、張放が韓班に深く頭を下げていった。
「韓先生、ありがとうございました。この後は皇太子殿下と二人で少し復習したいと思います。先生のお荷物は後で屋敷に届けさせます。申し訳ございませんが、先生は用意している馬車に乗ってお一人でお帰りください」
「そうか、それは感心、感心、兄弟子として皇太子殿下のご理解できなかったところをよく説明しておいてくれ」
そう言って、韓班が準備されていた馬車に乗って帰宅するのを二人で見送った。
「殿下、お疲れだったでしょう。少し息抜きをしませんか」
張放にそう言われて、劉鷔は不思議そうな顔をした。
「これから二人で今日習ったところを復習するではないのか」
すると、張放は笑顔で答えた。
「殿下もお固いことをおっしゃるのはおやめください。今宵のことは私にお任せください」
「しかし、孫唐が何か言わないかな」
孫唐とは舎人という役職で、母親の王皇后から劉鷔の世話役として任されている。皇太子の正式な傅役は少傅という役で九卿に次ぐ高位の重職である。常に皇太子の傍に附いているわけではない。その部下として孫唐が皇太子の傍に常に附いていた。
「孫唐には私のほうから、講義の前にこう言っておきました。殿下は私とともに韓班先生の講義の復習とお礼を兼ねて外で夕食をとる。韓班先生もそれは良いとおっしゃっておられた」
もちろん、張放は韓班に皇太子を皇太子宮から連れ出すことまでは言っていなかった。
二人は劉鷔を派手な飾りをつけた皇太子専用の馬車ではなく、張放が準備した普通の馬車で皇太子宮を出た。
「殿下、ここからはお忍びですから、殿下が皇太子であることは伏せておきましょう。そうでないと、相手も緊張してしまいます。殿下は張公子と名乗ってください。私からは、さる高貴な血筋を受け継ぐお方だとだけ紹介しておきます」
「面白い、すべて冨平侯に任せる」
「張公子さま、私のことも冨平侯などと呼ばないでください。張放でけっこうです」
二人が訪れたのはそれほど大きな敷地ではないが、見るからに金をかけた豪華なつくりの館であった。
「ここは、かつてさる将軍の別邸であったのを、現在の持主が買い取って趣向を凝らして改築したものです」
「どのように趣向を凝らしたのだ」
「それは後のお楽しみとしてください」
二人が料亭風の玄関に入ると、話はすでに通っているようで二人は奥の部屋に通された。そこには椅子は置いてなく、ふっくらとした赤い絨毯が敷かれていた。二人が座るとすぐに酒と食事が運ばれてきた。続いて、赤、黄色、緑、紫など色鮮やかな衣装を着た若い女が八人ほど入ってきて、二人の両隣や前に座った。
劉鷔の左隣に座った紫の衣装を着た女が耳杯に酒を注いだ。よく見るとその女の衣装は透き通るような薄い絹のもので、女の豊満な乳房だけでなく、乳首もはっきりと見えた。劉鷔が耳杯に注がれた酒を一気に飲み干すと、右側に座った赤の衣装を着た女が、これも体が透けて見えるような薄布で、細身の身体の線がはっきりと見えた。その女はかなりの時間をかけて煮込んだと思われる肉を箸で挟むと、劉鷔の口に入れた。それは劉鷔が噛む必要もなく、とろけるように喉を通って行った。
続いて、前に座った緑色の薄布を着た女が、突然、自分の口を劉鷔の口と合わせ、女は自分の口の中に含んだ酒を劉鷔の口から注ぎ入れた。劉鷔が驚いたように目を大きく開くと、左に座った女が劉鷔の左手を自分の胸の中に誘い入れた。それは毬のように柔らかく弾力があった。さして、劉鷔は首筋に何か暖かい風が来るのを感じた。それは紫の衣装を着た女の口から出たもので、やがてその女の舌が劉鷔の耳の中に入って蠢くのを感じた。その後、劉鷔は仰向けに寝かされ、女たちの巧みな誘導で陶酔の世界に陥っていた。気が付いたときは、張放の姿はどこにも見えなかった。
三時間ほど経過すると誰が準備したのか、劉鷔は女たちの世話で新たな衣服に着替えたころに張放が姿を見せた。
「張公子、そろそろご帰宅の時間です」
劉鷔は張放に言われるままにその館を出て、準備された馬車に乗り込んだ。
「殿下、お気に召されましたか」
劉鷔は張放にそう聞かれ、満足そうに頷いた。
皇太子宮に戻ると、待ちかねたように傅役の孫唐が飛び出してきた。孫唐は劉鷔の身体から女の色香が漂ってくるのを感じたが、何事もなく無事皇太子が帰還したことに安心した。
それからというものは、皇太子は韓班の儒の講義の日を楽しみにするようになった。もちろん、講義そのものではなく、その後、張放が連れて行ってくれる夜のお遊びが目当てであった。孫唐も皇太子の外出が講義の復習ではなく、夜遊びであることは見抜いていた。しかし、それを止めるように皇太子に言い出すことができなかった。
「もう半年近く続いている。このままでいいのであろうか。こんなことが宮中に知られずに済むわけがない」
孫唐はため息をついた。
その一方で、息子の望から報告を受けた傅光が言った。
「そろそろ機は熟したようだ」
傅光と望が皇太子に放蕩の罠を仕掛けている間に、傅后は自分の息子康の英知と多芸を元帝とその側近に売り込むことに怠らなかった。それと同時に傅后は、瑪援の息子興が暗愚であることを元帝とその側近に訴えた。
「何しろ、王(康)は 「詩」を諳んじてすべてをその書を見ないで陛下の前で披露したのに、信都王(興)は三分の一もいうことができません」
その時、傅后の息子の劉康はすでに十六歳であるのに対して、援の息子の興はまだ六歳であり、そんな子供がすべてを諳んじることなどできるわけがなかった。
そろそろ仕上げの時期がやってきたと判断した傅光が次の手を打って出た。
― 皇太子殿下がお忍びで通っていた遊郭の女が殿下の胤を宿したらしい
― もしも、男児が生まれたら、将来、下賤の女が産んだ男が天子さまになる
― そんなことになったら大変なので、その女に大金を掴ませてすでに堕胎させたらしい
真偽のほどはわからないが、そんな噂が宦官たちの間に駆け巡った。そして、ついにその噂が御史太夫を通じて元帝にも届いた。
「廃太子も考えねばならないか」
それが皇太子の生母、皇后王政君の耳に入ると、王皇后は涙交じりで元帝に訴えた。
「妾が悪うございました。これからは妾が責任をもって鷔を監督します。鷔は先帝がご自分のお膝に乗せてかわいがるほどご寵愛され、その将来を期待されました。そんな先帝の想いを裏切ってはなりません」
元帝も自分の父親のことを言われると弱い。自分もかつて廃太子目前だったのだが、当時、宣帝の時間が空いていると聞くと、王政君は自分の息子鷔を抱いて宣帝のところを頻繁に訪れた。孫が可愛いからその父親を勘当することはできない。これが、宣帝が廃太子を断念した大きな理由の一つであった。
元帝が後宮の瑪援の館を訪れた際、援にも意見を求めた。元帝は傅后がいうように、瑪援の息子興が暗愚であるとは思っていなかった。皇太子を変えるとしたら、傳后の息子の康であり、自分の息子の興であるはずがない。興はあまりにも年少であり、皇太子になれるわけがなかった。しかし、援もまさか傅后が興を貶めるような流言を流していることまでは知る由もなかった。
「とんでもないことです。兄弟の順序を違えては儒の教えに反します」
元帝も援に儒の教えのことを言われると弱い。
続いて、元帝は大司馬の許嘉に相談した。当時、丞相は名目上人臣の最高位であったが、実質的には軍事権を掌握している大司馬に権力が集中していた。
「臣も廃太子には反対です。国が乱れる基となります。殿下もそろそろ妃を設けたらいかがでしょうか。臣の末娘は我が娘ながら器量もよく、殿下もお気に召されると思います」
許嘉のその言葉に、元帝はすぐに乗った。皇太子鷔を廃する話はあっという間に消し飛んだ。鷔は母親の王政君の厳しい叱責を受けた後、許嘉の娘を妃に迎えた。鷔は彼女を寵愛し、お忍びの色街通いもなくなった。それでも元帝は援の館を訪れていた時、こう呟いた。
「漢室を滅ぼすその始まりは息子の鷔であろう」
その言葉は、自分が父親の宣帝に言われたことと全く同じことであった。
傅光と息子望の謀は潰え、傅王太后の息子康が皇太子となることはなかった。傅王太后は王皇后が廃太子に真っ向から反対するのは当然のことだと思ったが、まさか、自分が敵対視する瑪援までが反対したと聞いて、援への恨みはさらに大きくなった。
6.成帝
章寧元年(紀元前三十三年)元帝が崩御した。元帝は父親の宣帝から生前こう言われた。
「漢室が滅亡するなら、その因はお前となるに違いない」
しかし、元帝の時代、大きな内乱は勃発しなかったし、匈奴との関係も良好で、晩年は匈奴王から漢室の娘を妻に迎えたいと乞われて、後世、中国三大美女ともいわれる王昭君を匈奴王に贈り感激させた。元帝が儒教に傾倒しすぎたことから、漢書元帝紀の賛で班固は元帝を厳しく評価したが、名君といってもよかったのではないだろうか。
元帝崩御の翌年、改元が行われ、建始元年皇太子鷔が即位した。諡号は成帝である。成帝の母親の王政君は皇太后となり、王政君の兄鳳が許嘉と並んで大司馬に就任した。傅后の息子康は定陶王に国替えとなった。康は皇太子にはなれなかったが、慰留の意味もあり成帝の弟としてふさわしいだけの広大な領土が与えられた。
大司馬許嘉の娘は皇后に立ち、二人目の皇女を出産したが、一人目と同じように早世した。そのころから、成帝の許后への寵愛が次第に失せてくるようになってきた。
元帝は高祖劉邦の遺命「功なくば、候にしてはならない」に従い、よほどの功績がなければ列候に叙すことはなかった。また、文帝が貫いた外戚の力を高めてはならないとの遺命を貫き守った。元帝は王鳳のような実力者でも列候にはしたものの、決して大司馬には起用しなかった。漢室は何回も皇后や皇太后の外戚の横暴に悩まされてきた。中興の祖といわれる元帝の父親の宣帝も、外戚霍光の言うなりであったが、彼の死去、霍一族を滅亡させることでようやく思い通りの政治を行うことができたのだった。したがって、瑪奉世や息子の野王も、援昭儀の外戚ということで列候にはなれなかった。
ところが、成帝の時代になると列候の大安売りが始まった。王皇太后の兄弟が一日で四人列候となった。王鳳が妹を通じて成帝へ進言し、それが通ったのだった。
元帝の三男興は母親の瑪援とともに領地信都国に赴任したが、まだ年少ということもあり政治のことについても援に頼ることが多かった。援は実際に政に携わったことはないが、少女時代から現在も続いている様々な書物を通じて、政治がどうあるべきかを学んでいた。しかし、援は決して政治の真表には立たずに、陰から息子である国王を支援した。
「どの臣下が王に忠実で、真に国を良くしようと考えているかを見極めることが大切です。そのような臣下を数多く抱えて、彼らの進言することを快く受け入れれば必ずや国は富みます」
信都王劉興は母親の教えを忠実に守り、臣下や国民は若き王である劉興を敬った。国は良く治まり、農産物も豊作が続き太平の世が続いた。援も信都太后と呼ばれ、国民の母として尊ばれた。
一方、傅王太后には不幸が訪れていた。成帝即位後八年、楊削元年(紀元前二十四年)息子の定陶王劉康が病死したのであった。丁姫の王子劉欣が三歳で定陶王を継いだ。その翌年、その欣と後に深い関係に陥る董賢が誕生している。漢の終焉が次第に近づいてきた。
傅后は孫の欣を溺愛し、欣も祖母になついた。欣は父親に似て性格も素直で、少し気の弱いところがあるが、勉学にもよく励んだ。傅后は正月の参賀に都に赴くと、兄の傅光に言った。
「息子の康は天子になれなかったが、孫には天子になってほしいものだ」
「しかし、主上はまだお若い。男の皇子がこれから生まれる可能性は高いし、もし主上にお世継ぎが生まれなかったとしても、皇位継承権は中山王にあるのではないか」
その頃、瑪援の息子、興は中山国に国替えとなっていた。
「中山王が天子になるなんて、それはとても許すことはできません。妾はどんなことをしても、孫を天子にしてもう一度都で晴れやかに暮らしたい」
傅光は妹がまだそんなことを考えていることを知ると、妹ながら傅后に不気味さを感じた。
劉欣は元服をすますと、丁家の娘を王妃とした。しかし、丁妃には王子は生まれなかった。傅后もそのころは、まさか欣に思いもしなかった性癖があるとは気づかなかった。
成帝は即位してしばらくは政務に励んだが、怠惰な性格はそれがいつまでも続かなかった。口うるさかった母親の王政君も、皇太后の在所である長信宮に遷ってからは成帝と会う機会も少なくなり、母親の小言を聞く機会もめっきり減っていた。許皇后の出産が間近となると、またぞろ夜のお忍びが始まった。
王政君はそれを知ると、元帝の妹に当たる陽阿公主に相談した。公主とは皇帝の皇女が降嫁してからの呼称である。
「主上を妾の邸に招待しましょう。妾の邸には自慢の容姿端麗の舞姫がおります。下賤の出の娘ですが、主上がお気に召すことは間違いございません。その女を後宮に入れれば、しばらくは主上も落ち着かれるのではないでしょうか」
成帝を陽阿公主の邸に招待すると、陽阿公主の思惑通り成帝は趙飛燕という舞姫をすっかり気に入った。成帝は、翌日、飛燕を後宮に入れることにした。そして、しばらくすると成帝は、飛燕の妹の合徳も後宮に入れて二人を寵愛し、お忍びの夜遊びもしなくなった。
ここまでは王政君と陽阿公主の狙い通りであったが、趙姉妹は正に魔性の女たちであった。趙飛燕はその名の通り痩身の美女であった。援は武芸で鍛えた引き締まった肉体であったが、飛燕の身体は舞で鍛えるとともに糖質の飲食物の摂取を抑えることで筋肉質ではないが、贅肉のないほっそりした体型を保持していた。一方、妹の合徳はかつての瑪昭儀のようにふっくらしたグラマータイプの美人であった。中国三大美女に例えるなら、飛燕は春秋末期呉王夫差を夢中にさせた西施であり、合徳は唐の楊貴妃であった。
趙姉妹が後宮に入ったころから、許皇后の父親の許嘉の病状が思わしくなり大司馬を辞職した。そうなると許一族の勢いは坂道を転がるように衰退し、許嘉が死去すると趙姉妹が本性を現した。飛燕は許皇后が呪詛に強くかかわったと成帝に誣告し、許皇后を廃后にしてしまった。傅王太后がやりたくともできなかったことを、飛燕はいとも簡単にやって遂げた。それは飛燕が皇后になるための第一歩であった。
趙姉妹の虜となった成帝は飛燕の願いに応えて、飛燕を皇后に立てたいと思った。ところが、
「あんな卑賎の出の女を皇后に立てるなどとんでもないことです」
そう言って、王皇太后が飛燕を皇后に立てることを反対した。飛燕は王皇太后の甥の淳于長に金品を贈って味方につけた。淳于長は成帝と王皇太后のところを日参し、飛燕の父親の趙臨を成陽侯に立てた。これで飛燕も貴族の娘ということになり、王皇太后も反対する理由がなくなった。永始元年(紀元前十六年) 飛燕は皇后に立てられ、妹の合徳も昭儀となった。
武帝も一介の舞姫であった衛子夫を皇后に立てたが、彼女は皇太子拠を出産したことが皇后になった最大の理由であった。ところが、飛燕も合徳も成帝の皇子を一人も出産していなかった。それほどに成帝は趙姉妹を溺愛していた。
この年はそのほかにも大きな出来事があった。王政君皇太后の甥王莽が頭角を現し、新都侯に就いた。そして、宣帝の三番目の皇后であった太皇太后王氏が崩御した。時代の変わり目を象徴する出来事であった。
王莽は叔母の王皇太后を丁重に敬ったが、王皇太后は王莽に何を考えているかがわからなく、薄気味悪さを感じていた。王皇太后の兄弟は五人が列候に昇ったが、長兄の鳳も含めて誰よりも王莽は頭脳明晰で視野が広く判断力に優れ、将来の展望も的確であった。しかし、王皇太后は王莽の瞳の中にどこか陰険で冷酷な姿が映し出されていることを見逃さなかった。
王莽は趙飛燕の立后に対して、王一族でただ一人反対の意を示した。
「趙姉妹は漢室を滅ぼすに違いない」
王莽はいつもと違って論理性もなく主張したので、立后反対の意見は退けられた。
傅王太后は趙飛燕が皇后に就くと、彼女に自分と同じ姿を感じた。親しくして損はないと確信した傅王太后は、手始めに皇后となった趙飛燕に金銀財宝を祝儀として贈った。趙飛燕は傅王太后が謀略の好きな女だと噂には聞いていたが、組して損はない相手と考えて丁寧な令状を返した。その後、傅王太后は毎年、正月の参賀に孫の定陶王劉欣とともに都に上ると、趙飛燕に定陶国からの沢山の土産物を贈呈した。飛燕は傅王太后の真意を測りかねなかったが、
「別にもらうものはもらって悪くはないだろう」
そう側近の者に言って、快く傅王太后の土産を受け取った。
趙姉妹は後宮で最高位と次席に就いたが、二人にはいまだに皇子が生まれなかった。このままであると、別の夫人が成帝の男児を産み、皇太子に立てられたら飛燕は廃后になりかねない。あろうことか、合徳は後宮の夫人が成帝の皇子を出産すると、すべて殺害してしまった。それは飛燕の差し金であることは疑いの余地がなかったが、そんなことは口が裂けても誰も言い出すことはできなかった。しかし、そんなことが闇に葬られたままであるはずがない。密かに王莽の指示で調査が始まっていた。
そのころ、瑪援の息子劉興は中山国に移封されていたが、中山国は北の大国で、成帝の弟としてふさわしい国であった。劉興はことあるたびに母親の援にその対応の指示を尋ねたが、援は息子の早い自立を期待して、次第にそれを無視するようになった。劉興もそれを母親の暖かい思いやりと受け止め、母親に頼らないようにと自戒した。中山国は良く治まり、国は富んだ。
「このまま主上にお世継ぎが生まれなかったら、中山王が天子におなりになることに間違いない」
そうなれば、劉興の家臣たちも都で重職に就くことも可能であり、それを願って一層劉興に忠誠に仕えた。
元延三年(紀元前九年) 劉興と衛姫との間に待望の男児が生まれ、箕子と名付けられた。都からは成帝の名でかなりの額の祝儀が贈られてきた。近隣諸国からもそれなりの祝儀の金品が贈られてきたが、傅王太后の孫劉欣の治める定陶国からは何もなかった。
箕子はうまれながら病弱であった。突然、嘔吐し、高熱に襲われた。箕子の乳母がおろおろする中で、援は自分の孫を自ら介護した。箕子の額にあてた冷水を含んだ綿布もすぐに暖かくなるが、夜を通して何回も綿布を取り換えた。援は高名な祈祷師を呼び、自らもその後ろで箕子の回復を祈った。援の必死の介護と祈祷が実って、やがて箕子が病状を回復し落ち着きを取り戻すと、援はようやく自分の寝床についた。箕子はその後も何回も高熱に襲われたが、そのたびに周囲が止めるのも聞かずに援は自ら看病した。
病気がちの箕子もようやく人並みの健康を取り戻し、元気に育つようになった。そうすると中山国の重臣たちの間で、忘れていたかのようにされていた国王の立皇太子の話題がぶり返してきた。当然、それは援の耳にも入ってきた。
援としても、我が子興が天子の位に就くことを全く願わないわけではなかった。我が子が天子となれば自分も皇太后となり、中山国だけでなくすべての臣下や民から敬われる。そんなことを夢見ている自分がいることも否定しなかった。
しかし、現実に戻ると息子の興は幼いころに高熱を発した影響からか、脳に障害を持っていた。兄の成帝やすでに薨去した傅后の皇子康と比べると、明らかに凡庸であった。知恵遅れといってもよかった。中山国王であれば、援の手助けや家臣の支えもあって何とか国を治めることはできた。しかし、興が皇帝として即位した場合、王一族など海千山千の重臣たちが素直に臣下として従ってくれるか、諸国には定陶国のような厄介な国もあった。
「あまり高望みすることなく、現在の地位に満足したほうが興にとっても幸せかもしれない」
援は昼食の給仕をしてくれている徐寧に言った。徐寧はかつて自分の行儀作法の指南役で、後宮では女官として従い、王太后として領地に赴任してからも付いてきてくれた。徐寧はすでに老婆といってもよい歳になっていたが、相変わらず、援にとって貴重な相談役であった。
「都は伏魔殿のようなところです。太后さまのご兄弟のような方ばかりならばよいですが、王一族をはじめご重臣の方々を従わせることなど並みの器量ではできかねることです」
「とても王の器量ではねえ」
「いえ、そのようなことを言ったつもりではありません」
「わかっていますよ。妾と貴方とはながい付き合いです。何が言いたいかは十分理解しています」
「それに、現在の皇后陛下は、それは恐ろしいお方と聞いています。なんでも妹の昭儀さまと謀って、他の夫人たちが主上の皇子を出産すると、すべて闇に捨てているという噂です」
「めったなことを言うのではありません」
「それに国王殿下が皇太子におなりになるとすれば、定陶国のあのお方も黙ってはおられないでしょう」
それは援にとっても悩みの種であった。援の息子の興の存在は、定陶国の傅王太后にとって目の上のたん瘤である。興が皇帝になれば、傅后は興だけでなく皇太后となる援に対しても従順の意を示さなければならない。あんな気位の高い女がそんなことを断じて容認するはずがなかった。といって、援は具体的に何をすればよいのか、良策は思いつかなかった。
傅王太后が孫の定陶王劉欣を皇太子に立てるためには大きな問題があった。瑪援の息子劉興の存在である。劉興は元帝の次男で成帝の二親等であるのに対し、劉欣は元帝の甥で成帝の三親等である。血の濃さといえば興が欣を上回る。かつて春秋時代兄弟での王の継承は争いの火種となることで忌み嫌われていたが、漢の五代皇帝文帝劉恒は二代皇帝恵帝の弟であり、賢帝として後世褒め称えられている。成帝に皇子がいなければ興を皇太子に立てるのが妥当である。
元延四年(紀元前九年)参賀のために定陶王劉欣は宰相、太傅、中尉など二千石相当の重臣をことごとく従えて都に入った。一方、中山王劉興は他の国王と同様、太傅だけを従えて入朝した。その噂は成帝の耳にも入り、劉欣との面会の際、成帝は尋ねた。
「正月の参賀など儀礼的な儀式に過ぎないのに、なぜこのように仰々しく重臣たちを従えて参賀したのか」
これに対して、劉欣はすでに回答を用意していた。想定内の質問であった。
「漢の法はその国の二千石の者を従えて入朝することができます。陛下への忠誠を示すために、国の二千石の者をすべて従えて参りました」
「王は法に詳しいと見える。詩についてはどうか」
詩とは詩経とも呼ばれ、全三百五編からなる詩を編纂したもので、儒教の経典の一つである。劉欣はその一編を諳んじて高らかに読み上げ、その意味を簡単に紹介した。
「王はまだ若いが評判通りの賢者である」
成帝は喜んで劉欣を褒め讃えた。
一方の中山王劉興に対して、太傅だけを従えて入朝した理由とその根拠となる法を訪ねたが、しどろもどろで満足な回答ができなかった。王であればだれでも諳んじている尚書を読み上げさせると、途中から言葉を失ってしました。
晩餐会が開かれ、劉欣は礼儀正しく振舞って礼を失しないように早めに席を立った。ところが、劉興は久しぶりの豪華な晩餐に我を忘れたように、いつまでも食べ続けて周囲を呆れさせた。最後には靴のひもが解けているのも知らずに立ち上がり、自分で靴ひもをひっかけて尻もちをついてしまった。
参賀の翌日、傅后は誰しもが思いもつかなかった策に出た。傅后は趙飛燕に面会を申し入れると皇后の在所である椒房殿を訪れた。傅后が定陶国からの沢山の土産物を何台もの馬車に積んで持ち込んだのはいつものことであった。そして、傅后は飛燕の前で深く拝礼してから、飛燕も驚愕するようなことを申し出た。
「欣を皇后陛下の養子にしてください」
この申し入れに飛燕は目を丸くして驚いたが、すぐに傅后の狙いを悟った。飛燕も下賤な奴隷の身から皇后にまで登った女である。日本でいえば女藤吉郎とでもいえよう。頭の回転は速い。飛燕は即答を避けたが、拒否の言葉は出なかった。
その翌日、飛燕の使者が傅后のところに赴き、飛燕が承諾した旨を伝えた。話は傅后の狙い通りとんとんと進んだ。
「このたび、定陶王を自分の養子にすることにしました。ご了解をいただけるでしょうか」
「皇后の養子とな。皇后がそうしたいというなら、朕は反対しないが」
成帝はそうは言ったものの、飛燕の申し出の意味をすぐには理解できなかった。
「定陶王が妾の養子として認めていただいたからには、定陶王は陛下の養子となったことにもなります」
「なるほど、皇后は定陶王を皇太子に立てたいのだな」
成帝は飛燕の狙いをようやく理解した。成帝は正月の参賀の際の劉欣と劉興との差を見ているだけに、それももっともと飛燕の願いをあっさりと受け入れる気になった。
「しかし、皇太后はお許しになるかな。なにせ、定陶王の父親を朕に成り代わって皇太子に立てたいと望んだのは、あの傅王太后ではなかったのか。皇太后と傅王太后は犬猿の仲ではないのか」
もともと成帝は自分がなりたくて皇帝に立ったわけではなかった。むしろ、皇帝になどなりたくなかった。もし皇帝にならなければ、皇太子時代のようにもっと好き勝手に過ごせたと思っていた。だから、成帝は傅王太后に悪い印象は抱いていなかった。
しかし、成帝も母親の王皇太后に無断で劉欣を皇太子に立てることには躊躇があった。
「それならご心配なく。その後、傅王太后も皇太后陛下に詫びを入れられて、皇太后陛下とも和解されたと聞いています。皇太后陛下に対しても、傅王太后がうまく取り入ってくれるものと考えています」
「そちが皇后に立った時も、うまく皇太后を説得したのであったな」
傅后と王皇太后は元帝の皇太子廃立が持ち上がった時、正に敵対関係にあった。成帝が思ったように誰が考えても、傅后が王皇太后を納得させるのは至難の業と思えた。傅后は一日五候と言われ王政君の兄弟が一度に五人も列候に昇った時点で、王一族に歯向かうことは無駄と考え、一転、王皇太后との親交を深める作戦に転じた。傅王太后は王政君が自分の末弟根を子供のころから可愛がっていることを知ると、曲陽侯に昇った王根に常日頃多額の金品を贈った。
傅后は王根を通じて王皇太后に詫びを入れ、今後の忠誠を誓った。王皇太后も自分がかわいがっている末弟からの仲裁を受け入れた。
傅后は王根を通じて王皇太后に、自分の息子の秀でていることと、反面、瑪援とその息子興を素養の悪さを訴えた。王根も姉の政君が、かつて瑪援が熊に立ち向かったことにたいして、高貴な女性としてあるまじき振る舞いと眉をひそめていたと、傅王太后に伝えていた。王根は瑪援の息子劉興は凡庸で王者の器ではないが、傅后の息子の劉欣は頭脳明晰で、あの時、皇太子が変わっていたら今の世の中はもっと良くなっていたに違いないと言って、傅后を喜ばした。そんな傅后と王根の付き合いが十年以上も続いていた。
劉興の立皇太子には、もう一つ大きな壁があった。当時、王家の最実力者は王皇太后の甥の王莽であった。当時、伯父の根が大司馬に就いていたが、王莽は病で官職を離れていた。王莽は病に堪えて、王皇太后に訴えた。
「皇太子を立てるなら中山王を立てるべきです」
王莽は劉欣を皇太子に立てることに反対したが、傅后はそんなことは計算の上であった。王莽が政界を離れ下野に下った瞬間をとらえて、劉欣の立太子を謀ったのであった。すでに王皇太后が弟の根の進言を取り入れて、傅王太后の孫、劉欣を皇太子に立てることを了承していた。皇帝と皇太后が認めたものを、いかに王莽が実力者とはいえ従わざるを得なかった。
改元が行われた綏和元年(紀元前八年)の正月、成帝は傅王太后の孫、劉欣を皇太子に立てるとともに、瑪援の子、中山王劉興が皇太子に選ばれなかったことに対して、慰留の印として封地を一万石加増した。さらに、瑪援の末弟の参を宣郷候とした。援は傅王太后の謀略と趙皇后、王皇太后とのつながり、王莽が中山王を皇太子に推挙したことなど、まったく蚊帳の外であり何も知らされなかった。ただ、結果として劉欣が皇太子に立てられたことと、息子の興の加増、末弟参への宣郷候の授与が知らされただけであった。援はそれを素直に喜んだ。傅王太后のような悪だくみなどとは無縁の女であった。
翌年の正月、傅王太后は趙飛燕の妹の合徳の館にも現われていた。
「一回で一錠だけですよ」
傅王太后が合徳に手渡したのは媚薬であった。傅王太后は常日頃、宮中の宦官たちにたっぷりと金品を渡し、成帝やその周辺の噂を探らせていた。そして、最近、成帝の精力が落ちていることを傅王太后は聞きつけていた。
事件が起こった。なんと、成帝が合徳の寝所で崩御したのであった。合徳は一錠だけしか飲ませてはいけないと傅王太后から言われていた媚薬を、成帝に三錠も飲ませたのだ。合徳は成帝に三錠も飲ませたらどうなるかまでは、傅王太后から聞かされていなかった。成帝は前夜、合徳からその媚薬を一錠飲むと、効果てきめんであった。気をよくした成帝は、その夜は合徳が止める間もなく一気に三錠の媚薬を飲み行為に入った。そのあげくに成帝は頭に血が上り、死に至ったらしい。
合徳は自分が成帝の皇子を殺めたことの嫌疑がかかっていることを承知していた。そして、今回は誤って自分が成帝を殺してしまったのも同然であった。それが、傅王太后の仕掛けた罠であったとは、合徳は夢にも思っていなかった。合徳は残った媚薬を残らず口に入れた。異変を感じて合徳のお付きの女官が寝所に入って、成帝と合徳が死んでいることを知り驚愕した。成帝四十五歳のときであった。
漢書を編纂した班固は成帝紀の末尾に讃として、「酒色に耽って、趙氏が内を乱し、外戚が朝廷をほしいままにして王莽が帝位を簒奪した因となった」と成帝を酷評しているが、それは成帝の父親の元帝が予測していたことと一致していた。
翌年、劉欣は綏和二年四月に第十二代皇帝として十九歳で即位した。皇太子に立てられてわずか二年目のことであった。劉欣の死後の諡号は哀帝である。劉欣の王妃である傅氏が皇后に立てられた。彼女は傅王太后の血縁の娘である。皇太后の王政君が太皇太后となり、趙飛燕が皇太后となった。しかし、飛燕が皇太后となるためには大きな難問があった。
王莽は病で成帝の晩年、大司馬の職を辞していたが、子飼いの司隷解光に趙姉妹の行動を調査させたうえで、すでに死んでいる趙昭儀を告発させた。その内容は、成帝の皇子を宿すか、出産した夫人は、親子共々ことごとく趙昭儀の命令で殺され、それには姉の飛燕も関わっているというものであった。
この告発に対して、哀帝は拒絶の意を示した。
「お前は朕に自分の母や叔母を貶めろというのか」
鶴の一声で成帝の死因も成帝の皇子をだれが殺害したのかも、すべてうやむやとなった。
哀帝はこれを機会に王莽だけでなく王一族の主だったものをすべて要職から外すことにした。それは傳后の強い進言でもあり、哀帝はそれを受け入れた。趙飛燕は無事皇太后に昇った。飛燕が傅后の孫を飛燕の養子にしてくれた恩返しであった。
傅后は自分の権威を高めるため、さらに哀帝に進言し自分の地位を高めることに成功した。哀帝の実母である丁氏を恭皇太后、祖母の傳氏は恭太皇太后と称することとなった。この時、丞相孔光、大司馬傳喜、大司空師丹の三公は正論を持して反対したが、哀帝は傳后を気遣って、彼らを罷免して祖母と母親の尊称を確定させた。王太皇太后、趙皇太后は長信宮が在所であったが、傳帝太皇太后、丁帝皇太后の在所として新たに新宮が建てられた。傳后の甥の傳喜は傳后の恨みを買って、大司馬を罷免させられたが、丁氏の父親である傅晏を孔郷侯にするなど、傳氏、丁氏の一族は何人もが列侯に叙せられた。傳一族は絶頂期を迎えた。
そのころ、瑪援に大きな悲劇が訪れていた。息子中山王興が突然の病に倒れたのであった。中山国は都長安から東北にあり、当然、冬は厳しい寒気が訪れる。もちろん、興が住む宮殿は当時でも北国特有の暖房施設が整備されており、暖気が途絶えることはなかったので、着衣も比較的薄着で済ませることができた。しかし、王として様々な行事に参加するために外出する機会も多かった。その際は寒気に耐えるために分厚い毛皮の外套や、帽子、手袋などは不可欠であるが、王ともなると権威を示すためにも薄くて華美な衣装を着る必要もあった。そんなこともあり、中山国では冬季は王が外出する行事はできるだけ避けていた。
しかし、正月の都への参賀だけは欠かすことはできない。母親の援も息子の興に後継ぎが生まれると、孫のほうが気がかりで最近は王に引率して自分も都に参賀に行くこともなかった。都に往復するには約一か月の行程が必要である。冬の寒気は王の乗る馬車であっても容赦なく襲い掛かるので、道中は衣服も暖かいものを身に着けて用心した。中山国の一行は無事都に到着し、参賀の儀をすべて終わり、中山国への帰国となった。
帰国は厳寒の中での旅となるので、再び緊張を強いられた。ところが、国王の興にはその緊張感がなかった。興は中山国に近づいても厚手の服を身に着けることなく、馬車の中で過ごした。それでも都での宴など楽しかった行事を思い起こすと、あまり寒さなどは感じなかった。そこに隙があったといってよい。劉興は帰国すると旅の疲れと道中の寒さが体に応えたと見え、高熱を発して病床に着いた。
援のように若いころから身体を鍛えており、しかも軍人の父の血を受け継いで頑丈な身体を持っていれば、病が付け入る隙などはなかったであろう。しかし、母親と違い興は高貴な父親の血を色濃く受け継いだせいか、幼少のころから病弱で、王という立場もあり身体を鍛える機会などなかった。祈祷師を招く暇もないままに、あっさりと興は薨去した。
長男成帝鷔、次男定陶王康に続いて興の死で元帝の息子はすべて現生を去り、元帝の血筋で生存しているのは、哀帝劉欣と瑪援の孫箕子だけでとなった。
傳后は恭太皇太后として莫大な金品を香典として中山国に贈ったが、その裏で一人高笑いしながら叫んだ。
「これで孫の帝位を脅かすものは誰もいなくなった」
7.滅亡
傅后が欲しいものはすべて自分の手に入れたといってよいであろう。となると、次にやらなければならないことは、仕返しであった。誰への仕返しかといえば、それは瑪援しかいなかった。元帝とともに出かけた上林園で、あの時、熊が現れなかったら、そして瑪援が熊の前に立ち向かわなかったら、元帝の自分への寵愛が失せることはなかった。
よく考えると傅氏と瑪援の年齢差から見れば、当時、傅氏はすでに下り坂に入っていたし、瑪援はまだ上り坂であった。あの熊事件が起こらなかったとしても、元帝の寵愛が瑪援に移っても仕方のないことであった。しかし、被害者意識の強い傅氏は、それからというと常に瑪援に恨みを抱いていた。そして、傅氏が自分の息子を皇太子にしようと画策した際、瑪援が反対の意見を元帝に行ったことを後で知って、傅氏の瑪援への恨みは頂点に達していた。
傅后にとってもう一人、宿敵がいた。王政君太皇太后である。傅后が息子康を皇太子にと願ったが、そのとき、王政君の存在はあまりにも大きかった。その後ろには王政君の兄で政界の実力者王鳳がいた。王政君の息子の成帝が即位すると、皇太后に立った王政君の兄弟が何人も列候になった。傅后も王太后となったが、王政君との格の差は歴然としていた。傅后は王政君に恭順の態度を示したが、それは表面上のことで裏では常に逆転の機会を窺っていた。
現在の傅后は恭太皇太后と称され、王政君と同格となった。しかも、自分の息子の哀帝の権力を利用して、王莽など王政君の外戚の力を落とし、丁氏の父親で傅后の血縁の傅晏を孔郷侯にしたうえ、政界の要職に据えた。実質的に傅后は王政君より格上となり、勝負は決したと考えた。傅后は王政君など無視してもよい存在と思い、傅后の仕返しの対象は瑪援に絞った。実は王政君を無視したことは大きな誤りであったが、傅后はそれを知らないまま世を去ることとなる。
瑪援の孫劉箕子は中山国王に就いた後も病弱で、予断を許さなかった。
「できることなら妾の身体と入れ替わってもよいのだか」
援は常々そう思うのだが、自分ができることは著名な祈祷師や医師を招くことしかできなかった。
光禄勲の下に中郎謁者という城門での儀式を掌握する禄高六百石の位に役があった。光禄勲は九卿の一つの重職で、晩年、瑪奉世が就いた役職であった。瑪援はそんな伝手を頼って、高黎善という高名な医師を中山国に招くことを手配した。そして、中郎謁者である張由が高黎善を引率して中山国を赴くことが決まった。中山国からは当然、張由と高黎善にかなり高額の準備金を差し出したが、その金額は相場とは一桁低い金額であった。中山国の重臣たちは、哀帝の時代になって都の役人たちへ渡す金品の相場が上がっていることを知らなかった。
援は父親が光禄勲に就いていたころ、
「中郎謁者という役職は、儀礼を指導する名目で賄賂の絶えない役であるから 誰を任ずるか注意が必要だ」
と言っていた。
瑪奉世は清廉潔白な人間のみ、中郎謁者の役に就けていたが、哀帝の時代となってからはそんなことをこだわることなく、張由がその職に就いていた。張由は瑪奉世が危惧したような人物で、事あるごとに指導を名目に多額の金品を要求していた。
中郎謁者の張由がなぜ中山国に医者を連れて行かなければならないか、中山国の関係者は疑問を感じたが、それは傅后の思いを忖度した丁望の狙いであった。丁望は丁皇后の伯父にあたり、光禄勲に就いていた。丁望は傅后が中山国の太王太后である援を嫌って、なんとか援を破滅に追い込みたいと願っていることをよく知っていた。
中山国から医師高黎善を招聘したいという願いを知った丁望は、直属の部下である中郎の元律に相談した。
「中山国を罰するような不備がないかを探らせるために、医師高黎善の引率役として誰か派遣したいが、適任なものはおらないか」
元律は即答した。
「人の落ち度を見つけ、それを咎めることに長けた男がいます」
「それは誰だ」
「張由といいます。金に汚いことが難点ですが」
「よし、わかった。その男に派遣の目的をしっかり理解させたうえで派遣させろ」
こうして張由は高黎善の引率役として中山国に赴くこととなった。しかし、張由という男は丁望が考えていた以上に金に汚い男であった。
張由は公用で中山国に赴くのであるから、当然、公費が支給される。しかし、張由は当然、中山国からも多額の準備金が贈られてくると考えていた。ところが、中山国から送られてきた金があまりに低い額であることに張由は機嫌を悪くした。しかも、中山国に入ったところで、準備された宿があまりに粗末なことに張由は激怒した。
「こんなことでは国都に入ってからの待遇も酷いものに違いない。高黎善殿、この調子では仮に中山王の病気が快方に向かっても、あなたへの謝礼はあまり期待できない。まして、中山王が不幸なことになれば、それこそ厳しく叱責されるでしょう。さっさと都に戻りましょう」
それを聞いた張由の従者が、高黎善が席を外すとあわてて言った。
「あなたさまのお役目は、中山国の落ち度を探ることではないのでしょうか」
張由の最大の欠点は癇癪もちであった。何か気に入らないことがあると、頭に血が上り人の意見を聞けないようになってしまう。それが上位者に起因することであれば多少の我慢はするものの、自分より弱者と思えるものであれば容赦なく自分の意を通した。張由には、都からはるばると中山国などという田舎まで来てやったという思いが強かった。
張由は医者の高黎善を連れて、さっさと都に戻ってしまった。
それを聞いた援は嘆いた。
「なんということを、自分の犯した罪がどれだけのものかも知らないのか」
援が張由を強く恨んだことは言うまでもない。
「妾の身体に替えて王の生命をお守りください」
援の必死の看護が続いた。その功もあり箕子病状は次第に回復の道を進んでいった。そうなると我慢ならないのが張由の態度であった。
「あの中郎謁者を許してなるものか」
援は張由の役務怠慢を張由の上司、光禄勲丁望に訴えた。
「あの馬鹿は自分に命じられたことも忘れて、何をやっているのだ。お前はあの馬鹿にちゃんと使命を伝えたのか。あいつに自分の首を洗って、沙汰を待つように言っておけ」
丁望は直属の部下の中郎の元律を厳しく叱責した。元律は丁望の言葉をそのまま張由に伝えた。
張由は目の前が真っ暗になった。すると、元律は張由に言った。
「このままでは儂もただではすむまい。お前も自分の命が無事で済むにはどうすればよいか考えてみろ。一日だけ待ってやる」
元律は張由の逃亡を恐れて、官邸の一室に監禁した。張由は明日には自分の命が絶たれると思うと、眠れない時を過ごしながら必死で自分の助かる道がないかを考えた。そして、窮余の策ともいうべき考えが閃いた。
翌日、張由が元律の前に引き出されると、元律の後方の座には光禄勲丁望が座っていた。張由はなぜこの席に丁望がいるのか、最初は戸惑ったが、これならば自分の申し開きが通るかもしれないと思った。
元律が張由に尋ねた。
「何か良い知恵が浮かんだか」
「はい、知恵というよりは、事実を申し上げます。私の使命は中山国の隠し事を探ることでした。その隠し事が判明したので、表向きの使命などよりもその事実を早急にお伝えしたく、急遽、都に戻った次第です」
「それならば、なぜ、都に戻ったらすぐに儂に報告しなかったのだ」
元律は張由が必死の言い逃れを考えたと見抜いたうえで、張由に尋ねた。張由はしどろもどろになりながら、返答した。
「ことがあまりにも重大であるので、頭を整理するのに少し時間がかかりました」
元律は話を進めさせた。
「いいだろう、どのような事実が判明したのだ」
「はい、中山太后がなんと、主上と恭太皇太后陛下を呪詛しているというのです」
元律も張由が言い出したことが、あまりにも荒唐無稽なことなので失笑していった。
「馬鹿なことを申すな、中山太后が呪詛など、よくもそんな嘘を思いついたものだ。一体どこからそんな話を聞き出したというのだ」
張由は必至であった。張由の話が一笑に付されれば、その段階で斬首が待っていた。
「決して虚偽の報告ではありません。来年には改元が行われ、新たな天子さまが即位されるという噂が中山国の巷でも流れているのです」
「わかった。こいつを元の部屋に戻して監禁しておけ」
張由は側近にそう伝えると、周囲のものにすべて席を外すように命じた。
「あやつの言うことは口から出まかせであることは明白ですが、いかがいたしましょうか」
張由が上司である光禄勲丁望に問うと、
「あの男の言うことが虚偽かどうかは、わしは知らん。しかし、あやつが、中山太后が呪詛していると報告したことは事実に違いない。わしらの役目はその事実を上に報告すればよいだけのことだ。ただ、内容が内容だけに事は慎重に進めなければならない。これからは、儂が事を進めることとしよう」
張由が医師高黎善を国都まで引率しないで都に戻ってしまったことを、中山国が正式に告発してきたことは、すでに大司馬丁明にも報告されていた。丁明は哀帝の伯父にあたった。大司馬は成帝のころまでは軍事権と皇帝に上申する尚書を掌握する実質的な政治の最高責任者であったが、哀帝は大司馬であった王莽を退けると、名誉職に近かった丞相を実質的な最高責任者に戻し、大司馬を名誉職にした。それでも皇太后である傅后と丁皇后の外戚から侯爵を得たものが何人も出て、栄華を誇っていた。
光禄勲の丁望はこの報告の中で、中山太后が哀帝と傅后を呪詛しているという張由の申し開きが、まったくの虚偽であることも伝えていた。
「面白いではないか。中山太后は傅后にとって忌まわしい存在だ。どうすれば中山太后と瑪一族を滅亡できるか、傅后は最近ではそんなことばかり考えておられる。これを傅一族、丁一族の盤石の態勢を整えるための絶好の機会としなければならない」
丁明は傅后の力で大司馬に就いたとはいえ、傳喜に代わって一族の総代として政治の中枢にいる男である。さすがに冷静に情勢判断をした。
「中山太后が呪詛などするわけがありませんが、それをどうやって立証し、中山太后に認めさせようとするのですか」
丁望が丁明に聞くと、丁明はそれがいとも簡単であるとでもいうように言った。
「本人が認めなくとも、過去に呪詛が立証されて死に至って事例はいくらでもある」
史実、漢は武帝の時代、巫蠱の嵐が吹き荒れた。巫蠱とは呪詛する相手を人形に置き換えて祈祷師に呪わせるもので、それが発覚すれば関係者がすべて極刑に処せられるが、その一方で、その効果は絶大と信じられていた。
武帝の最初の皇后である陳后は当人が知っていたかは定かでないが、従者が武帝を呪ったことを事実として突き止められ、廃后となった。その後も、武帝の信頼の篤い丞相公孫賀が朱安世という遊侠家を捕らえた時、逆に巫蠱の嫌疑をかけられた。これは朱安世が仕掛けた罠であり、公孫賀は妻子とともに死罪となった。最悪の事件は、当時の皇太子劉拠に疎まれていた江充が仕掛けた。江充は自分の保身のため皇太子と皇后衛子夫の宮殿に桐の人形を埋め込み、巫蠱の証拠と主張した。皇太子は江充を殺したうえで自分の正当性を訴えたが、すでに老害が進んでいた武帝の判断で、皇太子は謀反と断定された。劉拠だけでなく、彼の息子たちもすべて殺害され、衛后も引責して自害した。その後、皇太子の無実が判明したが後の祭りであった。
これらの一連の出来事から、巫蠱は仕掛けるものも、告発するものも大きな危険が伴い次の昭帝の時代は巫蠱の影は薄れたが、その後も奥深いところで巫蠱が仕掛けられ、密告により摘発された例は皆無ではなかった。最近では許皇后の姉謁が、成帝の寵愛が許皇后から王美人に移ったことと許一族の失墜を狙う大司馬王鳳を恨み、王美人と王鳳に巫蠱を仕掛けたことが告発された。許謁は死罪となり、その引責を取る形で許皇后は廃された。どうやら、この告発には趙飛燕が絡んでいたという噂であった。
「噂だけで中山太后に嫌疑をかけたら、中山国の反乱を招くだけではなく、沈静化している王一族が権威復活の絶好の機会ととらえて動き出すことは目に見えている。ことは慎重に進めなければならない」
丁明がそう言うと、丁望は丁明の顔色を窺いながら言った。
「傅后にも何らかの報告をしなければなりませんね」
「そこが難してところだ。傅后は貴殿も承知している通り気難しく、感情を露わにして後先も考えないでことを決しようとする」
「中山太后が傅后を呪っている疑いがあるとでも伝えれば、傅后は直ちに中山太后を死罪にするように主上に進言するだろう。しかし、何も報告しないで蚊帳の外に置けば、それはそれで機嫌を悪くするに違いない。報告の仕方は儂のほうで考える。貴殿も一緒に来てくれ」
丁明は丁望にそう言うと、翌日、早速、傅后の宮殿を赴いた。
傅后は丁明から張由の不始末のことを聞くと、青筋を浮かべて興奮しながら叫んだ。
「その馬鹿者は直ちに極刑に処しなさい」
「そんなことをすれば、中山国はそれみたことかと勢いついて、そこにいる光禄勲の丁望殿までも責任の追及をするでしょう」
丁明にそう言われると、傅后も冷静を取り戻して丁明に聞いた。
「確かにそれは困るな。となれば、どうすればよいのだ」
「落ち着いてお聞きください。張由は自分の職務を無視して都に戻ったのは、ある噂を聞き及んだからだと言っているのです。もちろん、それが張由の窮余の言い訳であって、根も葉もない噂ですが」
「その根も葉もない噂というのはなんだ」
「中山国が主上と太后陛下を呪っていると言うのです。そんな馬鹿なことはあり得しないのですが」
「だいそれた話だな。大司馬はこの件をどうしようというのだ」
瑪后は低迷をあえて役職で読んだ。
「ただし、張由が光禄勲の丁望に中山国が呪っていると報告したことだけは事実です。それが真実かどうかは別として」
丁明は瑪后が感情を露わにしないように慎重に言葉を続けた。
「張由の訴えを正式なものとして公式に調査を進めたらいかがでしょうか」
「しかし、そんなことはあり得ないのだろう」
「あくまでも調査であって、それで何もなければ張由を処分すればよいことです。逆に何か不備が見つかれば、中山王太后はどうなりますか」
中山王太后という言葉に瑪后の目が輝いた。
「中山王太后はどうなるというのだ」
「中身にもよりますが、仮に呪詛が事実ならば」
丁明が上目遣いで瑪后の目をとらえると、瑪后は唾を飲み込んで丁明の言葉を鸚鵡返しに言った。
「事実ならば」
「死罪は免れないでしょう」
丁明は静かに言って、自分の右手を自分の首に突き刺した。
張由の訴えは正式に朝廷に届けられた。しかも、具体的に中山王太后瑪援が哀帝と傅后を呪ったと、自分の上司光禄勲丁望を通じて告発したのであった。事の重大性を鑑みて、御史太夫王嘉はこの一件を御史丁玄に調査を命じた。丁玄は丁皇后の従弟にあたるが、まだ二十歳過ぎの若者であった。丁皇后の外戚として御史に抜擢されただけで、このような調査の経験は全くなかった。あらかじめ、丁玄は張由に事情聴取をしたが、しどろもどろで語った張由の話は支離滅裂であった。
丁玄は五十人もの部下を引き連れて中山国に入った。丁玄は御士大夫の玉印が押された捜索状を中山王太后瑪援に突きつけ、宣言した。
「中郎謁者張由の訴えにより、中山王太后が主上と太皇太后陛下を呪詛した嫌疑で調べに参りました。調べが完了するまで、王太后殿下はここで謹慎していただきたい」
「何を馬鹿のことを申すのだ。妾が呪詛を命じるわけがないではないか。おそらく、妾が張由を職務怠慢で告発したので、苦し紛れにありもしないことを言い出したに違いない。そんなことは調べればすぐわかることだ。妾は逃げも隠れもしない。好きなように調べるがよい」
援は堂々とした態度で丁玄を圧倒するように言い捨てると、その場を退去した。
丁玄は中山王太后と自分に格の違いを感じさせられたが、自分の与えられた任務に忠実に従うべく、関係者百人余りを捕え厳しく取り調べた。しかし、彼らはいずれも援を国民の母と慕っており、援を貶めるような供述をするわけがなく、援が呪詛した証拠はどこにも見つからなかった。
丁玄の取り調べの状況は、使者が馬車を乗り継いで毎日のように丁明の下にも伝えられた。しかし、傅后が期待する吉報は一向に入ってこなかった。傅后は丁明に言った。
「丁玄の調べは少し生ぬるいのではないか。もっと別な男で適役はいないのか」
そう言われて丁明もなるほどと思った。丁玄は丁皇后の従弟というだけで、取り調べの経験もなければ、飴と鞭を使い分けるといった術も知らないに違いなかった。
「それならば中謁者令で史立という、うってつけの男がいます。男といっても宦官ですが」
「宦官でも誰でも構わない。使命を全うできれば、やがて侯位も夢でないと、妾が言っていたというがよい」
漢は宦官の横暴を避けるため、原則として六百石を超える禄高の地位には就けなかった。それがこの頃になると、かなり高位にまで就けるようになっていた。これも漢の衰退の顕れであった。
史立という男は、それが自分の欲得を叶えられるならば、相手が誰であれ、どんな残忍なことでも平気でやることで有名な男であった。その一方で、甘い罠を巧みに仕掛け、自分の思い通り動く男を何人も手下に引き入れてきた。
史立は瑪王太后の妹習や義妹君之を含めた関係者を片っ端から投獄した。数十人が拷問死するなど厳しい尋問の結果、巫者劉吾と医者徐遂成から自供を得た。
「間違いございません。私は王太后さまに内密に命じられて、主上と太皇太后陛下を呪詛しました」
「私は習さまや君之さまからこう言われました。武帝のお付きの医師修氏は鍼で病を治しても二千万銭の褒美に過ぎなかった。それよりも正月の参賀で献上する酒に毒薬を調合して主上を殺めてしまえば、お前は間違いなく候位を授かるぞ」
これらはすべて史立が作り上げた虚偽の自白を、厳しい拷問の下で強要したものであった。自白の内容は竹簡に記録され、二人の血判が押された。二人は史立に命だけは助けてやると言われての告白であったが、史立はその約束を違えて部下に二人の首を切るよう命じた。
これを基に史立は弾劾文を上奏した。これに基づき、哀帝の印が押された中山王太后の令状を携えて、中山国の宮殿の奥深い部屋で史立は援の上座に座して向かい合った。
「今回は巫者劉吾と医者徐遂成の自白という確固たる証拠があります。中山王太后が呪詛を命じたことは明白です。早々に罪を認めてください」
史立が宦官特有の甲高い声を張り上げると、援は史立を蔑むように言った。
「巫者や医者というものは他人の生死にかかわる生業であるのに、自分の生死がかかってくると何とでも供述するものよ。おそらく、拷問の末にお前に命だけは助けてやるとでも言われて、虚偽の証言をしたに違いない」
史立は援に図星のことを言われて一瞬ひるんだが、そこは丁玄とは違って百戦錬磨の業師であった。史立は援に対して挑発するように言った。
「あなたさまはお若いころ、熊に立ち向かった勇ましさがあったのに、いまではこんな明白な証拠があるのに罪をお認めなされないとは、あまりにも卑怯ではありませんか」
援も史立に卑怯といわれると、いつもは冷静な彼女も頭に血が上った。
「妾に対して卑怯などという言葉を使うとは無礼であろう」
援から強い言葉が出た。
「卑怯だから卑怯といったまででございます」
史立はさらに援を挑発した。
しかし、援はこのまま史立の挑発に乗ってしまえば、彼の思うように事が進んでしまう。援は目を閉じて静かに一呼吸した。すると、だんだんと筋書きが見えてきた。援は史立の顔をじっと見ながら頷きを繰り返した。史立は援と視点が合うと、気味悪げに自ら視線を外した。すると、援がおもむろに史立に言った。
「熊のことは後宮でも秘中の秘であったことだ。そんな昔のことを、お前のような子役人が知るはずがない。これはあの女が陥れた証拠だ」
確かに、史立は都を出る前に密かに傅后からこう言い含められていた。
「瑪后は自分の罪を決して認めないだろう。しかし、自分の尊厳を傷つけられることを非常に嫌う。妾と瑪后がまだ後宮にいたころ、彼女は主上を守るため自ら熊に立ち向かったことがある。女とも思えぬ立ち振る舞いに主上の顰蹙を買うかと思ったら、主上は彼女を気に入ってしまわれた。それが彼女の唯一の自慢だから、そこをうまくつけば自分の罪を認めないまでも、自分の立場をわきまえて自ら死を選ぶに違いない」
長年、援を嫌い続けてきた傅后だけに、援の気性をよく知り尽くしていた。
「厠に行きたいので、しばし時間をくれ」
援はそう言って、座を外した。当時の王侯の館は厠といっても、庶民ならば四人家族が十分暮らすだけの広さがあり、そこには着替えの間や化粧室、寝台も備えられていた。援は化粧室にある引き出しから桐の小箱を取り出した。その小箱には黒い丸薬が入っていた。援はその丸薬を摘み上げると、口に含み目を閉じて一気に飲み込んだ。その丸薬は即効性の毒薬であった。人は臨終のときが近づくと、自分の人生を走馬灯に映すというが、援はそんな間もなく一生を終えた。建平三年(紀元前三年)のことであった。
中山王太后瑪援の死が傅后に伝えられると、彼女は思いのほか喜びを顔に出さなかった。傅后にはまたまだやることが残っていたのだ。これを機会に一気に瑪家を滅亡させることであった。瑪援の末弟参は哀帝即位とともに宣郷候に就いていた。また、父親の瑪奉世が授与した関内候の位は援の兄が引き継いだ後、その長男が引き継いでいた。傅后は二人を瑪援の罪に連座し平民に落としたうえ死を賜るよう命じた。
その一方で、苦し紛れに援を呪詛の疑いで告発した張由は関内侯に、弾劾文を上奏した史立は中太僕に昇進し禄高は二千石となった。中太僕は皇太后の車馬を管理する役である。二人とも異例の昇進といって良かった。
8. 新王朝
念願の瑪援への恨み返しが終了し、瑪一族の没落を見た傅后に思い残すことはなかった。傅后は急激に老いが進み、痴ほう症の症状を見せ始めていた。
哀帝は傅一族の永遠なる繁栄といった傅后の思いなどは、まったく眼中にないようであった。哀帝は王一族を退け、自分の外戚で周囲を固めることに成功すると、自分の持って生まれた性癖を隠そうとはしなかった。瑪援の死の翌年、建平三年(紀元前三年)、哀帝は二歳年下の美男子董賢を側に置いた。哀帝は董賢との男色に夢中になり、政治を顧みることがなくなった。哀帝は後宮に足を向けることがなくなり、世継ぎの誕生は絶望的となった。哀帝は董賢との男色に狂い、金品を惜しげなく与えただけでなく、董賢の官位も上げていった。
瑪援が自害した後も、傳后はその後も権勢の衰えることはなかった。そして、建平四年(紀元前二年)傳后は崩御した。盛大な葬儀が行われ、傅后は太皇太后として元帝の眠る渭陵の隣に合葬された。それは、本来、王政君太皇太后の寿陵として建設されていたものであった。
翌年、改元が行われ元寿元年となると、哀帝は大幅な職務分掌の改定を行った。哀帝はまだわずか二十一歳の董賢を大司馬にまで昇格させた。さらに、董賢の妹を昭儀として後宮に入れた。それは、董賢の妹を寵愛するためではなく、あくまで董賢の機嫌を取るためであった。そして、哀帝は自分が崩御した後は、董賢に帝位を禅譲すると宣言した。これについては、さすがに重臣たちの必死の説得もあって、哀帝もその時は自分の意思を取り下げた。
その翌年の元寿二年、哀帝は日ごろの不摂生がたたって危篤となった。哀帝は死の間際、皇帝璽綬を董賢に渡し、後を託した。皇位の禅譲であった。治世僅か六年で哀帝が崩御した。それを待ちかねていた太皇太后王政君の甥王莽が満を持して巻き返しに入った。
王莽は王太皇太后の詔書として、まず、董賢を大司馬から解任したうえで自殺させた。哀帝の寵愛だけで大司馬にまで就けた董賢には、自分を支援してくれるような部下もおらず、裸も同然であった。王莽は王一族の総代として自ら大司馬に就任し、堂々と実権を握った。
王莽が次にやらなければならないのは、次の皇帝を決めることであった。哀帝にも成帝にも男児は生まれなかった。となれば、元帝にまで遡って後継者を決めなければならない。そうなると瑪援の孫、劉箕子しか対象者はいなかった。劉箕子を即位するとなると、祖母の瑪援の名誉を復活しなければならなかった。王莽は大司徒(丞相の改称)孔光に諮って、張由と史立を虚偽の告発したことで逮捕すると、部下に命じて厳しい拷問にかけた。
拷問をかけられて絶対口を割らない人間と、簡単に白状してしまう人間がいる。上司や同志と強いきずなで結ばれている場合、いくら厳しい拷問にあっても決して口を割らない場合が多い。丁玄や史立の厳しい尋問にも、中山国のほとんどの関係者は援の呪詛を否定した。しかし、損得だけで行動し人のことなど考えない自己中心的な人の場合、軽い責めであってもすぐに自分の罪を認めてしまう。張由と史立の場合は後者に属した。
まず簡単に自分の罪を認めたのは張由であった。彼はもともと精神的に歪んでおり、精神的に不安定だから、鞭で数回叩いたところで白状した。
「中山国の待遇が悪かったため、無断で都に戻ってしまいました。その責を上司に譴責されたので、苦し紛れに中山太后が呪っていると虚偽の告発をしたのです。自分でも簡単に嘘であることを見抜かれるに違いないと思っていたのですが」
史立については少し手間がかかったが、尋問を担当した役人も経験豊かだけに、拷問の間に史立の愚痴も聞いてやった。
「中山太后が罪を認めれば、俺に侯爵を授けると約束したのに、中太僕にしかしてくれなかった」
「その不満は誰かに訴えたのか」
「恭太皇太后陛下が馬車に乗られる際に、侯爵を授けるという話はどうなりましたかと尋ねたら、図が高い、宦官のくせに中太僕になれたのは誰のおかげだと怒鳴られてしまいました」
「よくもそれだけで済んだものだ。すると、傅后がお前に命じて中山太后に虚偽の告白を迫ったのか」
「いえ、それだけはご勘弁を」
「それを吐くまでもう一度こいつの身体を鞭打て」
「いいます。いいます。執金吾の丁望閣下に命じられました」
結局、史立はすべてを告白した。
大司徒孔光は天子への上奏という形で張由と史立への判決を下した。
「恩赦があり、法により二人を死罪にすることができないのは残念だが、二人の官職を剥奪し平民に落とした後は合捕への流罪とする」
瑪援の孫、劉箕子は衎と改名し、わずか九歳で第十一代皇帝に即位した。諡号は平帝である。瑪援は皇帝の祖母として盛大な儀式に基づき葬送された。
王莽は傅一族と丁一族を徹底的に弾劾した。傅太后は前年死去し元帝と合葬されていたが、傅后が太皇太后を名乗ったのは、かつて昭儀の地位に過ぎなかったのに不遜とされた。傅后の棺は担ぎ出され、平民の墓に移された。傅皇后は廃后となり平民に落とされたうえで自害した。瑪一族と丁一族で候位についていた者もすべてその位を没収され、平民に落とされた。
趙飛燕の成帝の皇子の殺害の疑いは、即位直後の哀帝の鶴の一声でうやむやに終わっていたが、王莽は趙飛燕に対しても容赦なかった。王莽は趙飛燕を再度告発し、皇太后の位を取り上げ平民に落とし、その後、趙飛燕は自害を命じられた。
元始五年(紀元一年)、王莽は安漢公と号し一層権力を高めると、元始五年には瑪援の孫の平帝を毒殺した。続いて王莽は宣帝の玄孫劉嬰を皇太子に立てた上、劉嬰からの禅譲の形で漢朝を簒奪し、紀元八年新王朝を設立し、初代皇帝に即位した。
寛
熊に向かった女
瑪援(? – 紀元前三年)
あらすじ
皇帝の盾となり命を守った男は数多いるが、女の身で盾となったのは彼女だけであろう。彼女は元帝に愛され、昭儀にまで昇ったが、それを妬み策略で罪に陥れる女性もいた。
瑪援の父親の瑪奉世は警視総監に相当する執金悟であった。瑪援は元帝に寵愛され、長使、美人、婕妤と順調に出世した。この頃、元帝の寵愛は傅昭儀と瑪婕妤が双璧であった。
ある時、元帝は虎などの猛獣を飼っている上林園に行き、猛獣の格闘を見物していた。そこには後宮の主だった夫人も同席していた。その時、熊が囲いから逃げ出し、元帝のいる御殿によじ登ってきた。傅昭儀を始めとする列席していた婦人たちや貴人たちは慌てて逃げだしたが、瑪援は熊の前に仁王立ちとなり元帝を守った。熊は左右に控えていた衛兵に殺された。
元帝がその勇気を尋ねると、瑪援は平然と答え元帝を感嘆させた。
「猛獣は餌食となる者があればそこで留まります。そこで私は身をもって立ち向かったのです」
翌年、瑪婕妤は男児興を産み、やがて劉興は信都王に封じられた。瑪援は昭儀に昇った。入宮後六年で皇后に次ぐ最高位である。
紀元前33年元帝が崩御すると瑪援は信都太后と呼ばれるようになった。やがて、劉興は中山国に移封された。劉興は衛姫との間に男児箕子を設けたが、病弱であった。太后は自ら介護し、祈祷した結果、箕子は無事育った。箕子はその後、衎と改名した。後の平帝である。
紀元前6年哀帝劉欣が即位した。劉欣は傅昭儀の孫である。傅昭儀は成帝の晩年、趙皇后に多額の賄賂を贈り劉欣を皇太子にすることに成功した。そんなことから、傅昭儀は皇后にも就かなかったのに皇太后を称し、皇后にも自分の孫を立たせるなど権勢を奮った。
中郎謁者張由は瑪王太后の孫の中山王の治療のため医者を連れて中山国に向かったが、癇癪持ちの張由は機嫌を悪くして都に戻ってしまった。張由は瑪王太后にそのことを譴責されたが、逆に張由は瑪王太后が哀帝と傅太后を呪っていると訴えた。傅太后は以前から瑪王太后を恨んでいたから、早速、御史丁玄に命じて調査を命じた。丁玄は関係者百人余りを捕え取り調べたが、瑪王太后が呪詛した証拠は見つからなかった。
漢は宦官の横暴を避けるため、宦官の地位は低かった。それがこの頃になると、かなり高位にまで就けるようになっていた。これも漢の衰退の顕れであった。傅太后は宦官の中謁者令史立に、やがて侯位も夢でないと言い含めて、瑪王太后の妹や義妹を含めた関係者を投獄した。数十人が拷問死するなど厳しい尋問の結果、巫者劉吾と医者徐遂成から自供を得た。
これを基に史立は弾劾文を上奏したが、瑪王太后は罪を認めない。史立は瑪王太后がかつて熊に立ち向かった勇ましさがあったのに、罪を認めないとは卑怯と詰った。
「そんな昔のことは、お前のような子役人が知るはずがない。これは誰か(傅太后)が陥れた証拠だ」
瑪王太后はそう言って、毒薬で自殺した。瑪王太后を告発した張由は関内侯に、弾劾文を上奏した史立は中太僕に昇進した。一方、瑪援の末弟参は宣郷候に就き、兄野王も関内候を授かり孫が引き継いだが、いずれも瑪援の罪に連座した。
その後、哀帝が崩御すると、瑪王太后の孫にあたる箕子が衎と改名しわずか九歳で即位した。諡号は平帝である。王政君が太皇太后として、王莽を当時の最高位であった大司馬に復活させた。それまで権勢を奮っていた趙皇太后、傅皇后は王莽により自殺に追い込まれ、既に死去していた傅太后は太皇太后を廃された。張由と史立は死刑に処せられるところを、恩赦で平民に落とし流罪となった。
既に死去していた瑪王太后の名誉は復活したが、平帝の即位は王莽が漢朝を簒奪するまでの一つのプロセスであった。王莽は平帝の即位五年後紀元五年に、瑪王太后の孫の平帝を毒殺した。王莽は次の皇帝を立てずに、宣帝の玄孫劉嬰を皇太子に立てた上、劉嬰からの禅譲の形で漢朝を簒奪し、紀元八年新王朝を設立し、皇帝に就いた。




