第3章 八咫烏の誓い
深海5000メートル。
そこは、地球上で最も重く、静かな戦場だった。
皇国アカツキ国防軍、深海前哨基地『リウグウ』。
強化樹脂ガラスで隔てられた外の世界は、永遠の漆黒に包まれている。だが、今の玖珂蓮にとって、その闇よりも恐ろしいのは、ガラス一枚隔てた内側に充満する「熱気」だった。
「――おいおい、マジかよ。総理のオッサン、とんでもねえこと言いやがったな」
基地内のブリーフィング・ルーム。
分厚い胸板を揺らして笑ったのは、八咫烏の突撃兵、鉄男だ。
彼はレーション(戦闘糧食)のパッケージを乱暴に破りながら、モニターに映し出されたニュース映像を顎でしゃくった。
『……我々は自国の尊厳を守るための「力」を手にしたことを、ここに宣言する』
画面の中で、御門宗一郎首相が世界へ向けて「宣戦布告」にも等しい演説を繰り返している。
「『力』を手にした、だ? 笑わせるぜ。その力を守るために、俺たちがここで缶詰になってるってのによ」
鉄男は合成肉の塊を口に放り込み、ガハハと豪快に笑った。
死地に向かう前だというのに、この男の神経はどうなっているのか。その図太さが、極限状態では頼もしくもあるのだが。
「……食事中の私語は推奨されない」
冷ややかな声が、その喧騒を裂く。
部屋の隅、愛用の長距離狙撃銃を黙々とメンテナンスしているのは、リンだ。
小柄な女性だが、その瞳には感情の色がない。彼女にとって、この状況もまた、淡々と処理すべき任務の一つに過ぎないのだろう。
「固いこと言うなよ、リンちゃん。これが最後の晩餐になるかもしれねえんだぞ?」
「……不吉な確率論は不要。私は外さない。それだけ」
リンは視線も上げず、オイルの匂いが染みついた布で銃身を磨き続けている。
蓮は、そんな部下たちのやり取りを、少し離れた位置から眺めていた。
特殊任務部隊『八咫烏』。
蓮が選抜し、背中を預けてきた精鋭たちだ。
彼らはまだ知らない。自分たちが守ろうとしている「新エネルギー」の正体が、かつて世界を滅ぼした悪魔であることを。
(……俺は、こいつらを騙して戦場に立たせているのか)
胸の奥に、鉛のような重りが沈殿していく。
首相の演説は、確かに国民を鼓舞したかもしれない。だが、それは同時に、世界中の照準をこの深海の一点へと集中させる行為だった。
「隊長、眉間の皺が凄いことになってるよ。アイロンでも掛けようか?」
不意に、目の前に缶コーヒーが差し出された。
顔を上げると、ジョゼが不敵な笑みを浮かべて立っている。
「……ジョゼか」
「真面目すぎんのよ、あんたは。少しは肩の力抜きなよ。これから連合(UPF)のお歴々をお迎えするんだからさ」
彼女はプルトップを開け、蓮の隣に腰を下ろした。
その横顔には、かつてUPFの天才児と呼ばれた頃の冷徹さと、今の仲間へ向ける温かさが同居している。
「お前は怖くないのか。相手は、かつての古巣だぞ」
「怖いね。アイゼン・ヴォルフの艦長がどれだけ性格悪いか、知ってるから尚更さ」
ジョゼは肩をすくめ、コーヒーを一口啜る。
「でも、私は選んだんだ。あんたの背中をね。……だから、迷うなよ隊長。あんたが迷えば、八咫烏は墜ちる」
その言葉は、鋭いナイフのように蓮の心臓を突いた。
そうだ。迷っている暇などない。
真実がどうあれ、今、部下たちの命を預かっているのは自分なのだ。
その時だった。
基地内に、けたたましいアラート音が鳴り響いた。
『――緊急警報。緊急警報。音響センサーに反応多数』
『識別、UPF所属、無人潜水ドローン群。および、後方に大型潜水艦の影を確認』
空気が、一瞬で凍りついた。
鉄男が食いかけのレーションを放り投げ、リンが即座に銃を構える。
ジョゼがコーヒーの空き缶を握りつぶし、立ち上がった。
「来たか……!」
蓮は弾かれたように席を立つ。
モニターには、漆黒の深海を裂いて接近する無数の赤い光点が映し出されていた。
まるで、血に飢えた深海魚の群れだ。
「総員、第一種戦闘配置! 『天の逆鉾』への接近を許すな。迎撃するぞ!」
蓮の号令一下、八咫烏のメンバーが動き出す。
もはや軽口を叩く者はいない。そこにあるのは、プロフェッショナルとしての冷徹な殺気だけだった。
◇
格納庫へ向かう通路を走りながら、蓮は通信機に指を当てた。
「御門博士、そっちはどうだ。まだ解析を続ける気か!」
ノイズ混じりの回線の向こうから、紗良の緊迫した声が返ってくる。
『当たり前よ! OSが再起動した今こそ、データの宝庫なの。敵が来ようが何しようが、私はここを動かないわ』
「死にたいのか!」
『死なせないのが、あなたの仕事でしょ、八咫烏さん?』
挑発的な言葉に、蓮は舌打ちで返す。
あの学者は、自分の命よりも知識を重んじている。狂っているが、その狂気が今は頼みの綱でもあった。彼女がシステムを制御してくれなければ、この巨大兵器がいつ暴走するか分からないのだから。
格納庫に到着すると、整備班長のゲンが怒鳴り声を上げていた。
「おらおら、急げ! 大将のお出ましだ! 調整は完璧だ、ネジ一本緩んでねえぞ!」
ゲンの手によって磨き上げられた人型機動兵器――水中用強化外骨格『海神』が、薄暗い照明の下で鋼の巨体を輝かせている。
現代兵器の粋を集めた鉄の鎧。
その心臓部には、蓮の「勾玉」との同調を補助するための最新鋭インターフェースが組み込まれていた。
蓮は愛機へと駆け上がり、コクピットへ滑り込む。
ハッチが閉鎖される重厚な音。
気密服ごしに伝わるシートの振動。
全天周囲モニターが起動し、外部の暗い海が360度の視界いっぱいに広がった。
『システムオールグリーン。隊長、いつでもいけるぜ』
通信ウィンドウに、鉄男の顔が表示される。彼は重火器仕様の機体で、すでにハッチ前で待機していた。
『風速、水流、補正完了。……射線は確保した』
リンの声は静かだ。彼女の機体は、岩礁に擬態して狙撃ポイントへ移動済みだ。
『敵ドローン、先頭集団まで距離2000。……数は50、いや60。うじゃうじゃいるねえ』
ジョゼが電子戦仕様の機体から情報を送ってくる。
圧倒的な数的劣勢。
だが、引くわけにはいかない。
(守るんだ。……この国を。仲間を)
蓮は操縦桿を強く握りしめた。
その瞬間。
――ドクン。
胸元のペンダントが、心臓を鷲掴みにするような熱を発した。
警報音とは違う、あの不気味な古代の音が、脳内に直接響いてくる。
『……警告。敵性存在の接近を検知。防衛プロトコル、一部解放を推奨』
AI『零』の声だ。
無機質で、誘惑するような囁き。
(黙っていろ。俺は兵器の操り人形じゃない)
蓮は歯を食いしばり、その声を意識の底へ押しやった。
頼るものか。
あんな力を使えば、俺は人間でなくなってしまう気がする。
「八咫烏、出るぞ!」
蓮の機体が、カタパルトから射出された。
背部のハイドロジェットが唸りを上げ、海水を爆発的に押し出す。
凄まじいGが全身を襲うが、蓮の意識は研ぎ澄まされていた。
暗黒の海中。
サーチライトの光芒が交錯する中、迫りくる無数の機械の群れ。
それは人類同士の愚かな殺し合いの始まりであり、神の怒りを買う冒涜の幕開けでもあった。
「……こちら八咫烏01(ゼロワン)。交戦を開始する!」
蓮がトリガーを引くと同時に、海中を走る魚雷の軌跡が、深海の闇に鮮烈な死のラインを描いた。
誓いはなされた。
たとえその手が血に塗れようとも、彼はこの場所を守り抜くと決めたのだ。
今はまだ、その決意が正しいのかどうかさえ分からないままに。
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