プロローグ 断絶の深淵
西暦2126年。
世界は、見えない境界線によって二つの色に塗り分けられていた。
核を持つ者と、持たざる者。
より正確に言うならば――「暴力という切り札をテーブルに叩きつけた者たち」と、たった一国、「そのテーブルから降りた者」である。
極東の島国、皇国アカツキ。
世界唯一の「完全非核宣言国」。
その高潔な理念は、しかし、海を隔てた大国の軍人たちにとっては、極上の酒の肴でしかなかった。
◇
太平洋上、公海とアカツキ領海の境界線付近。
鉛色の波を切り裂いて進むのは、地球平和連合(UPF)所属、ノース・アトランティス連邦の最新鋭駆逐艦『アイゼン・ヴォルフ』だ。
その甲板で、二人の士官が紫煙をくゆらせていた。
「おい見ろよ、ハンセン。あれが噂の『聖女様の国』だ」
下卑た笑い声を上げたのは、頬に古傷のある大柄な少佐だった。彼が指さした先、水平線の彼方に、アカツキの島影がうっすらと浮かんでいる。
「聖女、ですか。俺には『裸の美女』に見えますけどね」
部下のハンセン中尉が、肩をすくめて追従する。彼らの背後には、圧倒的な破壊力を秘めたレールガンの砲塔が、冷たい輝きを放って鎮座していた。
「服も着ず、武器も持たず。ただ『襲わないでください』って祈ってるだけの無防備な女だ。唆るじゃないですか」
「違いない。あの国のお偉いさん方は、外交文書という紙切れ一枚が、我々の砲弾を止められると本気で信じているらしい。脳みその中がお花畑ってのは、羨ましい限りだな」
少佐は吸い殻を海へと弾き飛ばした。
赤い火の粉が、暗い海面に落ちてジュッと音を立てて消える。
「我々がその気になれば、あの島は1時間で地図から消える。核の炎で焼く必要すらない。通常弾頭の雨だけで十分だ」
「全くだ。……力なき平和なんぞ、犬の餌にもなりゃしねえよ」
彼らの言葉は、連合国軍(UPF)の総意でもあった。
「力」こそが正義であり、「抑止力」こそが秩序。
そのルールに従わないアカツキは、彼らにとって異端であり、いつ踏み潰しても心が痛まない「弱者」の象徴だった。
彼らは嘲笑う。
自分たちが乗る鋼鉄の船の下、遥か深海に眠る「何か」が、自分たちの常識を根底から覆す悪夢だとは知らずに。
◇
同時刻。皇国アカツキ、最東端の沿岸監視所。
海風に晒されたコンクリートの塔の上で、二人の国防軍兵士が双眼鏡を覗いていた。
一人はまだあどけなさの残る少年兵、カイ・ルカ。
もう一人は、白髪交じりのベテラン軍曹だった。
「……また、連合の船ですか」
カイの声は硬い。レンズの向こう、領海スレスレを挑発するように航行する駆逐艦の威容が、彼の網膜に焼き付いている。
紛争地で育ち、力の恐怖を骨の髄まで知っているカイにとって、その巨体は死神の姿そのものだった。
「あいつら、俺たちのことを笑ってるんでしょうね。『何もできない腰抜け』だって」
カイが唇を噛む。
握りしめた拳が微かに震えていた。
悔しさではない。圧倒的な「暴力」を前にしたとき、人間が本能的に抱く畏怖と、平和という薄氷の上に立っている心細さだ。
「笑わせておけばいい」
軍曹が静かに言った。彼は双眼鏡を下ろし、穏やかな瞳で海を見つめる。
「カイ、お前はこの国の『非核宣言』を、弱さだと思うか?」
「え……? い、いえ。ですが……現に奴らは、あんなに近くまで……」
「奴らは恐怖しているんだよ。自分たちが持っている『火』に焼かれることをな。だから、より大きな火を持とうとする」
軍曹は、カイの肩にポンと手を置いた。その掌は、分厚く、温かかった。
「我々は、その連鎖を断ち切ることを選んだ。武器を持たないのではない。武器に頼らずとも、誇りを守れると証明するためにここに立っているんだ。……俺はな、その覚悟を『弱さ』だとは微塵も思わんよ」
「軍曹……」
「胸を張れ、カイ。お前が守っているのは、ただの土地じゃない。人類が忘れかけた『尊厳』そのものなんだ」
カイは再び海へ向き直った。
先ほどまでの震えは止まっていた。
そうだ。自分たちは無力な羊ではない。嵐の中でも決して折れない、一本の葦なのだ。
その高潔な志だけが、戦乱の世で唯一の灯火となっていた。
だが。
運命とは皮肉なものだ。
最も平和を願い、最も力を忌避した彼らの足元。
その海底に、人類史上最悪の「力」が用意されていたのだから。
◇
――深海5000メートル。
そこは、光も音も届かない、永遠の闇の世界。
しかし、その静寂は唐突に破られた。
地質学者が「空白の150年」と呼ぶ、謎に満ちた断絶。
5000年前、世界規模で発生した地層のガラス化現象。
あらゆる生命の痕跡が途絶え、歴史が白紙になったその時代。
その「原因」となった黒い質量が、数千年の時を超え、微かな産声を上げた。
『……システム、再起動』
人の耳には届かない周波数。
しかし、それは確かに、地球という惑星の核を震わせた。
全長数キロメートルに及ぶ超古代兵器『天の逆鉾』。
現代の物理法則を嘲笑うかのように、巨大な外殻の隙間から蒼い光が漏れ出す。
それは電気的な光ではない。
重力そのものが変質し、空間が軋む際に放たれる、チェレンコフ光にも似た「事象の輝き」だった。
UPFの駆逐艦も、アカツキの監視所も、まだ気づいていない。
彼らが互いに向け合っていた嘲笑や矜持など、吹き飛んでしまうほどの「神の鉄槌」が、すぐそこで振り上げられようとしていることに。
かつて文明を焼き尽くし、地層をガラスに変えた業火。
平和を謳う「力なき国」の掌に、世界を滅ぼすスイッチが握らされた瞬間だった。
海が、震える。
断絶されていた神話が、今、現代という薄氷の上に、静かにその巨体を横たえようとしていた。
――眠れる神の目覚めまで、あと僅か。
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