5 王家の至宝3
王宮の客室は、バルコニー付きの部屋だ。
さほど広くはないが、バルコニーにはテーブルと椅子が置かれており、そこで食事や読書を楽しむことができる。
セリーネは、夕飯にともらってきた香辛料をたっぷりかけた肉料理をバルコニーにあるテーブルに広げた。
まだ温かい夕飯の、肉と香辛料の匂いが辺りに漂う。
セリーネは、飲み物を自分でグラスに注ぐと、ゆったりと椅子に腰かけた。
この帝国へ侍女は連れてこられなかった。
客室付きの侍女はもちろんいるから給仕をさせることも可能だが、それよりセリーネは一人で何でもできるようになることを選んだ。
目立たず過ごすためには、その方が都合がよい。
腰かけてフォークとナイフを手に取った。
肉を切ると、香辛料の食欲をそそる匂いが、周囲にさらに強く香った。
とん、と小さな音がする。
セリーネは気づかないふりをして、フォークの肉を口に運ぶ。
「おいしい」
肉をかみしめると、再び、セリーネの背後で微かな音がした。
〝暁の涙〟の窃盗犯は王宮のどこかに潜んでいる。
それもセリーネに近しい場所に。
セリーネの先見がそれを予見していた。
先見の一つ目の映像で、セリーネは窃盗犯の姿を見た。
──視界に現れたのは、暗い通路を走り去る影。赤いリボンが翻る。
セリーネが見た赤いリボン。それは、セリーネの大切にしていた弟からの贈り物のリボンだった。エルディナ公国のある地域でしか作られない、透かしの入ったリボン。
部屋の中で飾りとしてかけてあるもので、普段身に着けることはない代物だった。
リボンはまだ部屋の中にある。
けれど、窃盗犯がこれからセリーネの部屋に入って持ち去るわけではない。
(リボンの結び方が、エルディナ公国独特の結び方だった──つまり、私がこれから犯人に接触してリボンを結ぶということ)
セリーネは、ゆっくりと息を吐いた。
(緊張するのはやめましょう。相手に伝わってしまうかもしれないから)
部屋の隅でコトリ、と小さな音がした。
「あら、……お客さんがいらっしゃるのかしら?」
すぐに音はしなくなる。
セリーネは、くすくすと笑いながら、もう一度繰り返す。
「おびえなくてもいいわよ。きっと、よい匂いにつられてきたお客様ね。ご一緒しない?」
セリーネはお皿に肉をとると、テーブルの向かい、なるべく離れた位置にそっとそれを置いた。
そのまま、自分の食事をしばらく続ける。
背後に──いる。
でも、後ろは振り向かない。
地面を蹴る音がする。
ふわりとセリーネの脇を風が抜ける。
セリーネの視界をよぎるのは、金色の瞳だった。
トン、とセリーネの向かいの席、椅子の上に軽やかに降り立ったのは──小さな子犬だった。
セリーネの膝に乗るほどの小さな子犬だ。
かつては美しかったと思われる銀色の毛並みは、薄汚れてぼさぼさだ。
丸い大きな金色の瞳は、怯えで揺れている。
小さな子犬が濡れた鼻をひくひくとさせながら上目遣いにセリーネの顔を見る。
(どうしよう、かわいいわ、かわいすぎる)
「まあ、お客様は小さなわんちゃんね。さあ、どうぞ」
セリーネがそう言うと、子犬はお皿の肉に、おずおずと近づいた。
お腹がいっぱいになると、子犬は、すっかりリラックスしたようだった。
始めはセリーネが近づくことにおびえていたが、セリーネが部屋からブラシを持って現れると、嬉しそうに身を任せてくる。
セリーネは子犬を膝に抱え上げる。体毛に隠れた傷がたくさんあるのに気づいた。丁寧に避けながらブラシをかける。
「ちびちゃん、あなたはどこから来たのかしら」
セリーネは、独り言をつぶやきながら、ブラシをかけ続ける。
「この王宮には、あなたのような子犬もたくさんいるから、あなたもどこかのお部屋で買われているのかしら」
子犬は耳を伏せたままだ。
「それとも、外からやってきたのかしら」
セリーネは、子犬の首をなでる。
「この間、王宮の隠し通路の地図を見つけてしまったの。あなたもそこから来たのかしら。だとしたら面白いわよね」
子犬は、耳をぴくりと立てた。
「あら、興味がある? 王宮の隠し通路には出入口があちこちにあるの。中庭の噴水裏のオブジェもそうらしいわよ」
子犬はすぐに興味がなさげにあくびをする。
その視線は、壁にかかったリボンに向かう。
「ふふ、あなたは女の子なのかしら? こっちのリボンの方が気になる? じゃあ、つけてあげる」
セリーネは、壁からリボンをとって、子犬の首に巻き付けた。エルディナ公国風の結び方だ。
「かわいい」
セリーネがそう言うと、子犬は満足げに目を細めた。
しかし、次の瞬間、セリーネに背を向けるとバルコニーに出てしまう。
トン、とバルコニーの手すりに身軽に飛び乗る。セリーネの方を一瞬くるりと振り返り、じっと見つめてくる。
つやつやになった、銀色の太くて長い尾がわずかに揺れる。子どもの名残があるまだ短い鼻先が愛らしい。
(お別れの挨拶なのね)
「またね」
セリーネがそう言うと、子犬はバルコニーから飛び降り、闇夜に消えていった。
「陛下。いらっしゃるんでしょう? あの子を捕まえたりしないで泳がせてくださいね」
「陛下はあの子犬を追っていかれました」
「ええ? もう?」
振り返ると、そこにいたのはダリオンだ。
いつの間に部屋の中に、と思ったが、今はそれどころではない。
(注意事項を伝えたかったのに!)
「追わなくては」
セリーネも部屋を飛び出した。
◇◇◇◇◇
ミナは、窓から飛び降りると、中庭を走った。
気配を消すのは得意だ。
特にこの獣の姿だと、五感が冴えわたる。
(あの人、いい人だった。すっごくいい匂いがするお肉、おいしかった。ご飯もくれて、ブラシもしてくれた。──ミナは泥棒なのに)
数日前、ミナは隠し通路から王宮の宝物庫に小さな穴を開けて侵入した。
(おじさんたちの言う通りに、大きな赤い石のペンダントとイヤリングをとってこようとしたのに。あの女の人が、ナディアって人の部屋にペンダントだけ置いてから戻れっていうから)
ミナは、元来た隠し通路から帰れなくなってしまったのだ。
戻ろうとした時には宝物庫一帯は封鎖され、帰ることができなかった。
ミナは、隠し通路からの帰り方しか知らなかったし、どうやって帰ればいいのか途方にくれてしまった。
とりあえず赤い石のイヤリングは噴水のそばの木ネズミの巣に隠して、他の帰り道を探したがどこも騎士がたくさんいて通れない。
(でも、今日、あの人が言っていた道なら!)
ミナが闇に紛れて走ると、赤いリボンがひらひらと揺れた。
(リボン、ほんとは、違う姿の時につけたかった)
ミナは、そのまままっすぐに噴水側の森の中、イヤリングを隠した木ネズミの巣に向かった。
キイキイいうネズミを追い出して、鼻を突っ込んでごそごそと巣を漁る。
その時、背後からぞっとするような気配を感じて思わず飛び退る。
身構えるミナの前に現れたのは赤銅色の髪の若い男だった。
口の端に笑みを浮かべながらも、琥珀色の瞳に宿る光は冷ややかだ。
本能的な恐怖に尾が垂れる。
男は、ミナの目の前で悠々と木ネズミの巣に手を突っ込むと、赤い宝石を引っ張り出した。
「君が探しているのはこれかな、おちびちゃん」
月光の元に掲げられたその赤い宝石は、毒々しいきらめきを放つ。
ミナは、もうそれを取り戻せないことを瞬時に悟った。
(逃げなくちゃ)
ミナは、身をひるがえすと噴水裏のオブジェ──隠し通路への入り口に、まっすぐに飛び込んだのだった。




