cos 1x 有馬
「人を思い、人のために何かをなす。
それはとても素晴らしいことです。
しかしもし貴方が、絶対に人を思いやれないとしたら?
上辺だけの偽善でも、価値はあると思いますか?」
古びた教会のステンドグラスが、午後の光を裂いて床に色を落とす。
木の椅子に腰かけた、小柄な茶髪の少年ーー有馬は、手のひらを見つめながら牧師の問いに答えた。
「うーん、優しさに正解はないんじゃないでしょうか。数学とかとは違って」
牧師は笑った。白髪交じりの口元に深い皺が寄る。
「素晴らしい、哲学的な答えだ。数学が得意だというから、お堅い理論派だと思っていたよ」
有馬もニコニコと牧師に合わせる。
学業優秀、放課後には教会でボランティア。誰が見ても“いい子”に見える。
「では、また明日。夜道では悪魔に気をつけて」
有馬は手を振ると、礼拝堂を出た。背後にある聖像はやけに黄色く、じっと有馬を見ていた。
静まり返った礼拝堂に、誰かの声が響く。それはまるで、偶像が喋っているかのようだった。
『これから先、展開は突飛で、理論は飛躍している。
だが――それらはすべて、有馬が見ようとしなかった現実なのだ』
*
夜。家で有馬は天気予報を見ていた。今晩はみぞれで、0℃まで冷え込むらしい。
有馬は明日の予習をしようとノートを開いて、やめた。
代わりに、彼はそのままニュースを見た。
ニュースでは、iii……国際幻影対策機関に所属するプロハンターが悪魔を討伐した、と英雄として讃えられているのをじっと見ていた。
彼は幼少期より漠然とした願いがあったのだ。
――死んで英雄になりたい。
人を救って死んだりなんかすれば、自分はヒーローとして記憶される。
誰かに、いい目で見られたかった。
ニュースはなおも、悪魔討伐の英雄を映し出し、不審なことがあればiiiへ通報するように呼びかけていた。
「……そういえば」
有馬はそう呟いて、手を止めた。
昼間の教会を思い出す。
あの祭壇の上、やけに黄色く変色した像。
その瞬間、視界がふっと暗転した。
*
有馬が目を覚ますと、礼拝堂の空気が異様に濃く、焦げたような匂いが鼻を刺した。
跳ね上がる心臓の中、必死に視界をめぐらせると、五、六人の人影が見えた。
全員が後ろ手に縛られ、怯えた表情を浮かべている。
「……みなさん、恐れることはありません。これは“救済”なのです」
祭壇の前で、牧師が両手を広げていた。
炎のゆらめきがその顔を赤黒く照らし、祈りの声が堂内に反響する。
その瞳は明らかに狂っていた。
「なにを……してるんですか……?」
誰かが震える声で問う。
しかし牧師には届かない。彼は陶酔したように言葉を続けた。
「神に魂を捧げ、我々は天国へ行くのです」
その善意は、悍ましく歪んでいた。
「なんで?」「俺は死ぬのか?」「優しそうな牧師さんだったのに……」混雑した思考が有馬の中に巡る。
ここで普通なら、牧師の歪みに目を向けるのだろう。彼はなぜ狂ったのか。彼はどんな人で、何をしようとしているのか。もしや悪魔と呼ばれる化け物なのか。
しかし有馬にとって、それはどうでも良かった。彼の善意もまた、歪んでいたからだ。
彼は一つの答えに到達した。
――チャンスだ。英雄になるチャンスだ、と。
自分を犠牲にして誰かを救えば、きっと誰もが自分を正しく、優しいと思うことだろう。
その考えが、唇を動かした。
「……生贄は、自分にしてください」
牧師の動きが止まり、ゆっくりと有馬を振り返る。
「ほう? なぜかな? 有馬くん」
「……良いことをしたいからです」
有馬は自分でも何を言っているかは分からなかったが、とにかくお利口な理想論を語ると、牧師の瞳は、涙で濡れ始めた。
「素晴らしい……! このような善人こそ、救済に相応しい!」
蝋燭の炎が黒く燃え、空気が軋んだ。
縛られていた信者たちは、信じられないものを見るような目で有馬を見つめた。
だが、助かるという希望が勝ったのだろう。
牧師が外の扉を開くと、彼らは我先にと駆け出していった。
残されたのは、牧師と有馬、そして黒く揺れる炎だけだった。
善意で悪事を行う牧師。
そして、邪な心で善行を成す自分。
どちらがマシかと言えば、きっと自分だ。
でも――一番いいのは、善意で善行。
それが正解。
なら自分は間違っているんだろうか。
けれど優しさに正解はないんだから……
再び蝋燭の炎が激しく燃える。
「有馬くん。君に超能力を見せよう……。iiiのプロハンターのような紛い物ではない。本物の神の御技だ」
牧師はそう言って聖杯を掲げる。赤黒い液体が波打った。
有馬の心臓はドクンドクンと波打ち、両親の顔が脳裏にチラついた。
「これで、君だけが先に天国に行く。私にはまだ使命があるのでね」
有馬は気づいた。その液体の底に沈む金属片と匂い。――ただの毒だ。それが蒸発し、充満する。銅像の鉛が変色するということは有機的な……
「やはり超能力なんて非科学的だ」と思いながら、有馬は微笑む牧師を見た。この人はなんで狂ってしまったんだろう。自分は、自分は……幼い頃に両親に褒められるのが好きだっただけなのに。そこから、どうして歪んでしまったんだろう?
*
夜の街に、雨が打ちつける音をかき消すようにサイレンが鳴り響いている。
その男は、大雨の中を歩いてきたというのに全く濡れていなかった。
黒い髪に赤い瞳。背は190以上あるだろう。そして黒い軍服に、金のネックレスが揺れていた。
「状況は?」
男は、目の前の教会を見ながら、部下に尋ねた。
黒の制服にはiiiと刻まれている。
「中に1人、有馬という少年が残っています。自分から申し出て身代わりになったそうで」
「ご立派だね」
「人質ごと爆破する許可は出ていますが、出来るだけ救出を指示されています」
男は、右手をこめかみに当て、目を閉じた。
*
教会の中、有馬は十字架に立ったまま縛られていた。額に汗がわずかに滲んでいる。
そして、有馬に響くような声が聞こえた。
【巻き込まれた有馬くんだね。君を外に転送して救出するには、君がいる座標が必要なんだ】
牧師は変わらずブツブツ呟いていた。
有馬は眉をひそめて思った。
まさか、この声は自分にだけ聴こえている? テレパシーというものが、本当にあるのだろうか。
脚から力が抜け始め、視界が揺れた。
「もう……いい」
もう口も満足に動かなかった。突入しても遅いだろう。無駄に足掻くのは面倒だ。
黄ばんだ偶像が滲んで見えた。
あんたに俺を否定できるか?正解に辿り着けないなりに、俺は正しい行動をしてるだろ?
【確かに死によって英雄にはなれるだろう】
銅像の向こうから、色とりどりのステンドグラス越しに光が差し込む。
「しかし、それは他人が死者を美化するだけで、君自身は何も語れない」
今度は、神父にもその声が聞こえたようだった。
顔色を変え、祭壇の背後に下がる。
【生き延びた人間だけが、何かを成せる。生きて英雄になるのが、より良い答えだ】
「中々にいい出来だ。明日の演説はこれで行こう」
【音速の差は0.040秒……13.26mか】
有馬は意図に気づいた。物言わぬ英雄ではなく、追求し続ける理論だった。脚に力がこもる。
【正解に手を伸ばし続ける勇気があるなら、君の身長を言って】
その啓示は、0.04秒のズレを伴うことなく有馬に届いた。
「……151cm!」
瞬間、光が体を包んだ。
教会の外壁が見える。
「……もう外だ。大丈夫」
有馬は、大柄な男の腕の中に抱えられていた。
黒い髪に、光を吸い込むような赤い瞳。黒い制服に、胸元には金の指輪を下げている。
目の前の教会が軋む。
次の瞬間、扉を突き破って牧師が飛び出してきた。
血走った目で、手にしたナイフを振りかざす。
「神の御技に刃向かう超能力者がァッ!!」
男は一歩も引かず、淡々と呟いた。
「超能力ってのは、科学だよ」
そう言って、彼は金の指輪を握った。
――超能力とは、脳に流れる“虚数”の波。
−iにiをかけたとき、超常は現実に干渉する。
「……ラプラス」
《演算子を起動します。コード:ラプラス演算子》
《∆ e^ix = - e^ix 》
男の指先が一瞬、紅に閃く。
赤い光が爆ぜ、牧師の身体を貫いた。
その後、少し……おそらく0.04秒遅れて、有馬の体を爆音が揺らす。
「あ、あの……お名前……なんていうんですか?」
男は教会を見つめながら答えた。
「神宮。神宮帝翔だよ。有馬くん」
外では、夜明けのサイレンが鳴っていた。
*
「あの、すみません。勝手なことして……迷惑、かけてしまって。俺も、貴方みたいな英雄に……人の役に立ちたくて」
有馬は、抱えられた状態から降ろされながら、謝罪した。
神宮は何も言わずに顎で前方を指す。
視線の先では、救い出された信者たちが泣きながら礼を言っていた。
「ありがとう」「勇敢な子だ」と口々に声を上げる。
けれど、有馬の胸にはその感謝が鋭く突き刺さった。
「でも……俺は、心からの行動じゃなかったんです。
貴方みたいに立派じゃないから、せめて偽善でもって……」
「彼らが救われたのは事実でしょう」
確信を持った声だった。
そうだ、優しさに正解はないのだから、間違いもないはずだ――そう有馬が思いかけた時、
「完璧な行いを、完璧な心でできる人間がいるとしたら、他のすべては不正解になる」
神宮が静かに言葉を重ねた。
「問いには必ず答えがあると、僕は思う」
有馬は心を読まれたようにドキリとした。いや、超能力者なのだから本当に心を読んだのかもしれない、と思った。
神宮は夜明けの光を背にして立っていた。
「存在しないものをあると仮定することも必要かもしれないし、
“正解なんてない”と逃げるより、真実を追うのは辛いだろう。
それでも、問い続けたいことがあるんだ」
神宮の胸元の金の指輪が、キラリと輝く。有馬はまっすぐに彼を向いて言った。
「神宮さんの身長……いや、さっき助けてもらった時の俺たちの距離って何mだったんですか?」
「13.253m」
神宮がそう答えて去った後、有馬は呟いた。
「……194cm、なんですね」
v = 331.5 + 0.6 T より、
T = 0 ℃の時、v = 331.5 [m/s]
斜辺の長さをLとして
L = 331.5 × 0.040 = 13.26 [m]
13.26×√(1-(13.253÷13.26)^2) = 0.43[m] = 43 [cm]
なお、cosΘ = 0.9995より、Θ = 1.86 °
sin(1.86°) = 0.0324
151 + 43 = 194 [cm]




