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未完成のコリアンモンスター  ハーバート康(1949-)

作者: 滝 城太郎
掲載日:2025/10/08

私が最初に名前を知った韓国人ボクサーである。ハーバートというからハーフかと思いきや全くの韓国人で、父親が日本で頻繁に試合をしていた元東洋チャンピオンだったということもあって、康もしょっちゅう来日していた。私がその名を知った頃は落ち目で、テレビで試合中継を見る機会もなかったが、過去の映像で見る康は迫力満点でこれまで見たどの韓国人チャンピオンより強そうだった。

 一九八〇年代後半から九〇年代にかけて、それまでアジアのボクシング大国だった日本に代わって韓国から数多くの世界チャンピオンが誕生した。特徴的だったのは東洋圏では桁外れのハードパンチャーが多かったことで、二十六連続KOのアジア記録保持者白仁鉄(WBAスーパーミドル級王者)や十九連続KOの朴鍾八(WBA・IBFスーパーミドル級王者)らの前では日本のKO記録などかすんで見えたものだ。

 ただし白も朴も世界タイトルを手にしたとはいえ、新興団体や新設階級の恩恵が大きく、選手層の薄さに救われた感が強い。実際、本場の重量級強豪選手との初対決では二人ともKOで敗れているように、パンチの質や技術を見る限り、激戦区のミドル級でチャンピオンになれる器ではなかった。

 しかし彼らとは逆に、間違いなく世界チャンピオン級の強打を持ちながら、王座をつかみ損ねた男もいる。

 ハーバート康。世界の頂点は極められなかったが、彼が日本のリングに残した戦慄の強打の残像はいまだに多くのボクシングファンの脳裏から離れない。


 ハーバート康こと康春植カン・チュンシクは、韓国初の東洋J・ミドル級チャンピオン康世哲の次男である。春植の出身地は全羅南道の木浦という港町だが、父はソウルに住みほとんど実家に戻ることがなかったので父方の祖母と母、兄の四人暮らしだった。やがて母の情夫が家に上がりこんで幼い春植たちにまで暴力を振るうようになったため、いたたまれなくなった祖母は二人を連れて家を離れた。その時春植は二歳だった。一時期孤児院に預けられた春植は、そこで辛辣ないじめを経験した後、ソウル市内の父の自宅に引き取られる。

 韓国のボクシング界が黎明期だった一九五〇年代から活躍していた康世哲は韓国重量級のスターとして国内では絶大な人気を誇っていた。有名人であるがゆえに女性たちとの浮名が絶えず家庭を顧みなかった父に対し、少年時代の春植はかなり鬱屈した感情を抱いていたようだ。厄介払いをするように養子に出されたこともあったが、そこでも手に負えなくなり父のもとに戻ってきた。

 愛情に飢えていた彼はそのストレスの捌け口を喧嘩に求めていた。それもとてつもなく強いため、負けた相手の被害も尋常ではなかった。小学校の卒業前に派出所の警官と取っ組み合いになり、二人とも橋の欄干から川に転落したこともあったというから、そんじょそこらの不良連中とはレベルが違う。

 家庭では絶対君主であった父は、そんな春植を腕力で支配していたが、息子の暴力を抑えるためにはボクシングしかないと悟り、半ば無理やり拳の世界に引き込んだのである。

「ハーバート」というリングネームは、父康哲が一九六〇年に訪米した時、民主党大統領候補だったヒューバート・ハンフリーと懇意になったことに由来する。「ヒューバート」は韓国語読みでは「ハーバート」と発音するため、日本でもそれに倣って「ハーバート・カン」という呼称で呼ばれるようになった。


 春植は、父の勧めもあってソウル市内でも随一の規模を誇る韓国総合体育館のボクシングジムで汗を流すようになった。まだ親子仲がしっくりいっていなかった頃だけに練習も自己流だったが、その抜きん出た素質は東洋チャンピオンだった父を唸らせるほどで、二人は「世界」を目標に親子の絆を修復していった。

 世哲は息子のことをこう評している。

「ジムでミットを打たせてみて、実は驚いたんですよ。パンチの威力は掛け値なし、それに案外頭もいいんですなあ。相手に散々打たせているようでいて、相手のパンチは必ず両グローブのカバーで殺している。その他の顔面へのブローは全部額で流している。これは私が教えたものではなく自分で覚えたものなんです」

 プロデビューは十五歳の時だった。いくら凄腕のストリートファイターといえども、プロの壁は厚く最初の三年ほどは勝ったり負けたりの繰り返しだったが、十七歳で挑んだ韓国J・フェザー級タイトルマッチで、最終ラウンドに右アッパー一撃で逆転KO勝ちしてからというもの、天性の強打が猛威をふるいはじめた。

 若き日の父が幾度もリングに上がった日本の地を踏んだのは十七歳の時、対戦相手は新鋭の金沢和良だった。ここまで十勝八敗(五KO)一引分けの康は、後に東洋バンタム級チャンピオンとなる金沢にとっては単なるキャリア上の通過点としか見られていなかったが、試合は誰もが予想出来なかった番狂わせの二ラウンドKO勝ちで康に凱歌が上がる。パワー、テクニックともに一級品の金沢が、十七歳の韓国少年の右アッパー一発で沈んだのだ。

 それまで四連敗とスランプだった康は、金沢戦を機に調子を上げ一九六八年九月十一日には斎藤勝男の持つ東洋フェザー級タイトル挑戦のチャンスを掴んだ。

 数々の奇行で知られる異色のボクサー斎藤は白井義男の指導を受けた逸材で、一九六四年に当時世界バンタム級二位のロニー・ジョーンズをKOして売り出すと、その翌年にはノンタイトル戦で現役世界チャンピオンのファイティング原田とあわや引き分けという大接戦を演じたこともある。

 試合前の予想ではパンチ力は康だが、フットワークの良さと原田をダウン寸前に追い詰めた右ストレートの切れ味など、トータルで考えれば斎藤が有利と見られていた。

 試合は予想通りの展開となった。第一ラウンド、斎藤のスピードについてゆけない康は、左右のストレートとショートアッパーをびしびし決められ、ただガードを固めて耐えるだけだった。誰もが斎藤の楽勝を信じた第二ラウンド、ガードが下がった瞬間に左フックを食らった斎藤がよろけると、康の右アッパーが追撃弾となって顎を直撃。斎藤は弾かれたようにキャンバスに倒れこみ、大の字になったままカウントアウトされてしまった。

 十八歳の若さで東洋を制した康はこれで親子二代の東洋チャンピオンとなった。


 二ヶ月後、前世界J・ライト級チャンピオン沼田義明に善戦し意気上がる虎岩純を韓国に送り込んだものの、これもキャリア初のKOで撃退され、日本人ボクサーは康の前に四戦オールKO負けとなった。世界チャンピオンの西城正三、三階級制覇を狙うファイティング原田を擁しフェザー級では世界屈指のクオリティを誇る日本ボクシング界としては面子にかけても康を倒さなければならない。そこで満を持して送り出したのがフェザー級第三の男と呼ばれる柴田国明である。

 後に世界フェザー級、J・ライト級の二冠王となる柴田はデビュー間もない頃から世界の器と期待されており、元東洋バンタム級チャンピオンの青木勝利を一ラウンドで沈めた強打はすでに世界レベルに達していた。ライバルの西城に再三挑戦状を叩き付けながら取り合ってもらえない柴田としては、まずは東洋タイトルを奪って世界挑戦の足掛りにしたいところだった。

 一方、天性の強打者である康にしても、柴田のボクシングセンスはこれまでの相手とは別格で、全く油断はならないが、この強敵を倒せば世界が見えてくるのは間違いなかった。

 一九六九年一月十五日、後楽園ホールで運命のゴングが鳴った。

 フェザー級にしては大柄な康は伸び盛りだけに減量が厳しく、試合直前に八キロも落としたのが響いて動きが重かった。それでも小柄な柴田と比べると骨太で肩幅も広いため、まるで鉄骨のやぐらのように柴田の前にそびえ立ち、スピーディーなフリッカージャブの連打にも微動だにしない。

 「四ラウンドまでは柴田のパンチの出方を見ていた」という康は、一見すると一方的に打たれているようで、実は顎に弱点がある柴田を一発で仕留める機会を狙っていた。五ラウンドまでフルマークの柴田はあまりにも康が消極的なので油断したのだろう、攻撃に集中しすぎてガードがおろそかになったところに左を浴びて動きが止まると、待ってましたとばかりの康の連打に晒され、あっという間にキャンバスに沈んでいた。とどめの一撃は斎藤を葬ったのと同じ右アッパーだった。

 柴田ほどの大物を会心の逆転KOで下しながら、特に嬉しそうな顔をするわけでもなく、不敵な仏頂面のままリングを去る康の姿はいかにも挑発的で見ていて憎憎しいほどだった。


 ボクシングというのは強ければ強いほど人気が出るような単純なものではない。かつてのジャック・ジョンソンやジャック・デンプシー、ラリー・ホームズのように強すぎて憎まれ役に回るというケースもあれば、ロッキー・マルシアノやムハマド・アリのように英雄視されるケースもある。

 その違いはキャラクターによるものかというと必ずしもそうとは言いきれない。対極にあるジョンソンとアリはともに自信家で挑発的な言動が多いタイプであり、逆にデンプシーとマルシアノは好人物であるからだ。となると残る要素は試合のスタイルということになる。

 ジョンソン、デンプシー、ホームズは同時代のヘビー級としては頭一つ抜けており、その強さだけが目立っていたのに対し、マルシアノとアリの試合はスリリングで逆転KOのような見せ場があった。言い換えれば、前者は対戦相手が自分のボクシングをする余裕を与えず、一方的に下してしまうが、後者は対戦相手の良さを引き出した上でそれを上回る自分のボクシングを見せているということである。

 相手に攻めさせてから倒す康のボクシングはまさに後者のタイプである。

 康は自分のボクシングスタイルをこう述べている。

「日本のボクサーは、俺のパンチが怖いのか思い切り攻めてこない。だから、多少の連打を受けてもダメージが少ない。ある程度打たせておいて、相手が疲れスピードが鈍ったところでこちらが攻める。スピードが同じくらいならこちらのパンチも当たる。当たれば倒れる」

 とても十九歳の少年の言葉とは思えないこの不遜さ。これでKOされてしまえばただのホラ吹きだが、勝ってしまうところが康の凄さである。アリがフォアマン戦で見せた「ロープ・ア・ドープ」を先取りしたかのような戦法は、打たれ強さにも相当自信がなければ取れるものではない。柴田の強打に耐えた康はタフネスにおいても一級品であることを証明した。


 そんな康にも大きな欠点があった。いわゆる天才肌に有りがちな練習嫌いである。

 父康哲は遊び盛りの春植を厳しく管理していたが、知名度が上がり、ジムの稼ぎ頭ともなると頭から押さえつけるわけにはゆかない。柴田戦の一ヶ月後に名古屋で行われた日本J・ライト級四位野畑澄雄との一戦では、父が傍に付いていないのをいいことに羽を伸ばしすぎて契約ウエートまで落とせなかった。二度目の計量に失敗した康は完全にふてくされて水をガブ飲みするという醜態を見せたが、グローブハンディを付けられながら後の日本チャンピオンに判定で完勝している。

 これだけ舐められながら康が頻繁に日本に招聘されたのは、日本にいないタイプの強打者であり、客が呼べる“魅せる”ボクシングが出来たからである。

 康の試合はフジテレビが交渉の窓口になっていたが、世界ランカーでもない康の試合の放映権は四千~五千ドル(当時のレートで百五十~百八十万円)が相場で、柴田戦のファイトマネーは七千ドル(二百五十万円)だった。これは世界チャンピオンのノンタイトル戦に匹敵する高額だった。

 地元韓国での人気は凄まじく、近年の世界チャンピオンですら足元にも及ばなかった。ソウル市内のボクシングのメッカ、奨忠体育館に一万人以上の観客を動員できる康はまさしく金の成る木で、様々な思惑を持った人々が彼の周囲に群がった。

 十代の若さで大金を掴み、スポーツヒーローとして絶大な人気を誇る康は、周囲の甘やかしもあって次第に自らを律することが出来なくなっていった。元々、ボクシングより音楽が好きと言ってはばからなかった康は韓国の人気歌手斐湖の大ファンで、その哀愁を帯びた曲調に心の癒しを求めていた。彼が試合に勝ってもほとんど喜怒哀楽を表に出さなかったのは、母親との思い出のない寂しさが常に心のどこかに付きまとっていたからで、ボクシングだけでは母性愛への渇望を満たすことが出来なかった。

 人気が出て康の周囲に女性が集まり始めると、心の平穏を女性に依存するようになった。

「早く結婚して家庭を築き、生活の安定と心の拠り所を得たい」

 康の口からこんなつぶやきが聞かれるようになった一九六九年の夏頃から彼のボクシングには微妙な狂いが生じてきた。こうなるともうボクシングには身が入らない。

 酒と煙草と女による体の変調はすでに柴田戦で自覚症状が現れていたという。柴田からダウンを奪った時にはもう余力が残っていなかった康は、「神様、どうか柴田を立たせないでください。この願いを聞いて下さったなら、これからは必ず練習に励みます」と祈ったが、結局、不摂生を悔い改めることはできなかった。


 十月のホノルル遠征を間近に控えた康は、ガールフレンドの待つ日本に立ち寄ってから現地入りし、まさかの二連敗。覇気のない試合ぶりを非難され、ファイトマネーのうち三千ドルを没収されている

 ボクシングに対するモチベーションの低下は誰の目にも明らかだったが、実は柴田戦の直後に二日間も激しい頭痛に見舞われたうえ、右目の視力も低下していたらしい。周囲はそれを知らなかったが、試合を重ねるごとに康の遠近感はますます正確さを欠くようになり、空振りと被弾率は上昇カーブを描き続けた。

 精神的にも肉体的にも最悪のコンディションの中、一九七〇年三月十一日、後楽園ホールで行われた東洋タイトル三度目の防衛戦では、スマートな技巧派サウスポー千葉信夫(東洋一位)に大苦戦を強いられる。

 練習不足でスタミナに不安がある康はいつもの変則的な両腕ガードを捨て、珍しく第一ラウンドから勝負に出た。しかしベタ足の康ではあのファイティング原田を翻弄した千葉のフットワークには追いつけない。それどころかオープンガードで前に出るぶん、ジャブと左ストレートをまともに喰らい自身のダメージが蓄積してゆくばかりである。焦る康の空振りを誘いながら、カウンターを決める千葉の作戦は的中し、試合は一方的となった。

 中盤以降ガス欠状態の康は八ラウンドに千葉の左アッパーでついにダウン。ボディに弱点を持つ千葉は、そこからも無理せずヒット・アンド・アウェーに徹し、康の強打を封じ込んだ。スコアはフルマークで千葉の圧勝だった。米倉会長から「死んでも倒れるな。倒れたら必ず起き上がって来い」と必勝を厳命されていた千葉は、日本フェザー級タイトルを返上してまでこの一戦に臨み、見事ジムの後輩柴田の仇を討ったのである。

 無様な負け方がよほど悔しかったのか、その翌月には後年世界に挑戦することになる岩田健二を三ラウンドで沈めて再起を果たすと、それから三年間無敗の九連勝(四KO)五引分と持ち直したものの、すでにかつての怪物性は失われていた。

 春植の不甲斐なさに腹を立てた父康哲は、心身を鍛えなおすため、息子を兵役に就かせたが、そこでも高圧的な上官をパンチでぶちのめすなど素行は最悪だった。


 ただし落ち目になったとはいえ、日本人相手となると話は別で、千葉以外には誰にも負けていない。対日本人通算十三勝一敗(十KO)一引分けという成績は、日本人キラーと呼ばれたボクサーの中では出色の出来だ。しかも対戦相手のクオリティも高い。

 対戦した十四人の内訳は新旧を含めると世界王者一人、東洋王者三人、日本王者一人で、タイトルと無縁だった虎岩と岩田も康に敗れた後で世界ランキング入りを果たしている。これだけの強豪選手とグローブを交え、ほとんどをKOで下したにもかかわらず、康が世界挑戦はおろか世界ランキングにすら入ることができなかったのは何とも解せないが、全盛時代の康なら十分に世界を獲れる可能性はあったと思われる。

 では、これほどまでに日本人に強かった康に果たして民族的偏見があったのかというとそうではない。 

 確かに韓国人ファンの多くが、日本人を片っ端からKOする康の姿に、かつての支配民族だった日本人に拳で報復する自分の姿を重ね合わせているふしがあったことは否定出来ない。しかし康は、「日本人から民族的差別を受けたこともなければ反日感情も全くない」と後年語っている。

 その証拠に、柴田戦の後もヨネクラジムでトレーニングを続けていた康は柴田と仲良くなり、サウナや焼肉に同伴していたという。


 一九六七年から一九七四年にかけて康は毎年のように日本のリングに上がっており、自身も見入りのいい日本での試合を望んでいたが、一九六九年までにあらかた日本フェザー級の一線級を一掃してしまったため、残る選手はファイティング原田、西城正三(世界フェザー級王者)、小林弘(世界J・ライト級王者)くらいしかいなくなってしまった。

 彼らとの対戦が実現すればファン垂涎の好カードになること間違いなしだったが、一時期関係者の間では康の話はタブー視されていた。一九六〇年代後半から、各局ともにボクシング番組の視聴率低下に悩んでいたが、それでも局の看板選手を康にぶつけるリスクは避けたかったということだろう。それほど康は危険な相手だったのだ。

 現役世界王者の西城を凌ぐ素質の持ち主であり、後に世界フェザー級史上有数の名王者サルディバルをキャリア初のKOで下して世界王座に就いた柴田ですら、パンチ力は康に遠く及ばないという評価が一般的だった。当時のマスコミは二人の対戦を「機関銃と大砲」と称したが、日本という敵地で試合に臨む康にとっては最大の賛辞であっただろう。


 これほどのパワーとタフネスを有しながら康が未完の大器で終わった理由は、巷でよく言われるところの放蕩癖だけではない。ボクシングが国民的メジャースポーツへと昇華してゆく過渡期にあった韓国のボクシング環境にもその一因を見出すことが出来る。

 康のトレーナーを務めた叔父の文英鎬は「スパーリングではウェルター級かミドル級の選手しか相手になってくれず、それも軽く打つからという約束の上でしか組めない。ハーバートにテクニックをつけたいと思うが、サンドバッグだけの練習が多く、試合もサンドバッグを打つそのままの試合になってしまう」と環境の不備を憂いていた。

 西城の試合を観戦した際には「西城の十分の一のテクニックを備えていたら鬼に金棒なんだが」と、打ち合えば康が勝つことを暗に示す発言も見られたが、それはあながち誇張とはいえないほど康の強打は迫力があった。

 柴田は顎に弱点を抱えていたが、西城とてアントニオ・ゴメスにKOされたように決して打たれ強いわけではない。試合運びが狡猾でKOチャンスを逃さない康の強打に耐えうる当時のフェザー級世界ランカーというと、ファイティング原田くらいしか見当たらない。


 一九七四年の暮れ、康に最後のチャンスが訪れる。彼のネームバリューと底力をかった日本の大手ジムが、世界挑戦を念頭に置いた三連戦をプロモートしたのだ。

 調整試合として組まれた日本人との二連戦をともにKOでクリアした康は、世界J・ライト級六位ホセ・ルイス・ロペスと対戦した。康がロペスに勝って世界ランキング入りすれば、世界戦というレールが敷かれているこの試合、康は無残なまでに打ちまくられ、八ラウンド負傷TKO負けに退いた。

 このレールの先で康を待っていたのは、世界J・ライト級チャンピオン柴田国明であった。


 三年後、ぼろぼろになって引退した康は右目を失明していたうえ、歯もほとんど抜け落ち、歴戦のダメージによる軽いパンチドランカー症状まで患っていた。ボクシングができなくなった康はただの“厄介な奴”でしかない。信頼していた友人たちにも裏切られて性格も荒み、度重なる暴力沙汰によって塀の内と外を往復する生活を続けていたが、夫人や子供たちの励ましのおかげで何とか立ち直ることが出来た。


「私生活の安定がなければ、人気と実力を備えたボクサーにはなりえない。世界のことはそれから考えることだ」

 康は母性愛を求めて拳の世界をさまよい続けたが、そこには彼の望むものは見つからなかった。

 生涯戦績 38勝18敗(24KO)9引分

十代の若さで地位と金を掴んだ康がロイヤルロードから脱線していったのは、当時の韓国社会を考えると無理もないことだと思う。先進国の仲間入りを果たした現在と違って、日本の20分の1くらいの賃金で生活を強いられていた途上国の国民が、祖国はもとより先進国日本のリングでももてはやされたのだから、調子に乗ってしまうのも仕方がないだろう。おまけに打ち出の小づちのように金を生むとあっては、ずる賢い大人たちの格好の餌食である。康は日本という竜宮城を訪れるたびに老化していったのだろう。

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