3. アイネの誘い
「……退学したって聞いたときは、本当に驚いたよ」
言葉を選びきれなかった俺は、結局、当たり障りのない世間話に逃げた。
「そう? なんか、ごめんね」
アイネは悪びれる様子もなく、あっさりとそう言った。
「それで、来てくれるの?」
「いや、待て。まだ状況を把握できてない。ちゃんと説明してくれ。君の手紙だけじゃ、さっぱり分からない」
いきなり結論から入るなよ……。まったく、これだから天才は。そう思いながら、俺の中には懐かしい感覚が湧き上がっていた。
こんなやり取りをするのも、一年ぶりか。
二年間、ずっとアイネに振り回されてきた――そんな記憶を思い出しながら、俺は彼女がすっ飛ばした段取りを、代わりに踏み直した。
「まず、その……クラブを始めたって、どういう意味だ?」
「言葉どおりの意味だよ。個人戦なら私ひとりでも出られるけど、団体戦にはクラブがないと出られないじゃん」
「君なら、名門クラブからの誘いが山ほどあっただろ? そっちのほうが早いんじゃないのか」
「うーん、なんとなくね。こっちのほうが気が乗ったんだよね。どこかに所属してプレイする自分のイメージ、あんまり湧かないんだよね」
言われてみれば、確かにそうだ。
誰かに縛られるより、自分で一から作る。俺にとっては考えもしなかった選択肢だけど、彼女らしい自由さを感じさせる決断だった。
妙に腑に落ちると同時に、少しだけ寂しくなった。アイネにとって、やっぱり学園は窮屈だったのかもしれない。
「……クラブのことは分かった。でも、なんで俺なんだ?」
思わずそう口にして、そしてハッとした。
すぐに後悔した。昔の俺なら、絶対にこんな言葉は口にしなかった。思い浮かびすらしなかったはずだ。どんなクラブでも、誘われるのは当然だ――そう信じていたから。
それだけ、俺は自信をなくしてしまっていた。そして、よりにもよってアイネに見せてしまった。一番見せたくない相手なのに。
ずっと笑顔だったアイネは、さらにニヤリと口元をゆがめた。
「誘われちゃ、嫌?」
その声に、嘲笑が含まれているのか、それとも憐れみなのか。被害妄想だとわかっていても、そんな考えが頭をよぎる。
「……嫌じゃない。でも……」 俺は深く息を吐き、気持ちを落ち着かせようとした。
格好つけたって意味はない。それは、二年前に思い知ったはずだ。
「君が学園にいた頃、俺は、君についていくのに必死だった」
「うん、知ってる」
「必死だったけど……結局、ついていけなかった。君の足を引っ張らないことだけで精一杯だった」
「それも、知ってる」
……知ってたのか。
驕りですらなく、ただの事実。それを口にしなかったのは、彼女なりの気遣いだったのかもしれない。
「じゃあ、なんで俺を誘ったんだ。君についていけるやつを探したほうが、よっぽどいいんじゃないか」
「うーん」
アイネは顎に手を当てて、わざとらしく考える仕草をしてみせた。
「強豪クラブの一軍でバリバリやってる選手が、実績も人脈もほとんどない、プロ二年目の十八歳が立ち上げた駆け出しのクラブに入りたいと思うと思う?」
「……それもそうか」
若手選手がクラブを立ち上げるなんて聞いたことが無い。そんな無謀な挑戦に、自分のキャリアを賭けるプロはいない。
「私が誘って来てくれそうな人の中で、一番強いのがシンヤだった。だから、シンヤを誘った。それじゃ納得できない?」
「……そう言われると、まあ……」
自分から聞いておいてなんだが、正面からそう言われると、やっぱり少し堪える。
「それに、シンヤなら、私についてこれると思うよ」
笑顔のままのアイネ。その表情から、何を考えているのかは読み取れない。
昔の彼女は、もっと単純で、もっと素直だった。
炎のような雰囲気は変わっていないが、今のアイネには、どこか底知れない深さを感じる。
さっきの理屈も、もしかしたら俺に合わせて“わかりやすく”整えてくれたのかもしれない。
気づかないうちに、俺は置いていかれていた。もともと遠かった彼女との距離は、さらに広がっていた。
「……俺、この一年間、けっこう伸び悩んでるよ」
「うん、知ってるよ。シンヤが出た全試合の中継を見てたから」
「……え」
学園を離れてプロの世界に飛び込んだアイネが? 嘘をついてるようには見えない。だからこそ、その真意が読めない。
「……わかった。乗るよ」
しばらく考えた結果、俺はアイネの誘いを受けることにした。
彼女が何を考えているのかはわからない。だけど、彼女が間違ったことは、今まで一度もなかった。
どうせ、今のままじゃ、俺は自分がプロで通用するかどうかさえわからなくなるだろう。
だから、乗ろう。アイネを信じて。
……いや、これは全部言い訳かもしれない。アイネから手紙が届いたその瞬間、俺はもう心を決めていたのかもしれない。
「それで、俺たち以外には何人いるんだ?」
二人だけじゃ、クラブは成立しない。
「いないよ」
「おい」
「最初はシンヤに声をかけたかっただけだもん。フロントスタッフは一人確保してあるから、開幕までの三ヶ月の間には、残りもスカウトする予定だよ」
ずいぶんの見切り発車だな…
「それならいいけど…そのクラブをどうするつもりなんだ?何か計画はあるのか?」
「最初はそんなにメンバーが集まらないと思うから、多分3部リーグからスタートするね。私を中心にして、できるだけいろんなイベントに参加して資金を確保しながら、実戦経験と実績を積みたい。目標は、三年で一部リーグに上がること」
三年。意外と現実的だ。
それでも十分無謀な計画には違いないが、アイネなら本当にやってのけそうな気がする。
「......あの......」
小さな声の方向に振り向くと、そこには、少しばつが悪そうな顔で手を挙げるイザベラの姿があった。
「お二人の会話に割り込むようで、非常~に恐縮ですが……私、ここにいていいんですか?」
そういえば、彼女にも誘いの手紙が送られていたっけな。
「もちろんよ。イザベラちゃんにも来てほしい……まぁ、今日はシンヤの方が主役なのは事実だけど」
「それはもちろんわかってます! それでも嬉しかったですが…その、私は……」
普段は生意気なイザベラも、この場ではさすがに言葉に詰まっていた。
「アイネ、こいつは二年生だぞ。来年までは契約できないんじゃないか?」
「わかってるわよ。どうせシンヤを誘うつもりだったから、ついでに粉をかけてみたかっただけ」
「いや、そうは言ってもさぁ……」
俺は言葉を探そうとして口をつぐんだ。
イザベラは、どう見てもプロに通用しそうな逸材ではない。
学園チームの中でも、彼女は特に優秀という評価ではなかった。
一芸に光るものが買われて、一軍のベンチには入っているが、総合力で見れば、正直なところ二軍レベルだ。
一芸があるのは確かに美点だ。だが、それだけでプロになれるか? それも、この不確定要素だらけの駆け出しクラブで?
「その……アイネさんに声をかけていただいて、本当に光栄ですけど……私、シンヤ先輩と違って全然優秀じゃありません。今でもスタメンに入れてないし、そんな私が、1部を目指すクラブに入るなんて……正直、ちょっと実感が湧かないというか……」
イザベラが自分の口でそう言ってくれて、俺は言葉を探す手間が省けた。
こんなにしおらしいイザベラは滅多に見ない。だが、さすがの彼女も、この状況には戸惑っているのだろう。
選手として特段優秀でないことは、彼女自身が一番よくわかっているはずだ。
「そうね、実感が湧かないか……まぁ、今のままだと、確かに厳しいかもね」
アイネはそう言って、イザベラの目を真正面から見つめた。
「でも、イザベラちゃんにはあと一年ある。その間に死ぬ気で努力して、それでもダメなら――うちでフロントスタッフとして働くって道もあるよ。二年目に入れば、そっちも色々忙しくなるだろうし」
「……はい! わかりました、頑張ります!」
イザベラは力強く頷いた。その声に、先ほどまでの迷いはもうなかった。
「そうだ、電話で言ってたサイン。あとで渡すね」
――今、なんて言った?
「や、やった! アイネさんのサイン! ありがとうございます!」
先ほどまでの暗さが嘘のように、イザベラの顔が一瞬でぱっと明るくなった。
どういうことだ?
「私、アイネさんの大ファンなんです! デビュー戦からの全試合、録画してますし、ファンレターもいっぱい送ってます! いただいたお返事の手紙は、全部大切に保管してあるんですよ! 今度、見せますね!」
いや、見せなくていい。
アイネのやつ、こんなファンサービスまでしてたのか。
とりあえず、俺は入団を了承した。これでひとまず話はまとまった。イザベラにはまだ契約の資格はないが、来年までの一年間、しっかり頑張ってもらってからクラブに迎える予定だ。
部屋を出ようとしたとき、ふと一つ、大事なことを思い出した。
学生にとっては無縁の話なので、危うく忘れるところだった。
「アイネ、給料のことって、どうなるんだ?」
「無いよ。当面は試合の賞金を、運営資金や諸費用を差し引いた残りから分配する形になるね」
……は?
「うち、スポンサーも助成金もまだないの。私の賞金も、クラブハウスの頭金でほとんど消えちゃった。分割払いの設備費もあるし、しばらくは給料を出す余裕なんてないよ」