2. アイネ・ブリギッド
扉を開けた瞬間、目に飛び込んできたのは、“炎”だった。
真っ先に視界に映るのは、燃え盛るような赤い髪。白い大理石に埋め込まれたルビーのような瞳。そして、全身から放たれる圧倒的な気配。
ただそこに座っているだけなのに、部屋全体が焼き尽くされそうな錯覚を覚える。
「久しぶりだね、シンヤ」
机に腰掛けた彼女は、行儀悪く足をぶらぶらさせながら俺に笑いかけた。
「……ああ、久しぶり」
できるだけ平静を装って、俺は挨拶を返す。
そんなやりとりをよそに、アイネは俺の背後にいるイザベラに視線を向けた。
「やっほー、イザベラちゃん」
「やっほー、アイネさん」
ふたりは楽しげに手を振り合った。
……どうしてそんなに仲がいいんだ?
聞きたいことはいくらでもある。けれど、今の俺には、その余裕がない。
言いたいことも、聞きたいことも山ほどあるのに、言葉が出てこない。
あの日いきなり現れて、俺の人生をひっくり返して、そして同じようにいきなり姿を消した少女。
今、目の前にいる彼女に、どんな言葉をかければいいのか、俺には分からなかった。
アイネ・ブリギッド。俺の元同級生。
ジェノア学園では、高等部からの編入例は稀だが、ゼロではない。
その中で《競技》特待生としてスカウトされる者なら活躍して当然。誰も驚かない。それが“普通”だ。
だが、アイネはその枠に収まらなかった。
編入当時の彼女は、まるで野生児だった。
通常、特待生はある程度の実績を積んだ上でスカウトされてくるものだが、アイネにはそれが一切なかった。
彼女は《競技》の基本も常識もまったく知らなかった。一般入学の新入生以下の知識量だった。
俺はそんな彼女の教育係に任命された。
当然不満があった。なぜ俺が、完全な初心者に一から教えなきゃいけないのか。
ルールの説明から、ようやく初めての手合わせに至るまで――
俺は、完膚なきまでに叩きのめされた。
負けること自体は初めてじゃない。子供の頃から大人とスパーリングしていたし、チームの先輩に負けたことも何度もある。
だが、アイネは三日前までルールすら知らなかった。
まぐれなんかじゃなかった。それは、俺自身が一番よくわかっていた。
同い年の相手に、まったく勝てる気がしない――そんな感覚は初めてだった。
その後も、俺は一度としてアイネに勝てなかった。
それは、他のチームメイトも同様だった。
誰ひとりとして、彼女を打ち負かした者はいなかった。
圧倒的なパワーとスピード。
最初こそ荒削りだったが、彼女はみるみるうちに上達し、あっという間に目を疑うような技を見せるようになった。
それでいて、持ち前の情熱を失わず、野生のような荒々しさを自由奔放な強さに昇華させていた。
そして、彼女の頭は決して悪くなかった。むしろ逆だ。常に他人の二、三歩先を読んで行動していた。だからこそ、常識や既成概念に縛られることなく、凡人には理解できない動きを自然にやってのける。
野生児に見えたのは、彼女の思考があまりにも自由すぎたからだ。
俺はずっと“天才“と呼ばれてきた。だが、アイネを見て初めて、“本物の天賦の才”というものを思い知った。
俺は中等部一年からジュニアチームを飛び越え、シニアチームのスタメン入りを果たした。中三になる頃にはエースとして認められていた。
これからの三年間も、このチームはずっと俺が引っ張っていく。そう信じて疑っていなかった。
――アイネが現れるまでは。
ほどなくして、チームの中心はアイネになった。
当然と言えば当然だ。個人戦で鮮烈なデビューを飾った彼女は、そのまま団体戦でもスタメンに名を連ねた。
そして、俺たちは二つの事に気付いた。
一つ目。彼女は、団体戦に致命的に向いていない。
傍から見れば、アイネに協調性がないと思うかもしれないが、実情は少し違う。
どっちかというと、俺たちが彼女に合わせられなかったのだ。
アイネにとっては、他人に合わせるより、自分で全部やったほうが早い。それだけの話だ。
二つ目。それでもなお、彼女はラインアップから外せない存在だった。
競技場でただ一人、圧倒的な存在感を放ち、すべてを巻き込む。
彼女がいるだけで、味方も敵も、試合そのものの空気が変わる。
チームバランスが崩れていようが、監督が彼女を起用せざるを得ないのは当然だった。
エースの座がアイネに移ったことで、俺がスタメンから外れた――わけではない。
彼女にどうにかついていける数少ない選手として、俺は試合に出場し続けた。
ただ、それまで真っ先に俺のもとへ挨拶に来ていたスカウトたちは、まずアイネに声をかけ、そのあとで俺に目を向けるようになった。
自分の立ち位置を取られたことに、何も感じなかったわけじゃない。
だが、文句を言うつもりはなかった。《競技》は実力の世界だ。
そして、アイネの実力は誰も文句の言えないほどに圧倒的だった。
だが、どれほど突出した個人技を持っていても、一人でできることには限界がある。
超人に見える彼女もまた人間だ。疲れるし、波もある。
特にアイネはむら気が強く、調子の上下が激しかった。
彼女のコンディションが悪い日には、チーム全体の脆さが露呈する。
さらに、他のチームも必死だった。
アイネの動きを徹底的に研究し、対策を練り上げ、複数人がかりで彼女を封じにかかった。
せっかちな性格を見抜かれ、揺さぶりをかけられ、あの手この手でアイネを抑え込もうとした。
その年、アイネは個人戦では全勝を貫いた。だが、団体戦では前年制したリーグで2位に甘んじ、代表選手権大会には出場したものの、三回戦で姿を消す結果となった。
そのオフシーズン、俺たちはチームを一から叩き直した。
すべては、アイネを軸に据えるために。
彼女の動きに少しでもついていけるように――せめて、足を引っ張らないように、俺たちは血のにじむような日々を過ごした。
アイネも、アイネなりに俺たちとの連携を取ろうとしていた。
けれど、わかっていた。
――アイネは自由に動けるときがいちばん強い。
それは俺たち全員の共通の認識だった。
俺たちの戦術はすべて、アイネを前提に組み立てられた。
それに伴い、俺は三年生たちを差し置いて、キャプテンに指名された。
「少しでもアイネの手綱を握れるのは、お前だけだから」
先輩たちはそう言った。
アイネの手綱を握る――それがどういう意味なのか、本当に俺にそれができていたのか、正直わからない。
ただ、結果だけ見れば、俺たちは間違っていなかった。
翌年、チームは快進撃を続けた。
アイネは個人戦の連勝記録を更新し、団体戦でも俺たちは破竹の勢いで勝ち進んだ。
彼女の力を最大限に引き出すこと――それが俺たちの戦い方だった。
チーム一丸となって彼女を支え、アイネもその期待に応えた。
ジェノア学園はシニアリーグを圧倒的な成績で制し、代表選手権大会でも、アイネの爆発的な活躍によって優勝の栄冠を手にした。
自分を抑えてでも、彼女に合わせる価値があった。
来年もアイネがいれば、このチームはまだまだ強くなる。
そう、誰もが信じて疑わなかった。
その矢先――アイネが退学届を提出した。
全員が耳を疑った。
アイネが将来的にプロ入りするのは、ほぼ確実視されていた。
だが、高二で退学したところで、すぐにプロクラブと契約できるわけではない。
競技連盟の規定で一年の猶予期間を置かないと契約が結べない。
来年まで待てば、アイネは間違いなく引く手あまただろう。
なぜ、そんな選択をしたのか?
そこまでして、このチームから離れたかったのか?
――俺たちは忘れていた。
アイネが、誰の予想通りにも動くはずがない存在だということを。
数ヶ月後、アイネが|イズモソロ競技チャンピオンシップ《ISAC》で優勝したというニュースが飛び込んできた。
ISAC――都市レベルの個人戦大会としては、最大規模のひとつだ。
一応、クラブに所属していなくても出場は可能だが、そういう参加者の多くは、お祭り感覚のアマチュア。予選を突破するのも稀で、本戦出場などは夢物語に等しい。
実際に勝ち上がるのは、ほとんどが強豪クラブに所属する選手たちだ。
アマチュア選手にとっては、プロと戦える“おまけ”の機会にすぎない。
そんな中で、アイネは次々と強豪クラブ所属の有力候補を打ち破り、頂点に立った。
その後も、アイネの快進撃は止まらなかった。
ISACだけにとどまらず、複数の公式大会を制し、気づけば都市ランキングの上位に食い込んでいた。
そして、連盟が主催する昨年度の表彰式。
彼女は最優秀新人賞を受賞した。
しかも、クラブ無所属での受賞は前代未聞だ。
連盟は、アイネのために規則を改定するという異例の対応をとった。
彼女は、個人戦に専念するつもりなのか。
フリーという立場を貫く気なのか。
あるいは、高三に進学するよりも一年早くプロへの足がかりを築き、この一年間の実績を武器にクラブと契約するつもりなのか。
どちらにせよ――
俺たちは、そういうものだと、自分たちを納得させるしかなかった。
俺がキャプテンを務めるジェノア学園は、アイネが去ったことで大きな穴が開いた。
二年間、アイネに頼りきりだった俺たちは、“普通”の戦い方を、一から学び直さなければならなかった。
選手層はもともと厚かったから、負け越すほどではなかった。
だが、どれだけ奮闘しても、最後までチームは噛み合わず、成績は期待を大きく下回り、代表大会の出場権を逃した。
負ければ、空気が悪くなるのは当然だ。
そして、アイネに対する不満が、各所から漏れ始めた。
ある者は、アイネがチームを捨てたと責めた。彼女さえいれば、優勝できたはずだと。
ある者は、アイネの存在がチームバランスを壊したと嘆いた。
――うちはもともと代表常連校だったのだから、彼女が来なければ、ここまで崩れることはなかったと。
そしてある者は、アイネに合わせるために自分を抑え込んできたことに対して、抑えきれない怨嗟を吐いた。
ジェノア学園は強豪だ。俺の世代にも、プロを本気で狙っている選手は何人かいた。
そんな中で、二年間もアイネの脇役として使われ、三年になった途端にチームが崩壊し、代表大会への出場も逃した――
スカウトにアピールする見せ場を失ったと思えば、不満を口にしたくなる気持ちも、わからなくはなかった。
俺の耳に届く範囲では、そういった愚痴を静めてきたつもりだった。
だが、裏で何が語られているのかは、分かっていた。
彼らの言い分も、まったく理解できないわけじゃない。
でも、俺に言わせれば、それは筋違いだ。
アイネに頼ると決めたのは、俺たち自身だ。
そして、アイネが去った後に勝てなかったのも、俺たちだ。
彼女に不満をぶつけるのは、ただの甘えに過ぎない。
チームが結果を残せなかった責任は、主将の俺にある。
もちろん、彼女がいなくなったことは大きな要因だ。
だが、それを言い訳にするつもりはない。
彼女がいなくなってからの一年間、チームだけではなく、俺自身の調子もどこか噛み合わなくなっていた。
まるで、アイネに追いつこうと必死に張り詰めていた糸が、ぷつりと切れたかのように。
理由はどうあれ、この一年は、俺にとって最も伸び悩んだ時期だった。
自分のパフォーマンスには納得できない。
主将として、周囲に目を配る余裕がなかった。
物心がついて以来、初めてだった。
自分が《競技》選手として、このままでいいのかと疑問を抱いたのは。
本当に、プロとしてやっていけるのか。
……いや、それ以前に。
俺は、このまま《競技》を続けたいのか?
そんな思いが胸をよぎった、まさにそのとき――
アイネからの誘いが届いた。