1. 私、旅に出ますわ!
「決めた。私、旅に出ますわ!」
声に出した瞬間、空気が少しだけ揺れた気がした。
目の前に立つお目付け役――カクペル・エルズワースが微かに驚いたようにまばたきをした。
ああ、とうとう言ってしまった。びっくりさせてしまったわ。
その表情を見て、私はほんの少しだけ満足感を覚える。幼少期からずっと私のそばにいる彼は、滅多に感情を表に出さない。だから、たとえまばたきが一瞬頻繁になった程度でも、彼が平静を崩すのはそれほど稀なことだった。
「殿下、それは如何様な御心でしょうか?」
一拍置いて耳に届いた声は、低く落ち着いている。だが、その裏には冷静さを保とうとする努力が見え隠れしていた。彼が抱いている困惑を感じ取りながら、私は意識して明るく答える。
「城を出て、この国の隅々を見て回るのですわ。私は自分の足で歩き、目で見て、耳で聞きたいのです」
私は窓辺に歩み寄り、外を眺める。2年前の誕生日、15歳の節目に与えられた執務室の窓から見る景色は、どこか絵のように感じられた。王城は首都の中心部に位置しているが、人々の営みを見るにはあまりにも遠すぎる。広場の賑わいや市場を行き交う荷馬車の音、商人たちの声。そのすべては、私にとってただの概念に過ぎない。
私は生まれてからずっと、城の中だけで育ってきた。王位継承者として、誰よりも厳しく守られる存在だったからだ。箱入り娘と呼ぶには過剰なほどの保護。しかしそれも理解できる。私はイエローゲート朝ミトレウス王国の王位継承順位第一位、ルキエラ・ミシェル・マリア・イエローゲートなのだから。
次期女王となる人間が外に出て何かあっては一大事だ。ならば決して狭くはない城内で安全に過ごすのがよいだろう。それはわかる。それでも
「国を治める立場の人間が実際の国を見たことがないなんて、あまりにもお笑い種ではありませんこと?」
「殿下……」
「ごめんなさい、貴方を責めるわけではありませんの。貴方は不自由な身の上である私のよき『同年代の友人』をつとめてくれていますし、家庭教師や魔術のお師匠様も、私を熱心に導き、寛大なる愛をもって接してくださいました」
「…………」
「それでもやっぱり、机上の知識ではなく、血肉の通った経験をしてみたいの――――」
ここまで話したところでカクペルが黙り込んでしまっていることに気が付いた。その態度から彼が慎重に言葉を選んでいるのを読み取り、私は少し焦りを覚える。重い雰囲気になりすぎたかもしれない。
「うふふ、即位前ならこんなわがままも許されるかしら~と思ったのだけれど、いけないかしら?」
つとめておちゃめに、彼の「いけないに決まっているでしょう」という返答を期待しておどけて見せる。
するとこちらの期待通りに彼は「いけないに決まっているでしょう」とため息まじりに――それでいて表情は氷のように変わらないのだが――言葉を返してくれた。
「次代を担う王女が城を離れるなど、不測の事態を招く可能性を考えればあまりにも軽率です」
「それなら心配無用ですわカクペル。私には魔法がありますもの」
彼の言葉を遮るようにそう言うと、カクペルはまた短く息をついた。彼の鋭い視線が刺さる。常人では委縮してしまうだろうこれも私には通じない。
「万一のときには自分を守る術くらいありますわ」
私は微笑みながら続けた。けれど、その微笑みもまた彼には通じなかったようだ。カクペルは腕を組み、さらに厳しい表情を浮かべた。
「殿下、確かに貴女は一流の魔法使いでいらっしゃいます。しかし、魔法が万能ではないことはご存知のはずです。魔術を無効化する術式や、殿下以上の力を持つ者が現れた場合どうされますか?」
その言葉には、一切の迷いがなかった。自分で言うのもなんだが、私は国内では指折りの実力を持つ魔法使いでもある。それでも、現実を見据えた上での警告を怠らないのが彼らしい。
「確かに魔法には限界がありますわ。でも、それでも私は行きます。統治者とは、民と同じ目線で同じ世界を見、知る者でなければいけないと、私はそう思うのです。」
カクペルが息をのむ。
「それでは殿下――」
「何ィーーッ!? 愛しく美しく賢明な私のルーちゃんが、旅に出るだとォーーー!!?」
バン! と扉が大きな音を立てて開かれる。
突然ものすごい勢いで部屋の中に滑り込んできたのは私の父――ミトレウス王であった。
「陛下……!」
反射的にカクペルが膝をつく。
厳粛な態度で迎えられた当の本人は驚きと困惑が入り混じった表情で立ち尽くしている。これでは強烈な親バカ親父にしか見えない。
「お父様、いきなり大声を出さないでくださいませ」
「大声も出るとも! そろそろルーちゃんをおやつに誘おうと思って来てみたら、まさか城を出ようだなんて、誰がそんなことを吹き込んだのだ!」
「誰も唆してなどおりませんわ。これは私自身の考えです」
私はきっぱりと言い切った。すると、父は大げさに頭を抱え込んだ。
「おおルーちゃん、自立心が旺盛なのは良いことだが、それだけはダメだっ!」
「お父様、どうか聞いてください。私はこの国を治めるために必要なことをしたいのです。書物や講義だけでは、この国の本当の姿を知ることはできませんわ」
「この期に及んでそんな必要はないだろう! お前は帝王学はもちろん、古典や音楽、政治や財政、歴史、地理、その他諸々この国で学べる教養や学問を優秀な成績で修めてきたではないか! そこから市井に出たとて何を学べると……」
「僭越ながら陛下」
私は父の言葉を遮るように、一歩前に進んで静かに語りかけた。
「何かを形として持っているだけの状態は、それを本当に所有していると言えるのでしょうか」
父が一瞬戸惑いを見せた。その隙を見て、私はさらに言葉を重ねる。
「たとえば落とし物をしたとします。そして偶然にもそれを拾ってくれた方が眼前に現れ、自分が持ち主だと主張する機会を幸いにも得られたとしましょう。しかし、その形や色、大きさだけを覚えていても、もし手触りや細かい傷、ディテールについて語りえなかったならば、その物が本当に自分のものであると認めてもらえない場合もございますでしょう? なぜなら、形や色、大きさなどは、持ち主でない誰かでも調べて答えを導き出せる表面的な情報ですもの。つまり、ある物の所有を万人に認めさせるためには、それに対する独自の見識を備えていることが重要なのです」
父が目を細め、こちらを見つめる。その反応を確認しながら、私はさらに言葉に力を込めた。
「国家の統治に関しても同様ですわ。私は城の中だけで学び、この国の土地や民を知らぬまま王になろうとしています。しかしそれでは、単なる相続によって国家を所有していると主張する、愚かで脆弱な支配になってしまいます。真にこの国を守り、導くためには、その中身や細部を肌で感じ、人々と触れ合う必要があるのですわ」
しばらくの沈黙が流れた。父の表情には迷いが見える。私は、最後にもう一つだけ訴えかける。
「陛下、この国を愛し、次代を担う私には、この国の現実を知る責任があります。そしてそれは、未来のために必要な一歩なのです」
その言葉に、父が視線を少しだけ下げた。そして、深く息をつきながら静かに口を開いた。
父は私の言葉を聞いて一瞬動きを止めた。そして、じっと私を見つめる。その目には葛藤が見て取れる。父親として私を守りたい気持ちと、王としての判断をしなければならない責務。その間で揺れ動いているのがわかる。
「ルーちゃん……いやルキエラよ、そなたの申すことはわかる。だがしかし、やはり安全を考えると――」
「陛下、謹んで申し上げます」
カクペルが父の言葉を遮った。その姿勢は毅然としており、まさに王女の忠臣たるにふさわしいものであった。
「その件に関しまして、拙考を奏上する機会を賜りたく存じます」
「ほう、何だカクペル。申してみよ」
父が腕を組み、見定めるようにカクペルに視線を向ける。
「殿下には修道女として仮の身分を名乗っていただき、私自身も武装修道士として護衛を務めさせていただくという条件で、殿下の出立をお許しいただけないでしょうか」
「カクペル、貴方……!」
驚いてしまった。まさか彼が私の旅立ちを応援し、同行するとまで言ってくれるなんて。
父は目を細めてカクペルをじっと見つめる。その間、部屋の中は張り詰めた沈黙に包まれた。やがて、父は大きく息を吐き、重々しい声で口を開いた。
「ふむ、ときに貴公は騎士修道会の所属であったな。……修道女と武装修道士、か。それならば確かに目立つことなく移動することができるであろう。だが、それでも安全が保証されるわけではないであろう」
「殿下は魔法の腕前において他に比類なき実力をお持ちです。それに加え、私も騎士としての責務を全うし、命を賭して殿下をお守りいたします」
カクペルの言葉には一切の迷いがなかった。それを聞いた父は、しばらく何かを考え込むように沈黙した後、ようやく頷いた。
「よかろう。ただし、これだけは肝に銘じておけ。王女に――ルーちゃんに何かあれば、貴公の首が飛ぶだけでは済まぬぞ!」
「心得ております」
カクペルが深々と頭を下げる。それを見て、父はようやく少しだけ表情を緩めた。そして、手を叩いて近衛兵を呼びつけた。
「宝物庫を開けよ。儀式剣を用意するのだ」
しばらくして運ばれてきた箱が開かれると、中から美しい装飾が施された短剣が現れた。その剣は、王家に代々伝わる儀式剣だった。
「ルーちゃん、これを持って行きなさい。守り刀のようなものだが、宮廷魔術師が言うには、これには魔法が込められているらしい。その詳細はまだ不明というが……いざというとき、これがお前を守ってくれるだろう」
父は慎重に剣を手に取り、私に手渡した。その冷たくも重みのある感触が、父の深い想いを手を通じて伝えてくる。それは、身分を隠す旅路にあっても、この剣を携える者として王家の誇りを胸に刻み続けよ、という無言の教えだった。
「ありがとうございます、お父様。この剣、大切にいたします」
私が深く頭を下げると、父はしみじみとした表情で頷いた。
「ルーちゃん、気をつけて行け。父はいつでもお前を応援しているぞ」
その言葉を胸に刻み、私は儀式剣を腰に携えた。
(ああ、私の冒険は、今ここから始まるのね)
窓から流れ込んだ一筋のやわらかな風が私の体を包む。
それは、新たな旅路への祝福のようだった。
ルキエラの一人称は「私」と書いて「わたくし」と読んでます。