全てについて
おどろよタンゴって感じの夜だった。三つ数える前に、天国!!
『この小説が書かれた季節と一文目の内容から、筆者はタンゴに対して何か重大な勘違いをしていることが分かる。』そんなつまらない批判内容をかき消すようにして、画面上部から絞り出されたケチャップがドアップで盛りつけられるシーン。カメラを引いていき、ケチャップの持ち主であるその女はなんだかとても低血圧な顔をしていた。新品だった一本を丸々空にしてしまう。その瞬間まで実につまらなそうな表情をしていた。
僕はというと、部屋ででかい蝿と格闘していたんだ。両手にクイックルワイパーを構えて、ひたすらに大蝿とのにらみ合いが続く。蝿の目には黒い部分がないせいか、あまり睨まれている感じがせず、むしろ口元の触覚の向きによって睨まれていることを直感させられていた。だがそうであっても、人間である僕はどうしても慣習的に、眉間を睨み続ける以外に、相手を睨みつける方法を知らないのだった。そしてクイックルワイパーの柄を強く握りしめる。果たしてその効果があったのか無かったのか、僕と大蝿との静かな格闘は永遠のラッピングを施されたあと日の沈む地平線の彼方へと部屋ごと弾き飛ばされてしまった。
ケチャップの低血圧の女の元へ戻る前に、僕にはどうしても寄っておきたい場所があった。後回しにしてもいいのだけれど、念のため寄っておこうという話に僕を含めた二者は落ち着くと、月のでかい午後11時にレンタカーのエンジンを始動させる。ケチャップの低血圧の女に会う際にはできる限りの注意を払っておく必要がある。だから今ある心残りを無くしておくことで、女と対峙したときの僕らが生存している確率が少しでも高まることを期待していた。半ば投げやりな気持ちが、僕を含めた二者間にムードとして漂って、車内はカーラジオから流れる音だけが頼りだった。
待ち合わせは小さなガソリンスタンドの側で行われた。僕は車を任せてガソリンスタンドの方へ向かうと、すでに明かりの中で相手が待っていた。僕は勇気を振り絞り、かつての恋人へ自分から声をかける。
「ひ、久しぶり。」
ここで記憶は途切れ、再び意識が戻ったのは頬に残っている痛みが開いた窓から入る外気によって冷却されるころ、僕は月明りだけの暗い部屋で絨毯の上に倒れていた。酷いほど重くなった手足を曲げることすらままならず、自分の慎重な呼吸音と恋人の遠くでぼやくような声だけがそっと耳に入りこんでくる。「はーきしょ。ほんと嫌悪感えぐ。もう帰るからお前もてきとうに帰れよ。」ドアの閉まる音を確認したあと、僕はこのまま少し眠ろうと目を閉じた。
僕がガソリンスタンドで車を降りてから戻ってくるまでにどのくらいの時間が経ったのかは分からないが、部屋を出てみると駐車場に停まっている一台の車がヘッドライトを照らして反応をくれた。すでに向こうも用事を済ませてきたあとらしい。僕はすぐさま助手席へ乗り込む。カーナビで目的地をケチャップの低血圧の女に設定する。今僕を含む二者の間は深夜にしかあり得ない静かな活気によりわずかだが揺れている。僕らは車の進行方向をアスファルトの直線道路から徐々に吊り上げ、単なるレンタカーでは到底不可能な自由飛行を駆使し、女の待っている月へと秒単位で加速しながら向かっていった。ケチャップの低血圧の女。月面にはファミレスの明かりが灯っていた。
12/10 誤字報告を受け修正しました。感謝です。