5.理解(2)
よろしくお願いします。
「あー…やっちゃったなぁ…」
自室のベッドにて、エレアノールは落ち込んでいた。布団を頭まで被り三角座りの反省スタイルである。
言ってしまった。レイノルドに。言う気はなかったのに。
正直なところ、少年への言葉に偽りはなかった。少年は無愛想だし、不遜だし、言うこと聞かないし、自分が一番偉いと思っているような人間だ。少女の言葉も馬鹿にされたから怒っただけで、自らの行動を省みようとはしないだろう。
けど、そういう話じゃないのだ。完全に八つ当たりだった。母に叱られてカッとなってしまった。自分はこんなにも忍耐力がなかったのかと呆れてしまう。母のお叱りなんて適当に聞き流せばよかったのに。あんなのいつものことじゃないか。その怒りをレイノルドに向けるなんて論外だろうよ。
それに、こういった事は思っていても口に出すべきじゃないと思う。時間の無駄だとか、教える価値がないだとか。
そういう言葉を口に出すと、そういう人間になってしまうような気がする。言葉が実体を持って変質させそうな。刹那的に感じていた感情に囚われてしまいそうな。言語化できる感情が正解のような気がして、自分の中でそれが真実であると認めてしまう。目が曇り、本質が見えなくなる。それはとても愚かな行為だと思う。
だからこそ、エレアノールは落ち込んでいた。未熟な精神が露呈してしまったことを。感情を制御しきれなかったことを。
「……はあ。気分が悪い」
エレアノールはため息をついて不貞寝を決め込んだ。
あれからエレアノールはレイノルドへ話しかけることはなくなった。元々『あまり見ない』『あまり近付かない』『あまり話しかけない』の三原則を守って行動していたため、母の指令を受ける前に元に戻っただけ。
それなのに、なんだか居心地が悪かった。少年はいつも通りの無表情なのだが、母が申し訳なさそうな顔をする。母が面倒を見ろなんて言うから会話していただけで、いつも会話はしない。別に仲が悪くなったわけではない。
母は『確かにレイノルドはエレアノールから学んでいた』と言う。そして今はそれが全くない、と。そういえば趣味の道具を放置して離れることはなくなった。少年の視線を感じても動作を遅くすることもない。母にとっては息子がはしたない遊びをしなくなるのだから、喜んで然るべきではないか。なぜ、気まずそうにするのだろう。
ああ、居心地が悪い。とても。
きっと謝るべきなのだろう。この鬱屈とした感情を晴らすためにも。屋敷の中に漂う心地悪さを消すためにも。少女が謝れば丸く収まる。あの時みたいに少年を気遣えばいい。
そしてーーーまた母に言われるがまま少年の面倒を見ればいいのか?
……本当に?
エレアノールは公爵家敷地内にある図書館で読書をしていた。
図書館の中はとても静かだ。人の気配が一切なく、陽の光もあまり入ってこない。蜜蝋の揺らめく炎に照らされた本を読んでいると時間の感覚が曖昧になって、まるで世界に自分しかいないような気がしてくる。
部屋の隅の定位置に好きな本を並べて、心の赴くまま読み耽る。空想の世界に身を任せる。瑞々しく匂い立つような文章に心を躍らせる。少女は誰にも邪魔されないこの時間が一等好きだった。
しかし、今回ばかりは集中できそうもなかった。頭の中を占めるのは冒険譚や学術書ではなく、形容し難い感情の曇りだ。後悔、怒り、焦燥感ーーー。内まぜになった感情で落ち着かない気分だった。
少女は今まで喧嘩というものをしたことがなかった。同年代の人間が周囲にいないこともあるし、使用人達はエレアノールに従うばかりであった。唯一少女が怒りをぶつけた相手ーーー『あの声』は、いつも少女を揶揄うばかりで喧嘩すらさせてくれなかった。
経験値が圧倒的に足りない。感情の整理も、謝り方も、立ち回り方も。何もかもが足りない。
少女は少年に謝りたいのかも分かりかねていた。自身の心の澱みを打ち消したいだけであって、少年に対して罪悪感はない。あの言葉は本心であったし、言われるようなことをする相手が悪いと思う。しかし、周囲へのパフォーマンスと自己満足のために少年へ謝罪するのはあまりにも誠意がないだろう。
少女はぱたん、と本を閉じた。蜜蝋の揺らめきをぼんやりと眺める。なんだか迷路に迷い込んだ気持ちだ。背もたれからずりずりと体勢を崩して浅く腰掛ける。胸に抱いた本の重みが心地良い。古書特有の古っぽい土のような、燻製じみた香りがする。
このまま寝てしまおうか。何もなかったあの頃を思い出して。そして目を開けたら、あの頃に戻っていないだろうか。少年がいない、あの日々へ。
「おい」
「……エ゛ッ?!?!」
思ってもいなかった声に少女はギョッとしながら目を開けた。蜜蝋の灯りに照らされるのは、ほんのりと橙に染まった銀髪。影から覗くアイスブルーの瞳。傷一つない白磁の肌に、鼻から首にかけて覆われた包帯。恐ろしいまでに整った顔が、少女を見下ろしていた。
「レっ、レイノルドさん?!」
「煩い。叫ぶな」
「は、ハイ。すみません…」
ドキドキと跳ねる鼓動を押さえながら、少女は辛うじて返事をした。
びっくりした。目を開けたらとんでもない美形がいた。しかも至近距離に。少女はひとりっ子のお嬢サマなので他人に驚かされる事もなければ、身じろぎ一つで触れてしまいそうな距離に異性がいる事もなかった。心臓の音が聞こえないか心配になる。
本来であれば気不味いはずであるのに、インパクトが強すぎて全て吹き飛んでしまった。
ただ呆然とする少女を無視して、少年はとあるものに目を留めた。少女の腹に鎮座する古書である。
「何を読んでいる」
「え…あ、ああ。これは守護竜と王家の物語ですね…?」
「竜……」
少年は呟くような声で言葉を繰り返す。あまりにもジッと見つめるので、少年に古書を差し出した。アイスブルーの瞳が文字を追う。ほんの僅か眉を顰め、ぱたりと本を閉じた。
「絵がないな」
「そうですね。こちらは児童向けではないので…えっと、これなら挿絵があると思います」
手を伸ばして整然と並べられた本棚から一冊の本を抜き取る。児童向けの童話集だ。平民の間で語り継がれた物語を書き連ねた本で、その中にも『守護竜と王家の物語』が収載されている。
少女はだらけきった体勢を戻して、机に本を広げた。覗き込む少年にも見えるように体を傾けて本を捲り始める。初めの挿絵が出てくると、少年は目を瞬かせた。
「なんだこれは…」
「これは極東の竜ですね。蛇のような体に足が付いた生き物で描かれることが多く、私たちが知っている竜とは異なる存在だと言われています。ついでに私たちの国では…えっと、このページの…これ。こういう感じでトカゲのような体に羽が生えた生き物として描かれています」
少女の言葉を聞いているのか聞き流しているのか。少年はまじまじと絵を見て首を捻る。また本を捲り、挿絵の部分で手を止める。透き通る瞳からは感情が読み取れないが、挿絵を追っているのだけはわかった。時折首を捻るのは自身が考える竜と合致しないからだろうか。この本には竜以外の空想の生き物が載っているので当たり前のことなのだが、少年はわかっていないようだった。
少年の行動に違和感を覚えて、思わず顔を凝視する。視線に気づいた少年は微かに眉を顰めた。
「……なんだ」
「いえ、あの…もしや字が読めない…?」
「だからなんだ」
じろりと少年が睨みつける。なんとなく、そうだと思った。意味がないからやらないとか言ってた少年の事だ。字が読めなくてもおかしくない。けど、そうなると…なんだ。レイノルドという少年は。
「レイノルドさんって本っ当に何の知識もないんですね…?」
「……」
「アッいや、すみません。違うんです。バカにしたわけじゃないんです!ただの事実確認というか!純粋に感心してしまったというか!!」
「煩い」
「スミマセン」
完全に口が滑った。まさか公爵家の養子になる人間が本当に何の知識も持ってないとは思わなかったのだ。完全に気を抜いていた。
顔を青くして謝る少女に、少年はふんと鼻を鳴らす。謝ったら許してくれるんだ…。寛大な心をお持ちのようで…。
想像よりも少年は無学なのかもしれない。勉強が出来るわけでもなければ、剣術が出来るわけでもない。マナーも良くないし、常識外れな行動を取る時もある。前から浮世離れしていたが、正しく現実から離れたところで育ったような違和感があった。
しかし…まあ、浮世離れしていようが感性は同じだろう。少女はそろりと膝の上の古書を取り出す。挿絵のない『守護竜と王家の物語』だ。これを読めば読書の楽しさを感じてもらえると思う。
「試しに『守護竜と王家の物語』を読んでみませんか?初めて触れる文学がこの本だと嵌まっちゃいますよ」
少女は子供らしく童話から文字を学んでいったが、この本を読んだ時は本の常識が覆った。文章とはここまで美しく表現できるものなのかと驚いたものだ。
これが読めるようになれば大体の本は読めるようになるし、本の魅力もわかるようになる。一石二鳥じゃないか。うんうんと頷いていると、少年が無表情のまま吐き捨てた。
「俺は読まない」
「え、何故ですか?」
「必要ない」
「ほんとに?」
思わずありえないものを見るような目で見てしまう。この本を味わわずして何を読むというのか。いや、読まないのか。…え、今後一生?一回も読まずにして??勿体なすぎないか???
興味なさそうな顔をする少年に、追い縋るような気持ちで言葉を重ねた。
「私は是非レイノルドさんに読んでもらいたいです。守護竜が大空を駆ける光景を。香り立つような森林の描写を。火花が散る騎士と騎士の戦いを。鮮やかで緻密で大胆なこの物語を、ぜひ楽しんでほしい!」
頼む読んでくれ。感想を語り合いたいなんて大層な事は言わない。とりあえず読んでくれ。マジで。お願い!
「俺は、読めない」
「読めるまで付き合います。寧ろ付き合わせてください。なんなら朗読でもいいですから。私読みますよ全然。寝物語にしてくれてもいいです。部屋まで行きます。読ませてください!」
「いらん。寄るな鬱陶しい」
「そ、そんなに嫌がらなくても…」
少年はきらきらとした目で懇願する少女に顔を顰めた。普段はスンとしているのに、今ばかりはめちゃくちゃ嫌そうな顔をしている。こんな顔初めて見た。こんなはっきりと表情を変えられるんだと驚く一方で、よりにもよって初めて見た顔が拒絶顔って…。なんだコイツ…。
少年は机を囲うように配置された本棚を見上げて、ゆっくりと歩き出した。本の背表紙をなぞり、紋様じみた文字列を眺める。図書館の空気を胸いっぱい吸い込んで、ほうと息を吐いて。蜜蝋の灯りが少年の影を揺らした。
天窓から差し込む月明かりが銀の筋になって、ぼんやりと辺りを照らす。幻想的な光景を背にする少年は月の精と見紛うほど美しかった。少年の指先の動きが、ゆったりとした歩き方が、儚げな輪郭が、全てが浮世離れしている。
少女は息を詰めて少年を見つめる。清廉な空気が辺りを支配して、身動き一つできない。ただ、少年が本に触れる姿を見つめる。
少年と目が合う。澄み切った氷の世界を切り取ったかのような、幻想的な色彩。包帯に隠れた唇が、中性的な声音を紡いだ。
「お前にとってマナーとはなんだ」
「エッ、今このタイミングでその話を?!」
まさかこのタイミングでデリケートな話題を出すとは恐れ入る。少年相手でなければ恥も外聞もなく「うるせぇ〜!!!」と叫びながら逃げただろう。
「い、いま話さないとダメですか…?」
「……」
「アッ、ダメですよねちょっと待ってくださいね」
少女はくちゃと顔を顰めた。もやもやとした感覚が体から込み上げる。この話、普通に嫌だからやめにしない?本の話しない?だめか。
言葉を慎重に選んで、語弊がないように。静かに返答を待つ少年に答えた。
「……他人を不快にしないルールですね」
少女の答えに少年が不快感を露わにする。僅かな怒気を含んだ声で吐き捨てた。
「不快にさせておけばいいだろう」
「わざわざ面倒事を増やしたくないでしょう?何処にでも文句を言う人っているんですよ。何故そんな人にいちいち時間を取ってあげないといけないんですか」
前の食事を例に挙げるとわかりやすい。母は少年のマナーが不快だったから指摘した。きっと直るまで指摘され続けるはずだ。なんて煩わしくて無駄な時間だろうか。事前にマナーを守っていれば避けられただろう。
「それに、」
少女は言いかけて、口を噤む。少女にとって最も大切なことだが、少年の怒りを買いそうだと思った。
少年が静かに言葉を待つ。ああ、言うしかないのか。少し言い澱みながら、しかしはっきりと言葉に出す。
「私は人に侮られるのが許せない。それが自らの報いであれば尚更、自分すら許せないと思う」
少年の目が僅かに見開く。
「私にあしらわれたから怒ったのでしょう」
「……」
「マナーはこういう態度を取られないための手段だと思っています」
同じ知性ある人間として。意思疎通ができる相手として。相手を不快にさせず、自分も不快な思いをせず、楽しくコミュニケーションを取る。マナーとはそういうものだと思う。そして、それは一つ一つの意思、一つ一つの所作から育まれると信じている。
「そうか」
少年が小さく呟くと、視線を落として沈黙する。自分の考えとは全く違う意見を咀嚼しているらしい。少年の思考を邪魔しないように、少女も口を閉じる。
蜜蝋が微かな音と共に大きく揺れて、燭台に炎が落ちる。月明かりが少年の表情に影を落とし、淡いシルエットだけが残った。一つ、また一つ。蜜蝋から灯りが消える。月明かりだけが濃く、舞台じみた光が少年を照らす。
こつり、こつり。静かな足音だけが図書館に響く。同じ目線に揃う少年の瞳は群青の孤独が透けて見えた。
「お前は傲慢だ」
苦い、苦い声だった。ちっぽけだと思っていた存在は多くのしがらみの中を思うがままに泳いでいる。無意味なルールに縛られる姿は滑稽なはずなのに、俺よりも余程自由に生きているように見える。あいつは溺れそうな俺を見て、「あァ無様だ」と憐んでいる。少年にとってそれは不愉快で、屈辱的だった。
「お前にとって俺はどう見えている?」
「え……?」
「お前と言葉を交わすのに俺は相応しくないか?」
「レイノルドさん……?」
深い深い青い色に飲まれそうだった。少年の影が少女を覆い、少しずつ意識を侵食する。息苦しいほどの重圧が少女の喉元を締め上げる。
苦しいはずのに、少年の方がもっと苦しそうだ。悔しくて、少し寂しそうな顔。なんだか泣いてしまいそうな気がして、白磁の肌に手を伸ばす。透き通るアイスブルーの瞳に、戸惑う少女の姿が揺蕩った。
「触るな」
「すみません。けど、放っておけなくて…」
「お前なんかに心配されてたまるか」
「ええ、ええ。そうですね。レイノルドさんは強い人ですから」
「……お前なんて、すぐに追い越してやる」
「大丈夫。私なんてすぐに見えなくなりますよ」
ぽろぽろと落ちる言葉を掬い上げて、エレアノールは優しく背を撫でる。強張った体が解けるように、絡まった糸が解けやすくなるように。言葉をひたすら聴き続ける。
また、少年は変わるのだろう。あの日、忘れられた好奇心に寄り添ったように。
彼には自らを変える力がある。常に疑問を持って、変化を受け入れ、その上で自分を保ち続けることができる。それは私など目に入らないほど立派になれる要素のはずだ。
司書が慌てた様子で探しに来るまで、ただ二人は身を寄せ合った。
ありがとうございます。