3.観察
よろしくお願いします。
エレアノールの両親が家を空けて数時間後。
心行くまで執務室の資料を読み込んだ少女はご機嫌な気分だった。両親は二週間帰ってこない。ということは、また執務室の資料を持ち出してもバレないということだ。これはワクワクウィークすぎる。
るんるん気分で扉を開けると、ちょうど部屋から出てきた白い人影と対面した。人外じみた美しさを持つ銀髪の少年、レイノルドだ。
少女は目をカッ開き、ぎぎぎと不自然に立ち止まった。面白いほど勢いよく血の気が引いていく。
い…いる…?!?!レイノルドチャン??!
そういえば母がレイノルドちゃんをよろしくとかなんとか言ってた気がする。くそ、やっぱり夢じゃなかったのか!!
思い出すのは、アイスブルーの瞳を見た瞬間の凍てつくような寒さと大蛇の尻尾。確実にレイノルドは人間ではない。人間は尻尾もなければ視線から冷凍ビームも出さないのである。それにあの人外じみた美貌……人間でないなら納得だ。あれは正しく人外の顔だ。人外ってすごい。
それにしても何故少年の部屋をエレアノールの部屋の横にしたのか。そのせいでばったり出会ってしまったではないか。
少女はしわくちゃの顔で小さく呻く。結構なトラウマになっているので直視するのにもの凄く勇気がいるのだ。
肺の中の空気全てを吐き出すように長く長く息を吐く。
カッと目を見開いて、何度見ても美しい御尊顔……ではなく下半身にあるであろう白銀の大蛇に目を向ける。
「あれェ?ないのォ?!」
尻尾がない。どこ行った???
「あっ…?」
声を掛ける前に去っていってしまった。とんでもなく冷たい目で見られた気がする。ごめんて。
どうやら少年は人が苦手らしく、常にどこかに身を隠していた。その行動は少女にとって心に安寧を与えたが、一方で悪癖である過剰な好奇心を刺激した。
少女は少年の事が苦手であったが、だからこそ自分は何が苦手であるかを理解したかった。少年に興味があると言うよりも、自分のキャパシティを見定めたかったのだ。
少年が怒ったとしても殺されるわけではないだろう。眼光からの冷凍ビームは恐ろしいが、あの尻尾がどうなっているかも気になる。
少女は箱入り娘らしく危機管理能力が死んでいた。というよりも危機管理能力と好奇心を天秤にかけ、盛大に好奇心に傾いたというか。誰か好奇心は猫をも殺すと教えてやってほしい。
母が放った刺客(家庭教師からの宿題)を捌き切り、少女は意気揚々と立ち入り禁止の温室を歩いていた。目的はもちろんレイノルドである。
立ち入り禁止の温室はヴァーミリオン領の花だけでなく、国内の珍しい草木が育てられている。ゾーン毎に空調が変わっており、いつでも花が見れる贅沢な作りになっていた。また、草木が生い茂りすぎて一部熱帯雨林さながらの過密さになっているため、隠れるにはもってこいの場所でもあった。
少女は慣れた足取りで足場の悪い草むらの中を歩く。温室の中で最も低温が保たれているゾーンにその姿があった。
「レイノルドさん。こんな所にいらっしゃったんですね」
少年は木の上で寝ていた。どの角度から見ても相変わらず美しい少年である。大蛇のような尻尾が木の幹に巻きつき、先がゆらゆらと揺れている。
ゾッとするような冷たい瞳が少女を見とめると、美しい眉が微かに歪んだ。
「…何の用だ」
「いえ、特に(レイノルドさん自体には)用事はないですが…私が来たら邪魔でしょうか?」
「ああ」
知ってた。
少女は少年から少し離れた木の下で腰を下ろした。本当であればあの尻尾に触ってみたかったが、流石にあの視線を受けて近付く度胸はなかった。その代わり遠くから少年を観察する事にした。
一番気になるのは白銀のダガーを思わせる鋭い鱗だろう。ぎっちりと木の幹に巻きついているが、どうやら木に傷一つ付いていないらしい。この尻尾は幻覚だったのか。どのタイミングで消えるのかわからないが、感情の起伏によって現れているように見える。今の感情は不快感だろうか。
遠くから木の幹をガン見するエレアノールに、レイノルドは依然として鋭く睨んでいた。接触を避けていた少女が突然近付いてきたのだ。意図が分からない以上、警戒するに越したことはない。
だが、その気持ちもすぐに失せてしまった。何も出来なさそうな軟弱な小娘一人に何を警戒する事があるのか。馬鹿馬鹿しい。
なんて、少年の感情を知ってか知らぬか、少女は尻尾の観察を続けていた。小馬鹿にするように鼻で笑った後、あの尻尾が消えた。警戒心が解かれたから見えなくなったのか?なかなかに興味深い現象だ。
こうしてエレアノールのレイノルド観察が始まった。
少女は少年を見つけると注意深く表情と尻尾を観察した。やはり感情の起伏で尻尾が見えるらしい。少年は表情筋が働いていなかったが、尻尾の動きは感情豊かだった。
少女は自室に行く道すがら、進行方向が同じ少年の臀部をこれ幸いにと凝視していた。まだ尻尾が生える瞬間を見ていなかったので、どのように生えるのかが見たかった。
「おい」
「はい」
珍しく少年が声をかけてきた。少年とは思えない地の這うような低い声だ。少年は気の抜けた返事をしたが、次に出たのは引き攣った悲鳴だった。
突然、周囲の温度が急激に下がる。少年の周囲に冷気が漂い、廊下の窓が凍てついていく。エレアノールとレイノルドの間に鋭い氷の結晶が生え始めた。これは不味いのではないか。
もやもやとした冷気が集まり、少年の尻尾を形作る。ダガーのような鱗が逆立ち、苛立たしげにうねっている。とんでもなくおこである。
「付いてくるな」
「ウッス」
少女はぎこちなく体を翻し、自室とは反対方向へ逃げた。殺されそうだったが、尻尾が生える瞬間を見れたので概ね満足だった。
と、こんな感じで少女は少年の観察を続けた。捨て身すぎる観察者である。少年が本気であれば少女は既に何十回と死んでいるだろう。
少年は不快感を露わに少女を威嚇することはあれど、直接攻撃することはなかった。猛獣の周りを飛ぶコバエとでも思っているのかもしれない。ビバ人外マインドである。なお、少女は自分がコバエだろうがクソ雑魚だろうがどうでもよかった。自分の好奇心さえ満たせられればモーマンタイなのである。狂人か???
そうして二週間近くが経過した頃、相変わらず少女は少年の観察に勤しんでーーーはおらず、植物の観察をしていた。前から見たかった花が咲きそうだったので、気が済むまで花の絵を描くつもりだった。
少女の中で少年の人となりは咀嚼できたので、一時期ほどの熱意は消えていた。当初の目的である少年に対する苦手意識は少年の威嚇行動が起因だったため、怒らないポイントさえ押さえればなんと言うこともなかった。もうこの時点で興味の半分以上が失せていた。少年自体は姿形が恐ろしく綺麗なだけで何の面白みもない人間(仮)だったので、まあ適当に接していればいいんじゃなかろうかという所感だ。
少女はご機嫌に鼻歌を歌いながら花弁の多い花を描いていた。爽やかな良い香りだ。この花を紅茶として楽しめればいいのだが、虫除けの花の印象が強すぎて生産されていなかった。虫除けだなァと思いながら啜る紅茶もオツだと思うが、みんなは嫌なのかもしれない。
「おい」
「ふふんふんふんふふん〜…ふん?」
「何をしている」
「え」
珍しくレイノルドがエレアノールに興味を示した。まさか声を掛けられるとは思ってなかった少女はポカンと少年を見つめる。
花に夢中になりすぎて少年が寝ている木の側まで近づいてしまったことに少女は気付いていなかった。最早少女の中で少年は眼中になかったので。
少年の冷たい視線を物ともせず、少女は落ち着き払った声で答えた。
「花の絵を描いているんですよ」
「何の役に立つ」
何の役に立つ。考えたこともなかった問いに少女は手を止めた。
花の絵を描いたところで何の役にも立たない。それは考えるまでもなくわかる。画家になるならまだしも、貴族の令嬢として生きていく少女にはマナーや自分磨きの方が必要だった。エレアノールほどの高位貴族であれば跡継ぎさえ産めば一生遊んでいても許されるだろう。
だからこそ、改めて『何の役に立つ』かを問われた時、少女は考え付かなかった。
「何の役に立つ?うーん…なんでしょうね?」
少女が絵を描くのは好奇心の延長線だった。見て、聞いて、確かめて、それを文字や絵に落とし込む。そしてようやく理解する。少女はそうして自身の好奇心を満たしてきた。
だからこそ、少女はこの花のこともよく知っている。
「例えばなんですけどね。この花はヴァーミリオン領にしか咲いていない花でして、ポプリにすると防虫剤の役割をしてくれるんです。服に微かな花の香りが付くのですが、その香りがまた爽やかないい香りなんです」
花を一輪手折って、レイノルドに近付ける。彼は受け取ろうとはしなかったが、それでも良かった。
花の香りを嗅ぐ。瑞々しい花弁に触れる。柔らかな葉を観察する。その全てがエレアノールを魅了する。
「この花は受粉が難しいので基本的には人工授粉で生産しているんです。ほらここ、雌しべを覆うように何重にも花びらが重なっているでしょう?多分この花弁の構造が虫の侵入を阻害しているのだと思います。自然に受粉できないか、いま南西部でこの花の品種改良が行われているみたいですが、出来ればこの花の香りは残してほしいですね」
「……それが何の役に立つ」
少年が再度問いかける。
この知識が何の役に立つか。知識だけでは何もできないことはよく知っている。一から突き詰め、問題を見つけ、改善して、そういう作業を根気よく続けてようやく公爵家の『役に立つ』。子供がにわか知識を語るのとは訳が違う。
だが、唯一答えられるとすればーーー
「ーーー自分の人生の彩りのため、ですかね」
エレアノールの生き生きとした笑みを見て、初めてレイノルドの瞳に感情が見えた。まるで今まで一度も思い至らなかったような、その自分の感情にすら戸惑うような、そんな顔だ。
少女の言葉を鼻で笑い飛ばそうとして、でもできなくて。何かを言おうとして、しかし言葉が続かず押し黙る。
少年はまっすぐと見つめる少女から逃げるように目を逸らす。ただ一言、絞り出すように言った。
「そうか」
なんとなく、少女は少年が身を潜めていた理由に思い至った。もしや、今まで『役に立つか立たないか』が全ての環境に身を置いていたのではないか。身を潜めて、周囲を遠ざけなければ生きていけなかったのではないか。勿論それは少年が自らの考えで選択しているのではなく、誰かに強要されての結果だろう。
そう考えると、途端にレイノルドが哀れに思えた。今まで楽しむ方法を知らなかった。そんなことを考えたことすらなかった。
少女にとって少年は空虚だった。人間の営みを理解しない人外だった。理解もできなければ、理解する価値もない異物だった。
けどそれはまだスタートラインに立っていなかっただけだった。少女が『あの声』によって広がった世界を、今度は少年に見せるべきなのでは、と思った。だって、楽しみのない人生は耐え難いはずだから。空虚な世界は少年にとっても狭くて苦しいだろうから。
「描いてみますか?」
少女は少年に紙とペンを突き出す。紙には花と花弁の絵、ちょっとしたメモが書かれていたが、まだ絵を描くスペースは残っている。直感的に描けるため、少年でも楽しめるだろう。
しかし少年は静かに首を振った。
「いい」
「……そうですか」
「それを」
少年はそれに視線を向ける。少女が差し出し、一度突き返した花だ。ふわりと風に吹かれて少年の手に収まる。
レイノルドにとって、花を愛でるという行為は初めてだった。花は花以上の意味はなく、目に留まるほどの価値はなかった。少女に言われるまで、花が咲いている事すら気にも留めなかった。
しかし、少女の言葉はちっぽけな花に意味を持たせた。レイノルドよりも価値があると言わんばかりの表情だった。
この花にそれほどの価値があるならば、その価値を知ることができるならば、それはとても素晴らしい事なのではないか。その感覚をレイノルドは知りたくなった。
アイスブルーの瞳が花を見る。優しく葉を撫で、柔らかな花弁の感触を楽しむ。口付けをするように、美しいかんばせを花びらに寄せる。エレアノールの触り方を一つ一つ丁寧に辿っていく。
きっとこれはレイノルドの儀式だった。
無機質な人形に生命が吹き込まれる。レイノルドの意思が形成されていく。色が、感触が、香りが、徐々に少年の輪郭を確かなものにする。
少年が花から顔を離す。流れ落ちる銀髪で表情は見えなかったが、微かに笑みを浮かべているように思えた。
「確かに悪くない」
少年は小さく呟いた。
ありがとうございました。