1.出会い(1)
よろしくお願いします。
「大丈夫だ。お前を必ず救ってやる」
銀の髪をした少年が横たわる少女の手を握り、小さく呟いた。
少女は助からない。誰が見てもそう理解するほどの致命的な傷だ。
少年は血が体に付くのも顧みず、体温を失いつつある手を額に当てる。
彼女を助ける神などいない。この祈りは少年が少女に乞う赦しだった。彼女を縛る盟約を不当に結ぼうとする不届者を受け入れてくれることを願う祈り。少年には彼女を神の元に送る優しさは持ち合わせていない。自分のエゴのために少女と誓いを結ぶのだ。
彼女の腕が弱々しく動く。少年が手に取ると、ほっとしたように顔が緩んだ。少年にはその顔が赦しのように思えた。
「エレアノール・ヴァーミリオン。お前に俺の命をやるから、お前は俺に全てを捧げろ。それが俺とお前のーーー竜と王の盟約だ」
少年が少女の手に口付ける。ふわりと雪が舞い、少年と少女を包み込んだ。
あの日、確かにエレアノールの平穏な毎日が足元から崩れ去る音を聞いた。
ーーーーー
エレアノール・ヴァーミリオンの中に自分以外がいると気が付いたのは5歳の時だった。
公爵家の一人娘として蝶よ花よと可愛がられたエレアノールは幼いながらにして暴君で、我儘が通らなければぎゃんぎゃんと喚く悪童だった。
その日は入ってはいけない園庭に侵入し、頭を抱える侍女を尻目に花壇を踏み荒らしていた。今では何故そのようなことをしたのか定かではないが、多分母に叱られた腹いせを花にぶつけていたんだと思う。まだ幼い5歳児は怒りの宥め方を学んでおらず、侍女たちの苦悩も理解していなかった。服が汚れるのも気にせず土を蹴り花を折る姿は令嬢としての知性が皆無だった。
天罰が下ったのだろう。少女は怒りのまま花壇から走り降りようとして、ずるりと足を滑らせた。煉瓦の角が頭部を殴打し、たらりと血が垂れる。視界がチカチカして頭が割れるように痛くて、目の芯が熱くなって、「ぎっ」と喉の奥から絶叫が漏れそうになった瞬間ーーー知らない声が頭の中に響いた。
『わあ〜痛そ。額割れた?』
「〜〜〜誰よ!!」
『うっるさ、ごめんって。あ〜もう、はいはい。泣かなくてえらいねぇ』
「うるさいうるさいうるさい!!」
『語彙力無〜。あ、語彙力ってわかる?わかんないでちゅか〜ちっちゃいでちゅもんねぇ〜ごめんねぇ〜』
「バカにするな!!」
その時、少女はまだその声が自身の頭にのみ聞こえていることを理解していなかった。面と向かって馬鹿にされたことがなかったので、姿も見えない敵を下してやろうと必死だった。
突然虚空に向かって怒鳴り上げる少女に、侍女たちは打ちどころが悪く気が狂ってしまったと急いで医者の元へ走ったのだった。
『あの声』は少女の頭にのみ聞こえる声と気付いたのは額の手当てが終わった後だった。そいつは少女が癇癪を起こすと必ず現れる。少女以上に傲慢で怖いもの知らずで、いつも飄々としていた。
「エレアノールちゃん。どうして花壇をめちゃくちゃにしたの」
母の部屋にて、少女は母に叱られていた。理由なんて忘れた。母に叱られて気に食わなかったから荒らしたのだ。
『何が気に食わなかった?』
また、『あの声』が話しかけてきた。そんなの覚えていない。うるさい。うるさい。私は悪くない。悪いのはお母様だ。
『落ち着きなよ。怒ってるわけじゃない。何があったか知りたいだけ』
『あの声』は苛立つ少女を適当に宥め、淡々と疑問を投げかけた。なにって……そうだ。あの時は気分のデザートじゃなくて、いらないってしてしまったのだ。ぐちゃぐちゃに遊ぶだけ遊んで、一口も食べなかった。
『だから叱られた?』
そう。けど私は悪くない。あんなのを出してきたから悪いんだもん。
『あーね、そうかも』
声は納得したようだった。ふむと少し考えて、すぐに少女に提案してきた。
『エレアノール。作ってみようか、そのデザート』
「いやよ。気分じゃない」
『自分が好きなものでもいい。一度作ってみようよ』
「好きなもの…?あ、じゃあ私丸いのいっぱいあるやつ食べたい!ふわふわで中に甘いの入ってるの!!お山さんみたいでね!すごいんだよ!」
『え、なにそれ…まさかクロカンブッシュ?!マジで?良いじゃん良いじゃん』
「エレアノールちゃん。話は聞いてるの?」
「お母さま!わたし、くろかんぶっしゅ?食べたい!!」
「まあ」
「自分で作るから!お願い!!」
母は不貞腐れた顔でそっぽを向いていた娘が突然キラキラとした目でお願いしてきたのに驚いた。お願い、お願いとうるさい我が子にうんざりしたように額を押さえる。
叱っているのに全く話を聞いていなかったらしい。しかもパティシエの真似事がしたい、と。そんな事は決してやらせたくはないが、やめさせようとしても勝手にやるかまた癇癪を起こすか…。
眉間を揉んで、ため息。諦めたような声音でエレアノールに許可を出した。
「…ふぅ。仕方ないわね。その代わりワガママは言っちゃだめよ。最後までちゃんと作ること。守れる?」
「うん!!」
あの後のことはよく覚えている。
初めて訪れたキッチン。甘くてふわふわで、いつも幸せにしてくれる香り。不可解な形をした器具を使って見たこともない素材を泡立て、ひとつひとつ生地を絞って、丁寧に焼き上げて。いつもデザートを作ってくれていたおじさんやおばさん達と一緒にシュークリームの山を作りあげた。
大変だった。腕は疲れるし、上手く絞れないし、変なところに装飾が付くし。けどすごく楽しかった。完成した時はとても嬉しかった。
母に見せたくて、私は重い皿を持って廊下を駆け出した。後ろから慌てた声が聞こえたが、興奮で耳に入らなかった。早くこの感動を分かち合いたかった。よくやったね、と褒めてほしかった。
ずるりと足が滑る。長い毛足のカーペットが足を絡め取ったのだ。あっ、と思った時にはシュークリームの山が皿から飛び出し、そのままべちゃりと床に落ちる。
どこからか残念そうな声がした。頭から響く『あの声』だ。
『ね。壊されたら悲しいっしょ?今度からやめようね』
慰め一つない、無慈悲な一言。
エレアノールは火がついたように泣き出した。
クロカンブッシュがぐちゃぐちゃになったあの日以来、エレアノールは人を慮れる人間になった。あの衝撃がものすごくトラウマになってしまったので。そして、『あの声』にも警戒するようになった。いつどこで背後を刺されるかわからないので。
あの日以来少女の好奇心は爆発した。パティシエとクロカンブッシュを作ったあの出来事は少女にとって新しい世界との出会いだった。花の成長、侍女の一日、宝石商が持ってくる様々な宝石、香りがいい石鹸の作り方。全てが興味の対象になった。
『あの声』も少女と同じく好奇心旺盛な質であった。好奇心の行動がバレて母に怒られている最中でさえ、次に活かすための問題点と改善案を話したいと少女に求めた。落ち着き払った声音で叱られた意味を教えられると、全てに意味があるのかと素直に反省できるようになった。
エレアノールは『あの声』と出会い、悪癖も身に付けてしまった。それはもちろん『過剰な好奇心』である。『あの声』に導かれるまま好奇心を貪る少女は命知らずで危機感がなかった。馬に乗ろうとしてみたり、池で魚を釣ろうとしたり。興味が赴くまま商人の荷馬車に乗り込んだ時は最高に面白かった。初めての街探検は少女と『あの声』の好奇心を大いに刺激した。両親がとんでもなく心配したと泣いたのは誤算だったが。
そうして『あの声』と共生して数年。10歳を迎える頃には『あの声』は聞こえなくなっていた。エレアノールが『あの声』を取り込んだのか、エレアノールを矯正して気が済んだのか。イマジナリーフレンドだとは思いたくはない。どちらにせよ『あの声』の意思を受け継いだ、ちょっと変な大人びた少女となった。
ある日の夜、ヴァーミリオン公爵家の自室にて、エレアノールは茶を啜りつつ本を読んでいた。
10歳になった少女は余りある好奇心を読書で満たすようになっていた。公爵家の力を使うと大抵のものは実現できるのだが、遠方の地の光景や風俗、その土地ならではの食文化などは流石にどうしようもない。最近は専ら遠い風景に想いを馳せて風景画集を眺めていた。また、少女は小説も好きだった。特に守護竜と王家の物語が好きで、その世界の中で冒険しているような没入感が好きだった。
今日は父の執務室からこっそり拝借したヴァーミリオン領の作物統計調査資料を読んでいた。特に豊作時の廃棄作物の活用法が興味深く、食べるだけではない作物の活用法を実際に目にしてみたくなった。明日街に降りてみようか。いやいや、突然は迷惑になるだろうから、先にアポイントメントを取ってきてもらわねば。ああ、楽しみだ。
不意に遠くから馬車の滑車音が耳に入る。ちらと窓の外を見ると、馬車から父が降りてきた。
父は度々王城に上がるため家を空ける。今回は二週間ほどの出張だったらしい。困ったな。まだ統計調査資料を返していない。あと少しで読み終わったのに。極秘と書かれているのでバレたら叱られるのは想像に難くない。父はあまり叱らないが、母は芋蔓式に今までの事を叱るので面倒臭い。
資料についた皺を伸ばし、席から立つ。今から執務室に行くのは無理なので部屋の中に隠すしかない。侍女にバレて母に報告された日には火山が大噴火なのだ。
しかし本当にタイミングが悪い。あと一日遅ければ読み切れたのに。
恨みがましく父を見つめると、馬車からあと一人降りてきた。ーーーものすごく白い人が。
「…え?なにかしら?」
エレアノールはすかさずオペラグラスを手に取った。普段からオペラグラスを持っているわけではないが、少女は度々オペラグラスを使っていた。なんせここは公爵家なので。見目のいい貴族出の騎士とか侍女が働いており、リアル恋愛劇がすごいのだ。オペラは行ったことがないが多分ああいう純愛だったり泥沼だったりするのではないだろうか。エレアノールは『あの声』のせいか、本人の質なのか、野次馬根性逞しかった。
白い人間はよく見ると包帯で全身がぐるぐる巻きになっている怪我人?だった。エレアノールと同じくらいの子供に見えるが、顔まで覆う包帯とサイズが合ってないシャツのせいで性別さえわからない。
唯一包帯の間から見えるアイスブルーの瞳だけが印象的で、宝石のような美しさにため息が漏れた。
「きれい…」
人間、壮絶に綺麗なものを見ると語彙力がなくなるらしい。人の目を見て感心したのは初めてだった。
とにかく色が綺麗なのだ。澄み切った氷の世界を切り取ったような、幻想的な色彩。暗闇でもぼんやりと輝いて見える。
うっとりと見つめていると、不意にアイスブルーの瞳と目が合った。溢れんばかりに開かれた瞳がピントを合わせるように虹彩を絞る。
あれ、人の虹彩ってこんなに動くっけ?
疑問が浮かんだが、ぞわりと背中に悪寒が走って思考が霧散した。
突如、視界が氷の膜に覆われる。はっ、と息を詰めると口から白い息が漏れた。氷の蔦が足元を伝い、腹を這い、首を絞める。さむい。つめたい。さむい、さむい。
気が付いたらエレアノールは椅子に座り込んでいた。震える手で足を触ると、体が氷のように冷たくなっている。体が寒い。凍えそうだ。カチカチと歯を鳴らしながら覚束ない手で両腕を摩る。
遠くで扉が閉まる音がしたが、エレアノールには聞こえなかった。高音の耳鳴りに頭が掻き回されてくらくらする。
「なに今の…」
凍りついたオペラグラスが溶けて豪奢なカーペットが水を吸い取るまで、エレアノールは両腕を擦り続けた。
ありがとうございました。