第16話
薄桃色の地に白抜きで『ねこの湯』と書かれた暖簾を掛け、あんどん看板に灯りをともす。
入り口の前で待っていたお客さんに愛嬌を振りまきながら。
開店である。
私たちスタッフの服装はえんじ色の作務衣。そこまで凝る必要はないかな、とも思ったんだけどね。せっかくだから揃えてみた。
開店待ちのお客さんは十六人。
近隣のご老人がほとんどだが、これはまあご祝儀みたいなものだろう。
ささっと番台に戻り、次々に差し出される五百円玉を受け取っておつりを渡したりする。
うん。
さっと渡せるように、五十円を番台の中にいくつも積んでおいたのは正解だった。
けど、タオルレンタルのお客さんも、セレクトアメニティのお客さんもゼロか。
むーん。
年齢層の高い人には、あんまり興味がないかもしれないな。
「思案のしどころにゃね」
膝の上からかかったさくらの言葉に小さく頷く。
銭湯の客というのは、ほとんどが常連だ。新規獲得が非常に難しい業種なのである。
風呂付きの住宅が普及し、安アパートだってお風呂くらい付いてる現代、日常的に外に入りに行こうって人は少ない。
たまにならともかく。
温泉旅館などは、このたまにを積み重ねることで利益を得ている。
日本各地からお客さんがくるというのは、一人のお客さんに対する依存度を下げるのだ。
一人のお客さんに百回きてもらうか、百人のお客さんに一回ずつきてもらうか。簡単にいうと、この違いである。
『ねこの湯』みたいな地域の銭湯に、遠くから通ってくださいというのは無茶な話だから、自然とターゲットになる客層ってのは絞られてくるわけだ。
すなわち、近隣にお住まいの方々。
で、そういう人たちに日常的にきてもらうってことは、ライフスタイルを変えてもらうってこと。
お風呂は家で入るって生活から、お風呂屋さんに行くって生活に。
難しいよね。
ちょっと考えただけでも至難だってのは判る。
「そのための特別感だったわけだけど、初手は空振りね」
「仕方ないにゃ。ご老体に向けた策じゃないのにゃ」
「そこに刺さるような手を、なんか考えないと」
メモ帳に書き込んでおく。
さすがに番台にパソコンとか置くわけにはいかないからね。
もっぱら手書きですよ。
そのうちタブレットは導入したいね。
儲かったら、だけどさ。
ともあれ、メモ帳にはけっこう書き込みがある。
緊急性の高い案件から、後々解決しないといけないかなって案件まで。
ご老体に受ける企画、というのは喫緊の事案に入るだろう。
常連になりそう、という点において、若い人よりずっと期待がもてるから。
よし。
はまった。
大きな動きがあったのは、午後七時近くになってからだ。
おそらく部活帰りの女子高校生たちが立ち寄り始めたのである。SNSとかビラとかで宣伝した甲斐があったというもの。
「やったにゃね」
「うん」
徐々に増えてゆくお客さんに、会心の笑みを交わし合った私とさくらだったが、そんな余裕はあっという間に吹き飛んじゃった。
くるわくるわの来客に。
結局、午後六時台の来客数は三十四、七時台は四十一、八時台は五十二、九時台は四十六。
営業後半の四時間だけで、一気に採算ラインを超えた。
レンタルタオルとセレクトアメニティも売り上げも上々である。
仕事帰りにひとっ風呂、メイクも落として帰っちゃおう。という女性客がかなり多かった。
あ、舞鶴女史もいたよ。
セレクトアメニティには、さっそくメイク落としも入れて欲しいってリクエストもあり、私としては手応えを感じている。
問題は、三時から六時までということになるだろう。
本日の総来場者数は百九十八名。うち百七十三名が後半に集中している。
まあ、三時から六時までは全部で二十五人しかきてないってことですわ。
そのうち一人は美雪なんだぜ。
惨憺たるありさま、と表現してもそんなに言いすぎじゃないだろう。
ぶっちゃけ、ラッシュがくるまで泣きそうだったもん。私。
いますぐテコ入れってのは焦りすぎだけど、なんか考えないと。
開店直後で、勢いがあるうちに。
「おつかれ。女将」
「まつりんも」
下顎までお湯につかって考えていると、すーいと祭が寄ってきた。
営業終了後のお楽しみ、みんなでバスタイムである。
スタッフは女しかいないので、男湯はもう湯船の水は抜いて、軽く汚れを流してしまっている。
本格的な掃除は明日だけどね。
「想像してたよりお湯の消費が激しいな。当然、薪の減りもはやいぜ」
「シャワーの水をケチるって時代でもないしね。歳さんに言って薪の仕入れを増やそう」
「さすが。決断が早いね」
「ためらう理由ないっしょ。そこは」
薪で沸かすお風呂というのは『ねこの湯』の看板だ。
ここ節約するというわけにはいかない。
それにまあ、わりと想定の範囲内だしね。
お風呂に入ったとき、日本人はかなりの水を使うってのを聞いたことがあったから。たしか豪華客船の旅を特集したテレビで。
もともとお風呂好きの民族だからね。仕方ないね。
「ただ、キャパぎりぎりまで客が入った状態で、一斉にシャワー使っちまったら、温度が下がってしまうかも」
「それは問題ね……」
むうと腕を組む。
それは盲点だった。
『ねこの湯』のキャパシティは男湯七十女湯七十の、合計百四十。正直、満員になるなんて事態は想定してなかった。
今日だって、一番入った時間帯で六十人まで行ってないしね。
女性の比率が高いからきっちり半分には分けられないんだけど、席が七割も埋まった時間帯はないはずだ。
ただ、それは今後の展望としてはかなり弱い。
いままで大丈夫だったんだから今後も大丈夫だろう、というのはさすがにね。
「ちょっと金はかかるけど、釜を強化するって手はあるぜ」
「簡単に言うけど……」
そのちょっとを捻出するのも大変だし、何日も閉めて改装工事なんて、いまはできるわけもない。
「改造は二十六時間もあればできるさ。ただ、さすがにあたい一人じゃ無理なんで、森から仲間を呼ばないと」
森というのはフォレストのことではなく、道南の森町のこと。
すごく判ってるはずなんだけど、私の頭をよぎったのは白雪姫に登場する七人の小人が、ハイホーハイホーって歌いながら作業してる光景だった。
おもわず、ぷっと吹き出してしまう。
「こら女将。なにを想像しやがった」
「ぎぃゃー! 尻肉鷲づかみはやめてーっ!」
ドワーフの力で握られたら、お尻が垂れてしまうじゃないか!
女のケツは、もっと優しく揉んでくれたまえ!
ばしゃばしゃとじゃれ合う。
他に誰もいないからって。
銭湯で遊んじゃいけません。
「まあ、手伝ってくれる仲間に払う金と飯と酒。あと材料費。全部で百くらいは必要になるかな」
「さすがにすぐには用意できないよ」
設備投資といっても、いまこの段階での借金はまずい。
釜の改造は、もうちょっと経営が軌道に乗ってからということになるだろう。
つまり、お客さんを増やしたいけど、あんまり増えすぎても困るというアンビバレンスだ。
つらい。
「はいはい。では流しますよ。しっかり目を閉じていてくださいねえ。姐さん」
「うう……仙狸になっても洗われるのは苦手にゃ。つらいにゃ」
視線の先では、小学生状態のさくらの髪を、イナンクルワが洗ってやっている。
なんであの姿なのかといえば、猫状態で洗われるよりはマシなんだそうだ。
あっちはあっちでつらそうである。
微笑ましいけどね!
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