第15話
そして、開店の日である。
「みんな。ついに本番にゃ」
番台に乗ったさくらも気合い充分だ。二本の尻尾がぴんっと立っている。
「ついにというか、やっとというか。なんだか感慨深いね」
これは美雪の台詞。
私もわりと同意見かな。
銭湯を継ぐと決めてから二ヶ月弱、長かったような短かったような。
「あらあら。最終回みたいな雰囲気を出しちゃあいけませんわ」
「んだぜ。女将。こっからが大変なんだからな」
イナンクルワが美雪の肩を、祭が私のお尻をそれぞれ叩く。
身長差があるから肩を叩くのは大変だってのは判るけど、気軽にお尻を叩くのはやめたまえよ。
セクハラオヤジとかじゃないんだから。
ただまあ祭の意見も一理ある。
銭湯って、利益を出すための客数は一日に百二十人くらいなんだってさ。売上額としては五万三千円くらい。
『ねこの湯』は毎週水曜日がお休みなので、月平均の営業日は二十五日くらいになるだろう。
ということは、月の売り上げは百三十万円強ってとこ。
ここから従業員の給料とか、燃料となる薪の代金、浴場のメンテナンス費用なんかが捻出されるわけだけど、なかなかしんどい。
これで水道代とか固定資産税とかがフルにかかったら、間違いなく赤字だよ。
そうならないのは、公衆浴場法って法律のおかげ。
あと、けっこう補助金とか助成金とかもらえるから、なんとかかんとかやっていけるってとこかな。
税金の垂れ流しだー、なんて息巻いてる経済アナリストもいるけどさ。
儲かってないから。良い商売なんかじゃないから。
もし左うちわでうっはうは、なんて状態だったら、だれも廃業なんてしないって。
「ともあれ、当面の目標は一日百二十人だね」
どこの銭湯も八十人くらいの集客だって話だから、けっこう高い目標だ。
近くに高校がある、女性が喜びそうなアメニティ、薪風呂っていう特別感。これらがどの程度のアドバンテージになるか。
「蓋を開けてみなきゃ判らないにゃよ。ゆり。ていくいっといーじーにゃ」
「お、おう」
英語っぽいなにかで励まされたぜ。
発音が思いっきり日本語だけどにゃ。さくらさん。
Take it easy 気楽に気楽にとか、焦らずいこうぜ、くらいの意味である。
「記念すべき客一号の座は、うちがいただくぜ」
にやりと笑った美雪が、番台に五百円玉を置いた。
「いやいや。営業開始までまだ時間あるって。掃除とお湯張りもこれからだし」
まだ午前十時である。
営業開始の午後三時まで、だーいぶあるよ?
「お風呂洗いくらい手伝うし」
「それは客とは言わん。居間でくつろいでおれ」
おつりの五十円を手渡しながら、美雪を追い払う。
まったく、口実をつくって手伝おうとするんだから。つい甘えたくなっちゃうじゃないか。
「さっちん。まつりん。準備をはじめよう。最初の客に最高の一番風呂を提供してやろうじゃないか」
ぐっと拳を突き出す。
『あいよ! 女将さん!』
ふたりがそれに軽く右拳をぶつけた。
戦闘開始だ。
祭がボイラー室へと向かい、がんがん薪を燃やす。
イナンクルワは浴室の、私はロビーと脱衣所の掃除である。
この作業に、だいたい二時間かかる。
タンクの水が適温になるには約二時間半。午前十時から仕事を始めて、開店の準備が整うのは午後一時くらい。そのあと遅めの昼食をとり英気を養いつつ午後三時の開店を待つ。
というのがタイムテーブルだ。
ちなみに閉店は午後十時なので、けっこう長丁場である。
営業が始まってしまったらみんなで休憩するってわけにはいかないので、それぞれ時間を見つけて夕食をとるって感じになると思う。
薪は一時間に一回くらい釜に補給しないといけないので、祭はあんまりボイラー室から離れられない。
私も番台だから、あんまり席を立てない。
ので、遊撃の位置にいるイナンクルワが、かなり重要になってくる。
彼女の担当は水回りだから、開店してしまうと大きな動きは少ない。まさかお客さんのいる前で本格的な掃除を始めるわけにはいかないしね。
ちょっとしたゴミ拾いや、浴室内の整頓、脱衣所の濡れた床を拭いたりしつつ動態待機。暇を見つけて私たちの晩ご飯を作り、番台やボイラーを代わることもある。
という、かなりユーティリティな活躍が期待されているわけです。
番台とボイラーには常に人がいないといけないから、どうしてもこういう配置になってしまうのだ。
イナンクルワには苦労をかけます。
ちなみに、さくらもなにか仕事をやると熱心に主張したのだが、全会一致で否決だった。
ねこまた状態でうろうろしていたら、この可愛さだもの子供たちに捕まってもみくちゃにされてしまう。
かといって人間状態だと小学一年生くらいにしか見えないわけで、そんなのを働かせるのはちょっと外聞が良くない。
児童虐待だって通報されちゃうかもしれないのだ。
なので、さくらはマスコットとして私の膝の上か、番台の上に鎮座ましましていただくのさ。
掃除機をかけ、セレクトアメニティの最終確認をし、脱衣所のカゴを整理して、ロッカーの中も雑巾がけする。
祖父がやっていた頃は脱衣カゴと棚くらいしかなかったのだが、新たにロッカーを導入したのだ。
カゴの中を物色するような輩はいないと思うが、それでも人目に付く場所に着替えや貴重品を置くのは嫌だって人は少なくないだろうからね。
とくに若い女性は。
まして『ねこの湯』では、お客さんの平均入浴時間を一時間半と読んでいる。
普通の銭湯に比較してだいぶ長めの時間読みなのは、くつろぎのバスタイムっていうコンセプトだから。
ただ、荷物からそんな長時間目を話すってのは、けっこうなリスクだろう。
そのための鍵付きロッカーだ。
もちろん、ロッカーに入れるなんて面倒くさいよって人のために、昔ながらの脱衣カゴも健在である。
「さちがいるんだから、泥棒なんておきないけどにゃ」
てこてこと私の後をついて回っているさくらが言った。
水場で、水妖ミントゥチの目をこせまかすことはできないらしい。
不埒なおこないにおよぼうとしても、すぐにイナンクルワに察知されるのだ。
「それ以前の問題として、仙狸のさくらがいる銭湯で悪さをするとか、怖ろしすぎるわ」
バチがあたるぞよ。
「さくが仙だなんて、関係者しか知らないにゃ」
なに言ってんだお前、という顔で見られました。
只猫だったころから彼女はたまにこういう表情をする。
それがまた良いんだ。
ツンデレっぽくてかわいい。
「ゆりは、さくのやることはなんでも可愛いと思ってるにゃ?」
「もちろん」
「即答……あなどれないにゃ。この猫バカは……」
ともあれ、掃除を終え、湯船にお湯を張り、準備万端ととのった。
「ぬふふふー、一番風呂だぜ」
みんなで昼食をとりながら、なんか美雪が興奮している。
ていうかあんた、ほぼ毎日入ってるじゃん。うちのお風呂には。
「判ってない。由梨花は全然判ってない。実験的な入浴と本営業じゃまったくオモムキが違うんだよ」
趣て。
『ねこの湯』は普通のお風呂屋さんなので、風情的なモノを要求されても困ってしまうぞい。
「どのくらい違うかっていうと、ソープとヘルスくらい違う」
「生々しいわっ! 食事中になに言ってんだあんたは! そもそも違いなんかわかんねーよ!!」
「ソープは本番行為がある。ヘルスにはない。すごい差なのよ?」
「その説明必要だった?」
ジト目を向けてやる。
うちは普通の公衆浴場だ。個室付き特殊浴場ではけっしてない。
えっちなサービスなんかないからな。
「ちなみに、函館には一軒だけソープランドがあるのだ。駅前地区に」
「うん。その情報もいらない」
馬鹿話をしているうちに、なんだか開店前の緊張感が消し飛んでしまった。
もし狙ってやっているんだとしたら、私の親友はたいした軍師である。
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