操り人形のエダ
【一、貧しい夫妻とその息子エダ】
灰色の山と森に囲われた小さな街。街中の大半で生えている煙突からは常に濃くて黒い煙がたくさん出ています。ふもとには石畳が敷かれていて、その上には工場や小さな家が隙間なく並んでいます。
街にひっそりと暮らす貧しい夫妻はかつて山の向こうで農業に勤しんでおりましたが地主に追い出されて仕事を求めた末、この街に流れ込んできました。朝から晩まで従業員たちと一列に並んで漁業用の縄を結んだり刺しゅう機でカーテンを編んだり、また時には煙突掃除ですすだらけになることもあります。
そのような仕事を朝から晩まで少ない給与で働き詰め、なけなしのお金でやっと生活できるほど貧しい暮らしでした。
二人には息子のエダが居ました。くすんだ黄色い髪で、縫い目が目立ち薄汚れたシャツと色あせた黒いズボンを着てみすぼらしいものでしたが曇りない青く透き通った瞳が印象的な少年です。
両親が働きに出ている間、幼いエダはひとりボロボロのクマのぬいぐるみを抱いてじっとしていました。
ぬいぐるみはいつも寂しい思いをするエダを元気づけようとして街を出た外の世界のお話をするのでした。
「__それでね、海というのはこの世界の何よりも大きくて、それにどんな宝石よりもきれいなんだ。青く光って、本当に青い空を映し出すんだ。サファイアやエメラルドにも代えがたい輝きさ」
エダはいつも外の世界にあこがれていました。
【二、屋敷の主人と奥様】
ある日、不幸なことに二人は死にました。夫は従業員の不注意による火災事故に巻き込まれて、妻は夫の死にひどく落ち込んで立つこともできず、そのまま衰弱して哀れな最後でした。
葬儀が終われば残されたエダを誰が引き取ろうか、街の住人は悩みました。住人たちは幼いエダを気の毒だと思っていましたが、彼らも裕福とは言えず子供一人養う余裕さえないのです。皆お互いにエダを押し付けるので引き取り手はなかなか見つかりません。
すると、街中の大きな屋敷に住む主人とその奥様が名乗り出ました。主人は役人であり、家名をより大きくすることを強く望んでいます。そして将来のことを考えて後継者を欲しいと考えていましたが奥様は子供に恵まれず、悩んでいました。その中で孤児であるエダに目を付けたのです。
反対する人は誰も居ませんでした。
こうしてエダは二人の養子として迎え入れられることになりました。身なりの整って髪の毛も淡い金色に輝き、白く血の通った肌は桃色の唇を目立たせていました。頬は子供なのでふっくらとしていましたが顎周りが少年らしく細いものです。
ただみすぼらしい服はすべて捨てられてもクマのぬいぐるみだけは片時も放そうとしませんので、傍から見れば少女と見間違われてもおかしくない容姿でした。
主人はエダが後継者になるよう一流の教師をたくさん雇い、教養を与えました。今までスケジュールとは無縁な生活を送っていたエダにとって、それは朝も昼も夜も毎日レッスンが続くようになって辛いものです。
奥様はエダを実の子のように可愛がりました。授業が終わると手をつないで庭へ散歩に行きました。あまり笑わないエダは何を考えているのか分からない様子でしたが、つないだ手はしっかりとつかんでいます。
「この子は甘え方をよく知らず、本当は内気で優しい子なのでしょう」と、奥様は微笑ましく思いました。
ある時エダは奥様に「海や山、森の向こう側の世界を見てみたい」と言いました。
奥様は笑って、エダが立派な役人となれば外の世界にだって行くことを主人は許してくださると答えました。
良くしてくれる奥様の期待に応えようと、毎日が辛くともエダは泣くことも反抗することもせず、日々がんばって勉強しました。
【三、役人の会合】
満月の夜には街一番の大きな屋敷の中で役人同士の会合が開かれます。別の街からも役人がやって来て、ワイングラスを片手に各々が持つ利益になる情報を交換したり、また一部は名のある役人に取り入ってもらい少しでも高い地位を得ようとして近づいたりします。
もちろん主人も会合に出席していました。
一人の令嬢がごきげんようと声をかけます。主人ほどではありませんが隣街では名のある役人の娘で、主人とも面識があります。
「これはこれは西の街の。景気のほういかがでしょうかな」
「おかげさまで。父も貴方様には心より感謝を申し上げておりますわ」
「それはよかった」
二人はその後もしばらく軽い談笑をしました。話の区切りがついた頃に、ところで、と令嬢は切り出します。
「近ごろ養子に子供をひとり引き取られたそうで」
「そうとも」
「後継者になれば家名は更に安泰、といったところでしょうか」
「それがどうかしたのかね」
「しかし子供は庶民生まれと聞きますわ。君主政もなくなって以来、皆さまは地位をお狙いになっておりますもの。お言葉ながらそういう者が家名を継いで周りから何と思われるかと考えますと不安ですわ」
「何が言いたいのかね」
主人から笑顔が消えます。
「子に恵まれないご婦人の代わりに私なんていかがでしょう。私もほんの少しは名のあるお役人の家系でございますわ。そして正当な後継者が生まれれば、それこそ安泰となりましょう」
令嬢の言葉の通り、主人は心の底では血の繋がる後継者が居ないことを気にしていました。
しかしそれでもと主人は断りますが、令嬢は諦めずに考えておいてほしいと主人に言うとその場を立ち去りました。
【四、別れ】
少し経って主人は悩んだ末に令嬢を迎えることにしました。それは奥様が追い出されることにもなるのです。奥様は反対しましたが主人は聞き入れませんでした。
事情を知らないエダは泣きながら奥様にしがみついて離れようとしませんでした。使用人たちもどうしたものかと困りましたが主人に逆らうことができず、エダを奥様から引き離しました。
奥様を乗せた馬車が走り去って屋敷を覆う森の中へ消えていき、エダはずっと泣きました。
一方、先ほどの様子を眺めていた奥様は不満に思っていました。
「あの子は追い出さないのかしら」
「そうとも」
主人が淡々と答えました。
「なぜあの子供も追い出さないのですか。もう必要ないでしょう」
「せっかく一流の教養を与えているのだ。追い出してはもったいないだろう」
主人は首を横に振って言いました。
「彼もゆくゆくは側近として役に立つ」
令嬢はそれ以上は何も言いませんでしたがあまり納得しません。
【五、夜】
凍えるほどに冷たい隙間風が部屋を包む、しん、とした寂しい夜でした。
エダはベッドの隅でうずくまってクマのぬいぐるみを抱きしめています。
寒さと喪失感から体を震わせて泣いていました。
「ああ、かわいそうなエダ」
ぬいぐるみが言いました。
高く透き通ったボーイソプラノの声質をもった少年の声がやさしく語り掛けてきます。
「これからどうなってしまうの」
「きっと大丈夫、大丈夫だよ」
ぬいぐるみは静かに答えました。
本当はこの先もエダはひどいことになるのではないかと思っていましたが、そう言えるはずもありませんでした。
「泣かないで、ぼくのともだち」
ぬいぐるみはエダを抱き返しました。
小さな手ですが、かつて母に抱きしめてくれているかのように体がじんわりと温かくなりました。
コンコンと扉を叩く音が聞こえました。
「お召し替えでございます、エダ様」
一人の使用人(使用人は他にもいますが以後から彼を使用人と呼びます)が就寝用の着替えを持って顔を見せました。
部屋にいる間はひとりですが、時々こうやって使用人が着替えを持ってきたりお茶を汲んだりと身の世話をしています。この使用人は、奥様が居なくなってからも厳しい勉強の毎日が続いているエダのことを気の毒だと誰より心配していました。
奥様が出てしまわれて、大変寂しい思いをしているに違いないと使用人は考えながらエダの服を着せ替えます。
「森に行ったきり帰ってこないよ。あそこには怪物が居るのかな。母様は食われてしまったのだろうか」
エダの口からはときどき妙な言葉が聞こえました。
「エダ様、今日はもうお休みになられたほうがよろしいかと」
着替えが終われば使用人はエダの背中に手を添えてベッドの方へ誘導します。
「辛いことがあれば、どうぞ私を頼ってくださいませ」
エダがベッドに横になると使用人は毛布、そして羽毛でできた柔らかな布団をその上から彼の首の上に重なるようかけました。
「僕は母様に嫌われているの」
エダは鼻をすすると使用人に目を向けてつぶやくように言いました。
「そのようなことはありません。奥様はエダ様を愛しておられました」
使用人は慌てて否定します。エダは「でも僕を置いて出て行った」とぽつりとつぶやきました。
エダ様、と一声かけますがその晩はもう答えは返ってきませんでした。
【六、令嬢の教育】
令嬢はエダの教育を主人から任されました。
「なぜ私が」と言いましたが主人は「仕事で忙しい」と返しました。
令嬢は庶民生まれのエダを邪魔に思っています。屋敷内で彼の姿を見かけるだけで腹を立ててしまうのです。
授業中、令嬢は後ろからその様子を眺めました。その日は数学の授業で教師が「三角比における二つの公式を挙げてください」と問いました。
「正弦定理。もう一つは、ええと」
エダは言葉に詰まってしまいます。十秒経つと令嬢はエダの前に塞がるように立って机を力強くたたきました。
「もちろん分かりますね。このような初歩的な問題くらい」
令嬢は机をたたきながらエダを見下しました。エダは何かを言うのも怖くなって、下を向いて体を震わせました。
このような光景が令嬢の気が済むまで続いたのです。
令嬢のいじめは毎日続きました。
エダは日に日に痩せて、令嬢を見かけるだけで息が止まり、枷を付けられたみたいに足が重くなって歩くこともままならなくなってしまうのでした。
【七、夜その二】
月が消えて真っ暗な森が風でなびいて、獣が鳴いているような、そんな騒がしい夜のことです。
エダはぬいぐるみを抱きしめうずくまっていました。
「元気を出してエダ」
ぬいぐるみが言いました。
エダの背中に手をまわして綿でいっぱいのやわらかな手をぽんぽんと当てます。
「ねむれないよ。あの恐ろしい声が聞こえるようで身がすくんでしまう」
エダの抱える不安が口の中からあふれ出します。
「あの人はどこへ行ってしまったんだろう」
「外へ出るんだエダ。森を抜けて、あの人を探そう。森の外には海や山もあって広い世界だよ」
「怖いよ」
「勇気を出してエダ」
ぬいぐるみが励ましてくれますがエダには勇気がありませんでした。
【八、変化】
昼間、エダは令嬢に呼び出されました。
令嬢は昨晩に主人に「近頃あれの成績が落ちているそうじゃないか」と叱られたのです。
その為、嬢はとても腹を立てて「あなたがしっかりしないから」とエダに八つ当たりしたのです。
「なぜ私がこんな目に合わなければいけないの」
エダはぬいぐるみを抱いてしくしく泣いています。
それを見た令嬢は一層エダの手から無理やりぬいぐるみを引きはがそうとします。
エダが泣きわめいて抵抗するので、令嬢はエダの頬をぴしゃりと叩き、ぬいぐるみから押しのけました。
床に倒れたエダに対して令嬢は甲高い声で「お前まんて生まれてこなければよかったのに」と罵倒の声を浴びせました。
エダは近くのロウソク立てを手に取り、恐ろしい形相で令嬢をにらみました。
一瞬のことでした。
令嬢が驚いていると、エダはロウソク立てを彼女の頭に向かって叩き伏せました。
気が付くと令嬢は頭から血を出して倒れていて、手には真っ赤に濡れたロウソク立てを持っていました。恐ろしくなって手を離せばロウソク立ては、ごとり、と重い音を立てて絨毯の上に落ちました。
近くを通りかかっていた使用人は一連の物音が聞こえたので様子を見に来ると目の前の光景に愕然としました。
エダは不安そうな顔で使用人を見ました。
「お逃げくださいエダ様。ここはわたくしめがお引き受けいたします」
使用人はエダを子供をあやすように抱きしめて穏やかに言いました。
「こちらの地図をお持ちください。奥様の屋敷の場所が記してあります」
きっと奥様もお待ちしております、と言って四つ折りの紙を差し出さしました。
それを受け取ってエダは「なぜ」と使用人に問いかけました。
「実はわたくし昨晩の会話を聞いておりました。彼女の仕打ちも本当はわたくしが止めるべきでした」
頭を深く下げて「今まで気づくことができず申し訳ございません」と声を震わしながら言いました。
【終、結末】
屋敷から逃げ出したエダは街を出て、森を抜け、見渡す限りの広い草原を駆け走り奥様の屋敷を目指しました。
今までよりも空が青く見え、風が冷たく気持ちがいいと心を躍らせます。
時々エダは孤独感に襲われますがその度にぬいぐるみが「勇気を出すんだエダ」と元気づけてくれるのでした。
一方で屋敷の主人は私利私欲の為に奥様を捨てたことが街中に広がり評判を悪くしました。妻を亡くし、権威も失い、後を継ぐ者も居なくなって主人は失意に満ちて心を病めました。
それから一年が経つと主人は森の中へ彷徨い、彼の姿を再び見たものは居ませんでした。