5 愛しい唯一の婚約者
やがて総務の文書担当の官吏二名が、宣誓書を読み上げる時に使用する机をサロンに運び入れた。そして玉座の正面に設置し、書類と黄金色のペンを置いた。
「ヴィヴィアン=ハートウェル伯爵令嬢、この婚約解消の書類にサインをして下さい」
宰相であるサットン侯爵が言った。そしてヴィヴィアンがその机の前に立ってペンを持ち上げた瞬間、ハートウェル伯爵夫人が待ったをかけた。
「ヴィヴィアン、お待ちなさい。そんな書類にサインする必要はありませんよ。貴女はまだデビュタント前で成人していないのです。お父様からのご承認がなければどうせ無効になるのですからね」
「無効か、はははっ!」
ハートウェル伯爵夫人の言葉に国王陛下が笑い出したので、夫人は度肝を抜かれて、陛下の顔を唖然として見つめた。
「本当はね、こんな婚約解消なんて茶番劇やる必要なんてなかったんだよ。でもね、ヴィヴィアン嬢の心象を少しでも良くしてやろうという、我が国の配慮だったのだがね、伯爵夫人。
なにせ令嬢自身にはなんの落ち度もないのだからね。今なら成人前という事で傷も小さくて済むと。まぁ、本来なら出来ればもっと早くに解消したかったのだがね、ヴィヴィアン嬢や王太子、そしてフランセス嬢のためにもね」
陛下の言葉に夫人のみならず、フランセスとヴィヴィアンは目を見張った。陛下の言っている意味がよくわからなかったのだ。
「とにかく、ヴィヴィアン嬢はサインをしなさい。説明は有責者にするからね。君は控えの間に行っていなさい」
陛下の有無を言わせない重く低く響く言葉には誰も逆らえず、ヴィヴィアンは婚約解消の書類にサインをすると、女性近衛騎士と共にサロンから退出して行った。陛下はそれを確認すると、ハートウェル伯爵夫人に向き合った。
「そなたは先程、ハートウェル伯爵の承認がなければどうせ無効になると言っていたね。確かにその通りだよ。だが、それはその逆も言えるのだよ。わかるよね?」
「どういう意味でしょうか」
夫人は眉を潜めた。陛下の意味有りげな言葉に内心苛立っているのが見て取れた。
「未成年同士の婚約はその保護者のサインが無ければ、当然成立しない。そう。王太子とヴィヴィアン嬢の婚約証明書に私もハートウェル伯爵もサインをしていない。故に、最初から二人は婚約などしていなかったのだよ。だから、本来はわざわざ解消する必要もなかったのだ」
陛下の言葉に夫人とフランセス、そしてブルーナは仰天した。二人が婚約していなかったとはどういうことだ! 周りを見渡すと、驚いているのは三人だけで、他の者達は平然としている。
そう。最初に王太子が婚約解消宣言をした時同様に。つまりこれは周知の事実という事なのだろうか?
そう言えばと、フランセスがいち早く冷静になって思い返ってみると、確かに正式な婚約発表はされていない気がする。ただなんとなく、二人が婚約者だと言う雰囲気になっていただけというか、無意識に周りがそう洗脳されていただけかも知れない。
フランセス自身は義母と妹から王太子と婚約したと聞かされていたが、婚約証明書を実際に目にしていた訳ではないし。
何故そんな事をしたのか、フランセスにはさっぱり見当がつかなかった。しかし、義母の次の言葉でフランセスはようやく薄っすらと予測する事が出来た。彼女はこう言ったのだ。
「私を、いいえ、我がホールデン王国を謀ったのですか!」
「正確に言えば、そなたとホールデン前国王をだが、我々はホールデン王国自体を誑かしたつもりはないよ」
国王は伯爵夫人いや、隣国ホールデン王国の元王女を冷たい目で射った。
「それに我々は最初からヴィヴィアン嬢とは絶対に婚約など出来ないと話したであろう? それをゴリ押ししたのはそなたであろう」
「ゴリ押しなどと失礼にも程があります。我がホールデン王国と縁が結べるのに何がご不満なのでしょう」
「不満があるかだと? シェルフォードには生まれながらの婚約者がおる。それは先代王が決められた事であり、その誓約書は神殿に納められてあるのだから、他の娘と婚約が結べるわけがあるまい。そのような事をしたら神罰が下ると、最初にそう申したであろう。それを貴様が父親を使って無理難題を押し付けておいて、不満がない訳があるまい」
いつも穏やかな陛下が伯爵夫人、いや隣国の元王女を貴様呼ばわりし、なおかつ穢れた物を見るような目付きをしてこう言い捨てた。
賢王と名高い陛下が、王太子殿下とヴィヴィアンの婚約をよく許したものだと以前から不思議に思っていたフランセスは、ここにきてようやく納得した。
義母が隣国の国王であった父親を利用して、王太子と娘ヴィヴィアンとの婚約を無理強いしたのだろう。国境の辺境地に攻め込むとでも脅したのかもそれない。
そして、王太子殿下に、生まれながらの婚約者がいたという事実にも驚いた。シェルフォード殿下はご存知なのだろうか? 今さっき、自分を大切だと言ってくれていたのに・・・
フランセスの心がギュッと誰かの手で握り潰されたような痛みが走った。そしてそれと同時に彼女はようやく理解いた。
何故今日まで王太子が今日までヴィヴィアンと婚約解消できなかったのかを。真の婚約者を守るためだ!
誓約書が神殿に納められているのならば、婚約を結んだ二人のうち、片方の人が亡くならない限り、その婚約は解消されない。
だから義母に王太子の婚約者が誰なのかをもし知られたら、もしかしたらそのお相手が命を狙われるかもしれない・・・だから、婚約者がいると断りながらも、その相手の名前を言えなかったのだ。
フランセスは恐ろしくなって震えた。あの義母は殺人を犯す可能性があると皆から思われているような人だったのだ。父はどうしてそんな人と結婚したのだろう?
ああ、そうか、そうだったのか・・・
一つの仮説にようやく思い至り、フランセスは長年の疑問、悩み、悲しみ、怒りが一気に吹き飛んだような気がした。
フランセスの父バート=ハートウェルと母のメリナ=モーガンは幼馴染みで非常に仲が良く、二人は幼い頃から将来結婚すると誓い合っていた。しかし、なかなか結婚を許してはもらえなかったと聞く。それは父が伯爵家で、侯爵家の母の家格よりも低いという事もあったが、それよりも父に問題があったという。
問題があると言っても、それは父になんらかの落ち度があったからでない。むしろその逆だった。
品行方正、優秀、真面目、その上優しい。それのどこに文句があるのかと言うと、美し過ぎるその美貌にあった。
父本人はメリナに一筋で他の女性に見向きもしなかったのが、それが余計に他の女性の関心を誘ったようで、皆が自分に振り向かせようとあの手この手を使って関係を迫ってきたらしい。
もちろんそれは母にも嫌がらせという形で向かったため、侯爵家では娘に護衛をつけざるを得ない状況になったと聞く。まだ婚約もしていないというのに散々迷惑をかけられた祖父が、快く思う筈がなかった。
そんな絶望的な中にいても、彼らは別れるつもりはなかったらしい。二人は必死に一緒に生きる道を探した。そしてようやく見つけた方法というのが、二人を知らない外国へ行って暮らすという事だった。
しかしそれは駆け落ちなどではなく、外交官になるという、現実的で確かな方法だった。これなら家や家族に迷惑をかける事はない。
二人はそれはそれは熱心に勉強し、相当努力をしたと言う。
二人にそのアイディアを提供したのは母の姉、そう、現在フランセスの養母となってくれた伯母であったが、その事で伯母が祖父に責められているのをフランセスは聞いた事があった。
「お前が余計な知恵を与えなければ、メリナは死なずに済んだかも知れない。そうすればフランセスも母無し子にしなくても済んだかも。言っても詮無い事だが」
「義父上、そんな事を今更言っても意味がありません。大体、あの二人はどんなに反対したって別れたりしませんでしたよ。無理矢理引き離そうとしていたら、結局駆け落ちか心中していましたよ。
そうなっていたら、あの可愛いフランセスは生まれてこれなかったのですよ。妻を責めるのはお門違いです」
「わかっておる。すまない。だが、隣国にさえいかなんだら、娘は死なず、今もフランセスの側に居られたかと思うと悔しくてな。
その上今もこうして、一人残されたフランセスまで危険な目に合わされておるのが哀れでな」
「お父様のお気持ちはわかっております。しかし、それをフランセスに気取られてはなりません。私達が愛情を込めて育てて、あの子を不安がらせず、少しでも楽しく暮らせるようにもっと努力いたしましょう」
あの時はあの会話の意味が全くわからなかったが、今ならわかる。
父は外交官として隣国ホールデン王国へ赴いた際に、運悪く彼の国の悪評高い姫に目を付けられてしまったのだろう。
母が死んだのは隣国の王宮で開かられていたガーデンパーティーに参加していた時、雷に当たって亡くなったと聞いている。だから母の死に直接王女が関与していた訳ではないかもしれない。しかし母の死後、喪が明けないうちにすぐに二人が再婚した事を考えると、ホールデン王国からの無理強いがあったと考えるべきだろう。
しかし、そんな事情をフランセスが知る訳がなかった。
あれだけ大恋愛だ純愛だと騒がれていたのに、その妻が死んで数ヶ月もたたないうちに、別の女に子供をつくって再婚するとは、何が誠実な男だ。案外前妻がいる頃から浮気をしていたのではないか? 侯爵家は本当にお気の毒だな。
高評価過ぎた父の評判は、その反動で急降下し、悪評高い伯爵となった。と言うより、フランセスが物心ついた時にはそれが定着していたので、その昔父が社交界において一目置かれ、一番の人気者だったと知ったのは、大分成長してからだった。
今までどんなに他人から嫌われていようと、フランセスは父を慕っていたし、父に会いたかった。たとえ父に愛されず、捨てられて、伯母夫婦の養子に出されたとしても。
普通外交官は家族と赴任先へ向かうのが通例だ。しかし父は妻子を国に残して一人で他国へ行っていた。それをフランセスを含め一般の貴族達は、その理由をハートウェル伯爵夫人であるアンジェリナの性格のせいだと思っていた。
アンジェリナは元大国の王女でわがままに育てられたので、誰に対しても高飛車で、自分本位な性格をしていた。あれではとても外交官の妻は務まらないからだろう。
実際、嫁ぎ先であるこのシュレースライン王国においても、大国の王女だという態度で振る舞っていて、今もなお周りから顰蹙を買っているのだから。
しかし父の本音は出来るだけ妻であるアンジェリナと一緒に居たくなかったのかもしれない。
フランセスがハートウェル家から呼び出しをされるのは必ず父親がいる時限定で、それ以外は呼ばれる事はなかった。たとえ義母や妹の誕生日であろうと。
フランセスは記念日には必ず二人にプレゼントとカードを贈っていたのだが、本人が書いたものではないだろう簡単な礼状が届くだけだった。それを悲しいと思っていたのだが、もしかしたら向こうが招待してくれなかったのではなく、祖父達が断っていたのかもしれない。彼女の身の安全のために。
今まで自分が信じていた定説が次々に覆っていくのを感じて、フランセスは混乱していた。そしてそんな中アンジェリナが、
「本当に婚約者がいるのならばここに連れてきてみなさいよ」
と叫んだ。
すると陛下はこう言い放った。
「わざわざ連れてこなくとも、最初からここにおる!」
「「「なっ!!」」」
アンジェリナとフランセスとブルーナが今日何度目かわからない驚きの声を上げた。そして辺りを見渡した。しかし、そんなご令嬢などはどこにもいない。女性でこのサロンにいるのは、女性騎士と侍女とフランセスのような女性官吏だけのように思えるのだが。
「シェルフォード、そなたの婚約者をこちらへエスコートしてまいれ!」
「はい、陛下」
シェルフォードは直立不動で返事をすると、カツカツと靴音をたてて真っ直ぐに目的の人物の前まで進んで行った。そして右手を指し出してこう言った。
「お手をどうぞ、フランセス=モーガン嬢。我が愛しい唯一の婚約者殿!」
とうとう王太子の婚約が解消されましたが、なんとこれは序盤でした。これから急ピッチで、色々な出来事が起こります。続きも読んで下さると嬉しいです。