◇7◇ お花畑、綺麗です。
◇ ◇ ◇
翌日。
「ごめんなさい、昨日は酷く酔ってしまって」
「いいえ!
帰られてからは気分悪くなかったですか?」
「おかげさまで朝まで熟睡……」
私は〈紳士部〉1年生の授業前の講義室に来ていた。
――――昨日、食事後、えらく気持ち良く酔った私は、ヴィクターにもたれかかったりして、ずいぶんと甘えてしまったのだ。
拾ってもらった辻馬車のなかで、恥ずかしいことにずっとヴィクターに膝枕してもらっており。
よく考えたら、私の白粉やら化粧品やらが、彼の服についているはずだ。洗濯をする人、本当にごめんなさい。
背が高くて一回り私よりも厚い彼の身体は、私の(決して淑女としてはほめられたものでない)体重でも、びくともしなくて頼もしい。
こどもの頃に甘えたお父様の腕を思い出したりして、
(いやいやいや、私、彼より2つ年上なのよ!?)
と朝起きてから自戒した。
「……楽しかったですか?」
「ええ、とっても」
すばらしい演劇。
その余韻に浸りながら、おいしい料理においしいお酒。
目の前には最高に素敵な男性。
こんなに幸せでいいのかと思ったほどだ。
お酒が好きではないというヴィクターは、ほとんど飲まなかったのだけど。
こんなに大事にされるのは、本当に久しぶりのことだ。
……少し遠巻きに、ヴィクターの友人たちがこちらをはらはらと心配げにうかがっている。
ヴィクターは中産階級育ちとはいえ、周囲より十数年遅れて貴族社会の常識を勉強しているところなので、
『こいつ、何か失礼なことしてないですか!?』
という危惧らしい。
(ヴィクターが皆に好かれているのはよかったけれど、できればもう少し目立たないように心配してあげてほしい。ちょっとかわいそう、ヴィクターが)
「次はどこにしますか?」
「そうね。少し考えたいのだけど」
「じゃあ、候補をあげておいてもいいですか? 花を見に行くのと、絵を見に行くのと」
「心当たりがあるの?」
「両方、うちです」
「…………」
そういえば、10年間婚約していた王子の王宮の居住スペースにも入ったことのなかった私としては、殿方の家にご訪問すると言えばお茶会や夜会へのお呼ばれぐらい。
彼の育った家を見るのも、なんだか新鮮だ。
「……じゃ、そうしましょうか?」
◇ ◇ ◇
「そうか!
ヴィクターのご実家ってエルドレッド商会だったのね!」
歴史ある海運倉庫の建物を見るなりテンションを上げた私に、
「……そんなに喜びます?」
と、解せない顔をするヴィクター。
「創業のエピソードがすごく面白いじゃない!!
創業者のハルモニア・エルドレッド嬢が海賊にさらわれたときに、たった一人で逆にその船を奪い取ってきて、その船で運送業を始めたんでしょう?」
「よくご存じですね。
オレの高祖母です。
百年前ですし、まだうちの国でも戦闘魔法を使ってた頃だと思います」
商会の建物から内陸に少し上がったところに、エルドレッド本家の邸宅があった。
血生臭い話の多いハルモニアだけど、彼女が建てたという邸は荘厳な造りで、美しい。
私自身は、ヴィクターの案内だけで十分だったのだけど。
さすがに公爵令嬢という高すぎる身分の人間にそれは……ということでだろう、商会の当主であるというヴィクターのお父様、お母様に、あちこちを案内していただくことになった。
おふたりとも大変恐縮されていて、お仕事の邪魔をしているようでとても申し訳なかったのだけど、とりあえずは歓迎してもらえているみたい。
まずはお庭の池の、見事な水仙を見させてもらう。
神話からこれを自己愛の花だという人もいるけれど、この花独特の清廉な美しさが、私は大好き。
それ以外にも、いま咲いているものだけで、ミモザにマグノリア、フリージア、その他。
そのあとは建物のなかだ。
壁には数々の素晴らしい絵画。
(すごいいいいいいいいっっ!!
どうやったらこんな艶やかな肌が描けるの!!
どんな画材使ってるのかしら。
そうか、虹彩をこう入れるのね。
それで瞳のきらめきに、ニュアンスが……)
「……あの、テイレシア様?
なにか?」
「い、いえ!?」
つい、趣味心がうずいて見入ってしまったのだった。
◇ ◇ ◇
創業者の肖像画が、素敵な調度品とともに飾ってある応接室にて、ヴィクターと2人にしてもらい(もちろん、サーブをつとめる使用人の方はいてくれたのだけど)お茶をいただくことになった。
ヴィクターのご両親にお会いして、少し緊張はしたけれど、さすがに、国王・王妃両陛下を眼前にするときのような胃の痛みは起きなかった。
出された紅茶は香りがよくて、リンゴのパイをはじめとしたお菓子も、とても美味しい。
「――――素敵な方々だわ。
優しいけれど押し付けがましくなくて、さらりと距離をとってくださって。
余計なことを聞いてこないし」
「余計なこと?」
「『ほんとにこいつでいいんですか?』ってあなたの級友にもう10回ぐらい聞かれてるのよ、私。ちょっと多すぎない?」
「…………」
そう。あえて聞かない、というのは、勇気のいることだと思う。
ご両親もたぶん、大事な息子と、身分が高すぎる異分子の私との結婚に、不安はあるはずだ。
でも、腹をくくっていらっしゃるのか、根掘り葉掘り聞いたりしてこなかった。
強いて言えば、ヴィクターのお母様が
「国王陛下のお許しがおりましてから、ドレスを一緒にお選びするのを楽しみにしております。選りすぐりのものを好きなだけ着ていただけますから」
とおっしゃっていたぐらい。
ヴィクターもそうだ。
交際を申し込むときもただ私の選択に委ねてくれたし、交際してからも『オレでいいんですか?』というようなことは一切聞かない。
それ以外にも、きっと他にも色々気をつかってくれているからだろう、私はいま、自分でも不思議なほどヴィクターにたいして不安がない。
いや、不安と言えば、ひとつだけ。
「ヴィクター、次はあなたが行きたい場所にしたいのだけど」
「オレの、ですか?」
「気になるのよ。私の好きなものを話したときに『それはオレも好きです』とは返してくれるけど、他は何が好きなのかなって」
「テイレシア様の、小説が」
「ええと――――じゃなくて、その。
もう少し、本当のあなたが見たいというか」
あ、しまった。
選んだ言葉が、失敗だったと口から出た直後にわかった。
笑みを浮かべていたヴィクターの表情がそのまま、固まったからだ。
「さ、さくらんぼの砂糖漬けいただくわね!?」
気まずい空気のなか、私がお菓子に手を伸ばそうとした、その時。
「!?」
ぐっと引き寄せられた私は、ヴィクターの腕の中に、抱き締められていた。
「えっと……ヴィクター?」
よく考えれば、お父様以外の男性に抱き締められたことなんてない。
固くて不思議な熱さに満ちる彼の胸。
彼の顔が見えない。
呼吸が、耳のすぐそばに降ってくる。
どうしたらいいの。
「………すみません」
永遠とも思えるほど長いような、そんなに長くなかったのかもしれない時間のあと、私はヴィクターの腕から解放された。
彼の熱は、服越しに身体に刻み込まれていた。
◇ ◇ ◇