6.楽園を彩る花(2)
「腐っても交易の要所だから、嗜好品や香辛料には困らないのがこの町に住む数少ない利点かしらね」
ティーカップを優雅に傾けながら、サフィーナは微笑を浮かべた。中身は湯気の立つ黒い液体で満たされ、部屋の中には芳醇な香りが漂っている。
「このネクロ茶にしてもそう。セルランド西部の丘陵でしか摘めないものだから、他国では貴族御用達の高級品としてかなりの値で売買されているわ。それがこの町だと、格安で手に入るの。もちろん、それなりのツテがないと無理だけれど。……気にいってもらえたかしら?」
「ああ。たしかにこいつは、美味いな。世辞抜きでそう思うぜ」
サフィーナの部屋に入ってすぐに運ばれてきたネクロ茶は、茶などろくに飲んだことがないギルダスですら唸らせる代物だった。一口含むなり、飲み干してしまったほどだ。すぐ横から発せられる冷え冷えとした気配さえなければ、二杯目も頼んでいたかもしれない。
テーブルの上には、ギルダスがすでに空にしたもの以外に二つのティーカップがある。
ひとつはギルダスの対面に置かれている、サフィーナのものだ。まだ半分ほど中身が残っている。
残るもう一つは、手もつけられていない。それを用意された人物は、椅子に座ってから一言も発していない。のみならず、身動きひとつしていなかった。
ギルダスは極力そちら側を視界に入れないようにしながら、サフィーナに問いかける。
「で、そろそろ、俺たちを呼んだ理由を聞かせてもらおうか。まさか、茶を振る舞うためだけじゃねぇんだろ?」
「ええ、もちろん。想像はついていると思うけれど、あなたたちを呼んだのは、依頼料の件について話があったからよ」
ギルダスは思わず身を乗り出しかけて、すんでのところで自制した。代わりに、目を細めて話の続きを待つ。
「正直に言うけれど、めぼしい情報はなにも入っていないわ」
「……あん?」
内心の動揺を隠せずに、ギルダスは間抜けな声を上げた。わざわざ呼ばれたのは進展があったからだと思っていたし、雇われてからすでに六日が経過している。リゼッタに大口を叩いた手前、ある程度の情報は期待していたのだ。
「わざわざそんなことを言うために呼び出したのか?」
怒りと呆れを顔に出しながらの問いに、サフィーナはまさかと言って首を振った。
「と言うよりも、手がかりが漠然としすぎていて情報が絞りきれないと言った方が正確ね。最近になって余所から入ってきた、得体の知れない武具――それ以外に、もう少し具体的な情報、例えば剣や盾といった具体的な武具の種類がわかっているなら、教えてもらいたいのだけれど。そうすればもっとまともなことが言えると思うわ」
……そう言われてもな。
探している武具の種類など、ギルダスたちにもわからない。伝えていないこともあるが、それらは話せない領域のものだし、話しても捜索の手がかりになるとも思えなかった。
「とにかく、一目見たら嫌な感じのする武具だ。教えられることはそれしかねぇ」
ギルダスがそれだけ言うと、サフィーナが頬に手を添えて困った顔をする。
「そうなると、難しいわね。もちろん情報収集は続けるけれど……」
「ああ。まあ、情報がなければないで仕方ねえ。成果に関わらず、俺はあんたの依頼をやり通すつもりだしな。ただし――」
ギルダスの目が、サフィーナを真っ直ぐに見据えた。
「もしもあんたが、俺たちに不都合な嘘をついているとわかったら――その時点で契約は打ち切りだ。あんたがどう弁解しようが、即刻出ていかせてもらうぜ」
『魔装具』に関する情報のことだけではない。言外に、依頼時に取り交わした条件のこともちらつかせていた。
依頼を終えた時点でまだ情報がなければ、自分たちで『魔装具』を捜す必要がある。その段階になってもまだゼノにつけ狙われるようでは、依頼を受けた意味がなかった。サフィーナが裏の勢力にどの程度の影響力を持っているかわからないが、最低でもゼノの手出しは止めてもらわなければ困る。
脅すでもなく淡々とした口調だったが、ギルダスは話したことを確実に実行するつもりでいた。
もちろん、そのときは手ぶらで出ていくつもりはない。騙された分の代価は、きっちり頂く。それがどういったものになるかは、まだわからないが。
ギルダスの言葉を深読みでもしているのか、サフィーナはなにも答えない。迂闊なことを喋るのもはばかられる空気が、部屋の中に広まった。
――どれくらいの間、静寂が続いただろうか。
不意に、今まで置物のように動かないでいたリゼッタが席を立った。
ギルダスが振り向くと、氷のような視線が突き刺さる。
「お、おい……?」
「情報がないのなら、私がここにいる意味もありません。部屋に戻ります」
それだけ言って、リゼッタは部屋から出ていった。
結局、一口も飲まれなかったネクロ茶を前に、ギルダスは頭を抱えた。
「私と、同じ空気は吸いたくないのかしらね」
サフィーナが気を悪くした様子もなく呟く。
「そういうわけでもねぇさ」
娼婦だから――ある種の人間にとっては、それだけで十分、蔑む理由になる。
ただ、リゼッタがそういう考えをする女ではないことはわかっていた。
生真面目だし、体を売ることへの忌避感もあるが、そうしなければ生きていけない者がいることも知っている。
「あいつがあんななのは、むしろ俺に対してだろうな」
仮面を無理やり取りつけたときの一件も、機嫌が悪い理由の一端だろう。
だがそれ以上にリゼッタは、ギルダスの“魔装具の捜索”への取り組み方が気に入らないらしい。おかげでここ数日、まともに言葉も交わしていない。
逆にギルダスから見れば、リゼッタの意気込みは空回りしている感が否めない。使命感にあおられて、力の抜きどころを見失っているようにも思える。
……焦ってどうにかなるもんでもねぇのにな。
一足飛びに結果を求めるその姿勢は、思わぬところで足元をすくわれかねない。ギルダスには、リゼッタが時に危うく思えた。
「――話は変わるんだけれど」
口を閉ざして天井を見上げていたギルダスに、サフィーナが言葉を投げかけた。
「明日、リリーネが買い物に出るの。それに付き添ってもらえないかしら?」
「こんなときにか?」
ギルダスは、怪訝に思って訊き返した。
雇われてから、すでに六日が過ぎている。
ゼノの嫌がらせは、雇われた翌日に手下たちを追い払ってから、パッタリと止んでいた。ギルダスの狙いが当たった形ではあるが、このまま何事もなく終わるとは思えない。
「油断しているわけじゃないのよ。ゼノの性格は、あの男と直接話したことのある私の方が知っているもの。確実にもう一回は、なんらかの手を打ってくるでしょうね」
ただ、と続けた。
「絶対に必要なものがあるのよ」
「なら配達でもなんでもしてもらえばいいんじゃねぇか?」
その提案に、サフィーナは首を振って答える。
「無理なのよ。こちらから取りに行かないと、絶対に売ってくれないわ。そういう店なの」
「……その間、ここが空くぞ」
「それほど遠くにあるわけでもないし、それに忘れたのかしら? ゼノはここには手出しできないのよ」
ここが『聖域』である以上、ゼノが踏み込んでくることはありえない。それなら、外に出るリリーネの方が危険はあった。
ギルダスはその説明に納得しながらも、どこか引っ掛かるものを感じていた。それでも、最後には頷く。
「依頼人のあんたがそう言うんならな」
「いい暇つぶしになるのじゃないかしら? ここでの生活はかなり退屈なようだから」
「退屈っていえば退屈だが、楽なもんだ。丸一日寝てても文句も言われねぇんだからな」
そうは言っても、ギルダスが丸一日寝ていた日はない。
一日に何度か、裏庭で鍛錬をしていた。体を鈍らせないためのものだが、暇つぶしの意味も兼ねていた。
「気に入った娘がいれば呼んでくれてもいいわよ。みんな、あなたのことが気になっているみたいだし」
本気かどうかわからないサフィーナの提案に、ギルダスはうんざりしながら返す。
「そいつはありがたい話だがな。やっぱりあれはあんたの差し金か?」
「あれ?」
サフィーナが、意味がわからないとばかりに首を傾げる。
「初日の夜にリリーネに、夜の相手をするように言っただろ。夜伽は必要か、なんて訊いてきたぞ」
「あの娘が?」
「あんたじゃなかったのか?」
「違うわ。そんな話、いま初めて聞いたもの」
疑いの眼差しを向けるが、嘘を言っている様子もなかった。
口を閉ざして考えこむサフィーナを、ギルダスは眉をひそめて見つめる。
やがて、サフィーナがそっと溜息をついた。
「……そこまでするとはね」
その声には、呆れが混じっている。
「それで、あなたはあの娘を抱いたのかしら?」
「いや、断った。ガキは趣味じゃねぇんでな」
そんな気はさらさらないとばかりに答え、ギルダスは首を振った。
やがて、思い出したように席を立つ。
「話がないんなら、もう行かせてもらうぞ」
「ええ」
サフィーナは短く答えて、退室を促す。素っ気なさを怪訝に思いながら、ギルダスは部屋を出ていった。
ギルダスがいなくなった部屋で、サフィーナは新しく淹れさせたネクロ茶を一人味わっていた。
茶の味を楽しんでいるようにも見えるが、その目は壁に向けられている。漆喰の白壁を漠然と視界に入れながらも、サフィーナの思考は別のことにとらわれていた。
……あの娘が、ね。
サフィーナの脳裏に、最も年下の“娘”の姿が浮かんだ。
リリーネをギルダスにつけたのは、面識があったから――それだけだ。
それをどうもリリーネは、曲解して受け止めたらしい。
そんなことを期待したわけではないし、そこまで積極的というか、ズレた行為に出るとは、露ほども思っていなかったのだが。
……リリーネの先走りね。けれどそんなことを言いだす娘じゃないし――
口を閉ざして思案するサフィーナは、リリーネの言動の原因を考える。やはり、一つしか思い当たる節がなかった。
以前から、リリーネは娼婦として働きたがっていた。何度か自分にも客を取らせてほしいと、サフィーナも直訴されている。
体を売ることだけが娼館での仕事ではない。他の仕事もあるし、成長途中から客を取らせると早くに体を壊す危険もある。倫理や情だけの問題ではなく、現実的な面から見てもあまり賢いやり方とは言えない。
リリーネには隠すことなくすべてを伝えたが、それでもまだ諦めきれないようだった。
ギルダスを誘うような真似をしたのも、その延長だと思えば納得できる。今回の件を通して、客を取ることを許してもらえると考えたのかもしれなかった。
だとしたら、呆れるくらい短絡的で幼いものの考え方だが、いまの彼女には自身の視野の狭さを自覚する余裕もないらしい。
「……だけど」
もし推測通りだとしても、誰彼かまわず求めるような娘でもない。
あるいは、彼が相手だからかしら?
サフィーナは自身が雇った、赤髪の用心棒を思い出す。
リリーネがギルダスに興味を抱いているのは周知の事実になっているし、サフィーナも知っていた。
リリーネの突飛な行動の理由に、個人的な想いがあるのならまだ救いはある。
だが、その対象となるあの少年の方はよくわからない。
用心棒としては合格だが、一個の人間として見た場合、わからないことが多すぎた。数多くの“男”を見てきたサフィーナをして、ギルダスは異様だった。
「何者なのかしらね、あの子?」
――コンコン。
ドアが、新たな来客を告げる音を立てた。
サフィーナは思考を閉ざして、二組目の来客に入室を許可した。
「どうぞ」
「お邪魔するわよ」
「失礼します」
入ってきたのは、最近になって帰ってきたばかりの二人の娼婦だった。
サーシャは大胆に、ミリはしずしずと。いつもどおり対照的な挙動で、入口をくぐる。
入ってすぐに、サーシャが鼻をひくつかせた。
「いい匂い」
「あ……本当」
サーシャの反応の速さに感心しながら、サフィーナは二人に座るように勧める。
「あなたたちも飲むでしょう? 淹れたてのネクロ茶。もう用意させてあるから、遠慮はいらないわよ」
「もちろんっ」「頂けるのなら」
サーシャが勢いよく、ミリが控えめに頷く。
同年齢でほぼ同じ時期に『背徳の楽園』に入ってきた二人だが、性格は正反対だった。それでいて二人の付き合いは娼館の誰よりも深く、仲もいい。
『背徳の楽園』から出ていっても、手紙でやりとりをしていたと聞いている。そのためか、しばらくぶりに会ったはずの二人なのに、よそよそしさは感じられなかった。
「こうしてあなたたちとゆっくりお茶を飲むのも久しぶりね。どう? 向こうでの生活は、なにか問題とかない? なにかあるようだったら、私の方から言っておくわよ」
「なにかあるようだったら、私の口から言うわよ」
まだ熱いネクロ茶を忙しく味わいながら、サーシャは闊達な笑いを見せる。
「わざわざ姉さんの手を煩わせるようなことはないって」
「ミリは? 少し顔色が良くないように見えるけれど」
「はい。ゴーランさんのところでは、本当に良くしてもらっています」
ゴーランというのは、ミリを囲んでいる豪商の名前だった。フォルテンを中心に交易を営んでいる。サフィーナも何度か話したことはあるが、囲った女を粗末にする男ではない。
「そう。ならいいけど、困ったことがあったらいつでも言ってね。私たちは家族のようなものだから」
ミリは、不満や悩みを内に溜めこむ気質の持ち主だった。そのせいで、結果的に人に心配をかけるような失敗を何度か犯している。
だが今の様子を見る限りはまだ大丈夫と、サフィーナは判断した。本人も自分の性格は把握しているし、問題があるようなら向こうから言ってくるだろう。
「ええ。わかっています」
神妙に、ミリは頷いた。それを見て、サフィーナは穏やかに微笑んだ。
会話がひと段落したところで、サフィーナはようやく本題に入った。二人を呼んだのは、近況を聞くためや一緒にお茶を楽しむためだけではない。
「あなたたちを呼んだのは、ちょっと訊きたいことがあったからなの。二人とももう会っていると思うけれど……私が雇った用心棒――ギルダスについて、どう思う?」
途端、サーシャがぎくりと体を強張らせた。
「……サーシャ?」
目を泳がせて顔をそらすサーシャを見て、サフィーナはため息をついた。
おそらく、サーシャとギルダスの間でなにか衝突があったのだろう。しかも今の反応を見るかぎり、サーシャの側に非があるようだった。
「……なにがあったか知らないけれど、あまり問題を増やさないでね」
気まずそうに頷くサーシャを見て、サフィーナはその話を打ち切った。
「それはともかく、彼の印象を聞きたいのだけれど」
「印象って言われても……」
「そんなに話したことないからわかりませんけど……」
二人は顔を見合せて、言葉を探した。
「変わった子ですね。大人びている子は何人か知っていますけど、それとは違う気がします」
「そうよね。無理に大人ぶっているって感じでもなくて、それが自然というか……。経験豊富って言うには、擦れ過ぎな気もするけど」
サーシャとミリの二人も、なにかしら違和感を持っているらしい。
サフィーナから見ても、ギルダスの性格や言動はとても十代のものとは思えなかった。
稀に特殊な環境で育ったせいで信じられないほど老成した子供もいるにはいるが、そういう子にしても細部に違和感というか無理が出る。
だが、ギルダスにはそれがない。自然体なのだ。
どうにも拭えない違和感を、サフィーナはギルダスに感じていた。その違和感は、さっきまで話していてさらに大きなものになっている。
特に、あの脅しともつかない言葉を耳にしたとき。あのときの凄みは、あの年齢の子供が発せられるものではなかった。交渉や駆け引きに慣れているはずの自分でも、しばらく言葉を探してしまったほどだ。
「そういえば、前に話したとき少しおかしなことを言っていました」
ミリが、思い出したように言った。
「おかしなこと?」
「見た目はこんなのだけど、私たちより年上って」
年上……?
瞬きをした後、サフィーナの動きがピタリと止まった。
そんな見栄を張るようには見えないけれど。かといって、本当だと信じるには無理があるわね。だとしたら……?
黙考するサフィーナに、サーシャが明るく声をかけた。
「そんなに気にする必要ないと思うわよ。そんなに長くここにいるわけでもないんだし」
「……そうね」
あと数日で、彼がここにいる理由もなくなる。サフィーナは自信を納得させるように、思考を中断させた。
「それより、ミルヒたちがそろそろ“薬”が無くなるってぼやいていましたけれど」
「それなら大丈夫。明日、リリーネに買いにいってもらうから」
「こんなときに? ……大丈夫なの?」
「今度は用心棒の彼もつけるわ。同じ失敗を二度も繰り返さないわよ」
途端に不安げな顔をしたミリに、サフィーナは安心させるために説明した。
「そんな顔をしなくても大丈夫。彼はあなたたちが思っているより強いわ。それに、用事を終えたらすぐに戻ってくるようにも言ってあるから」
「そう、ですね」
そう言いつつも、ミリの口調は淀んだものだった。
暗い雰囲気になりかけたところで、サーシャがたまりかねたように手を打ち鳴らした。
「真面目な話は終わりっ。せっかくゼノのバカの嫌がらせも収まったんだし、もっと明るい話をしましょうっ」
言うなり、サーシャは自分を囲った男の性癖をおもしろおかしく話し始めた。
場は一転、和やかな雰囲気になる。
それでも、時折ミリの表情が曇ったものになるのを、サフィーナは見逃さなかった。