5.楽園を彩る花(1)
『背徳の楽園』の裏庭には、小さな農園が存在する。
そこでは、栽培が簡単な野菜などが育てられていた。
収穫された野菜は食材として、娼婦や客の口に入る料理の一部となる。
建物と塀に囲まれて日当たりが悪い上に農地が狭いので、収穫できる量は微々(びび)たるものだ。それですべてが補えるわけもなかったが、食材費の節約にはなった。
そして、その農園の世話をするのは、リリーネに与えられた仕事のひとつだった。
彼女は他にも、娼館での雑務を任されている。
厨房での料理や給仕といった娼館の営業に関わることから、洗濯や掃除などの一般家庭の家事にあたるものまで、その雑務の中には含まれていた。
娼婦たちの人数が多いだけに仕事量も多いし、力仕事の割合も意外と高い。すべてを一人でやるわけではないが、ひと通りの仕事が終わる頃には一日が終わっている。
目の回るように忙しい毎日だったが、リリーネはそれを不満を感じたことはなかった。
ここにいれば十分な量の食べ物がもらえるし、安眠もできる。それに、まだ客を取ることを許されていない自分にできることは、そういうことしかなかった。
その日も、昼食の片づけを終えたリリーネはいつも通り農園に向かった。厨房にある裏口から外に出て、裏庭に回りこむ。
聞き慣れない音を耳にしたのは、そのときだった。
……ヒュッ、ヒュッ。
リリーネは思わず立ち止まり、耳を澄ませる。
「……なんだろう?」
風切り音は、裏庭から聞こえてくる。
不思議に思ったリリーネは、足音を潜ませて壁を這うように移動した。裏庭に出る前で足を止め、壁越しに覗いてみる。
――陽光の下で、赤い髪が映えていた。
裏庭では、サフィーナが用心棒として雇った少年が剣を振っていた。
「すごい……」
リリーネは思わず呼吸も忘れて、その動作に目を奪われた。
彼女自身は剣を振ったことはおろか、触ったことすらない。それでも、ギルダスの剣の使い方は“上手い”ものだとわかった。
ただ単純にひとつの動作を繰り返すだけでなく、目の前に敵がいるかのように剣を振り、体を動かす。
無駄な動きは一切なく、足さばきも舞うように淀みない。
いつの間にか、リリーネは赤髪の少年から目を離すこともできずに、その場に立ち尽くしていた。
具現化させた『魂精装具』を、ギルダスは黙々と振るっていた。
力任せではなく、腕を剣の一部として、腰から上を使って剣を振り回している。絶え間なく重心が変わるその動きは、“剣舞”に近いものがある。体が剣を御するのではなく、剣に合わせて体を動かしていた。
腕力に頼った振り方では、この体にこの曲剣は重すぎる。そう思って覚えたやり方だった。
馴染むまで半年近い時間がかかったが、今では違和感なく剣を振るえるようにまでなっている。
だが、まだ足りない。
この振り方なら瞬間的な斬る力はあるが、それをやり過ごされたらたやすく跳ね返される。ねばりがないのだ。
それに素振り程度なら問題はないが、実戦で無理な姿勢から曲剣を振り回すときなどは、やはり腕力がものをいう。
荒い息をつきながら、ギルダスは切っ先を地面に置いた。
曲剣を握る腕は、一年前――この体を手に入れたときと比べると、はるかに引き締まっている。それでもまだ、満足のいくものとはいえない。
とはいえ、成長しきっていない体では、筋力も体格も限界がある。こればかりはどうしようもない。技と経験で力不足を補うしかなかった。
「……ま、しばらくは、これで誤魔化していくしかねぇな」
そう言うギルダスの口調は、さばさばとしたものだった。深く息をついたあと、素振りを再開する。
ギルダスは、自身の剣の才能に見切りをつけている。それは、体が変わった今になっても同じだった。
特別劣っているというわけではない。だが、それでも世の中にごくわずかに存在する化け物のような使い手に勝てるほどでもないと思っていた。
だからこそ、ギルダスは剣での決着にこだわらない。体術も使うし、必要があれば搦め手も使う。そのための戦い方も身につけている。三日前――ギルダスが追い払った無法者程度の相手なら、剣を使わずに勝つ自信すらあった。
そして、ギルダスは体格や筋力が致命的な差ではないことを知っている。それらは、“強さ”を推し量る要素のひとつでしかない。
今の体に不満はあるが、焦っても仕方のないことだと割り切ってもいた。命のやりとりの場において不利なのは間違いないが、それで勝敗が決するわけでもない。
そう思っているからこそ、ギルダスに焦りはなかった。
鍛錬に意識を集中させていたせいだろう。背後から声をかけられるまで、ギルダスは自分に近づく存在に気づかなかった。
「あんたが、用心ぼ――」
反射的に――自分でも無意識のうちに、ギルダスは曲剣をひるがえしていた。体を反転させる力を、そのまま剣に連動させる。
刃がきらめき、加速していく最中、ギルダスの瞳に声をかけた者の姿が映った。
「――ッ!」
ギルダスは体をひねって、無理やり剣の軌道を変える。刀身は当初の狙いを大きく外し、その女の頭上を通過していく。斬り離された髪が数本、風にあおられて飛んでいった。
「……な、なっ……!」
もう少しで頭と胴体が泣き別れする寸前だったその女は、目を限界まで見開き、唇をわななかせている。
「だ、大丈夫っ、サーシャ!?」
硬直しているその女――サーシャに、すぐそばにいたもう一人の女が慌てて駆け寄っていく。連れに怪我のないことを知り、安堵の息をついていた。
「な……なにするのよ、あんたっ!?」
ようやく自分に降りかかろうとした災難に気づいたらしく、サーシャはギルダスに喰ってかかった。掴みかかろうとした腕をあっさりとかわし、ギルダスは悪びれる様子もなく言った。
「悪いな」
「悪いなって……それだけっ!?」
「当たらなかったんだから、いいじゃねぇか」
サーシャが目を剥いてギルダスを睨みつける。それでも平然としていると、やがてなにかを諦めたように肩を落とした。
「……もう、いいわ」
「納得してもらえてけっこうなことだが……あんたら、誰だ?」
淡々とした口調で、ギルダスは二人の女は見上げた。剣は下ろしているが、その目には不審の色が滲んでいる。
サーシャと呼ばれた女は、強気な性格を連想させる顔立ちをしていた。波打つ朱の混じった金髪を、肩のあたりで揃えている。唇を引き結んで、横目でギルダスを睨みつけていた。
まだ名前のわからないもう一人は、落ち着きのある佇まいの持ち主だった。柔和な眼差しが特徴的で、こちらは青い髪を背の半ばまで伸ばしている。
ともに年齢は二十代の後半といったところで、露出の多い服を着ていることも共通しているが、受ける印象は対照的な二人だった。
……娼婦か。
雰囲気や服装からギルダスはそう判断したが、見たことのない顔だった。
ギルダスが警戒しているのを察したらしい。青い髪の女が、とりなすように言った。
「怪しい者じゃないわ。私の名前はミリ。彼女はサーシャ。『背徳の楽園』の一員よ」
「初めて見る顔だな」
疑いを深めて、ギルダスは二人をねめつけた。ここで働いているのなら、一度ぐらいは顔を合わせているはずだ。
「今まで“お得意さま”のところにいたもの。サフィーナに呼び戻されて、ちょうど今日戻ってきたのよ」
「今ちょっとゴタゴタしてるでしょ。上客に迷惑をかけたら、この後の商売に影響が出るからってことでね」
ミリの説明に、サーシャが補足を付け加える。
……なるほどな。
ギルダスは二人の言葉に嘘の響きがないことを嗅ぎとり、事情をうっすらと理解すると同時に警戒を解いた。
この二人は、今日までどこかの金持ちに囲われていたのだろう。
それをサフィーナがわざわざ呼び戻した理由――それは二人が語ったこと以外にも、おそらく彼女たちに手出しをされる可能性を考えてのことだ。
ギルダスが最初に関わった一件――サフィーナはあれを、ゼノがリリーネを人質にとるためのものと推測していた。
状況を考えればあり得る話だ。『背徳の楽園』で働く娘を人質にすれば、サフィーナに脅しをかけることもできる。
それが事実なら、同じことが標的を変えてまた起きないとは限らない。
それならむしろ一ヵ所にまとめた方が安全――サフィーナは考えはそういうことなのだろう。『背徳の楽園』にいる限り、強硬手段を取られることもないし、目の届くところにいればとりあえず安心はできる。
「信用できないんなら、サフィーナに訊いてみればいいじゃない」
黙りこんだギルダスを、まだ疑っていると勘違いしたらしい。サーシャが憤然として抗議してくる。
「いや、そうわけじゃねぇよ。あんたらの事情はわかった。悪かったな、疑って」
ギルダスは、曲剣を地面に突き立て、そのまま空になった両手を広げた。
「で、こんなところになんの用だ? ここの農園に用があったってわけじゃねぇみたいだが」
「ここで用心棒を雇ったって噂は聞いてたからね。しかもその用心棒が、ゼノのところのチンピラを追っ払ったって話じゃない。気になるのは当然でしょ? だから、一目くらい顔を見とこうと思ってね」
「……ようするに、興味本位で見に来たってことか?」
「それだけじゃないわ。あなたは私の“妹”を助けてくれたみたいだから、そのお礼を言おうと思ったの」
ミリがおっとりとした口調で言った。
「妹?」
この場合の妹とはリリーネのことだろうが、姉妹というにはミリとリリーネはあまり似ていない気がする。
ミリがくすりと笑い、穏やかに説明した。
「私はね、リリーネの娼婦としての“姉”役なの。あの娘に身の回りのことを手伝ってもらうかわりに、娼婦として役立つ技術を教える……そんな関係だったわ」
娼館で働く娘が初めて客を取る前に、年上の娼婦につくことはよくあることだった。
二人が“姉妹”の関係だったのは、一年間までのことだ。
ミリが『背徳の楽園』から出ていくのをきっかけにその関係は終わったが、それでも二人の信頼関係までなくなったわけではない。
「あの娘は、私にとっては実の妹のようなものなの。ゼノに捕まっていたらきっとひどい目に遭っていたわ。だから……ありがとう。あの娘を助けてくれて」
「……礼を言われるようなこたぁしてねぇよ」
飾らないミリの言葉に、ギルダスは後ろめたさを覚えた。
結果的には助けたわけだが、そもそもの動機が礼を言われるに足るものではない。
「――それにしても驚いたわ。若いとは聞いてたけど、ここまで若いとは思ってなかったし。外見もそんなに厳つくないし、これならリリーネが気に入るのもわかるってもんよね」
気まずくなって押し黙っていると、サーシャが意味不明の言葉を投げかけてきた。嬉々とした顔で、ひとり頷いている。
「あァ? ……なんでここであのガキが出てくる?」
「気づかなかった? あの娘ってば、ついさっきまであそこの壁越しにあなたをじっと見てたのよ。熱っぽい眼差しで、それこそまるで恋する乙女みたいにね。私たちはそれを二階から見てたんだけど……驚いたわよ。あの娘が男の子に興味を持つなんてねぇ」
……あいつだったのか。
ギルダスは眉をひそめた。誰かが見ていることは気づいていたが、害意がなかったので放っておいたのだ。てっきり、娼婦か客の一人が興味半分に見物してると思っていたのだが。
それはどうでもよかったが、問題はサーシャの見解だ。
「……ちょっと待て。あいつが、俺に? なんでそうなる」
「不思議なことじゃないでしょ。あの娘も年頃だし、今まで同じぐらいの年の男の子に接する機会もなかったしね。そんなときに危ないところを助けられたんだから、好意ぐらい持ってもおかしくないわよ。それに、さっきのあの娘の様子を見てたらね」
おそらく、サーシャの頭の中ではギルダスとリリーネの出会いが恋愛物語の序幕のようなものに改変されているのだろう。
一人で持論を並べたてて盛り上がるサーシャを、ギルダスは冷めた目で眺めていた。
……あほか。
ギルダスは頭を掻きむしり、ため息を吐いた。相手にする気にもならない
ふと見ると、ミリが困ったようにサーシャの嬉しそうな顔を眺めている。ギルダスの視線に気づくと、申し訳なさそうに眼を伏せた。
その反応からすると、こうしたサーシャの反応はいつものことなのかもしれない。そして、ミリも特に止める気もないらしい。
「あなたもうれしいんじゃない? リリーネみたいな可愛い子に好かれてるんだから」
その問いかけには、どこか楽しげでからかっているような感情が含まれていた。他人の恋愛に口を挟むのを至上の喜びとしている人種がいるが、サーシャもそのクチらしい。
つい先ほど殺されかけたというのに、怒りを引きずっている様子もない。その切り替えの早さには感心したが、サーシャの趣味に付き合う気はなかった。
「どうでもいい」
ギルダスが心の底からの返事すると、途端にサーシャの顔が拍子抜けしたものに変わる。
「あら、つまんない。冷めてるわねー」
「サーシャ」
勢いが弱まったのを見て、ミリがそっと首を振ってサーシャの口を塞いだ。
心残りはあるようだが、しつこく引っ張る気もないらしい。サーシャはあっさりと引き下がった。
ミリがギルダスを向き直る。
「サーシャの言うことは大げさかもしれないけど、あの娘が“ここ”以外の人間に興味を持ったのは初めてなの。あなたがあの娘をどう思っているかわからないけど、できれば冷たく当たらないでほしいの。私の勝手な言い分だけど、お願いできるかしら?」
膝を曲げ顔を近づけて、ミリが言った。
身長差があるからとはいえ、子供に接するような態度である。それでも、不思議と腹は立たなかった。
少し考えて、その口調に見下したような響きがないからだろうと納得する。
ミリの言葉には隅々まで、リリーネを大切に思っている気持ちが込められていた。
ギルダス自身は、リリーネに対してなんらかの感情を抱いているわけではない。サーシャに言ったとおり、“どうでもいい”としか思っていない。
興味もなかった。いまいちなにを考えているかわからないところもあるが、知りたいとも思わない。だが――
……まあ、いいか。
親しくする義理もないが、あえて邪険にする理由もない。
ギルダスはそう思い直し、頷くかわりにちょっとした交換条件を持ち出すことにした。
「別にいいが……それより、そのガキに対するような態度は止めてくれ。一応こう見えても、あんたらより長生きしてるんでな」
二人は顔を合わせ、きょとんとした顔をする。ギルダスが言った意味が、理解できないというような反応だった。
「えっと……それって病気かなにかでってこと?」
サーシャが、自分でも信じてないような様子で訊いてくる。
「似たようなもんだ」
「そう。……ならこれからはそう考えて接することにするわ」
多少不自然な笑みを浮かべて、ミリが頷く。
遠回しな言い方は信じていない証拠だろうが、ギルダスは気にしなかった。信じてもらえると期待していたわけでもない。むしろ、本気にされたら困る。
サーシャがなにか訊きたそうにしているのを察して、ギルダスは誤魔化すようにふと気になっていたことを口にした。
「あんたこそ、病気かなんかなのか?」
「――え?」
ほんの一瞬、わずかにミリの瞳が揺らいだように見えた。
「いや、なんとなくそんな気がしたからよ」
確証があったわけではない。そんな雰囲気が漂っていたから、そう思っただけだ。
近くで見ないとわからない程度だが、いくらか青ざめてやつれているようにも見える。もっとも、ミリとは初対面なので、元からそういう顔色という可能性もあるが。
「――そんなわけないじゃないっ」
反論は思わぬ方向からやってきた。語気の荒さに驚いて振り向くと、サーシャがさっきまでの陽気さが嘘のような険しい目つきで睨みつけていた。
何気なく訊いたことだけに、ここまで苛烈な反応をされると思っていなかったギルダスは、怒るよりも先に呆気にとられてしまう。
サーシャも自身の言動をまずいと思ったらしく、気まずそうに顔をそらした。
「……っ。ミリ、行くわよ」
吐き捨てるように言い、足取りも荒く立ち去ってしまう。
ミリもためらいながら、その後を追っていく。ギルダスを振り返ってなにか言いたそうにしていたが、その口から言葉が出ることはなかった。
ギルダスは困惑しながら、その様子を見送った。
……いきなりなんだ?
何の脈絡もなく怒鳴られ、今になってようやく苛立ちがこみ上げてきたが、それをぶつける相手ももういない。
「……チッ」
舌打ちとともに、ギルダスは地面に突き刺したままの曲剣を引き抜いた。
どうもここに来てから女に振り回されている気がする。
ギルダスは釈然としない気持ちを振り払おうと、もう一度『魂精装具』を握り締めた。