32.それぞれの岐路(2)
娼館『背徳の楽園』の門前で、リリーネは一人、佇んでいる。
その目は、二年間過ごした『背徳の楽園』の外観を、じっと見上げていた。
――リリーネは『背徳の楽園』から出て、リゼッタたちについていくことにした。
『いいのですか? 一度町を出たら、引き返せませんよ』
それを告げた時、リゼッタからは何度もそう念を押されていた。
それでも、出ていく意思は変わらない。
考えぬいて、決めたことだった。
あの夜、サフィーナに抱きしめられた時、まるで体の欠けた部分を取り戻したような、心の底から安堵する想いが湧き上がった。
それは、ミリに抱いていた想いと同じで、耐えがたいほど望んでいたもので――だからこそきっと、自分がここに残ったら今度は彼女に依存してしまう。
それではなにも変わらない。もし万が一、サフィーナがミリと同じようなことになったら、今回みたいにまた迷惑をかけない自信はなかった。
自分の弱さは知っている。
これ以上ここにいたら、今度こそサフィーナやサーシャたちとの別れの時には耐えられなくなってしまう。そしていつかは、彼女たちの重荷になってしまう。
それだけは嫌で――だから、そんな自分を変えるために、リリーネは『背徳の楽園』を出ていく決意をした。
外に出て変われるかわからない。
もしかしたら、自分の行為はただの“逃げ”なのかもしれない。
依存する対象が、リゼッタたちに変わるだけかもしれなかった。
それでも――何か一つでも、自分の中に拠るべきものが見つかれば、この選択を後悔することはない――今はそう思えた。
ドアが開いて、サーシャが外に出てくる。
彼女だけだ。サフィーナの姿はない。
「……ごめんなさい」
唇を噛み、別れの寂しさでこみあげる涙をこらえながら、リリーネは謝った。
サーシャは困ったように笑う。
「こら」
頭を優しく撫でられ、耐えきれずに眼から涙がこぼれ落ちた。
「泣くのを我慢するのなんてやめなさい。別に恥ずかしいことじゃないわよ。女の武器なんだから、いざって時には泣けるようにしときなさい……なんて私が言うのもらしくないけどね」
「でも……」
一度こぼれた涙は、もう止めようがなかった。後から後から、とめどなく溢れてくる。
……っ。
目をぎゅっと閉じて、涙をおさえようとする。
拾われて、面倒を見られて、最後にその恩を仇で返すような真似をして――ここで泣くなんて、身勝手すぎる。
すぐそばから、ため息が聞こえた。
「あんたが自分を責めるようなこと考えてるんなら、伝えるように言われたんだけどね。――『体を売らないで済むなら、それに越したはないわ。せっかくそのチャンスがあるんだから、私たちに後ろめたく思うことなんてない。行ってきなさい。それでも、もしどうしても辛くなったのなら――いつでも戻ってきなさい。あなたは、私たちの家族なのだから』。これ、サフィーナからの伝言ね。私たち、みんなの言葉でもあるけど」
「……!」
驚きに目を開くと、サーシャは後ろを見上げて笑っていた。
その視線の先には、サフィーナの私室がある。
そこの窓には、こっちを見下ろすサフィーナの姿があった。その顔には、微笑が浮かんでいて――
それだけではない。それ以外の窓からも、いくつも見慣れた顔がリリーネを見ている。どの顔も穏やかな――雛の巣立ちを見送るような表情をしていた。
「気兼ねせずに行ってきなさい。あんたとミリの世話してきた農園も、みんなでばっちり面倒見るからさ」
満面の笑顔を浮かべて、サーシャは胸を叩いた。
視界が滲む。涙がリリーネの顎から、ぽたぽたと滴れ落ちた。
「ふっ……くっ……」
気づいたら、そっと抱き寄せられていた。頭をぽんぽんと叩かれる。
「泣き過ぎよ、もう。一生の別れってわけでもないんだし」
「う……うぇ……」
「まあ、いいけどね。あいつら待たせて、好きなだけ泣きなさい」
サーシャの胸にすがりつき、リリーネは泣き続ける。その姿を見守るいくつもの眼差し――そのどれもが暖かく思えて、リリーネの胸を熱くさせた。
◆
最初の予定よりもかなり長居してしまった『背徳の楽園』を振り返って、ギルダスはそっと嘆息した。
ようやく出ていけるという想いもあったが、それなりに居心地のいい場所だっただけに、いざ離れるとなると抵抗感もある。
すぐそばにはリゼッタの姿もあった。彼女も旅支度を整え、黙然とたたずんでいる。
――この町から増える道連れを、二人は待っていた。
その道連れは、門の前でサーシャに抱きついている。旅立ちには、まだもう少しだけ時間がかかりそうだった。
「いいのかよ?」
リリーネの嗚咽を耳にしながら、ギルダスは口を開いた。
「彼女の選んだ道です」
リゼッタが簡潔に答える。
リリーネを引き取ることについては、サフィーナに許可をもらっている。意外にもあっさりとサフィーナは承諾したらしい。
もっともそのあとで、ギルダスはサーシャから胸ぐらをつかまれて、リリーネの安全を無理やり約束させられていた。
「好き好んで、こんな面倒に関わるこたぁねえと思うんだがな」
ギルダスは首を傾げながら、呆れた面持ちでリリーネの後ろ姿を見つめた。
「そう思うんだったら、あなたが止めるように説得したらどうですか?」
「俺が? はっ、ガラじゃねぇよ」
こんなときに人に説教できるほど、偉い人間になった覚えはない。鼻で笑い飛ばして、横目でリゼッタを見る。
「で、このあとどうする気だ」
「まずはリリーネを、中央教会に連れていきます。そこで彼女を預けて、力の使い方を学んでもらいます」
「ほお……中央教会ね。俺も初めて行くが、たしかレンダインだったか? ここからだとえらく遠いが、わざわざそこまで行くのかよ」
「報告だけなら教会の連絡網で済みますが、力の使い方を教えているところとなるとあそこしかありませんから」
「ま、スンナリ行ければいいがな」
そう言うギルダスの脳裏には、“道化師”の姿が浮かんでいる。
最後まで正体のわからない相手だったが、口ぶりからもう一度顔を合わせるだろう予感はあった。
顔を向けると、リリーネがこっちに歩いてくるところだった。
「さて……」
ギルダスは自分の荷物を担ぎあげる。
一時的にとはいえ、旅の供は増える。移動は間違いなく遅くなるし、守る対象が倍に増えることにもなる。
それを面倒だと思う一方で、リリーネがこの先どんな人生を歩むのかは知らないが、目の届く範囲にいる限りでは助けてやってもいいと思った。
そう思うことは、かつての自分にはありえない――そのことは自覚していた。していながらも、今この瞬間だけは、自分に起こっている変化を不快なものだとは思わなかった。
泣きはらした目のリリーネが、二人のそばまでやってくる。
ギルダスとリゼッタは頷きを交わして一歩踏み出し――『背信の町』、その二つ名を持つフォルテンを後にする。
少女の小さな後ろ姿を見送る眼差しは、その姿が見えなくなるまで途切れることはなかった。