25.二本目の刃(2)
頭上からは、少しずつ魂骸種の爪が迫ってくる。
こんな――
直撃すれば、ギルダスの頭など原形も残らないほど粉砕されるのは目に見えていた。
こんなところで――
曲剣は手元になく、今からよけたところで到底間に合うものではない。
くたばってたまるかよ――!
それでもギルダスは、自分に死をもたらす五本の爪を、目をそらさずに睨みつけていた。
――魂骸種の瞳に、わずかな怯えの色が混ざる。
その瞬間、極限状態でも死を認めないギルダスの意思に呼応するかのように、粒子がギルダスの周囲から立ち昇り始めた。
圧倒的な勢いで数を増やすそれらの色は、壮麗さを誇示する“紅”でもなく、情緒を感じさせる“朱”でもなく――ただ、全てを燃やす尽くす炎のような単純な“赤”。
粒子が、ギルダスの手に集まりつつもある一つの形を成していく。
それらは刹那の間の出来事で、全てが終わると同時に、魂骸種を囲むようにして火柱が噴き上がる。
「グッ……!?」
炎は一瞬で消えるが、明らかにひるんだ魂骸種の一撃は勢いをなくしていた。
キィンッ――!
「……くっ」
それを受けたのは、ギルダスの手にしている“赤い短剣”――何ものにも染まらない赤色をしたその短剣は、紛うことなく魂精装具と呼ばれる存在だった。
魂精装具とは、人の魂や心が、目に見える形で現れたもの――それが一般的な認識であり、俗説だ。
魂精装具を破壊された者が、心を失ったように廃人になることからも、その説は深く浸透していた。
ゆえに、魂精装具を複数持つ者はいない。
例外として、双剣などのように初めから二つで一組というものはある。だが、まったく別種の、備えている能力すら異なる魂精装具を使える精錬者はいなかった。
一つの肉体に、複数の魂を内包する者などいないからだ。
だが、ギルダスは現実として二種類の魂精装具を生み出せる。それでいて、魂精装具が人の魂そのもの、あるいは、そこから生み出されるものであることを知っていた。
――ギルダス・ソルードは、二つの魂が持つ稀有な存在である。
しかもその二つがともに、魂精装具を具現化できる資質を備えていた。
その発端となったのは、一年前のある事件で、ギルダスはそのときに一度、命を失っている。
正確に言えば、彼は肉体という魂の入れ物を一時的に失った。
そして同様に、そのそばには魂精装具を破壊されて、廃人となった少年の存在もあった。
その場に居合わせた聖封教会の司祭――リゼッタの手により、ギルダスは『魂の転移』という秘術を施されている。
それは、肉体という器を壊されて消えかけていたギルダスの魂を、魂を壊されて生きる屍となったもう一つの肉体に移すというものだった。
しかし、その移す器となった肉体――その中にある魂は完全には失われていなかった。砕け散ってはいても、消失まではしていなかったのだ。
その欠片は、今でも消えてはおらず、ギルダスの行動や意思に影響を与えている。
そして、魂精装具として具現化することもできる。
純粋な赤い色をした両刃の短剣――それが、肉体に残った少年の残滓だった。
ギルダスは膝をついた体勢のまま、その短剣を掲げていた。
形状こそどこにでもあるようなものだったが、その周囲の空気は刃の発する高熱で揺らいでいる。
「がっ……く」
不意をつくように出現した炎のおかげで、短剣を取り落とすことなく爪を防ぐことはできたものの、鍔迫り合いのような状況に追い込まれていた。
力で勝る魂骸種に、ギルダスは押しこまれていく。
「このっ……いつまでも――」
噛みしめた歯から、ギリッ、と軋み音が鳴る。
「のしかかってんじゃあねぇッ!」
短剣から炎が噴き出し、魂骸種の手を包んだ。焼かれた手を、魂骸種は慌てて引き戻す。
荷重がなくなり、その隙にギルダスは残り火をまとわりつかせた刃を、魂骸種の腹に突き立てる。
人間よりも、かなり硬質な肉を貫く感触。
刺さった肉の周りが、音を立てて焦げていく。肉の焼ける臭いが鼻についた。
ギルダスは短剣を手放し、ひとまず距離をとる。短剣が粒子化して彼の中に還っていく。
魂骸種が悲鳴をあげてのけぞるが、ギルダスは動かない。動けなかった。
「く……」
ひどい目眩に襲われていた。
あの魂精装具を出したあとは、ひときわ強くもう一つの感情が表に出ようとする。接戦のときに使える手ではないのだ。
殺意すら呑みこもうとする怒りを抑えているギルダスと、慣れない“痛み”に悶絶している魂骸種の間の停滞した空気を破ったのは、いきなり噴き上がった炎に警戒して様子を見ていたスレイだった。
滑るような足取りで近づき、黒々とした肌に白刃を振り下ろす。
背後からの強襲を察した魂骸種は火傷したほうの腕を上げるが、白刃はそれを斜めに切り裂いていった。
完全に斬り落とすまでには至らず、それでも皮とわずかな肉のみで繋がれた腕がだらりとぶらさがる。
耳をつんざくような絶叫が、屋敷内に響き渡った。
スレイが喰いこんだ剣を引き抜いている間に、ギルダスも感情を抑えて、自身の魂精装具を具現化した。
繰り出した横殴りの斬撃は爪に止められるが、弾かれるまではいかない。
切っ先をひるがえして突き入れた一撃は、体勢が十分でなく肩を浅く裂くにとどまった。それでも、はっきりとした手応えが刃から伝わってくる。
「へっ……」
目にも見える成果に、ギルダスの中の血が昂ぶっていく。
今や魔装具の“闇”も薄れ、その能力はないも同然にまで落ち込んでいた。
そこを狙うように、ギルダスとスレイは挟み打ちで攻撃を加えていく。
ギルダスが脚を斬りつけ、スレイが胸に剣を疾走らせる。
皮膚も肉も硬く、魂骸種が防御に徹しはじめたせいで、致命傷は与えられないが、それでも傷は増えていく。
それらの傷も端から癒えていくが、今では癒えるよりも傷が増えるほうが早い。
二人の猛攻が、おびただしい量の血を床に流していく。
「ク、クク……」
ギルダスの口元には、いつしか嗜虐の笑みが浮かんでいた。
かつて、レイゾと呼ばれていたモノは混乱していた。
ほんの少し前までは、優位に立っていたはずだった。一人を相手にしていたときは遊ぶ余裕もあった。
二人目が来た時にはうっとおしく感じたが、それでもまだ余裕は残していた。
それが今は――
ついさきほどまでは侮っていた二人に、今ではいいようにやられている。
絶え間なく襲う刃が、己を少しずつ削っていく。体がだんだん小さくなっていく、中にあるものが少しずつ減っていく。
このままだと。このままだと――どうなる?
ふっと目の前が暗くなった。そこには深淵があった。どこまでも深く、暗い闇の淵。とてつもない嫌悪感に襲われ、魂骸種は意識を取り戻した。
ダメだ。このままではきっとあそこに行く。
それだけは――
魂骸種は無事なほうの腕で頭で庇う。
そのまま横に跳躍した。勢いのままに壁に体を激突させる。その間に三ヵ所斬られた。
全力でぶつかったつもりだが、壁は砕けるまではいかない。
二人が近づいてくる。自分を殺しに――
「ガァアアアアッ!!」
その二人目がけて、魂骸種は壁にめり込ませた自身の腕を一振りした。
その手から、壁から抉りとった石材が投げ放たれる。
大小幾つもの飛礫が、二人に矢のごとく襲来する。
「くっ……!」
「……っ」
それらは横に飛んでかわされるが、その隙に魂骸種は二人に背を向けて、ひと飛びで一番近くにあった窓のそばまで跳躍した。
そのまま窓を破って、外に逃げ出そうと身をかがめ――
――ドッ。
「グッ、ガッ……!?」
衝撃が、その身を貫いた。
胸のほぼ真ん中からから覗く、剣の切っ先。
その先端からは、自らの黒い血が傷口からは滴れ落ちていた。
愕然と見下ろす先で、刃がねじられていく。
「――最初っから、それをやっときゃよかったな」
妙に冷めた声が、魂骸種の体から熱を奪っていった。
追い詰められた時点で逃げ出すのは予想済みだった。
読めていたからこそ、ギルダスは飛礫をよけると同時に、全力で一番近くにあった窓に向けて魂精装具を投げ放っていた。
奇しくも、前回と同じ場所を貫いた曲剣は、魂骸種の動きを止めた。
ギルダスはその間に魂骸種に近づき、粒子化する直前の魂精装具の柄を握っただけだった。
二度も取り逃がすような間抜けを、さらすつもりはない。
刃をねじるのに合わせて、ギチギチと体の繊維が千切られていく。
魂骸種が、体をひねって刃を抜こうとする。
強引に体を動かそうと悲痛な唸り声をあげて――その首に銀閃が奔り、頭がずれ落ちた。
斬り離され、転げ落ちていく首。その切断面は、人間がやったとは思えないほど滑らかだった。
ギルダスが魂骸種の胴体に足をかけ、力任せに曲剣を引き抜く。
前のめりに倒れる魂骸種の先にいたのは、切っ先のない白い剣を振り終えた体勢で止まっているスレイだった。