24.二本目の刃(1)
一陣の風が、長い廊下を吹き抜ける。
ガギィ――!
直後、甲高い衝突音が響いて、ギルダスの曲剣がそれを支えていた腕ごと、真上に跳ね上げられた。
突き抜けるような衝撃をその身に受けながらも、顔に迫る“なにか”を感じて咄嗟に首を捻る。
顔を貫くはずだったそれは、ギルダスの頬を浅く削るだけに終わった。
最初の衝撃でコマのように回るギルダスの横を、風が通りすぎていく。
後方で破砕音――ギルダスが足を止めて振り返った先には、廊下の突き当たりの壁を砕いた魂骸種の姿があった。
風と見紛うほどの速度で衝突しても、魂骸種には大した衝撃にもならないらしい。
二、三回頭を振って、ゆっくりと背後――ギルダスのいる方向へ向き直る。
長い腕の先端にある爪――ギルダスが紙一重で避けたそれから、赤い血が滴れ落ちていた。
「冗談じゃねぇ……」
頬から流れる血を舐めとりながら、ギルダスは呻いた。
今の攻撃をかわせたのは、半分以上運だ。次もかわす自信はない。
ギルダスは魂骸種が再度の突進をする前に、距離を詰めようとする。接近戦に持ち込めば――それでも厳しいが、見えない攻撃をかわすよりはマシだ。
不思議なことに、魂骸種が距離を詰めてくる様子はない。今もまるで、近づかれるのを嫌がっているような素振りを見せている。
だが向こうの事情まで考えるつもりはない。
間合いに入るなり、ギルダスは曲剣を魂骸種めがけて振り下ろす。
その攻撃は魂骸種の体を斜めに切り裂くも、目に見えた効果は上がらなかった。
その身にまとう魔装具の効果は、身につけている者への攻撃を“透過”させる。
追撃にかかる前に、魂骸種の反撃がギルダスを襲った。
振り下ろされた爪を、ギルダスは体を斜めに傾けて避ける。さきほどまでギルダスのいた空間を、短剣と同程度の長さの爪が通り過ぎていく。
空気を切り裂く唸るような音が、ギルダスの耳にまではっきりと届いた。
がら空きの脇を斬りつけようとして、ギルダスはとっさに曲剣を斜めに構える。
――ギャリィッ!
その刃の上を、振り下ろしたばかりの魂骸種の爪が耳ざわりの音を立てて滑っていった。
くそっ、返しが速え!
たてつづけに襲う左右の爪を、ギルダスはさばき、受け、かわしていく。隙があれば反撃もするが、その隙がなかなか見つけられない。
動きが直線的で、大振りしかしてこないおかげで防御するのはそれほど難しくないが、なにしろ動きが速い。攻撃の継ぎ目を狙おうとしても、すぐに次の攻撃が襲ってくる。
その際の足取りも、まだレイゾの意識が残っていた時とは比べようもない。ひとつひとつの動作も、以前とは雲泥の差だった。体から立ちのぼる“闇”も、量を増している。
大きな建物に見合うだけの横幅をもつ廊下のおかげで、動き回るのに苦労はしないが、軽口を叩く余裕もなかった。
魂骸種が両腕を大きく広げる。そのまま、まるでギルダスを抱きしめるように勢いよく腕を交差させた。
対極の位置から、挟みこむように襲ってくる斬撃。
左下からの爪撃は体をひねってかわし、左下からの爪撃は曲剣で受け止めようと――
「っ!」
ギルダスの構えた魂精装具を、魂骸種の指がすり抜けた。
その爪の先端がギルダスの脇腹に迫り――寸前のところで、親指の爪が魂精装具に当たって、腕全体の動きが止まった。
くっ……これだっ!
冷や汗を流しながら、内心で毒づく。刃を返し、魂骸種の腕を縦に裂くような軌道で引き戻した。当然、手応えはない。
突き出された爪から一度距離をとり、ギルダスは息をついた。
魔装具の能力は、魂骸種が攻撃する時にも効果を発揮していた。
爪を受けようとしても、それが魂骸種を傷つけるような結果になる場合はそれすらもすり抜けるのだ。
痛みを感じない部位までは効果が及ばないのか、爪まで“透過”することはなかったが、今みたいに受け損ねてヒヤリとする場面も初めてではない。
動きが速いため、防御はほとんど先読みに頼っている。今まではなんとかそれでいけたが、少し読みを間違えるだけで命はない。
それに――
魂精装具を持つ手を見下ろす。震えていた。手だけでなく、腕全体にまで痺れが広がっている。
魂骸種の、並外れた怪力を受け続けた結果だった。
まだ限界ではないが、それもそう遠くない。
魂骸種にダメージを与えた様子もない。まだ魔装具の効果は切れていない。
“奥の手”もあるが、それはリゼッタのいない場所では使いたくなかった。
「……ふぅ」
一度だけ深く呼吸をして、ギルダスは自分の中の焦りを消した。全てを殺意で塗りつぶしていく。
実戦では、いつ転機が訪れるかわからない。それを待って粘ることは慣れている。
雑念を捨てて地を這うように距離を詰めると、ギルダスは曲剣を振りかざした。
そしてその転機は、ほどなくして訪れた。
魂骸種の爪に弾き飛ばされたギルダスの背後から、一つの影が飛び出していった。
「なっ……」
その影が放った斬撃は、魂骸種の体には届かずその爪に阻まれる。
そのまま押しこむようなことはせずに、乱入者は弾かれた反動を勢いに変えて、白い刃を宙に滑らせる。
その速さについていけず、魂骸種は胴を横薙ぎにされた。
傷を負った様子はないが、手強い乱入者の存在に怯んだように魂骸種は両腕を振り回した。
その圏内から飛び退くと、乱入者の横顔がギルダスの目に入った。
「おまえ……」
その顔と、白い魂精装具がその正体を明らかにしている。
まぎれもなく、ローグの腹心のスレイだった。
……なんでこいつがここに?
「――まだ無事だったようですね」
冷静な声は、聞き慣れたリゼッタのものだ。ギルダスにだけわかる程度の、安堵の音を含ませていた。
「無事って言えば無事だが……こりゃあどういうこった?」
「……緊急措置です」
微妙な間が、今の事態がリゼッタにも不本意な状況なのだと教えていた。
「なるほど、これが……」
続く落ち着いた声は、男のものだった。驚いて振り向くと、リゼッタの後ろにはローグの姿もあった。
「そいつもかよ……」
魂骸種のいる場所に、部外者が二人。しかもただの通りすがりなどではなく、明らかにそれと知って見られている。
あとでどうやって事を収めるつもりなのか――そんな呆れの混じった考えも、表情から読みとられたらしい。
「ともかく今は、魂骸種のことに集中してください」
ギルダス以外にも、明らかに不機嫌とわかる声だった。
「……わかった。おまえらも邪魔しないところに隠れてろ」
言い放って会話を打ち切ると、ギルダスはスレイに呼びかけた。
「おい」
無視されるかとも思ったが、スレイはちらりと目を向けてきた。
「一度やってるならわかってるだろうが、あの化けモンは斬っても剣がすり抜けるだけだ。向こうからの攻撃も、あいつを傷つけるような受け方したらすり抜けて来やがる。爪で止めろ」
「……どうすれば。倒せる」
「何度も斬りつけてれば、そのうち本当に斬れるようになる。どれくらいかかるかわからねぇけどな」
「わかった」
「グルゥ……」
警戒して動きを止めていた魂骸種が、唸り声をあげた。
ギルダスもスレイと離れ、廊下の壁沿いにまで移動する。
「足ィ引っ張るんじゃねぇぞ」
言い終わるのと同時、灰色の剣と白い刃が、魂骸種の左右から同時に襲いかかった。
スレイの切っ先のない剣が、魂骸種の胴を斜めに斬りおろした。
「ガァア!」
お返しとばかりに振り下ろされた爪は、いつの間にか引き戻された剣に流されていた。
その隙に、淀みない足さばきで背後に回りこんだギルダスの灰色の剣が、魂骸種の脚を両方まとめて切断する。
実際に斬られていなくとも感触はあるのか、魂骸種が目を見開いて振り返る。その頭頂から股下まで、まっすぐに白い刃がすり抜けた。
同時にギルダスは刃をひるがえし、今度は腰から脇、さらには左腕を切断する軌道で剣を振るった。
体の両側から斬りつけられた魂骸種は、爪をでたらめに振り回した。
ギルダスとスレイは、大きく飛び退いてそれが届く範囲から逃れた。
動きを止めた魂骸種が、自分を挟むように立っている二人を交互に眺める。その顔には、はっきりと怒りが浮いていた。
周囲を飛び回る小うるさい蠅――魂骸種の認識は、その程度のものだろう。“痛み”がないわけだから、それほど切迫感はないようだった。
それならそれでいい――ギルダスはそう思う。
今はまだ魔装具の効果が持続しているから傷は与えられていないが、効果が切れれば均衡はすぐに傾く。
今はただ、こちらが傷を負わないようにしながら攻撃を積み重ねていくだけだ。
……せいぜい油断してろ。
魂骸種が動き出すよりも早く、ギルダスとスレイが跳躍、肉迫する。スレイのほうが速いが、斬撃を繰り出すのは魂精装具を限界まで“伸ばした”ギルダスのほうが速い。
下方からすくい上げるような一撃は、魂骸種の構えた爪で受け止められた。
なぜかはわからないが、魂骸種は攻撃をその身に受けるのを嫌がっていた。
防げるなら今のように防ぐし、かわすような動きも見せる。
自分の魔装具の効果に限りがあるのを本能的に知っているからかもしれないが、それでも二対一で、それも挟まれた状態での防御はあまり効果をあげていない。それどころか――
ギルダスの斬撃が受け止められたのを狙いすましたように、スレイが目にも止まらないほどの速さで斬撃を繰り出す。
魂骸種が振り返るまでに都合三回、左右からの嵐のような斬撃が繰り返される。魔装具の能力がなければ四分割している。
攻撃と防御、どちらにも専念しない今の半端な状態は、かえってギルダス達たちを戦いやすくさせていた。
攻撃が受け止められたなら、もう一人が背後から攻撃すればいい。向こうが攻撃を仕掛けてきたら、無視された方が斬りかかればいい。
もっともそれは、いざ魂骸種が攻撃に専念しだしたら、面倒が増すということでもある。
狙いを絞らせないように足を動かしながら、ギルダスは反対側にいるスレイの動きを予測していた。
示し合わせたわけでもないのに、二人の連携は息が合っている。
実のところ、お互いに効率よく動いているだけで、それが結果として相手を補うような結果につながっていた。
完全に信用したわけではないし、背中を任せるつもりもないが、使えるならそれでいい――ギルダスはそう判断した。
それだけで十分、自分の死ぬ可能性が減る。
距離を詰めて、元の長さに戻した魂精装具で、魂骸種の下腹部を横に“素振り”する。
こちらを見ずに突き出された爪を避けざまに体を回転させ、その勢いで振るった刃は狙い違わず同じ部位をすり抜けた。
その瞬間――水溜まりに刃を振るったような、ほんのわずかな抵抗が刃を通して伝わってくる。
「グッ……ガァアアアッ!」
魂骸種の動きが一瞬止まり、直後、今までにない叫び声を発して両腕を振り回す。
スレイは余裕をもってかわすが、抵抗のせいで動きが鈍ったギルダスは反応が遅れた。
真上から振り下ろされた爪を避けることもできずに剣で受け、その衝撃をまともに受け止めて膝をつく。
まずい……!
足が、止まった。
逆の腕が振り下ろされ、その爪が握りの緩んだ手から魂精装具を弾き飛ばす。
飛びこんできたスレイが、魂骸種の背を斬りつけた。そこから黒い血が飛沫くが、魂骸種の双眸ははっきりとギルダスを見下ろしていた。
うっとおしく飛び回っていた蠅を叩き潰す喜悦に口を歪ませて、腕を大きく振りかざす。
ゾクリと、ギルダスの肌が粟立った。
精錬者の体から離れた魂精装具は、すぐに粒子化して使い手の体の中に戻る。
だがそれは一瞬で終わるものでもない。そしてそれが完全に終わるまで、精錬者は魂精装具を具現化することはできない。まだ自分の中にないからだ。
つまりはその間、精錬者が無防備な状態になることを意味していた。
弾き飛ばされた曲剣が、灰色の粒子になりようやく虚空に溶け始めたころ――魂骸種の爪は、再度ギルダスの頭へと振り下ろされていた。