21.少女の見る夢(4)
月のわずかな光も差しこまないその一室で――『ソレ』は苛立っていた。
本体にかけられた制約により、本来の目的が果たせなくなっている。
――自由に人間を殺せない。
まったくできないわけではない。だが、際限なく殺害することはできなかった。町という名の、人の群がる巣の中にいて、だ。
本来ならそのためだけに存在する『ソレ』にとって、それは多大な苦痛をもたらすことでもあった。
しかし、その制約は本能に深く刻まれ、容易に破れるものでもない。
一片の光もない暗闇の中で、『ソレ』は体を丸めて唸り声をあげた。
そこは、数日前に殺されたゼノの屋敷にある地下倉庫だった。
長年、使われていない場所らしく、ほこりが積もっている。屋敷自体も、今は主を失って無人になっていた。
「――」
その誰もいないはずの屋敷の中から、『ソレ』は自身の息づかい以外の音を聞いた気がした。
「……?」
息をひそめて、耳に意識を集中する。
扉が開かれ、靴底が床を擦る――野生の動物並みに発達した聴覚が、微細漏らさず状況を伝えてくる。
普通ならまず気づかないほどの小さな音を『ソレ』の耳はとらえ、――そして歓喜に打ち震えた。
『ソレ』に与えられた制約は、二つあった。
一夜に一人――それ以上の人間を殺してはならない。
この町から出てもいけない。
それらの制約のせいで、一人を殺害するとき以外は、狩られる側のように身を潜めていなければならなかった。
ただし、抜け道もある。
制約を守るために邪魔になる存在が現れた場合、それは排除――殺してもかまわなかった。殺害してもいい人数のうちには入らない。
依り代にした人間の意識はほぼ消失しているが、記憶は残っている。その記憶では、ここ以外に隠れられる場所はこの町にはなかった。
侵入者はまっすぐこちらに向かって歩いてくる。なぜかはわからないが、『ソレ』の居場所を知っているらしい。そのことを広められるまでに、排除しなければならない。
制約は、働かない。
体を起こす。『ソレ』の体を抱くように巻かれていた腕が、ゆっくりと伸ばされていく。
わずか数日で変質した体をキシキシと鳴らせ、『ソレ』はもくろんだ。
せっかく向こうから来てくれた獲物だ。ただ殺すだけではもったいない。
溜まっていた鬱憤を晴らす意味でも、虫の脚を一本ずつもいでいくように、ギリギリまで生かしながら殺す。
残虐な衝動につき動かされ、『ソレ』はたまらず笑みをこぼした。
本来なら『ソレ』はそういう考え方はしない。理由のない、殺意のみの存在だ。
『ソレ』の依り代になった、レイゾと呼ばれた存在。残っているのはその記憶だけではない。原始的な欲望もまた、その身に引き継がれていた。
◆
ここに来るまでの間に奇異の視線を浴びながらも、誰にも呼び止められることなく、リリーネはその屋敷の前に立っていた。
足取りも怪しいリリーネを、見る者は孤児だとでも思ったらしい。幸運か不幸か、声をかけてくる者はいなかった。
「……ここに……?」
リリーネは塀の外から、その屋敷を見上げた。
初めて見る屋敷だった。夜なのではっきりとはわからないが、かなりのお金持ちが住んでいる建物に思える。
だが、そんなことはどうでもいい。問題は、たどってきた気配がこの中に続いているということだ。
屋敷の中に、灯りはともっていなかった。もう深夜なので、住人は寝ていてもおかしくはない。
リリーネは少し考えたあと――息を殺して、開け放しになっていた門をくぐった。
息を殺して、忍び足で敷地内に入る。
大胆なことをしている自覚はあったが、今は一刻も早くミリに会いたかった。
それに普通に門戸を叩いても、こんな時間に尋ねてくる見ず知らずの人間を入れてくれるはずもない。
不思議なことに、門と同じく正面の扉にも鍵はかかっていなかった。もしかしたら、誰も住んでいないのかもしれない。
屋敷の中に入ると、視界はますます暗くなった。壁に手をつきながら、リリーネは気配をあとをたどっていく。
予想通り、人の気配はしなかった。
住人が寝静まったあとの家でも、寝息や寝返りと打つ音ぐらいは伝わってくる。だが、ここにはそれがない。
「……ミリ、姉さん……?」
安心して姉の名を呼んだその瞬間――
擦れるような音が、折れ曲がった廊下の先から聞こえてきた。
慌てて身を隠せる場所を探すが、すぐには見つからない。周囲を見渡しているうちに、その音も止んだ。
なぜか、闇が濃くなった気がした。
恐る恐る前へと向き直り、
「――ひっ……!」
ひきつれたような声が、喉の奥からこぼれる。
真っ白な双眸が、闇の中に浮いていた。
のそりと、それは動き出す。
「ひ……あ……」
硬直しているリリーネに一歩ずつ近づき、目の前で立ち止まった。
黒い男だった。肌も、爪も、針金のように逆立った髪も、何もかもが黒い。人種云々というよりも、明らかに生物としてはおかしい、度を過ぎた黒さだった。
まるで、存在そのものが闇で構成されているような気さえしてくる。
暗闇に慣れたリリーネの目にも、その輪郭は捉えにくい。
ただ、異様に長い腕だけが目についた。
背丈は普通の人間と同じくらいなのに、立った状態で床に指先が触れる――いや、そこまで長くはない。実際に触れているのは、指から伸びた爪の先端だ。さっきの音は、短剣ほどの長さのそれが、床に擦れたために出た音らしい。
その腕がゆったりと持ち上げられ、
――バキィッ!
「っあ!」
手の甲が、リリーネの顔を打ちすえた。
たまらずに倒れるリリーネを、男はじっと見下ろしてくる。
真っ白な目だった。そこだけ黒い部分がなく、白く濁っている。
その顔にある口。耳元まで裂けた口が、大きく笑みの形に歪んでいた。
「っ……い、いやっ……!」
我知らずリリーネは立ち上がり、駈け出していた。
――そこから先は、リリーネにとって悪夢のような時間だった。
走って逃げるリリーネを、その“化け物”はすぐに捕まえようとはしなかった。
まるで遊ぶように、同じ速さであとをつけてくる。そのくせ決して外へは出さないつもりらしく、窓や外に繋がる扉に近づこうものなら、一瞬で距離を詰めて立ちふさがった。
疲れで脚が止まると、化け物は容赦なく危害を加えてきた。
肌に熱を感じて、すぐにそれが鋭い痛みに変わった。肌を血が伝っていく感触に、切られたのだとわかった。
助けを呼ぶために大声を出そうとすると、突き飛ばされて妨害された。
ただひたすらに走り続けなければいけない――そうすることを、その化け物は強要していた。
すでに走り始めて、どれほど時間が過ぎたのかもわからなくなってくる。
――なぶられている。
その事実が、リリーネの心を絶望に染めていく。
明らかに黒い化け物には、リリーネを殺す意思がない。それが今だけのことなのかはわからない。ただ恐怖だけが引き延ばされ、彼女の意思を圧殺していく。
「はぁ……はぁ……」
次第に意識は朦朧とし、真っ直ぐ走ることも出来なくなってくる。
よろめいて壁に肩を打ちつけたはずみで、リリーネはその場に倒れた。
「っ……」
起きあがろうと体をひねった瞬間、肩に痛みがはしった。
すぐ後ろに化け物の存在を感じる。怖くて振り返ることもできなかったが、リリーネには化け物が嗤っているように思えた。
疲労に麻痺しかけていた恐怖が、再び襲ってくる。
歯を打ち鳴らし、リリーネは弱々しくかぶりを振った。
こんなことあるわけない、こんなものがいるわけない……!
追い詰められたリリーネには、化け物の存在は現実のものとは思えなかった。思いたくなかった。
肥大化した恐怖が、ふっと消える。少女の理性は、現実を現実として受け止めることを拒絶した。
「あぁ、そっか……」
これって――夢なんだ。
でなければ、あんな化け物が出てくるはずがない。
瞳が意思の光を失っていく。霞がかった意識のまま、リリーネは考えた。
――なら、いつからが夢なんだろう……。
ミリの死は、当然夢の一部であってほしい。あんなことが現実なんて認めたくない。
次に思い出したのは、赤い髪の少年のことだった。
――あれも……夢だったのかな……?
自分より、少しだけ年上に見える男の子。
最初は、危ないところを助けてくれた恩人だった。
助けられた時の感想は、感謝よりも戸惑いだった。手段が過激すぎたし、自分のことなんてまるで意識していないように思えたから。最後には一言もなく、逃げるようにその場を立ち去った。
それから『背徳の楽園』に用心棒として住みこむことが決まって、少しだけ興味がわいた。『背徳の楽園』で見ることの珍しい、自分と同年代の少年だったから。
観察してわかったのは、困っている人を無差別に助けるような善人じゃないということで、 かと言って、この町によくいるような、粗暴なだけの大人とは違って見えた。
自分の強さをむやみに見せびらかすわけでもない。
『背徳の楽園』に来る客の中には、これ見よがしに自分の力を見せつける者もいる。リリーネは、そうした大人たちに魅力を感じたことはなかった。むしろ、怖いとさえ思う。その力が、暴力という形で自分に振るわれたらと想像してしまうからだ。
あの少年は、力を見せびらかすためだけの暴力とは無縁に思えた。自分の力を知った上で、それを使う方向をちゃんと知っているように見える。
最初に会った時のことを、彼は自分を助けるというよりも、憂さ晴らしをしたかったからだと言った。
反射的に、それだけじゃないと思った。
リリーネの直感は、その言葉の中にわずかな嘘の気配を感じていた。嘘はついていないけれど、言っていないこともあるという感じだった。
そのあとの襲撃の件をきっかけに、ギルダスに抱く興味はますます強くなった。
窮地に追い込まれても、最後まで弱い部分を見せない少年が、何を隠しているのか知りたいと思った。
隠していることが何なのか、わからなかったけど……。
一緒に薬に買いに行ったあと、話せる機会はなかった。それどころじゃなかったということもあるけど、自身の消極的な性格を、こんなに恨めしく思ったのは久しぶりだ。
夢じゃ、なければいいのにな……。
あの出会いが夢でないのなら、また彼と話すことができるかもしれない。
起きあがる気力すら失ったリリーネの首を、長く黒い手がつかんだ。
「……けほっ」
そのまま吊り上げられ、息苦しさにリリーネは咳きこんだ。
反応を楽しむように、化け物は力をこめては緩めてを繰り返している。反射的にリリーネは手足をバタつかせた。両手を掴んでいる腕にかけたが、びくともしない。
夢でも苦しいんだ……。
その苦しさも、どこか遠くの出来事のように感じていた。
――いい? ここで待っていなさい。すぐに戻ってくるから。
暗転し始めた意識の中で、両親に捨てられた時の記憶がよみがえる。
母親の最後の言葉がそれだった。もう顔は覚えていない。きっと、無意識のうちに忘れたんだろうと思う。
ただ、その言葉を聞いた時、両親がそろって顔を背けていたことだけが強く印象に残っている。
リリーネは、両親が戻ってこないことを知る由もなく、素直に頷きを返した。疑いを持つには、彼女は幼すぎた。
――結局、一日過ぎようが二日過ぎようが、両親は戻ってこなかった。空腹も喉の渇きも感じなくなった頃に、誰かに抱きあげられる感触でリリーネは意識を失った。
その時から、リリーネは変わった。拠りどころを強く求めるようになった。
当たり前に思っていたものがなくなり、自分が弱い人間だということを思い知った。
感情を取り戻してからも、捨てられた時の気持ちを思い出しては、涙をこぼした。
もうあんな想いをするのはたくさんだった。そのためなら、どんなこともするつもりだった。
もしかしたら――リリーネは思う。
あの時、サフィーナに拾われたことすら夢だったのかもしれない。
本当の自分は、ずっと両親を待ったまま、あの場所で死のうとしているのかもしれない。
『背徳の楽園』での生活は、自分の願望が夢になっただけの話なのかもしれない。
今殺されようとしているのも――夢の終りが近づいているだけなのかもしれない
だとしたら――力なく笑った。おかしかった。滑稽だった。声にならない笑みをこぼしたのを最後に、リリーネの手足がだらりとぶら下がった。
獲物を弄ぶのを飽きた化け物の手に、力が込められる。
「……姉、さん……」
かすれた声が、わずかに残った空気と一緒に吐き出される。
今にも泣きそうな姉の顔が、暗闇に浮かび上がった。最後くらいは笑った顔がよかったなと思い――すぐにその顔は、別のものに変わった。
「――!……いっ!」
――誰かに支えられている気がした。
焦点を結んだ視界が、さっきまで考えていた少年の顔を映す。
口が忙しく動いている。なにかを言っているらしい。
ぼんやりした頭に入ってきた声は、気遣うような優しいものなどではなく、
「――ぼおっとしてんじゃねえっ!」
一気に目が覚めるような、怒鳴り声だった。