表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
21/33

20.少女の見る夢(3)

 黒い染みが、床に色濃く残っている。

 散らばった窓硝子の破片が、月明かりを反射してその存在を教えていた。

 そして、そこかしこに残る大量の足跡――ひと言で表現するなら、“荒れた”部屋の真ん中でリリーネは立ち尽くしていた。

 言葉もない。

 ただ呆然と――ミリのために建てられたという家の一室で、彼女は目を見開いていた。

 ひゅるりと、本来の用途を果たせなくなった窓から、冷たい風が流れ込む。

 リリーネは身震いしたあと、何度目になるかわからない動作で部屋を隅から隅まで見渡した。

 ここでなにかが起こった――リリーネにわかるのはそのくらいで、でもそれが決して良いことではないのは明らかだった。

 床を汚す黒い染み――あれは、血がこぼれて出来たものではないだろうか? そうだとしたら、あれだけの血を流した人間は生きていられるだろうか?

 窓硝子の破片は、部屋の内側よりも外側に多く散らばっている。何者かが、窓を破って出ていったのだろう。

 ここで、“なにか”をして。

 ミリがいたかもしれない、この部屋で。

「う……ぁ……」

 恐怖に体が硬直する。

 嫌な方向にばかり考えが進む思考を閉ざすために、リリーネは黒い染みに注いでいた視線を強引に引き剥がした。

「な……なにが……?」

 わけがわからなかった。

“姉に”会えると思って、その一心で着いた家には姉はおろか誰もおらず、代わりに不吉な予想をかきたてるような痕跡ばかりが目につく。

「う……」

 不意に、リリーネの体がよろめいた。

 この部屋に入ってから感じる不快感のせいだった。

 咄嗟に口元を抑え、しゃがみこんで嘔吐感をこらえる。体を震えさせて不快感を乗り越えてから、リリーネはその場で感じる不快感の正体を探った。

 リリーネに知識があれば、それがこの部屋にこびりついた、何者かの気配の残滓であることに気づいただろう。

 あるいは、リゼッタがその様子を見ていれば、リリーネに秘められた“力”の強さに驚愕きょうがくしているはずだった。

 だがここにはリリーネしかおらず、彼女にはその不快感がここ数日感じていたものと同質のものであることと、それが破られた窓からはるか彼方に“伸びて”いることぐらいしかわからない。

 口を手で覆ったまま、リリーネはふらふらと外に出る。

 蝶つがいが外れて斜めにかしいだ扉を押し、外の空気を吸った。たったそれだけのことで、体の中が清らかな気で満たされていく気がする。

「姉、さん……」

 焦燥感で鈍った頭を抱えながら、リリーネはどこかへと伸びた気配のあとを探る。その足が、気配のあとをたどるように動き始めていた。

 気配はおぼろで頼りないが、途中で途切れている様子もなさそうだった。

「姉さん、姉さん――」

 その果てには、ミリがいる――

 ミリの行く先の心当たりはもうなかった。リリーネには、それしかすがるものがない。

この先にミリがいるかもしれないと思いこむリリーネの歩みは、いつしか駆けるようなものになっている。

 その気配が、ミリの暖かかった抱擁ほうようとはまるでかけ離れたものであることは、無意識のうちに無視していた。


 ◆


 暗闇の中を、二つの人影が疾走していた。

 ギルダスとリゼッタ――闇夜を走る二人の足取りは迷いなく、目的の場所へと真っ直ぐに進んでいる。

 走る二人を不審に思って、声をかけてくる者もいるが、すべて無視していた。

 大半は二人の体格を見ると、レイゾではないことを知って興味を失ったように目をそらす。それでも怪しんで道を塞ぐように立ちはだかる者は、例外なく路面に転がる破目になった。

 二人は、サーシャが言った心当たりのある場所――リリーネの行ったかもしれないところへ向かっていた。

――『ゴーランって言う、ミリを身請みうけした商人がいるんだけどね』

 町の地図を広げながら、サーシャは早口に説明した。

『そいつがミリのために建てたっていう家があるのよ。リリーネはそこに行ったかもしれないわ。……ほら、あの娘、ミリが死んだなんて信じたくないみたいだったから』

 盛んに目を動かしながら、羊皮紙で出来た地図上のある一点を探す。

 ギルダスはリゼッタと顔を合わせたあと、サフィーナに目で問いかけた。

 サーシャの言う場所がどこなのか、見当がついたからだ。ほんの数日前、ミリの死体を見つけた場所である。

 サフィーナは目配せを受けて、浅く頷いた。彼女も、サーシャと同じことを言おうとしていたらしい。

 もっとも、その場所でミリが死んだということをサーシャやリリーネは知らない。

 ギルダスたちもサフィーナに口止めをされていた。娼婦たちをいたずらに動揺させたくないというのが、その理由だ。

『ここね』

 サーシャが指さしたのは、町の中心部にほど近い地点だった。前に行った時には、示される方向に向かうだけだったので、細かい位置まではろくに把握していない。

 最短で行ける道を探しながら、ギルダスはふと疑問に思ったことを口にした。

『なあ。そのゴーランって商人とレイゾ、なにか関わりがあったのか?』

 ミリはともかく、レイゾがあの場にいた理由がいまいちよくわからない。

『なんでそこでレイゾが――』

 意外そうに顔をあげたサーシャが、ふと押し黙った。そのまま、なにかを思案する素振りを見せる。

『……もしかして、ミリが死んだのにもレイゾが関わっているの?』

 ギルダスはわずかに目を見開いた。

 そう大きな反応ではなかったが、サーシャにはそれで十分だったらしい。なにかに耐えるように顔をうつむかせて、声を絞り出した。

『名前は言わなかったけど、ミリには悪い男がいたのよ。そう……レイゾが……』

 ギルダスは事情を察して、気まずげに黙りこんだ。

 あの場所は、ミリとレイゾの密会の場所だったのだろう

 ミリとレイゾは、つまりはそういう関係だった――少なくともサーシャはそう結論付けた。

 そしてサーシャは、ミリの男のことを――おそらくはミリから伝わる話を聞いて、好ましく思っていなかった。

 実際にミリはあんな死を迎えたのだから、その印象は間違っていなかったことになるが、それはサーシャが自分を責める理由にしかならない。

『何度も手紙で別れるように言ったのに……こんなことなら、無理にでも引き離しとけばよかった……』

 後悔に震える肩を、サフィーナがそっと抱く。ミリがいなくなってから、まだ十日もたっていない。その死を完全に消化できているはずもなかった。

 いたたまれなさのようなものを感じて、ギルダスは身をひるがえした。リリーネの行き先がわかった以上、早めに動きだしたほうがいい。

『ちょっと待って』

 振り返ると、サーシャが涙の浮かんだ瞳でまっすぐに見つめていた。

『あんたは好きじゃないけど……リリーネのこと、お願い。ミリが死んで、あの娘までなにかあったら……そんなこと、考えるのも嫌だからさ』

――サーシャが最後に見せたすがるような眼差しが、未だ脳裏にこびりついている。

 頼まれるまでもなく、依頼は果たす――そう返すつもりだったが、結局は無言のままその場を後にしていた。

 ……っ。

 鬱屈うっくつした想いを振り切って、ギルダスは最低限の警戒心を残してただ走ることに集中した。

 ギルダスにとって走るという動作は、嫌でも体が変わったことの不便さを痛感して悪態をつきたくなる瞬間だった。体が小さいため、どうしても走る速度も遅くなる。

 普通の女よりは健脚とはいえ、リゼッタを引き離せないのがその証拠だ。

 それでも、旅慣れているから長く走って息が切れるようなことはない。

「――同情、ですか?」

「あァ?」

 なんの脈絡もなく投げかけれた疑問に、ギルダスは足を止めないまま一瞬だけ背後を振り返った。

「サフィーナの依頼を、引き受ける気になった理由です」

「引き受けるように言ったのはおまえだろうが」

「私が口を挟まなくても、すでにその気になっていたのではありませんか?」

 図星をつかれて、ギルダスは黙りこんだ。

「本当は、遠回しに断ろうとしてたんじゃありませんか?」

「……」

 引き受けようという想いは最初からあった。

 だがそれは、ギルダス自身の意思ではない。これ以上、自分のものでない感情に引きずられるのは御免だ――そう思っていた。

 答えを求める視線が、背中に注がれている気がする。

 お互い、浅くない付き合いだった。言葉を交わさなくても、ある程度の本音は読み取れる。それが都合のいい時もあるが、今のような場合は、うとましくさえ思う。

 誤魔化すように、ギルダスは質問を質問で返した。

「そう言うおまえは、なんでリリーネを探しに行かせる気になったんだ?」

「罪もない少女が一人、窮地きゅうちに立たされているんです。助けようと思うのは当たり前でしょう?」

 とがった声音に、ギルダスは肩をすくませる。

 ……そういや素のこいつはこういう奴だったな。

 リゼッタが自分などとは違い、真っ当な人間であることを再確認していると、

「といっても、それだけが理由ではないんですが……」

ようやく聞こえると言った程度の、リゼッタの呟きが耳に入った。

 ……あん?

「なんだ? 他に理由があるのか? ……って、おいっ」

 答えを待たずに慌てて急停止する。

 リゼッタが、足を止めていた。険しい表情で、誰もいないはずの空間を睨みつけている。

「おい、どうした……まさか!?」

「魔装具の気配です。それも、今までにないほど濃い――!」

 危機感を募らせる声に、ギルダスは顔を歪める。

「っ……こんな時にかよ」

 ……どっちに行けばいい?

 優先順位で言えば、魔装具の方を追うべきだ。リゼッタが気配を感じる度に、死体は増えている。知らない人間が死んだところで痛くもなかったが、だからといって放っておくわけにもいかない。

 リリーネの方は、危ないかもしれない、という段階でしかない。逆を言えば、何事もなく無事に帰ってくる可能性もある……というのは楽観的過ぎる見方だとわかっていたが――

 結論を出す前に、ギルダスを置いてリゼッタが走りだしていた。

 その方向は、当初の目的地とは全く違う、リリーネが睨みつけていた方向だ。仕方なくあとをつけて走り始める。

「おいっ、リリーネのことは後回しにするつもりか?」

 横に並び、ギルダスは自分でも意識せずに険の混じった声で話しかけていた。

「もしかすると――彼女もこっちにいるかもしれません」

「あァ? そりゃいったい――」

「言ってませんでしたが、彼女にも『災禍の探り手』の力があります」

「……なんだって?」

 思いがけない言葉に、ギルダスは真横を向いて目を剥く。

「……危ないですよ」

 忠告を受けて慌てて視線を前へ戻したが、言葉の意味を理解できるのに数秒かかった。

「おそらく、最近になって発現したんでしょう。あるいは今回の件がきっかけかも知れません。自分でもその感覚の正体がわかっていないようですが、間違いありません。彼女は、希少な能力者です」

 リゼッタの声は、淡々としていたがどこか熱が感じられるものだった。

『災禍の探り手』とは、遠方にある魔装具の位置を感知する能力のことを指す。

 リゼッタもその能力の持ち主だった。力の強弱はあるが、その能力は完全に先天性で、後からの修練で身につけられるものではない。

 魔装具を回収、破壊するという聖封教会の目的からすれば、そうした能力を持つ人材の確保も重要な要件の一つだろう。

「あいつが? だからこの前、急にあいつの話題を持ち出したのか? ……いや、待てよ。だからって、魔装具のところに行ったとは限らねえだろうが」

「私たちの感じる魔装具の気配が、どういったものかわかりますか?」

「んなもんわかるわけ――」

「個人差はありますが、あえて知っている言葉で説明しろと言われたら――私は、“死の気配”と答えます」

 リゼッタのこの世の全てから冷めたような眼差しが、ギルダスを射すくめる。

 魔装具を直視したときの不快感――あの時の感覚を思い出し、リゼッタの言っている言葉の意味がなんとなく理解できる気がした。

「それならなおさら近づかねえだろ――……っ!」

 声を詰まらせる。リゼッタが何を言いたいのか――ギルダスにもようやく理解できた。

 普通ならそうだろう。誰が好き好んで、“死の気配”などという言葉面だけでも気味の悪いものに近づく?

 だが普通じゃないときは? リリーネ――あいつは今、“普通”なのか?

「大切な人の死を知って、自暴自棄になっているとしたら?」

 死を切望して、自分からそこに向かう――

 飛躍しすぎかもしれない。まさかとも思う。曖昧な推測でしかない。

 だが、だが――

“前の体”の時、戦場で見たことがあった。

 新米の傭兵が、故郷から一緒に出てきたという戦友を失って、敵のただなかに無謀な突撃をかける瞬間を。家族を失ったという熟練じゅくれんの傭兵が、明らかに自分よりも格上の敵に斬りかかるのを。

 心から信頼する者を失った悲しみは、人の心をたやすく追いつめる。追いつめられた人の心は、ひどくもろい――

 当り前のことすらわからずに、破滅への道をひた走る。

「おいおい……」

 ギルダスは苦笑を浮かべて、自分を落ち着かせようとした。動揺しているせいで、不器用なものにしかならない。

「それに、魔装具の気配が濃すぎます。これは――」

 リゼッタの切迫した声が、追い打ちのようにギルダスの心をかき乱す。

「『魂骸種コルス』――」

 ギルダスの顔から、表情が消えた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ