19.少女の見る夢(2)
「リリーネがいない?」
「ええ、建物中を探してみたのだけれど……」
寝ていたところを起こされ、不機嫌そうに眉をひそめるギルダスに、サフィーナは力なくかぶりを振った。
気づいたのは客が全て帰り、後片付けをしている最中だった。いつまでたっても戻ってこないリリーネを不思議に思った娼婦の一人に行方を聞かれ、その時になって事態が発覚した。
「それまで誰も気づかなかったのかよ?」
「あの娘が働き過ぎなのは皆知っていたし、ミリのこともあったから……」
リリーネの居場所を聞いてきた娘も、てっきり疲れきって寝ているか、どこかでひっそり泣いていると思ったらしい。どこか遠慮がちな様子だった。
「裏庭にもいなかったから、残りは……」
残された可能性を口にするのをためらい、サフィーナは口を閉ざした。
ギルダスが横を向いて、深々と息を吐く。
「……今この町が、どんなことになってるか知らねぇわけでもないだろうに」
呆れの混じった呟きに、サフィーナは胸を痛めた。
――リリーネが外に出たことは明白だった。
いつもですら、夜間の外出など危なすぎて許していない。今ならかえって強盗などに遭う危険は少ないだろうが、かわりに素性を怪しまれてどんな疑いをかけられるかわかったものではなかった。そうなった場合、穏便にことが済むとは思えない。
「……で、わざわざ俺のところに来たのは、リリーネを探しにいけってことか?」
「ええ、お願い。あの娘を連れ戻して」
一切の言い回しを省いて、サフィーナは言った。
「ローグには? あいつに言った方が早いんじゃねェか?」
「もちろん彼にも頼むつもりだけど、すぐには無理なのよ」
サフィーナが直接ローグの元に出向くにしても、誰かに伝言を頼むにしても、その分余計に時間がかかる。それに、ローグが屋敷にいるとは限らなかった。
すぐに動けて、リリーネの顔を知っているギルダスに探しにいってもらうのが最善なのだ。
しかめ面のまま腕組みをしたギルダスは、どこか苦しげな口調でぽつりと言った。
「……高くつくぞ?」
サフィーナは間髪入れずに、はめていた指輪のひとつを外してギルダスに突きつける。
「これでいい?」
即答に、ギルダスは目をしばたたかせた。当然、金額を訊かれると思っていたのだろう。だが、金額交渉をしているだけの心の余裕はなかった。
「ちっとばかり多すぎねえか?」
「貰い物よ。惜しくなんてないわ」
破格とも言える依頼料がわりの指輪に視線を落として、ギルダスは困惑したようにサフィーナを見上げる。
「……なんでそこまであいつの心配をする? 言っちゃ悪いが、娼婦なんてあんたにしてみたら商品みたいなもんだろ?」
その言葉には、心底から不思議がっているような響きがあった。実際、不思議なのだろう。
娼婦を使い捨てにしている娼館も多いなか、サフィーナも自分のやり方が娼婦の側に偏ったものであることは自覚していた。
「……私があの娘を引き取った理由、わかるかしら?」
「さあな」
「将来、美人になると思ったからよ」
情ではない。
リリーネの将来を見越しての打算だった。この町ではそれくらいの計算がないとやっていけない。
「だからこそ、一度引き取った娘たちくらいは家族のように接したいと思っているのよ。打算だけで生きていく人生なんて、虚しいだけだもの」
娼館の経営者――娼婦たちの管理者としての視点を保つためには、本当の家族のような信頼関係を築くことはできない。それでもサフィーナは、できるかぎり娼婦の娘たちに親身になって接してきた。
料理や給仕を、彼女たちに持ち回りで担当させているのもその一環だ。
それ専門の者を雇い、彼女たちには体を売らせることに専念させた方が利益は出る。それなのにわざわざそんなことをやらせるのは、引退後のことを考えて体を売る以外の仕事を覚えさせるためだ。
そうした想いがあるからこそ、『背徳の楽園』の娘たちには陰がない。諦観じみた感傷もなく、活き活きと働いている。それらは全て、サフィーナへの信頼の証しだった。
「だから――リリーネを放っておくなんてできないの。したくないのよ。そんなことをしたら、私のやってきたことは全て嘘になってしまうから」
「……なるほどな。道理でここには綺麗どころが揃ってるわけだ」
茶化したような言い方だが、ギルダスの声音はどこかすっきりしたようなものに変わっていた。
「軽蔑しないのかしら?」
「生憎とそんな上等な人間じゃねぇんでな。それに、全部助けるだとか綺麗ごとぬかして何もしない奴よりかはマシだろ」
本心からであろうその言葉に、サフィーナは力なく嗤った。本心を悟らせないための偽りの微笑はそこにはない。
ギルダスに伝えていないこともあった。
話しはしなかったが、『背徳の楽園』と娼婦たちを守るために、サフィーナはどんな汚い手も使ってきた。
自分の理想を貫く――その想いで築いてきた居場所を守るには、蔑まれるようなこともする必要があった。
今回も、家族の一人であるはずのミリを切り捨てようとしていた。
結果としてミリは無残な死を迎え、ミリのあとをつけさせていた情報屋も死体で見つかった。あるいは、内通が発覚した時点で追放していれば、ミリもあんな死に方をすることはなかったかもしれない。
偉そうなことは言っても、結局はそんなありさまだ。ミリの裏切りと無残な死も重なって、少しまいっているのかもしれなかった。
いつもより口の滑りがいいことを自覚しながらも、止めようとは思わなかった。
「リリーネはね、本当にミリを慕っていたのよ」
「みたいだな、詳しいところまでは知らねぇが」
「捨て子だったのよ、あの娘。……私が見つけたのは二年前。痩せこけていて、なんとか生きているのか死んでいるのかわからなかったわ」
当時のことを思い出しながら、サフィーナは言葉を紡いでいく。
最初のころは本当にひどい状態だった。自分で動くこともできず、呼吸も苦しげで、診せた医者もあと半日たっていたら危なかったと言っていた。
幸い深刻な病気にはかかっておらず、食事を与えベッドで休ませるだけの処置で回復はした。
もっとも、それで親に捨てられた心の傷まで癒せるはずもない。リリーネは死んだような目をして、何日も空を仰いでいた。
ギルダスがつまらなそうに鼻を鳴らして、話を遮った。
「この町じゃあ珍しい話でもないんだろ?」
「ええ、似たような境遇の娘たちは他にもいるわ。ただあの娘の場合は、親に育てられた期間が長かったから」
「それが問題なのか? 生まれてすぐ捨てられる方が、もっと悲惨な気がするが」
「どうかしらね」
サフィーナの口元に、薄い笑みが浮かぶ。
赤ん坊のころに捨てられれば、なす術もなく死ぬしかない。なにも知らずに、なにも知らないままで済む。
だが、リリーネは十一年間、実の親に育てられた。
十一年――子が親を拠りどころにするには、十分すぎる長さだ。
「十一年も一緒にいたのなら、捨てられた時の絶望はその分深いものになるわ」
話を聞く限りでは、リリーネの両親は彼女をまっとうに育てていたらしい。それなのに、なぜ突然リリーネを捨てることになったのか――その理由はわからないが、どんな理由があろうとも子供にとって捨てられたという事実は変わらない。
リリーネは心を閉ざし、死んだように生きていた。
――そんな彼女を手厚く看護したのがミリだった。
その際、どんなやりとりがあったかまではサフィーナは把握していない。ただ、日に日にリリーネの瞳が光を取り戻していったことは覚えている。
やがて体力と感情を取り戻したリリーネに、サフィーナは娼館での下働きとしての役割を与えた。
「まだ子供なのに仕事ぶりは真面目だし、誰も彼女の口から不満を聞いたことがなかったわ」
傷心を抱えたまま、拙いながらも一生懸命働くその様子を見て、心を打たれない者はいない。
『背徳の楽園』の女たちが、リリーネの働きを認めるのにそう時間はかからなかった。
その時点で気づくべきだったのかもしれない。
リリーネはその年齢では不自然なほど、自分というものを抑制していた。わがままを言うこともなく、心を押し殺し、ただ認められたい一心で働いていた。
気づいたのは、ミリが身請けされて数日後――リリーネが初めて頼みごとをしてきた時だった。
――みんなと同じように働きたいです。
言葉足らずに、彼女は娼婦として働きたいと懇願してきたのだ。
なんでそんなことを言い出したのか――ミリからリリーネのことを頼まれていたサフィーナには想像がついた。
「たぶんあの娘は、親に捨てられた先で得た自分の居場所を失いたくなかったのね」
その時から、『背徳の楽園』で客を取っていないのはリリーネだけだった。それに疎外感を感じたのが発端らしい。
親に捨てられた時の絶望を知っているからだろうか。
サフィーナには、リリーネが『背徳の楽園』で働く女たちから見放されることを極端に恐れているように思えた。
もちろん、体を売ったからと言って環境が大きく変わるわけでもない。サフィーナも、他の誰も、そんなことを望んではいない。
その時はリリーネの願いを断ったが、それ以後も何度か同じようなことを彼女は訴えてきた。
「ならもしかして、俺が前に話したことも――」
ここにきた初めての夜、リリーネに迫られたことを思い出したのだろう。ギルダスが話に割りこんできた。
「ええ。あなたを満足させれば、娼婦として働かせてもらえる――そう思ってのことでしょうね」
「なんだそりゃ……」
理解できない、とばかりに、ギルダスは頭を振った。その指は、額にある傷跡に添えられている。
「でも、それだけじゃないわ」
「あァ?」
「あの娘が、あなたに関心を持っていたのは気づいているかしら?」
「……まあ、な」
渋々認める、といった様子で頷く。
「最初はあなたに近づかせていいものか迷っていたのだけれどね……私はそんなあの娘の反応を、嬉しくも思っていたのよ」
ここに来てからのリリーネの目は、ずっと『背徳の楽園』という狭い世界に向けられてきた。それゆえに外の世界に興味を持たないし、目を向けることもない。
今はそれでもいい。だが娼婦として生きられるのは一生のうちの半分もない。いずれ、外の世界とも関わる必要が出てくる。
「だから、あなたと関わったことをきっかけに外の世界にも興味を持ってくれたら……なんて期待していたのだけれどね」
自分自身が作った心の箱庭以外にも関心を持ってくれれば、この後のリリーネの人生も開けたものになるはずだった。
「……そういうことかよ」
顔を伏せたギルダスが、重く長いため息と一緒に言葉を吐き出す。
……話し過ぎたかしら?
同情を誘いたくて、リリーネの過去を語ったわけではなかった。半ば衝動的なものだ。
感情の赴くまま、こんなに長く話したのはサフィーナにとっても久しいことだった。
ほんのわずかな後悔とともに、サフィーナはギルダスの反応をそっとうかがった。
額の傷跡をなぞりながら、何かを考えこんでいるようにも見える。その表情は暗く、瞳は驚くほど真剣なものになっていた。
ふっと、口元が緩んだ。
「勝手な期待をかけられたもんだな」
言葉の割には、棘がない声音だった。
「だが――あんたみたいな割り切った考え方をする奴は嫌いじゃない」
サフィーナには、今の話のどこが琴線に触れたのかわからない。だが、ギルダスのリリーネに対する心境が大きく変化したことは感じとれた。
「リリーネの保護……引き受けてもらえるかしら?」
ギルダスが顔をあげる。その口がゆっくりと開き、
「――引き受けましょう」
二人してはっと振り向く。ドアを開けてギルダスの部屋に入ってきたのは、ギルダスの依頼主のリゼッタだった。
以前に見た妙な仮面はかぶっておらず、表情の変化に乏しい素顔を見せている。
ギルダスが呆れを隠さない顔で、リゼッタをねめつけた。
「盗み聞きかよ?」
「最初に入りそびれてしまって……」
サフィーナには一瞬、リゼッタが少しだけバツの悪い顔をしたように見えたが、それはわずかな間だけだった。
「そんなことより、いまは急いだ方がいいはずですが?」
小声で弁明したかと思えば、口早に話を切り換える。
「いいのかよ?」
「かまいません。ただし、私も一緒に行きます」
「おまえも?」
「そうすれば、レイゾが動き出してもすぐに対処できますから」
サフィーナにはよくわからないやりとりを交わし、結局は二人で行くことになったらしい。ギルダスが依頼料がわりの指輪を受け取り、懐に収める。
「それで、どこにリリーネが行ったか心当たりはあるのか? さすがにフォルテンの隅から隅まで探すってのはなしだぜ」
「そのことなんだけれど――」
バタンッ!
新たな客が、ドアを壊す勢いで入ってきたのはその時だった。
「ちょっと! ……って、あれ?」
サーシャが、目を白黒させて部屋にいたサフィーナを見る。
「サフィーナ……あれ、なんでここに?」
「リリーネを探しにいってもらうように依頼してたのよ。そういうあなたは何をしに来たの?」
冷たい眼差しを向けると、たじろんだように身を引いた。
「え……いや、私もそうなんだけど……って、あんたはそれを引き受けたわけ!?」
一人で騒がしく喋るサーシャに、ギルダスがげんなりした顔を向ける。
「ああ。で、いま心当たりを訊いてたところなんだがな」
「それなら――」
サーシャが、勢いこんで身を乗り出した。
「もしかしたらって場所があるのよ」